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――とはいうものの。
本当のところ、即座に気持ちを切り替えられたわけではなかった。
平気な態度をとりつくろっていても、内心は動揺しまくりだった。当たり前だ。誰がこんな状況に平気で対応できるものか。
今後に対する不安ももちろん大きかったし、もう家族に会えない、一生二度と帰ることができないのだと思うと悲しくてたまらなかった。ハルト様たちが部屋を出てひとりになってから、私はこっそり泣いた。
人前で泣くのは嫌いだけど、泣くこと自体を避ける気はない。泣くのは気持ちを落ち着かせる効果があると、たしか専門家も言っていたし。じっさい泣いた後はすっきりする。だから私は、無駄な我慢はしない。誰にも見られてさえいなければ、好きなだけ泣くことにしていた。
泣いている間は自分を悲劇のヒロインにして、とにかく自分かわいそうって気持ちにひたりきる。経験上、それが回復に効くのだとわかっていた。思う存分自分を憐れんでもうこれ以上泣けないってくらいまで泣けば、後はさっぱりしてなんだかどうでもよくなるのだ。
今回はさすがにどうでもいいとまでは思えなかったが、気持ちは少し落ち着いた。そして泣き疲れた私はまた眠った。身体も心もまだ休息を必要としていたのだろう。
夢うつつに、誰かが船室に入ってきたのを感じた。気配がそばに来て、またすぐに離れていく。優しいぬくもりが目元をなでていったように思うのは、夢と現実どっちだろう。目が覚めると乾いた制服が枕元に置かれていた。
ヨレヨレになっているのはこの際仕方がない。まだ潮臭いのも我慢する。贅沢言える立場じゃないのだ。洗ってくれてありがとうございましたと感謝しなくては。ただパンツとブラまで洗ってあるのはどういうことか。いやたしかに脱いだけど! そう、ぶっちゃけ今はノーパンだ。男物のでっかいシャツを着ている上に布団の中だから見られる心配はないものの、文明人としてかなり心もとない状態だった。
……これ、誰が洗濯してくれたのかな。この船、女の人っているのかな。切実にいてほしい。男にパンツ洗われたなんて恥ずかしすぎる。
とにかく私は人の尊厳を取り戻すべくパンツを履き、その他衣類一式も身に着けた。
手櫛で髪を整える。肩にかかる程度の髪は、私の悩みの種だ。腰のないフニャフニャの猫っ毛な上に中途半端な癖があって、見た目が非常によろしくない。どんなにブラッシングしてもストレートにはならないから、いっそ巻いた方がいいのだけれど、くるんくるんの巻き髪で登校するわけにはいかないから大抵結んでいた。でも今はゴムも鏡もない。極力見苦しくないようなでつけておくしかない。後ろとか寝癖残っていないかな。
海に落ちて流されても根性で足に引っかかってくれていたローファーを履き、私は船室を出た。
勝手に出歩いたらいけないかな。でもそろそろ身体を動かしたい。それに今、部屋に一人で引きこもっているとまた不安や悲しみに襲われそうだ。外に出て気をまぎらわせたい。
狭い廊下を適当に歩く。あの客船と違い、廊下はすぐに終わりを見せる。梯子に近い狭くて急な階段を上がり、ハッチから頭だけ甲板に出すと、せっかく落ち着かせた髪が風になぶられた。
周りは一面の青空と雲。遠くに山が見える。ちょっと視線を下げれば地面も見えた。割と低いところを飛んでいるんだな。建物や畑のようすがはっきりわかる。これってせいぜい高層ビルくらいなんじゃない? 飛行機とはそもそも飛ぶ原理が違うから、そんなに上空でなくてもいいのか。
なんて、甲板の端まで行って観察したわけではない。それは無理。吹き付ける風を受けながら船縁になんて寄れるものか。高層ビルだって十分めまいのする高さなんだから。
巣穴から外のようすをうかがう小動物のように、私は階段の出口に陣取っていた。
