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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第四部 たくらみの宴
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 目が覚めた時、自分の状況がすぐには把握できなかった。

 知らない場所で寝ている。スプリングなどなさそうな、硬い寝台だ。布団も古びたもので、なじんだ柔らかな肌触りとは程遠い。開いた目に映ったのは、簡素な木組みの天井だ。しばらくぼんやりと考えて、そういえばトトー君の実家に来たんだったと思い出した。

 同時に、できれば記憶から、いや歴史から抹消したい出来事も思い出してしまった。そっと起き上がってみれば、私は質素ながら清潔な服に着替えさせられていた。

 ああ……あの後、どうなったんだろう。いや大体の想像はつくけれど。ごめんなさい、汚いものを処理させてしまって、本当にごめんなさい。できるなら自分で全部始末したかったのに。

 申しわけなさと羞恥心で死にそうだ。寝台の上に座ったまま撃沈していると、すぐ近くの扉が開いた。この部屋はずいぶんと狭い。扉から寝台まで、数歩分しか離れていない。

「あら――トーヴィル、ティトシェちゃん目を覚ましたわよ」

 戸口から顔をのぞかせたのは、若い女性だった。ふわふわした赤い髪と誰も呼ばないトトー君の本名を口にしたところから、どういう人なのかは察しがつく。彼女に続いてトトー君も部屋に入ってきた。

 出かけた時とは違う服をトトー君は着ていた。彼も着替えを余儀なくされる羽目に陥ったのだ……もう、私どうしたらいいんだろう。

「具合はどう? 少しは落ち着いたかしら」

 二十歳くらいだろうか。多分トトー君のお姉さんは、私のそばに来て顔を覗き込んだ。

「はい……ご迷惑をおかけして、本当に申しわけありません」

「いいのよ。んー、顔色は大分ましになったわね。でもまだ青いわ。やっぱりチャリス先生に来てもらいましょうか」

 トトー君と違って、はきはきとテンポよくしゃべる人だ。トトー君よりも緑の色味が濃い瞳は、気が強そうに見えた。

「いえ、どうぞおかまいなく……ただの乗り物酔いですから」

「だめよ。何かの病気かもしれないでしょ。心配しなくてもチャリス先生の腕はいいわよ。下町の医者なんて信頼できないんでしょうけど、むしろね、いろんな人間がいていろんなことが起きる下町だからこそ、いろんな怪我や病気に対応できなきゃいけないの。お城の御殿医なんかより、よっぽど優秀なんだから」

 やけに自慢げに言う。

「いえ、そうじゃなく……本当に、大したことではないので。このくらいでわざわざお医者様に来てもらったら、申しわけないです」

「そんな青い顔で言われても説得力ないわ。とにかく、もうしばらく休んでなさい。洗濯物だってまだ乾いてないしね」

 洗濯物――その意味を悟って、私はまた撃沈する。ああ、あんな汚い物を人様に洗わせたのか。なんて申しわけない。

 お姉さんはさっさと部屋を出ていき、トトー君は私のそばに残る。私は泣きそうな気分で彼を見上げた。

「ごめんなさい……」

「…………」

 トトー君は首をかしげ、それから寝台に腰を下ろした。すぐそばから私の顔を見つめる。

「原因は? あの揚げパン?」

「…………」

 私は項垂れながらうなずいた。

「油っこいもの、苦手なの……揚げ物とかダメで……」

 から揚げは少しならなんとか食べられる。でも天ぷらやカツは完全アウト。絶対に後で胸焼けに悩まされる。そもそもうちの家族全員が油っこいものを好かないので、佐野家の食卓に揚げ物が出ることはほとんどなかった。

「あの、でも、最初はおいしいと思ったの……揚げたてでカラっとしていたし。これなら大丈夫かなって思ったんだけど……中のお肉がね」

「肉も食べられないの?」

「お肉を食べると胸焼けするの……脂っこいと特に」

 あのパンの具はとても脂っこかった。したたる肉汁はぎらぎらしていて、それがおいしいと普通は思うのだろうが、私には毒を食べているような気分だったのだ。

 食欲魔人がデフォルトのこちらでも、パンのサイズ自体は普通だったから、どうにか食べられるかなと思った。じっさい量的には問題なかった。しかし食べて三十分も経たないうちに後悔にのた打ち回ることになってしまったのである。

