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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第四部 たくらみの宴
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 目の前に立つ男たちは、みんなまだ若かった。見たところ十代後半くらいの、私とそう年が違わなさそうな少年たちだ。もっとも向こうは私をずっと年下だと思っているだろうけれど。

 背の高い少年を中心に、左右にもう一人ずつ。彼らもそれなりに背が高い。でも騎士たちを見慣れた私の目には、ただ縦に伸びただけでひょろひょろしているように見えた。当たり前だけど、騎士ってやっぱり鍛えているんだな。細身のイリスだって華奢な印象はまったくない。

「何泣いてんだ? 彼氏とケンカかい」

 中央に立つ少年が、からかう調子で声をかけてきた。口惜しいことに、泣いているところを見られていたらしい。

「ならさ、オレたちと遊びに行こうぜ。あんなチビほっとけよ」

 トトー君と一緒にいるところから見られていたのか。

「ふーん、割と可愛いじゃん」

 一人がこちらに近づいてきて私の顔を覗き込んだ。後ずさりしたくなるのをこらえる。びびっていると思われれば、相手はよけいに面白がって嵩にかかってくる。長年のいじめられっ子生活で得た教訓だ。

 私はさりげなく、彼らとの距離や周囲の障害物を確認した。この手の相手にあれこれ言ったところで意味がない。断っておとなしく立ち去ってくれるような相手でないことくらい、見てわかる。しつこくからまれる前に、隙を突いて逃げるのがいちばんだ。

 残りの二人がこちらへ向かって歩き出す。彼らがまだ油断してのんびりかまえているうちに、私は全力で地面を蹴った。

「――おいっ!」

 横をすり抜ける私に手が伸ばされる。それを振り切って私は走る。たいていはこれだけであきらめてくれるのに、残念ながら今回の相手はしつこかった。背後から追いかけてくる気配と足音がした。

「待てよっ」

 誰が待つか。私は振り返らずひたすら走る。

 突然の騒ぎに道行人々が振り返る。ああもう、邪魔だ。人が多すぎてうまく走れない。もたついていた私に、ナンパ男どもが追い付いてしまった。乱暴に腕をつかんで引っ張られる。

「何逃げてんだよこの――ぎゃっ!」

「……?」

 荒々しい声が途中から悲鳴に変わり、私から手が離れる。思わず振り返れば、トトー君が少年の腕をひねり上げているところだった。

 ああ……気が付いてくれたんだ。

 ほっとして、私はその場で向き直る。トトー君は暴れる相手を難なく取り押さえていた。

「いててて、この……っ、放せよ、トトー!」

 ……え?

 あれ? 今トトーって呼んだ? なに、この連中、トトー君の知り合いなの?

 他の二人を見てみれば、仲間を助けようとするでもなく、トトー君に気まずげな視線を向けている。

「放せってば! てめー、何する気だよ!」

「それはこっちの台詞」

 涼しい顔のまま、トトー君は少年に言い返した。

「ボクの連れに何する気だったの」

「……別に、何も」

「じゃあなんで追いかけてたんだ」

「そいつが逃げるからだよっ!」

「逃げるような何をした?」

「何もしてねえって! 声かけただけでいきなり逃げ出したんだよっ」

 トトー君は軽く息をつき、手を放した。解放された少年は勢いよく振り返り――そこでうめいて腕を押さえた。そんなに力を入れているように見えなかったのに、大分痛めつけられたらしい。

「じゃあ、逃げなかったらどうするつもりだったんだ?」

 トトー君の手が動いて私を呼ぶ。彼のそばへ歩いていくと、手を引かれて通りの端へ移動させられた。ナンパ少年たちもついてくる。最初、彼らは立ち去ろうとする雰囲気を見せたのだが、トトー君がひとにらみすると渋々ついてきた。

