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夕食後のくつろぎのひととき、私は思い切ってハルト様に訊いてみることにした。毎日のように貴族たちから招待状が届くことについて、彼はどう思っているのかを。
「いたしかたのないことだろうな。そなたの存在はすでに皆の知るところだが、そなたをじかに知る者は少ない。憶測が憶測を呼んで必要以上に関心を持たれてしまっているのだろう」
ゆったりとしたソファに身を沈めたハルト様は、ブランデーグラスのようなものでお酒を飲んでいる。一日王様業やってきた疲れを、この一杯で癒しているのだろう。佐野のお父さんも晩酌を楽しみにしていた。大人になったらお付き合いしようと思っていたものだ。
「ずっと表に出ないで知らん顔しているのは、よくないですか?」
その足元で、私はもらったばかりの本をめくっていた。この世界に語り継がれる祖王の伝説を記した絵本だ。子ども向けなので文章が簡単で、私にはちょうどいい。私同様龍の加護を得ていたという建国の英雄は、たくさんの竜を従えていた。
「ふむ……そなたが出たがらないのであれば、それでもよいと思っていたのだがな。正式な養女にならなかったわけだから、そういう義務はない。あくまでも、私が個人的に面倒を見ているだけの娘だと言ってはねつけることはできる。そなたの計算通りにな?」
少しいたずらっぽくハルト様は笑う。でもすぐに真顔に戻った。
「ただ現実面を見ると、あまり得策ではなかろうな。私もいずれは飽きて落ち着くかと思っていたのだが、どうもそうはいかぬらしい。妙な方向へ流れ始めている」
「どんな方向ですか」
一旦本を置いて、ちゃんとハルト様を見上げる。一口、お酒を飲んで、ハルト様は吐息をもらした。
「そなたの結婚相手を私が吟味していると、思われているようだ」
――また結婚か。
「みなさん気が早いですね。私まだ十七歳ですよ。それとも、こっちの人はこのくらいで結婚するんですか?」
「いや、普通は二十代前半くらいだな。王族ならば十代半ばで結婚することもあるが」
「まさか、私も王族に準じると考えられているとか?」
昼間に聞いた話を思い出す。もう一般人としては扱われない、王家に属する人間として周りに受け取られているのなら、結婚についても王族基準で考えられてしまうのだろうか。
「結婚なんて全然考えられない……ていうか、ぶっちゃけ一生独身でもいいんですけどね」
「今からそのように決めつけることもなかろう。いずれ、好もしく思う男と出会う時が来る」
「こっちがそう思ったって、相手も同じに思ってくれるとは限りません。恋愛とか失恋とか、物語で見る分には好きですけど、自分の現実に関わってくるのは嫌です。めんどくさい」
「恋をしたこともないくせに、何を言うか」
ハルト様にはあっさりと笑い飛ばされた。
「いやだの面倒だの言っていられぬものだよ。いざ恋に落ちてしまえばな」
「奥方様との思い出ですか?」
「ん? いや、まあ……あれとは、物心つく前から共にいたからな。そういう激しい想いはなかったな……ただ毎日が幸福だった」
故人を思い出しているのだろう、ハルト様は少し遠い目になる。懐かしそうに、いとおしげに、そして少し切なげな横顔を見ながら、私は違うことを考えていた。
亡くなった奥方様との間で、恋に悩むことはなかった。では誰を相手に悩んだというのだろう? まさか浮気をしていたわけではないだろうから、それは奥方様が亡くなった後の話だ。だとすれば。
――おおおおお! もしかしてすごく重要なところじゃないか? ユユ姫なの? ユユ姫だよね!
うんと年下で、親代わりに見守ってきたはずなのに、いつの間にか一人の女性として見ている自分に気付き葛藤する。相手からも好意を向けられているのがわかるから、想いを断ち切ることができない。でも道徳意識だの奥方様への罪悪感だのが邪魔をして、あと一歩が踏み出せずにいる――とか? とかなの?
そんなん気にしなくていいから! どーんと行ってしまえと背中をどーんと突き飛ばしてやりたい!