「本当に、ごめん……」

 こんなに迷惑をかけるくらいなら、最初に食べられないと断るべきだった。イリスやハルト様が相手なら言えるんだけど、トトー君には文句が言いづらくて、つい無理をしてしまったのだ。

 うつむいていると、頬に温かいものがふれた。トトー君、革手袋を脱いだんだ。それも汚してしまったのかな。

「気分が悪くなった時に、無理せずすぐに言ってほしかったよ」

 静かな口調でトトー君は語る。そこに責める響きはなく、ただ淡々と私に諭していく。

「熱を出した時にも怪我した時も、ティトは隠そうとしたよね。今回も、極限まで我慢して言わなかった。それは正しい判断じゃないよ……悪い状況を隠すのは間違いだ。悪いからこそ、早く手を打つ必要がある。隠していい方向へ向かうことなんてない」

 同い年の彼が、まるで先生みたいだった。でも言わせてもらえば、怪我の時は言ってもどうにもならない状況だったんだけどな。

 ……まあ、普通の状況でどうしたか、考えてみると自分でも正直になれる自信はない。

 私にとって、具合の悪さを人に知られるのはいちばん避けたいことだった。辛いと訴えたところで誰が私を心配してくれるだろう。わざと無視されたことはあっても、気にしてもらえたことなんてない。私が弱ればいじめっ子たちを喜ばせるだけだ。それが癪だから、次第に私は不調を隠すのが癖になっていった。

 ハルト様やトトー君には隠す必要なんてないのかもしれない。でも、迷惑をかけるのも嫌だ。わずらわせて嫌がられたらと、どうしても考えてしまう。

 なのに、それがかえって大きな迷惑をかけることになってしまった……。

「これが戦場でのできごとなら、勝敗を左右するきっかけにもなりかねない。命取りの行為だ。政務の場でのことなら、隠蔽はよけいに問題を深刻化させて、国に大きな損害を与えることになる……ティトがしているのは、そういうことだよ」

 たとえが大げさではないかと思わなくもなかったが、問題の本質はトトー君の言うとおりだ。私はそれを認めるしかない。

「……まあ、ボクも気がつかなくて悪かった」

 最後の言葉には、首を振った。

「トトー君は何も悪くない。私が間違えたの」

「うん。でも、パンを見せた時にちょっと反応が悪いなとは思ったんだ……ティトがお菓子以外に食欲を見せないのはいつものことだからと、あまり深く考えないで済ませてしまった……今朝も粥一杯しか食べてないってハルト様から聞いてたんで、無理にでも食べさせておこうと思って……間違いだったな」

 ハルト様、そんなことをトトー君に言っていたのか。私と待ち合わせるまでのわずかな時間に、わざわざ呼びつけて? どこまで過保護なんだ、あの王様は。

「ボクに遠慮しなくていいから……具合が悪い時には、ちゃんと言ってね」

 うなずく私の頭に、トトー君の手が乗せられる。優しい手つきだけれど、彼は怒っていないのだろうか。私のせいでこんなに迷惑をかけてしまって……怒らなくても嫌気はさしてるよね。

「ごめんなさい……せっかくのお休みだったのに、トトー君にはひどい一日になっちゃったね……本当にごめん。もう、宮殿に帰るから」

「帰るのは先生に診てもらってからね……それに、もう少し日が翳ってからの方がいい……外はまだ暑いよ」

 肩を押されて、私はそれに抗った。

「大丈夫、もう気分は落ち着いてなんともないから」

「鏡を持ってこようか? 病気だって言われてもしかたない顔色だよ」

 強引に私を寝かせて、トトー君は布団をかけてくれた。夏用の薄物とはいえ、こんな昼間には必要ない、はずなのに、少しも暑いと感じない。その時になってはじめて、自分の身体がひどく冷たいのだと気が付いた。