「トトー君、この人たち、知り合いなの?」

「まあね……」

 トトー君は小さく肩をすくめた。少年たちを順に指差しながら、

「リック、カロン、タビー」

 と、言った。

 ――ええと、今のは名前かな。リーダー格の茶髪がリックで、金髪巻き毛のやたらと可愛いのがカロン、黒髪とそばかすがタビー。リック、カロン、タビー……覚えたかな? 男の名前なんてちゃんと記憶に残るか自信がない。

 平等を心がけたのか、トトー君は私の名前も彼らに告げた。

「ティトシェだよ。こう見えてもカロン、君より年上だから」

「ぅええっ!?」

 おや。金髪のカロンは私より年下か。うん、背は高いけど顔つきがなんとなく幼いから、そんな気はしていた。

 三人は不躾に私をじろじろと眺めた。

「マジかよ……おい、何歳(いくつ)なんだ?」

 今のは私に対する質問かな? 礼儀のれの字もないような問いに答える気は一切ないぞ。教えてほしかったら相応の態度を学んでこい。

「んだぁ? この女、すげー可愛げがねえな。ムカツク」

 無視する私にリックがすごんでみせる。が、ここ最近サスペンスな経験が続いたおかげで、同年代の少年の威嚇なんて子犬がキャンキャン言っているようにしか思えなかった。それでも暴力にものを言わせてきたら困るけれど、なんといっても今はトトー君がそばにいる。こういう時のための護衛だ。大いに頼らせてもらおう。

 リックはケッと吐き捨てた。

「てめーも趣味が悪ぃよな、トトーよ。こんっなガキくさくて色気が全っ然なくて可愛げもねえ女、何が気に入って連れ歩いてんだ?」

「可愛いと思うけど……お前もそう思ったから声をかけたんじゃないのか」

「はっ! 冗談じゃねえ、誰がこんな絶壁胸のチビ! てめーの連れだからちょっとからかってやろうとしただけだ」

 ……ふ。絶壁ね。上等だ。今の台詞は覚えておいてやろう。

 トトー君がちらりと私を振り返った。何かな? その不安そうなまなざしは。別に知り合いが下品な無礼者だからといって、トトー君にまで八つ当たりする気はないぞ。

 私は微笑んでトトー君に訊ねた。

「トトー君のお友達なの?」

「……どうかな」

「なんでそこで首かしげんだよっ!」

「てめー薄情にもほどがあるぞ!」

「友達じゃなかったら何なんだよーっ」

「ただの幼馴染?」

 抗議する三人にトトー君は変わらないテンションで答える。

「ただのって!」

「家が近所なんだ」

 そう言ったのは私に向かってだ。なんというか、本当にマイペースだな。三人がいじけている。

 ご近所の幼馴染、か。

 ん? ということは。

「じゃあ、トトー君の家って、この近くなの?」

「いや……少し離れてる……お前らなんでここにいるんだ?」

 トトー君は今気が付いたというようすで三人を振り返った。

「いちゃ悪いかよ。オレらだって買い物くらいするぜ」

「ナーラおばさんの手伝いで来たんだよ。品物を運ぶのにかり出されたんだ」

 せっかく格好つけたのに、続くカロンの言葉でだいなしだ。リックはいまいましげにカロンをにらんだ。にらまれた方は、なぜ怒られるのかわからないという顔で首をすくめている。