わくわくして見つめていたら、何かを感じ取ったのだろうか、ハルト様は急にわざとらしく咳払いをした。
「いや、私のことはよい。そなたの話だ」
「いえお気になさらずどうぞ」
「そなたの話だ」
語気を強めてくり返す。ちっ、いい年して往生際が悪いな。後で忘れず追及してやろう。
「私が引き取った娘を誰に嫁がせるか、そこに関心が集まっている。その相手は私との結びつきを得るということで、水面下での駆け引きも始まっているようだ」
「ばっかじゃない」
思わずこぼしてしまい、ハルト様の苦笑をさそった。
「当人たちは真剣だ。断っておくが、極端な行動に出ているのはごく一部の者だけだけだぞ? ほとんどの者は静観の姿勢だ。ただ中には過激なのもいてな」
「どんな過激な行動に出ていると?」
ハルト様はまたお酒を飲んで息をついた。さっきよりも深刻そうな、というか、呆れたようすのため息だった。
「なんというか……まあ、端的に言えば恋敵の排除だな」
「恋敵って、恋愛始まってもいませんが」
「そなたについてくる特典への恋心だろう。一方的な片想いの」
ハルト様もなかなか辛辣だ。もしかして、ちょっと酔っている?
「恋敵同士でケンカしているなら、ほっといていいんじゃないですか? そんなもん付き合いきれないし、勝手にしろって感じです」
「そうなのだがな……思わぬところにまで余波が及んでいる。トトーが、そなたと親密な関係にあると思われ、攻撃を受けている」
「…………」
馬鹿馬鹿しくて聞き流しかけていた私の意識が、一気に引き戻された。
なんでここでトトー君の名前が出てくるのだ。親密な関係って、どこからそんな話が出てきた。
一緒に出かけたから? デートしたと思われた? でも一回デートしたくらいで即結婚まで話が進んだりしないだろう。高校生のデートなんてカラオケ行ったりゲーセン行ったりじゃないの? 経験ないから知らないけどさ。
「そりゃあ、顔も見たことない知らない人よりは親密ですが……攻撃って、具体的にどんな?」
「悪評を立てられている。ヤクザと関わりがあるだとか、地竜隊長の位に就いたのは裏で汚い手を回したからだとか」
「ヤクザとの関わりならたしかにありますね。町の住人に好かれる頼りになる親分とその馬鹿息子が」
「会ってきたのだったな」
今日の出来事を話した後だったので、ハルト様も面白そうに笑った。
「親分さんとは会ってません。馬鹿息子の方だけです。バカで迷惑な奴でしたけど、悪辣な犯罪者って感じじゃなかったですね。憎めないバカというか。まあヤクザなんだから、完全に白ってわけでもないんでしょうけど」
「そうだな。だが、マッシュ家ならば私も知っている。そう問題視するような組織ではない。むしろ街の治安維持に役立ってくれている。多少の裏は黙認すべきだろう。彼らの存在があるおかげで、本当に危険な者たちを抑えることができているのだから」
さすがハルト様は、お膝元の街の状況もよく知っていた。
「騎士なら、そういう人たちと知り合っててもおかしくないんじゃないでしょうか。私の国だって、刑事さん――治安組織の職員さんがヤクザと知り合いなんて当たり前の話でしたよ。本当はよくないことかもしれないけど、情報を得るためとか、より大きな犯罪を解決するために、その筋の人の協力は多分必要なんでしょう。こっちではそういう考えはないんですか?」
「いや、その通りだ。トトーの場合は単なる近所づきあいの延長だろうが、今言ったような関係を持つ者もいる。そこをきちんと理解していれば何とも思わぬ話だ。だがヤクザと聞いただけで拒絶反応を示し、付き合いがあるとなれば悪事を働いているものと決めつける者もいる」
「私が言うのも何ですけど、ずいぶん世間知らずですね」
こちらにはテレビもインターネットもないから、自分と縁のない世界の話なんて、噂話に聞くこともないのだろうか。