 どうやら、胸焼けと車酔いだけでなく貧血も起こしていたようだ。そういえば気を失う直前の気持ち悪い頭の重さとめまいは、明らかに貧血の症状だった。

 私は息を吐いて目を閉じた。そうすると、意識がすとんと落ちていきそうな感覚を覚える。もう落ち着いたと思ったのに、身体はまだ休みたいと訴えている。

 お医者さんが来るまで、そのまま私はまた少し眠ってしまった。




「ふむ……吐き気は? もうおさまった?」

「はい」

「めまいは?」

「それも収まってます」

「原因には心当たりがある、と……まあ、それなら大丈夫だろうね。暑かったり疲れてたりして、悪い条件が重なったんだろう」

 私の目や口の中を調べ、脈を計っていたお医者さんは、穏やかな笑顔でそう言った。優しそうな人だった。年の頃はちょっとはっきりしない。若いようにも見えるけれど、金茶の髪に違う光の筋が混じっているのは白髪だろうか。丸い眼鏡の奥の瞳は優しいブラウンで、目尻にちょっとしわがあった。

 この界隈の住人たちに頼りにされているというチャリス医師(せんせい)は、こんなささいなことで呼び出されたにも関わらず、嫌な顔もしないで鞄から薬を取り出してくれた。

「おなかを落ち着かせる薬を出しておこうか。エリーシャ、水を持ってきてくれるかい」

「はい」

 後ろに控えてようすを見守っていたエリーシャさんが、愛想よく答えて出ていった。ちなみに彼女はやはり、トトー君のお姉さんらしい。

 チャリス先生は粉薬の包みを私の前で開いた。

「はい、あーん」

 ……いや、あの、自分で飲めますけど。

 一体何歳だと思われているのだろう。にこにこして薬を構える先生に、私はあきらめて口を開く。こういう場合とても苦いものを飲まされるというのがお約束な気がするが、それほどでもなかった。エリーシャさんが持ってきてくれたお水で流し込む。

「同じものを渡しておくから、食事の少し前に飲んでね」

 先生はもうひと包み薬をくれた。それから、なぜか便箋のようなものを取り出してペンを持つ。

「あと、ちょっと色々聞きたいんだけど、いいかな?」

「はい……?」

 そのあとしばらく、私はたくさん質問された。昨日の食事内容と今朝食べたもの、普段の食生活、睡眠時間、生活スタイル、持病の有無に過去の病歴、その他諸々。

 私の答えを、先生は手元の紙に書きつけていく。好きな食べ物だの趣味だの、それは事細かに聞かれたので、ついでに血圧も自己申告しておいた。記憶にある最新の記録は下が54、上が83だ。先生もトトー君たちもきょとんとしていた。こちらに低血圧という言葉は存在しないらしい。でも大丈夫、朝普通に起きられるし、何も問題はない。せいぜい夏場は立ちくらみが激しくなるのと、半日ほど気分の悪い日がある程度だ。

「貧血はよく起こす方?」

「まあ……でも意識を失うことは滅多にありません。たいていちょっと気分が悪くなるくらいで、休んでいれば回復します」

「うーん……」

「ずいぶん病弱な子ね。連れ回して大丈夫なの? ちゃんと親御さんの許可取ってきた?」

 エリーシャさんがトトー君にささやいていた。こっそり言っているつもりなのだろうが、狭い部屋の中で内緒話をされても丸聞こえである。

「病弱なんかじゃありません。ごく普通の、健康体です」

「今の話を聞いてると、病弱にしか思えないんだけど」

「ん、いや、たしかに病弱というのとは、少し違うね」

 チャリス先生が言った。

「話を聞いてわかったんだけどねえ……どうも、生活習慣に問題があるねえ。具体的に言うと食事内容と、それから運動量かな」

 ……ぎく。

「体質のせいもあるだろうけど、それだけじゃないね。偏食がいちばんの原因だ。君の偏食はかなりひどい。甘い物は好きみたいだけど、それ以外には食欲が薄いだろう。それで自然と、食べやすいものばかりになるんだ。お粥が悪いわけじゃないんだが、そればっかりってのは問題だよ。もっと肉や野菜も食べないと」

「……食べてます、けど」

「量に偏りがある。口当たりのいい果物や生野菜が多くて、調理した野菜や肉類はかなり少なそうだね」

 ……ぎくぎく。

「生野菜はかさばってるだけで、あまり量を摂れないから、食べたつもりでも不足していることになるよ。なるべく熱を通した野菜も食べてほしい。肉も頑張って食べなさい。ずっと避けてきたから、胃が重いものを受け付けられなくなっているんだ。胸焼けするのは、自分でそういう身体に作ってしまったんだよ」