 なんというか……まあ、ようするに、普通の男の子たちだな。悪たれで馬鹿で底の浅いガキんちょども。

 クラスの男子(バカ)共と変わらない。トトー君が妙に大人びているから忘れていたが、基本男子というのはこうだった。

「じゃあ仕事に戻れよ……ボクらはもう行くから」

「んだよ、久しぶりに会ったってのに。俺らよかその絶壁女と遊ぶ方が楽しいってのかよ」

 人がだまっているのをいいことに、勝手な呼び名をつけてくれるものだ。オーケイ、リック、他は忘れてもお前のことだけは忘れない。その顔、しっかり記憶に焼き付けたぞ。

「そりゃ女の子の方がいいに決まってる……それにそっちは仕事中なんだろ。油を売ってるとおばさんに怒られるんじゃないのか」

「荷運びだけだからもう終わってんだよ」

「じゃあ帰れば」

「お前なあぁっ!」

 不毛なやり取りを止めたのは、他の二人でもなければもちろん私でもなかった。いきなり大きな声で割って入ってきた人がいた。

「あんたたち、何こんなとこで油売って……って、おやまあ! トトーじゃないかい!」

 振り向けば、実に貫禄のあるおばさんが大きな身体を揺すりながらこちらへ歩いてくるところだった。おっかなそうな顔が、トトー君を見たとたん笑顔に変わる。

「久しぶりじゃないかい。このところ全然帰ってこないからどうしたのかと思ったよ」

 アルタに負けない大声だ。こういう迫力おばさんは、ちょっと苦手である。私は極力空気になるよう気配を押し殺した。

「久しぶり……おばさん。相変わらずだね」

「あんたもね! なんだい、騎士団の仕事が忙しかったのかい」

「うん。ハルト様の外国訪問や、三国の定例会談とか、最近いろいろあったから……」

「はあ、すっかり一人前の騎士様だねえ。でもさ、こんな時間に出歩いてるってことは、今日は休みなんだろ? なら家に顔出してやりなよ。おっかさんが寂しがってるよ」

「いや、今日は……」

「そうだぜトトー。ここまで来て素通りはあんまりだろ」

「一緒に帰ろうよ」

「そんな女ほっとけよ」

 すかさず三人組が口を挟む。リックがよけいな一言を言ったものだから、おばさんに私の存在が気づかれてしまった。太い眉が私を見てぐいと上がる。

「うん? そのお嬢さんはあんたの連れなのかい」

「そう……ティトシェっていうんだ……ティト、この人は近所のナーラおばさん……怖そうなのは見た目だけだから、大丈夫」

「一言よけいだよ!」

 全然大丈夫そうには思えなかったが、紹介された以上は知らん顔もしていられない。私はナーラおばさんに会釈した。おばさんは珍しいものを見る顔でじろじろと私を眺めた。

「あんたが女の子とねえ……そっちにはてんで興味がなさそうだったのに、こりゃたまげた。だったらなおさらライアに会わせてやんないとね。その子も連れておいでよ」

「だめだよ……ティトを下町になんか連れて行けない」

「よっぽどいいとこのお嬢様なのかい? けど、あんたが一緒なんだからかまやしないだろ。あんたの連れに手を出すような馬鹿はいないよ」

「そこにいるよ」

 指差された三人がとたんにあわてる。ナーラおばさんは彼らをひとにらみした。

「ああ、この馬鹿どもはあたしがきっちり締め上げとくよ。まったく、ちょっと目を離すとすぐろくでもないことするんだから」

「お、俺たちは別に……」

「今から帰れば、ちょうど昼時だよ。手土産でも持って帰って、久しぶりに家族と飯食いな。さあさ! いつまでもこんなとこで突っ立ってないで、あんたたち! 荷車取ってきな」

 おばさんという生き物に逆らうのは容易ではない。三人組は追いたてられて荷車を取りに走り、私とトトー君はナーラおばさんに引きずられる形で、彼らと共に街を歩くことになったのだった。

 これから向かうのは五番区という、下町に当たる場所らしい。そこにトトー君の実家がある。さっき、私とのやりとりで言っていた、トトー君がよく行く場所というのが実家のことだったのだろう。それはまあ、面白いというのとは少し違うし、私を連れて行きたがらないのも当然だ。今だって、私が一緒に行っていいのだろうかと気になる。もう諦めているのか、トトー君はいつも通りに淡々としていたが。