「でもそんな噂だけなら、後ろめたいことはないんだから堂々と無視していればいいですよね。もうひとつの隊長就任については、どういうことなんですか」
「どうもこうも、言ったとおりだ。正当な評価で得た地位ではないとな。なにせあの年だから、隊長と聞いて首をかしげぬ者はいない。そこへヤクザとの関わりなど噂されれば、卑怯な手段を用いて隊長職を得たのだろうと、まことしやかに語られてしまうわけだ」
「……前から気になっていたんですけど、トトー君が隊長ってみんなが納得している話なんですか? 正騎士になったのは二年前だって聞きましたよ。たった二年の経験で隊長になんて、普通なれないでしょう。地竜隊でいちばんの若手なくらいなのに、他の騎士たちはどう思ってるんでしょう」
隊長になるためにトトー君が卑怯な真似をしたとは思っていない。もしそうなら、他の騎士たちからもっと冷たい目を向けられているだろう。先日ほんの少しだったけれど、地竜騎士たちを見た。口々にトトー君をはやし立てつつも、いやらしい悪意は感じさせなかった。ごく普通に後輩をからかっているだけに思えた。
じっさいに隊を率いていくのに、肩書だけ得てもしかたない。騎士たちの信頼を得なければ隊長職は務まらないはずだ。そこがどうなっているのか、ずっと気になっていた。
「あれは少々特殊ないきさつでな……竜を得て正騎士になったのはたしかに二年前の話だが、見習いとしてはもっと以前から隊に所属していた。入隊したのは、たしか九歳の時だったか」
「そんなに小さい時から?」
「うむ。父親の顔を知らずに育ち、八歳の時に祖父も他界して、幼くして一家の主になったのだ。その頃のトーラス家は家族三人が食べていくのにも事欠くほどだったようでな。昔から大人びた頭のよい子だったから、口減らしと仕送りを兼ねて志願したらしい」
お家がけっして裕福じゃないことは知っていたが、そこまで大変だったとは思わなかった。街で会ったエリーシャさんは暗さを感じさせない元気な人だったし、お母さんもおっとりと優しげだった。ローンと子供三人の教育費に頭を悩ませていたうちの両親を思い出し、同じような家庭環境だろうと思っていたが、間違いだったようだ。
私は何不自由なく育てられた。食べるものがない生活なんて経験したことがない。姉は大学に通い、アルバイトも家計のためではなく自分のお小遣いのためだった。私はゲームや漫画をたくさん持っていたし、弟はサッカークラブに所属していた。
ごく普通の庶民家庭だと思っていたのが、とても恵まれた生活だったのだと思い知る。
トトー君は、そうじゃなかったんだ。
「見習い期間の六年と正騎士になってからの二年。合わせて八年近くの経験がトトーにはある。それほど、未熟とは言えない」
「そうですね」
「むろん最初は訓練と雑用に追われるばかりの日々だが。しかしあれの並外れた才能は、すぐに誰もが知るところとなった。祖父譲りなのだろうな。剣を取らせても、他の何をやらせても、見る間に上達し大の大人に肩を並べるほどになっていった。それが気にくわぬと目の敵にした者もいたようだが、すべて実力で黙らせている。十四になる頃には前任の地竜隊長とアルタくらいしか対抗できなくなっていたな」
「……そうなんですか」
すごいな、トトー君。そういえば以前イリスも、天才だと言っていたっけ。
「それでいて性格はおっとりしてさり気なく面倒見がよい。隊内のあれこれを意外に細かく見ていて、必要なところで手を出したり口添えしたりする。あまり積極的に前には出ないが、人に押されて逆らえぬような気弱さもなく、必要ならば拳にものを言わせることも辞さない。何度か派手な殴り合いもしたようだが、やがて自然に隊内での信頼関係を作っていった」
トトー君出来すぎ! うらやましいのを通り越して腹立つほど出来すぎですから!