 ううう。

「成長期にちゃんと栄養を摂らないと、あとあと健康に問題が出る。いや、すでに出ている。疲れやすいのも熱が出やすいのも、栄養と運動が足りないせいだ」

 …………。

「いきなりたくさんは無理だから、少しずつ食べる練習をしなさい。一緒に魚も食べるといい。魚は消化しやすいから、おなかへの負担も少ないよ」

「魚……」

「嫌いかい?」

「身は嫌いじゃないですけど、皮が気持ち悪くて……それに骨が多くてすぐのどに刺さるし」

 お刺身なら楽でいいんだけど。でもこっちでは、魚を生で食べたりしないんだろうな。練り物も見たことがない。丸ごと一尾焼いたものばかりが出てくる。あのでろんとした目が怖いから見るのも嫌だ。

「皮は取ればいいし、骨は……食べ方に気を付けるしかないね」

「…………」

 めんどくさいなあ。気を付けて食べるくらいなら、最初から食べたくなんかない。と、言ったらきっと叱られそうなので私は沈黙を守る。

 でもチャリス先生にはわかってしまったようだった。眼鏡を押し上げて、真剣な顔で私を見据える。

「食事を面倒がってはいけないよ。生きていく上で大事なことなんだから。栄養と睡眠、そして適度な運動。これがそろって健康が保たれるんだ。君にはこの三つのうち二つが不足している」

「……はい」

「いきなり頑張らなくていいから、少しずつ身体を動かしていくようにしなさい。毎日散歩して、慣れたら距離を伸ばしていくんだ」

「はい……」

 先生は話しながら書いていた便箋を取り上げた。

「ひととおり、現在の問題点と改善案を書いておいたから、持って帰ってお家の人に見せなさい」

 私の方へ差し出してくる。ずいぶん、丁寧というか念の入ったことで。

 受け取ろうと手を出したら、寸前で横から別の手がそれを取り上げてしまった。

「ボクが預かっとく」

 トトー君は便箋にざっと目を通して折りたたんだ。

「なんで……」

「ティトに渡したら、そのまま握りつぶすだろ」

 ストレートな言葉に、私はふっと笑いをこぼした。

「おかしなことを考えるのね。今日の出来事をトトー君は全部知っているし、先生のお話も一緒に聞いていたのよ。どうせ、後で報告する気なんでしょ? なのにそのお手紙だけ握りつぶしたって意味がないわ。すぐにばれて叱られるだけじゃない」

「…………」

「私も内容を読みたいの。返してくれる?」

 トトー君に手を差し出す。トトー君はしばらく考え込み、そうかとつぶやいた。

「内容を書き換えるんだ……」

 ――ちいぃっ! 気づいたか!

 くっそう、イリスならこの手でだませるのに。ぼんやりしているように見えて、意外にトトー君は鋭い。

 しかしここでさっさとぼろを出してはいけない。私はあくまでも心外そうなふりをする。

「どうしてそんなふうに受け取るの? 私、そんなに信用ないの……?」

 さも傷つきましたという顔で悲しそうに言ってやれば、エリーシャさんがトトー君をにらんだ。チャリス先生も困った顔で私たちを見比べている。けれどトトー君は動じなかった。

「時と場合によるかな……ティトが笑う時は要注意だよ。あと、口数が増える時もね」

「…………」

「本当に不満がある時は、何も言わないだろ。黙って報復手段を考えてる……今みたいに食い下がってくるのは、不満そうに見せかける演技だよ」

 お、おのれ、ぼーっとした顔でどこまで見抜いてるんだ。

 よもやトトー君がここまで私のことを把握しているとは思わなかった。時々絶妙な気遣いをしてくれるし、何も見ていないようで案外よく見ているんだなとは思っていたが……これほどとは。