甲板には何人もの乗組員が出ていて、私に気づいてこちらを見てきた。若い男の人が多いから、多分私を女として意識しているんじゃないのかな。なんとなくそういう雰囲気を感じる。そしてきっと、がっかりしているんだ。どうせならもっと可愛い美少女がよかったとか何とか。すみませんね、お約束外してこんなんで。
こっちを気にして仲間同士でなにやらアイコンタクトしたりこそこそ話したり。ものすごい既視感を覚える。まるきりクラスの男子と同じでないか? しょせん男は男か。異世界だからってそこは一緒だね。
こういうのには慣れているから、私はもうカン無視決め込んでいた。いちいち気にしていたらやっていられない。悪口言いたきゃ勝手に言っていればいい。
「あの、どうかされましたか?」
すぐ近くから声をかけられた。イリスとそう年が違わない――いやいや、彼は童顔だからイリスより年下ってことになるのかな。そばかす顔のお兄さんが私をのぞき込んでいた。色白だから顔が赤くなっているのがはっきりわかる。これだけいい天気だもんね、ずっと外で作業していたら日焼け大変だろう。
「すみません、お仕事の邪魔でしたか」
「いえ、そういうことでは」
「特に用はないんです。ただちょっと、散歩がてら見に来ただけで。お邪魔ならすぐ戻ります」
「いえ! あの、けっしてそんなことは!」
階段を降りようとしたらあわてたようすで引きとめられた。
「全然かまいませんから! よかったらどうぞ、上に出てください」
「……いえ、結構です」
これ以上出たくはない。ここから眺めているだけでも、おへその辺りがもやもやしてくるのだ。上に出て歩き回るだなんてムリムリムリ。
「見学なら案内しますよ!」
「下見ませんか、今ちょうどシクナ湖の上でいい眺めっすよ!」
「遠慮せずに、さあさあさあ!」
なんかいっぱい集まってきた。やたらと愛想のいい笑顔を貼り付けたお兄さんたちが、我先にって感じで押し寄せてくる。この光景どっかで見たような、と考え思い出した。奈良公園で煎餅くれって集まってきた鹿の群れにそっくりだ。
あの鹿、意外にあなどれないんだよね。可愛い顔してなにげに容赦ない。鹿煎餅だけじゃなくガイドマップまでむしられたっけ。
カツアゲされても憎めなかったモフモフと違い、今目の前にいるのはニンゲンのオスどもだ。可愛くもなんともない。全力でウザい。わざとらしい笑顔が不愉快だった。どうせチヤホヤすると見せかけて、いい気になった女をせせら笑ってやろうって魂胆なんだろう。ああいやだ。
私はもちろん礼儀正しく笑顔で返事した。内心でどれだけ毒づこうと、それを表に出してはいけない。あんたたちの悪意になんてこれっぽっちも気づいてませんよという顔をする。
「ありがとうございます。でも上に出るのは怖いので。それにみなさんお仕事中ですよね。ご迷惑になりそうですからもう失礼します」
「え、そんな」
「迷惑なんかじゃ……」
あらあら、みなさん演技派ですね。ずいぶん上手にがっかりした顔を作るじゃないですか。それとも意地悪をかわされたって気が付いたのかな。
しつこくされないうちに帰ろうと彼らに背を向けかけた時、さっと影が通り過ぎた。
思わず見上げれば、竜がすぐ近くを飛んでいた。一度通り過ぎて少し向こうでUターンし、戻ってきて甲板へなめらかにランディング。うーん、動物の動きはきれいだ。
見覚えのある銀緑色のボディはイシュちゃんだ。着地と同時に背からイリスが飛び下りた。なにげなくやっているけれど、あれはかなり運動能力高くないとできないだろう。嫌味なほどにかっこいいな、この人は。
イケメンは嫌いだけど、イケメンであること自体を否定するような無意味な意地は張らない。彼がとてもかっこいいという事実は認めますとも。二次元なら萌えていたね。
「どうした?」
イリスがこちらへ歩いてくると、集まっていたお兄さんたちが一斉に直立不動の姿勢を取った。
「いえっ! こちらのお嬢さんが見学に来られましたので!」
「ご案内をしようかと」