でも同時に納得もする。そうだな、私に対しても、見ていないようでよく知っていて、絶妙に気配りしてくれていたよね。
……本当に出来すぎだ。十代の男の子がそんなにいい子でよいのだろうか。街で会ったリックたちのような、馬鹿やっているのが普通じゃないのか。
「二年前、前任のラガン隊長が引退を宣言した時、トトーを次の隊長として推薦してきた。多くの者が驚いていたが、地竜隊内部は静かなものだったぞ。既に実力も人望も備えていたし、最後の課題である竜も得ていた。基本的に実力主義の騎士の世界で、それ以上の問題などない。まあ歳が若いことは事実だが、そこは年長者が助けて行こうと周りが同意し合ったらしい」
いい話だな。地竜隊、いいやつらじゃないか。先輩後輩の垣根を越えた男同士の友情って、ちょっとうらやましい。いや拳で語り合う友情なんて汗臭くもむさ苦しそうだから、仲間に入りたくはないけれど。
「あの、竜を得るってところですけど、何か試験でもあるんですか? ……その、トトー君のお父様は竜騎士になれずに亡くなったと聞いたので」
聞いていいのかどうか迷いながらも欲求に逆らいきれず口にすれば、ああとハルト様は少し複雑な顔をした。
「竜が飼育環境下では卵を産まないということは、知っているか?」
「大分前に、カーメル公から聞きましたね、そういえば」
「そうか……長年交配の試みは続けられているが、まったくうまくいかぬ。そもそも飼われている竜は、成体になっても発情期を迎えぬのだ。なぜなのかはわからぬ。人に育てられたがゆえに、己を竜だと思っておらぬのかもな。そういう事情で、新しく竜を得るには野生から捕獲してくるしかない」
それも聞いたっけ。イシュちゃんもカル君も、野生から無理やり人里に連れて来られたのだ。
「それも、生まれる前の卵でなければならない。生まれてしまってからでは、それがまだ幼い竜でもけして人にはなつかない。そなたは例外中の例外だ。龍の加護を持たぬただ人は、生まれた時から世話をして竜に親だと思わせねばならぬ」
「……もしかして、失敗して命を落とすのって」
「そうだ、親竜に殺される」
ハルト様はきっぱりとうなずいた。
「無事卵を持ち帰り騎士となるか、そこで命を落とすか――それが、竜騎士を目指す者の最後の試練だ。残酷だと思うか? だが親竜が大事に守る卵を奪うのだ。そのくらいは当然だろう。それだけの覚悟があり、そして成功させる者だけが竜騎士として認められる。トトーはそれを成し、彼の父親は成せなかった」
だから「なり損ねて」となるのか。
厳しくも納得の現実に、私は息を吐くしかなかった。
「……話がそれたな。まあそんな次第で、トトーの隊長就任に関しては不正など一切ない。そんなことがあれば、まず騎士たちが納得せぬ」
「ですよね」
そこは大いに同感だったので、私は力強くうなずいた。
「じゃあ結局、悪評っていっても全部ただの言いがかりなんですよね。それって逆に噂している相手を名誉棄損で訴えられないんでしょうか」
「相手が特定できればな」
ハルト様は苦笑した。
「噂というのは、口から口へと伝わっていくものだ。誰が発端かなど、特定するのは難しい。むきになって騒げば、それをまた揶揄される。図星だから騒ぐのだろうなどと、悪意に解釈しようと思えばいくらでもできる」
ああ、その通りだ。人の噂というのは、本当にたちが悪いのだ。どこの世界も同じだね。
「噂など気にせぬという堂々とした態度を取るしかないな。もっとも、トトーの場合は本当に気にしておらぬようだが」
ハルト様はますます複雑な笑顔になる。
「なにやら、血迷った者が闇討ちまで仕掛けたようなのだがな」
「そんな事態にまでなってるんですか……しかもそんな間抜けな作戦に」
「うむ」
二人してくすくすと、少し声に出して笑ってしまった。
闇討ちってさー。相手地竜隊長だよ? 実力で年上の騎士たちを黙らせた猛者だよ? そんなんに襲いかかるって、ボコってくださいと言っているようなものではないか。たしかに見た目は小柄で可愛い男の子だけど。
「それ仕掛けた人って、本気でトトー君が不正したって思ってたんでしょうかね。でなきゃ無理のある計画だって気づきますよね」