 おそるべし、地竜隊長。やはりその肩書は伊達ではない。

「あー……」

 チャリス先生が咳払いをした。

「うん、じゃあ、それはトトーが持っててくれるかな」

 トトー君はうなずいて、便箋を服の隠しにしまい込んだ。

「あんた達、一体どういう関係なのよ」

 呆れた顔と声でエリーシャさんが言った。本当に、どういう関係なんでしょうね。

「……友達?」

「なんで微妙に疑問形なのよ」

「ティトは男嫌いだから……」

 別に、トトー君のことは嫌いじゃないですけど。ていうか、彼の口から友達という言葉が出てきたのには驚いた。そんなふうに思ってくれていたのだろうか。

 それが意外でちょっとうろたえて、どう反応していいのかわからなくて――早い話うれしくて、私はそれ以上チャリス先生の手紙について食い下がることができなかった。まあ、中身を見られた以上書き換えても無駄だけど。いや、丸ごと全部書き換えるつもりじゃありませんでしたよ? ただ単に内容を確認して、あまりに不都合なところがあればちょっとだけ……という、つもりでね。

 後で、せめて内容だけ見せてもらえないかな。読んだハルト様がどう言ってくるか、傾向と対策を考えるために。

「じゃあ、あとはゆっくり休んでなさい」

 言って、チャリス先生は帰り支度を始めた。

「あ、あの、診察代は……」

「ああ、いいよこのくらい」

 先生は笑って答えるが、そういうわけにはいかないだろう。私に持ち合わせはないから、とりあえずトトー君に立て替えをお願いして、後でハルト様に頭を下げるか。

 そう思っていたら、何も言わないうちからトトー君がお金を取り出した。

「これで足りる?」

「そんなにたくさんいらないよ。ちょっとようすを調べただけじゃないか」

「あら先生、そんなこと言ってると飢え死にしますよ。ただでさえ、ここらの連中はまともに支払えないことが多いんだから。もらえる時にはちゃんともらっといてくださいな。先生が食い詰めちゃったら、あたしたちが困るんですからね」

 横からエリーシャさんが口添えしたので、先生は恐縮しながらお金を受け取った。いい人だなあ。きっとこの町のみんなに慕われているのだろうな。

帰っていく先生をエリーシャさんが見送りに出る。私は残ったトトー君に頭を下げた。

「ありがとう。後でハルト様にお願いして、返してもらうね」

「必要ないよ……これはティトのお金だから」

「どういうこと?」

 私のお金なんて、この世界にはない。働いて収入を得ない以上、私はずっと無一文だ。

 トトー君はお金の入った小さな袋を私の膝に置いた。

「今日のお小遣いにって、ハルト様が用意なさったお金だよ……ティトに渡そうとしたら受け取らないからって、ボクに預けられたんだ」

「…………」

 あの甘々パパは!

 さんざんお世話になって日々の生活の何から何まで面倒見てもらって、その上お小遣いまでもらえないって言ったのに! そりゃあ日本の両親からはもらってたけど。でもいくらこっちでのお父さんだからって、ハルト様にお小遣いまでねだるわけにはいかないだろう。気持ちだけで十分うれしいからって、ちゃんと説明したのに。

 それで朝からトトー君を呼び付けたわけか。なんていうか……私たち二人に振り回されて、いちばんの被害者はトトー君だな。申しわけない。

「ごめんね……」

 脱力しながら謝ると、トトー君は首をかしげた。

「なんで謝るの……? せっかくくださったんだから、好きに使えばいいじゃない」

「そういうわけにはいかないわ。まあ、おかげで診察代が出せたけど」

 残りは持って帰ろう。ちゃんとお礼を言ってハルト様に返そう。

「使った方がハルト様は喜ばれると思うけどな」

 トトー君は踵を返す。部屋を出て行こうとするので、私は彼の服の裾をつかんで引き留めた。

「さっきのお手紙、見せて」

「…………」

「なんて書いてあるのか、気になるじゃない。私のことなんだから。見るくらい、いいでしょ」

 トトー君はしばらく黙って私を見おろし、それから頭にぽんと手を置いた。

「ハルト様がご覧になった後で、見せてもらうといい……先に見ると、また何かたくらみそうだからね」

 ……よくわかってるじゃないか。

 完全に私の負けだった。くそう、トトー君がこんなに手ごわかったとは。

 その後、とても優しそうなトトー君のお母さんと会って、お昼ご飯をごちそうになり(食べやすい野菜と穀物のスープ煮込みだった。わざわざありがとうございます)、一休みしているうちに家の前が騒がしくなったと思ったらいつの間にかトトー君がカル君を連れてきていて、狭い通りにでんと座る地竜に近所の人が物珍しそうに集まっていた。トトー君が竜騎士になったことは知っていても、じっさいに竜を連れているところを見た人はほとんどいなかったらしい。本当だったんだな、なんて感想も出ていた。このようすだと、ただの騎士じゃなく隊長なんだってことも知られていないんじゃなかろうか。