 市場には本当にいろんな種類の屋台があって、その場で食べるためのパンや焼き肉なども売られていた。こちらの世界でのファーストフードなのだろう。揚げパンを売っている屋台の前を通った時、三人組がそれはわかりやすくもあからさまに、トトー君に期待のまなざしを送った。なんて露骨なのだろうと私は呆れたが、トトー君は黙って人数分の揚げパンを買ってやった。

「はい、おばさん」

 トトー君はナーラおばさんにも揚げパンを渡す。

「気をつかわなくていいのに」

 さっそくがっついている三人組をやはり呆れた顔で見ながら、おばさんも揚げパンを受け取った。

「まったく、顔を見るたびトトーにたかるんだから、こいつらは」

「いいじゃんよ、稼いでるんだからさ」

「そーだよー、なんてったって竜騎士様だからな。高給取りなんだろ」

 三人組はあつかましいことを平気で言う。おごってもらって申しわけないとか、ありがとうとか、そういう態度にはとても見えない。よくこんなのに付き合ってやるものだとトトー君に感心半分呆れも半分だが、友達同士の気安さというものなのだろうか。

「トトー、あんまりこいつらを甘やかすんじゃないよ。どこまでも付け上がるからね」

「大丈夫……甘やかす気はないから。借金の頼みは断るし」

 トトー君の返事におばさんは大笑いした。

「そりゃあそうだ! 貸したら最後、絶対返っちゃこないからね!」

 三人組はばつの悪そうな顔で視線をそらす。どうやらただの冗談ではなく、過去にそういったやりとりが実際にあったらしい。

 私もおばさんの意見に賛成だった。よく言うじゃないか、お金だけじゃなく友人も失うことになると。親しい関係ならなおのこと、お金の貸し借りは避けるべきだろう。

「ティト」

 トトー君に呼ばれて振り向けば、なぜかこちらにも揚げパンが差し出されていた。

 ……物欲しそうな顔をしていただろうか。そんなつもりはまったくなかったのだけど。正直、欲しいとは全然思わない。でもせっかく私の分も買ってくれたのに、いらないと突っぱねるのは失礼だよなあ。

 私はお礼を言って受け取った。手の中の、まだ熱い包みを見下ろす。こんがりきつね色の揚げたてパンだ。

「あんたはしっかりお食べよ」

 ナーラおばさんが私の背中をどやしつける。衝撃で危うくパンを落っことすところだった。

「そんな細い薄い身体してちゃ、元気な赤ん坊を産めないよ」

 いや、そんな予定はないですから。というか、薄いって具体的にどの部分だ。すごく気になるんだけど。

 つい胸元を見下ろしてしまう私の頭を、トトー君が無言でなでた。なぐさめてくれなくていいですから!

 それを見ていた三バカどもが、私を絶壁女改め薄い女と呼ぶようになったので、私はか弱いお嬢様ぶって足が痛いと訴えた。ナーラおばさんは快く荷車に乗せてくれた。荷車を引くのはもちろん三バカ達である。いやあ、快適楽チンだ。

「くっそ、こいつ絶対性格悪いだろ。おいトトー、お前この女にだまされてるだろ」

「怒らせるようなことばかり言うからだよ……自業自得」

 私を乗せて荷車は石畳の道をガタガタと進む。本当は全然快適じゃない。お尻が痛い。揺らされて頭がくらくらする。荷車に女の子を乗せた一行に、周りの視線もちらちら向けられる。うーん、かなりこちらにもダメージのある嫌がらせだったな。

 私は揺れに耐えながらもらったパンに一口かじりついた。揚げたてだから、まだカラッとしている。外側はカリカリで中はふんわり。パンはほんのり甘かった。思ったよりおいしいかな。

 が、中に詰められた具にたどり着いた時点で、私は内心涙した。これはキツイ。苦行だ。

 それでもどうにか食べきって、そのまま荷台に揺られることしばし。

 ……私は、自分の努力を後悔していた。

 私たちは市場を出て、違う区画へ入り込んでいた。細い道の周囲に雑多な建物がごちゃごちゃとひしめきあっている。道行く人々の服装は質素というか、はっきり言って貧しげで、どうやらここが下町らしいと聞くまでもなく理解できた。