「そうだな……そこで実行犯を取り押さえられればよかったのだが、トトーはうっかり半数を返り討ちにし、残り半数を逃がしてしまった」
「返り討ち、って……」
「相手が剣を抜いて殺すつもりで襲いかかってきたのだ。当然の報いだ。とはいえ、殺してしまったのでは黒幕を聞きだすこともできない。それに気づいてトトーがためらった隙に、残りの者は逃げてしまったそうだ」
温和なハルト様が、ここでは冷徹なことを口にした。これがこの世界の現実だ。王として、ハルト様はただ優しいばかりではいられない。
トトー君は悪くない。悪いのは、闇討ち――暗殺なんてしようと企んだ、どこかの馬鹿だ。デイルなんかとはまったく違う、真正の馬鹿だ。
でも、そこまで悪質な行動に出ているなんて。もう馬鹿とか言って済まされるレベルではないだろう。完全な犯罪だ。
トトー君が強いからって、気にせず放置していい話ではない。もしもっとエスカレートしていったらどうなるのか。私はしばらく考え込んだ。
問題の根底にあるのは、私の存在だ。私が現れたことで、もめごとを誘発している。私にとっても迷惑な話だが、ある程度は予想もしていたことだ。それを承知でハルト様のそばにいることを選んだのではなかったか。
内心で馬鹿にされるのが嫌だとか、妬まれて悪口を言われるのがうっとうしいとか、そんなことばかり気にして隠れていた。考えていたのは自分の保身ばかり。周りに与える影響なんて気づかなかった。
逃げるばかりではいけないのだ。ことが自分一人だけの問題なら、引きこもって誰とも関わりを持たないという選択もあっただろう。でもそれだけでは済まされない。他のいろんな人に影響してしまっている。私はこの道を選択した責任を、取らなければいけない。
「……ハルト様、お願いがあるんですが」
「なんだ?」
応えるハルト様の声は深く、優しい。私に何も押し付けず、でもちゃんと見守ってくれている。
この人の娘として、恥ずかしくない姿を人に見せられるかな。
「来月の祝賀式典、やっぱり出席させてください」
私の言葉に少しまばたきをして、それからハルト様は頷いてくれた。
「ああ。もちろんだ」
「あと全力で却下していた私のお披露目ですけど、やっぱり実施の方向で。派手なことは必要ないですけど、そういう趣旨も含むということを、出席者にわかるようにしてください」
「……ふむ?」
「そうでないと、私の個人的な知り合いを招待するのが難しいですから。私のお客様としてなら、普段宮殿に出入りできないような身分の人でも呼べますよね?」
「誰を呼ぶつもりだ? 相手の迷惑にならねばよいが」
「ギブ&テイクでもちかけますよ。向こうにもメリットがあれば来てくれるでしょう」
さっそく明日、また街へ出ないといけないな。連日の遠出とは、私すごくアクティブではないか。貧血起こさないようしっかり食べておかねば。
「それならば、作法やダンスの練習が必要になるな。恥をかかぬよう最低限は身に着けておくべきだぞ」
「いいですよ。目的があるなら私は何でもやります。意地でも完璧にマスターしてみせますよ」
「頼もしいことだ」
ハルト様は笑いながらグラスのお酒を飲み干した。テーブルに戻されたグラスを、私は横目でそっとうかがう。ハルト様が何か取りに立った隙に、こっそりボトルからお酒を注いで口をつけてみた。
「――あ、こら!」
気づいたハルト様が叱った時には遅く。
私はうええと舌を出していた。
「にっが……」
「そなたにはまだ早い!」
急ぎ足で戻ったハルト様が、私の手からグラスを取り上げた。
だってハルト様もイリスもカームさんも佐野のお父さんも、みんな美味しそうに飲んでいたから。どんなもんかなって興味持つじゃないか。
過去の飲酒経験では、アルコールが入っていると知らずに飲んでしまった。最初の時は飲酒ですらなかったし。一度、ちゃんとお酒として飲んでみたかったのだ。
しかしお酒がこんなにまずかったなんて。
「どこがいいんですか、そんな臭くて苦いもの」
「大人の飲むものだ。味も香りもわからぬうちは、飲まずともよい」
ハルト様はキャンディポットから飴を一個取り出して、私の口に放り込んだ。あ、これを取りに行っていたんですか。やる気を出したご褒美? それはどうもありがとうございます。