 お母さんとお姉さんにご挨拶してお(いとま)し、そこからはもうまっすぐに宮殿へ向かった。本屋さんに行くかと聞かれたけれども、私は断った。今日はもう早く帰りたい。

 カル君の背に揺られる間、私はずっとだまっていた。何か話したい気持ちもあるけれど、何を言えばいいのかわからない。結局ろくに街の見物もできなかったし、人が多くて疲れたという感想しかない。周りに迷惑をかけるばかりで、何しに出てきたんだろうと落ち込んでいた。

 トトー君と仲良くなれたらいいなと思っていたけれど……これで仲良くなれたのだろうか。お互いの理解が少しは深まったような気がするが、それと好意とは別である。逆に嫌われてしまったんじゃないかと気がかりでしかたない。

 後でイリスに相談しようかな。私よりトトー君との付き合いが長い彼なら、アドバイスをくれるかも。男同士でわかることもあるだろうし。

「……ティト」

 考えに沈んでいた私は、呼ばれてすぐに反応できなかった。トトー君が私を呼んだのだと気づいて顔を上げる。もう街を抜けて、山道にさしかかっていた。

「あ、ごめん、ぼんやりしてた……なあに?」

 遠くに地竜隊の隊舎の赤い屋根が見えた。またイリスが迎えに来てくれることになっていたけれど、予定していた時間よりずっと早い。彼はまだ仕事中のはずだ。どうしようかな。

「言い忘れてた……リックたちが、ごめんって」

「……?」

 すっかり忘れ去っていた名前が出てきて、思い出すのに時間がかかってしまった。

「三バ……いえ、お友達のみんなが? どうして?」

「ティトに意地悪して、わざと乱暴に荷車を引いたって。そのせいでティトの具合が悪くなったんだって気にしてた」

「……ああ」

 たしかに、そんなようすではあったな。まあ酔ったのはそれが原因かもしれない。でもそもそも、揚げパンを食べなければあそこまでひどい状態にはならなかった。貧血は揺れとは関係ないし。

 なのに気にしていたのか。思ったより可愛げのある連中だな。クラスの男子なら、私が吐いたりしたらここぞとはやしたて、その後ゲロ子とか何とかろくでもないあだ名をつけただろう。それに比べると、ずっと善良なものだ。

「そう、ありがとう」

 特に文句もないのでお礼を言うと、トトー君もまた黙った。そのまま、またしばらく沈黙が続く。

 山に入ったからか、日が傾いたからか、肌をなでていく風は涼しく心地よかった。

「……気にしてないから」

 また唐突にトトー君が言った。なんのことかわからず、私は後ろを振り返る。

「これも言ってなかったなって……迷惑とか、気にしなくていいから」

 すぐ後ろにいるトトー君と目を合わせるのは難しい。うんと頑張って後ろを向いたらカル君の背からずり落ちそうになって、トトー君の腕に支えられた。

「具合が悪い時は誰にでもあるし……ティトがあまり外歩きに慣れてないのはわかってたし……むしろ、配慮が足りなかったかも」

 片手ひとつで私を支えながら、まるで重そうな顔もせずトトー君は言う。私はいそいで首を振った。

「そんなことない。トトー君はすごく親切だったわ。全部、私のせいで迷惑かけちゃって」

「ティトだって、望んでああなったわけじゃないだろ……だから、気にしなくていいよ」

 トトー君は私を前に向き直らせる。表情も口調も淡々としていながら、その手は優しい。

「次は、ちゃんと楽しめるように、事前に計画立ててから行こう」

 最後に告げられた言葉が、何よりもうれしくて、そして心からの安堵を覚えた。

 次と、たしかにそう言ってくれた。また私と一緒に出かけてもいいと、そう言ってくれたのだ。

 嫌われていない――いないよね? 大丈夫だと、思っていいんだよね?