イリスより年上っぽい人もいるのに、みんな上の人に対する態度だ。イリスの方が偉いのか。彼らの関係ってどういうものなんだろう。お仕事上の上司と部下? お仕事って、やっぱり軍人さんなのかな。みんな剣持ってるし。
イリスは苦笑した。
「仕事しろ、仕事。そんなに大勢でたかられたんじゃ、彼女も困るだろう」
「はっ! 申し訳ありませんっ」
蜘蛛の子を散らすとはこういうことだろう。お兄さんたちがわっと離れていく。叱られてあたふたと仕事に戻るようすをほほえましく(ザマミロ)眺めていると、イリスがすぐ前まで来た。
「ごめんね、びっくりしたろう」
「いいえ」
謝る彼に首を振る。別にびっくりはしていない。ウザかっただけだ。
「普段船に女性は乗らないからね。みんなちょっと浮かれてるんだ」
ああ、やっぱりそうですか。全然女の人を見かけないと思ったけど、やっぱり乗っていないんですか。じゃあ私のパンツは……いや、いい。追及はやめておこう。聞いたらしょっぱい結末にしかなるまい。
きっと向こうもそれなりに気をつかってスルーしてくれているんだ。私も知らんふりしておくのが正解だろう。
気まずさから必死に目をそむけていると、イリスが身をかがめて私の頬にふれた。なんだろうと見上げると、近い距離で青の瞳にぶつかる。
「大丈夫? 少しは落ち着いたのかな」
とても優しい、いたわりの声だった。泣いたことがばれているのだろうか。私をのぞき込む顔には、こちらを気づかう思いやりしかないように見えた。
……これを疑うのは、人として最低なのかな。ここは素直に感謝しておくか。
私は笑顔を作ってうなずいた。
「はい。さんざん寝たのでもうすっかり元気です。いろいろありがとうございました」
イリスも笑顔を返す。でもそれは、かわいそうな子を見るまなざしに思えた。憐れまれているのかな。まあ、そういう状況ではあるか。自分で自分をいやらしいと思うが、憐れまれるくらいがお得だろうと計算してしまう。
……本当に、私は性格が悪いよな。
「またイシュちゃんで飛んでたんですね。どこか行ってらしたんですか」
自己嫌悪に陥るのも嫌なので、私は話題を変えた。イリスは姿勢を戻す。
「散歩してただけだよ。一応周辺の哨戒を兼ねてね。飛竜は船に乗って飛ぶのを嫌がるから、飛ばせてやらないと機嫌が悪くなるんだ」
ふむ、プロドライバーが他人の運転では落ち着かないようなものだろうか。
ほら、とイリスは外を指差した。
周りの空へ目を向ければ、飛び回る竜の姿が遠くに見えた。何匹いるんだろう。あれみんな、この船のお仲間か。
「君を見つけたのも、イシュを飛ばせてやってた時でね。運がよかったよ」
「そうですね。おかげで助かりました」
「気分転換に飛んでみる?」
イリスのありがたい申し出は、丁重に辞退した。絶対嫌だ。二度と飛びたくない。
私が高所恐怖症であることを理解して、イリスは笑いながら階段のそばに座り込んだ。私も階段に腰を下ろし、巣穴からのウォッチングを継続する。イシュちゃんがイリスに鼻面を寄せてきた。甘えたしぐさに見えてちょっと可愛い。
イリスは腰のポーチから何かを取り出し、イシュちゃんにやった。でっかい竜にとってはキャラメルか飴玉みたいに小さいものを、おいしそうに食べている。
「それは?」
「乾燥させた果物だよ。イシュのおやつ」
「果物食べるんですか」
「好物だよ。生の方がもっと好きだけどね」
「ちなみに主食は」
「んー、穀物と野菜を中心に与えてるけど、野生では木の葉とか果物を食べてるね」
草食竜なのか。見るからに肉食だゼって凶暴な面構えに見えるのに、意外だな。
もっと、とイシュちゃんがねだる。イリスがドライフルーツを差し出してくれたので、私も餌やり体験させてもらった。といっても、舌が伸びてきたかと思ったら一瞬でなくなっていたけどね。
「女性は竜を怖がる人も多いんだけど、ティトは平気そうだね」
どうやっても「ちとせ」と発音できない彼らは、私をティト、またはティトシェと呼ぶようになった。もう完全に別人名前である。誰ソレって感じだが、仕方ない。