私は必死に口の中で飴を転がして、お酒の名残を追い払った。どうしてわざわざ苦い物を飲みたがるのかな。大人の嗜好ってわからない。私は正直ピーマンやほうれん草も嫌いだ。
「……チトセ、大丈夫か?」
ハルト様がとても心配そうに私を覗き込む。
「はい、飴のおかげでどうにか」
苦かっただけでやけどとかしたわけではないのに、何故そんなにはらはらした顔で私を見ているのだろう。過保護にもほどがあるんじゃないのか。
それよりも、きちんと確認しておかなければならないことがある。当面の問題については対処案を考えたし協力もお願いした。やるべきことは済ませたので、もうこっちを考えてもいいだろう。
「ハルト様、恋について教えてください」
「えっ……はっ!?」
奇声を発して後ずさろうとするお父様を、はっしと捕まえる。逃がすものですか。今日こそはきっちり聞かせてもらいますよ。
「ハルト様は恋する気持ちをご存じなんですよね? 現在進行形ですか。お相手はどなたですか。とか初歩的な質問は今さらしませんので、もっとぶっちゃけてお尋ねします。プロポーズはいつですか」
「んなっ……やや、そ、そうだ、もう寝なさい! 夜更かしは身体に悪い!」
「まだ宵の口です。そんなこと言って逃げようったってそうはいきませんよ。いい加減ズルズル半端な態度続けてないで、はっきりさせましょうよ。好きなんだったらいいじゃないですか。再婚だろうと親子ほど年が離れていようと、愛の前にはすべてが解決するという法則があるんです。多分どっかその辺に。私の世界じゃ八十になってから十代の嫁さんもらった強者もいるんですよ。どこの国だったか忘れたけど、ネットニュースで見ました。それに比べたら十七歳差なんてへっですよ。へっ」
「へっ、て……チトセ、だから酒は飲むなと……」
「芸能人なんてそんなカップルよくいたし。逆に女性が十歳以上年下の男性と結婚した例もありますよ。みんなびっくりしつつも、基本『まーいんじゃね?』って反応でした。世間の反応なんてそんなもんですよ。ハルト様が気にされるほど人は気にしません。それどころか、ユユ姫となら超お似合いってこぞって祝福してくれますよ。さっさと若い美人の嫁さんもらって子作りに励んでください」
「こっ……そ、そのようなことを口にするのではない!」
「やっだなー、いい年したおっさんが思春期の女子みたいな反応しないでよ。それともあれか? ドラマが濡れ場になった途端あわててチャンネル変える親か? 今時の子供はセックスネタくらい平気だっつの。コミケ三日目行ってみ? 男性向けジャンルすごいから。女性向けだってR18はけっこう激しいよ? 3Pとか女体化とか触手とか見たら、新婚夫婦の子作り作業なんてものすごく健全に思えるから」
「言っている意味がほとんどわからんがもうやめなさい! 寝る、寝るんだ、今すぐに!」
「眠くなんかありませんー」
「いいやすぐに眠くなる。さあほら、よしよし」
「何がよしよしですか、赤ちゃんじゃないんだからー」
私を無理やり抱っこしてあやすハルト様の頭をぺしぺし叩いて、抗議を続ける。こんなんでごまかされるものか。とにかくこの優柔不断親父にあと一歩を踏み出してもらわねば。ユユ姫の幸福と全国民の期待がかかっている。
その後も私はしつこく食い下がり、ハルト様はとにかく私を寝かしつけようと話をさえぎり、周りの女官が呆れて見守り……という状況を途中までは覚えているのだが。
どこで寝落ちしたのかまったく記憶にない。目が覚めれば朝で寝台の上だった。
うーん、一口飲んだだけでも酔ってしまうんだなあ。
相変わらず記憶はしっかり残っているし二日酔いにもならないが、わずかな量でも速攻で酔っぱらってしまう体質であることを確認した私だった。
朝食の席で顔を合わせたハルト様は、朝から疲れ果てた顔をしていた。
そして私はさっそく行動を開始する。日頃の引きこもりっぷりを返上して、精力的に活動した。ハルト様にも言ったが、目的がはっきり定まっている時の私は何でもやるのだ。
しなければならないことはたくさんあるが、まずは根回しからだ。
「何しに来たちびミカン!」
「用件に入る前にとりあえずもう一回踏ませてもらおうかしら」
微笑む私の前に、手下たちがどうぞどうぞとデイルを押し出した。