 友達だって……そう思って、いいのだろうか。

 悲しさや悔しさとは違う熱いものがこみ上げてきて、私はだまってうなずく。手綱を握る手を、頼もしくもあたたかい思いで見つめていたら、

「……まあ、その前に、体質改善と体力増強が課題だけど」

 ――しっかり釘を刺されてしまって。

「……あの、今日のこと、ハルト様には……」

「もちろん、報告するよ……全部ね」

 きっぱりと宣言されてしまった。

「ティトも、ちゃんと話すんだよ……お土産話を期待してらっしゃったからね……あんまりお土産にはならないかもしれないけど」

 うう……。

 ことこの問題に関しては、トトー君はまったく頼りにならない。敵だと思った方がいい。

 私は過保護パパの反応を想像して、今からげんなり疲れた気分になるのだった。

 時間が早いからと、トトー君は隊舎を通り過ぎてそのまま二の宮へ向かう。カル君から降りた後も、一の宮までちゃんと送ってくれた。素晴らしいエスコートぶりだと感激していたら、別れ際に顔を合わせた女官長に私が具合を悪くしたことを伝え、ようすを見てほしいとまで頼んでいった。どうも、一人で帰らせたら途中で行き倒れるんじゃないかと、そんな心配をされていたらしい。なんだかなあとがっくりして……いや、これはこれでうれしい気遣いなんですけどね、うん。

 しかしやたらと体調を気づかわれたせいですっかり病人扱いされてしまい、もう何ともないと主張しても聞き入れられず、明るいうちから寝台に押し込まれ、医者が呼ばれと大げさなさわぎになってしまった。ただの貧血と車酔いなのに。

「だからしっかり食べろと常々言っていたであろうが。あれでまともに身体がもつはずがないと、思ったとおりだ」

 チャリス先生の手紙を読んだハルト様が、枕元から叱ってくる。

「今からこんなで、先がどうなるか不安には思わぬのか。どんどん弱って病気ばかりして、長生きもできぬぞ。もうわがままは許さぬからな。これからは肉もしっかり食べて、運動をして、丈夫な身体を作るのだ」

「いきなり食べても受け付けられません。チャリス先生は少しずつでいいって……」

「無論そこは考えるが、出されたものは全部食べなさい。残した日は間食なしだ」

 うう、ひどい。こっちの基準で出されたら食べきれるわけないじゃないか。

「量はちゃんとそなたに合わせてある。間食ができるのだから、食べられぬわけがなかろう。食べきれないのでなく、そなたは単に食事を面倒がっているだけだ」

 私の反論はいっさい聞き入れられず、翌日から強制的に肉料理を食べさせられるようになった。脂を抜いて、できるだけ細かく柔らかくと手間暇かけてくれているのがわかるから、文句は言えない。でも食べるのはつらかった。そもそも味や匂いが嫌いだから食べなくなったんだよ。たとえ胸焼けしなくたって、私にとって肉食は苦行なのだ。

 でも残したら、宣言どおり容赦なくおやつ抜きになった。さらに散歩の時間というものが決められ、雨が降らないかぎり強制的に外へ放り出された。散歩なんて、自分が行きたいと思った時にのんびりやるから楽しいんだろうに。横で女官に見張られてコースも決められたんじゃちっとも楽しめない。日射しにあてられたふりして倒れてみせれば、次から早朝に変更された。これも寝起きで気分が悪いと倒れてやる。半分は嘘じゃないよ。夏場は低い血圧がさらに下がるから、午前中の調子が悪いのだ。上げるためには動かなきゃいけないってわかっているんだけど、もちろん言わない。部屋でゆっくりしていても、そのうち落ちついてくるからね。

 互いに手を変え、私とハルト様の攻防は続く。ようすを覗きに来たトトー君は、呆れていた。

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こんな状態でどうやってハルトの元を離れて一人で生活するつもりだったんだろう? 日本とはお湯を沸かす手間ひとつとっても雲泥の差だろうし、自炊とか無理じゃないか?パンと買ってきたスープで冷たいまま食べて終…
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