大変便利な自動翻訳能力も固有名詞には働いてくれないようだ。もしかして、私の方も彼らの名前をちゃんと言えていなかったりするのだろうか。
「まあ肉食でないのなら。希望を言えば毛が生えた生き物の方がいいですけど」
つぶらな瞳はなかなか可愛いと思うし、全体のフォルムもこれぞドラゴンって感じでかっこいい。でも鱗をまとった分厚い皮をなでても、あまり癒されそうにない。手ざわりとしては、ふかふかモフモフを希望する。
「イリスさんって、左利きなんですか?」
ちょっと唐突な質問をしてみる。ん? とイリスは首をかしげた。
「そうだけど」
普通剣は左腰に提げる。右手で抜くから当然だ。他の人はみんな左なのに、イリスだけが右に提げていた。果物の皮を剥いたのも、さっき私にふれたのも、イシュちゃんにおやつをやったのも左手だ。だから予想はしていたが、やはり左利きなんだな。
「こっちの人って、右利きと左利きどっちが多いんでしょう。見たところ、右利きの人が多そうですけど」
「うん、圧倒的に右利きが多いね。そうか、そういうところで違いがあるかもしれないんだね。異世界とか言われてもぴんとこないし、こうして話していると普通の人間としか思えないけど、やっぱり君の世界の人々と僕らは違う?」
「今のところ、特に違いは感じません。私の世界でも大半の人が右利きです。髪の色や肌の色も、私の世界にもあるものばかりですね」
「ふうん」
「ただ、私の世界に竜はいませんでした。想像上の生き物として、物語や伝説に登場していただけです」
「そうなんだ。でも竜って存在については言い伝えられていたんだね。それはひょっとして、昔にはいたのかもしれないよ」
「そうですね。こうして実物を目の当たりにすると、そうかもしれないなって思いますね。一般的な竜のイメージとほぼ同じ姿ですし」
異世界とはいえ、言い伝えられている姿そのままの竜が現実に存在する。ならば私の世界でも、過去に目撃した人がいたのかもしれない。
――あ、だとすれば。
「もしかして、こっちには雪男やツチノコもいたりします?」
「雪男? それも想像上の存在かい? ツ、ツティ、ノッコって、どんなのかな」
やはりチが言えないか。翻訳されないということは、いないんだな。残念。
その後も私とイリスはしばらくたわいのない話を続けた。イリスは私に気をつかわず話していいと言ってくれ、お言葉に甘えて呼び捨て&タメ口に変更させてもらった。八つも年上の人にいいんだろうかと、日本人の感覚ではためらうけれど、外人さんは普通に呼び捨てし合っているもんね。こっちでもそんな感じらしい。
空が赤く染まる頃、船は一旦地上に降りた。正確には湖に着水し、停泊した。夜間の飛行は緊急時以外しないそうだ。レーダーとかなければ当然だろう。目視できない状況での飛行は危険だ。
湖のほとりには小さな町があった。船から眺めると、山裾に広がる集落が一望できる。コテコテの中世風って風景ではないな。現代でも、どこかの国にありそうな普通の町に見えた。もっとも車は走っていない。
町でいちばん大きな建物は、私の感覚では中型スーパーくらいの規模だ。そこに住むこの地方のお偉いさんがハルト様に挨拶にきていた。私が出る幕ではないので、船に乗り込んでくる一行を遠目にチラ見しただけで終わる。その後、誘われて食堂で一緒にご飯を食べていた時、私は明日の予定について教えてもらった。
この国の王様が近くに来ているので、無視して通り過ぎるわけにはいかないとか。あちらからもお誘いがあったので、直帰はやめて寄り道をするとのことだった。
私に急ぐ理由はないからへーそうですかで終わる話だ。しかし王様から誘われるとは、ハルト様も相当偉い人なのかなと思ったら、イリスが笑顔で爆弾を落としてくれた。
「あ、言ってなかったっけ。ハルト様は我がロウシェンの公王陛下だよ」
……へー、そうですか。
言っておいてほしかったですね、そういうことは!