 初めて目にする風景を、しかし私はじっくりと眺めることもできなかった。途中で荷車から降ろしてもらい自分の足で歩き始めたが、状況は一向によくならない。かなりやばくなってきた。

「……ティト、大丈夫?」

 トトー君が私の顔を覗き込んできた。いつの間にか、ナーラおばさんたちからずいぶん遅れている。私は気力を振り絞って足を速めた。

「うん、ごめん。ちょっと乗り物酔い。けっこう揺れたから」

 本当はちょっとどころでなく気分が悪い。うっかり気を緩めると、今すぐにでも吐いてしまいそうだ。しかしこんな道の真ん中でゲロってしまうなんて、深夜の酔っ払いみたいな真似はしたくない。乙女の意地と羞恥心を総動員して、私は必死に吐き気と格闘していた。

「トトー君のお家って、どこ?」

「もうすぐだけど……」

 着いたら真っ先にトイレを借りよう。トイレでなら遠慮なく吐ける。私はそれだけを支えに、遠くなりそうな意識を保つ。

「待って」

 トトー君が私の肩に手をかけて立ち止まらせた。いや、もうこのまま歩かせてほしい。今気がそれると本当にやばい。

「大丈夫よ。着いたら少し休ませて」

「顔色、真っ白だよ。気分が悪いならいっそ吐いてしまった方がいい」

 冗談じゃない。それが嫌で頑張っているのに。

 ここで吐いて、その後処理はどうするのだ。まさかそのまま放置する気じゃないだろうな。でも洗い流すにしたって、せめて汚物を始末できるような場所でないと。何もないただの石畳を汚したんじゃ、後が大変すぎる。

 私は小さく首を振って足を踏み出した。もう返事をするのもしんどい。ただとにかく、目的地を目指して急ぐのが精一杯だ。

 トトー君は引き留めなかった。そのかわり、問答無用で私の背中とひざ裏に手を回して抱き上げた。

「……やだ。揺れると気持ち悪い」

「すぐ着くから。我慢できなければそのまま吐いていい」

 嫌だ嫌だいやだ! ぜったい、いやだ!

 私は身体を丸めてぎゅっと目をつぶった。せり上がってくるものを無理やり押し戻していると、どうしても呼吸は荒れてくる。額に冷たい汗が流れた。いちばん辛いのは吐き気だが、頭も重い。ぐらぐらする。気持ち悪い。

 周りでナーラおばさんたちがあれこれ言っていたが、まともに聞いている余裕はなかった。私は早くトトー君の家に着くことだけを祈っていた。

 その祈りが神に通じたのか――

「姉さん」

「トーヴィル? なにあんた、急に帰ってきて……って、その子どうしたの」

 間近で交わされた会話に、私は目を開けた。着いたのか。ほっとして見れば、若い女性が驚いた顔でこちらを見ている。そのそばに男もいたが、そっちまで見ている余裕はなく。

「話はあと。入るよ」

「チャリス先生呼んで来る?」

「そうだね、頼む」

「いいわ」

「おい待てよエリーシャ。こっちが先客だろ」

「あんたなんか客じゃないわよ! 見ればわかるでしょ、非常事態よ。そこどいて!」

「ちっ、トトーが連れてきたんだから、トトーに任せときゃいいだろうが」

「あんたに指図される筋合いはないわよ!」

 ……いや、もうどうでもいいから、早くトイレに連れて行ってほしい。そこでもめて足止めしないでお願い。

 と、声に出して訴えられればよかったのだけれど。

 もう私にそんな力も余裕もなく、そして時間も残されていなかった。

 着いたという安心感が、ここまで必死に持ちこたえてきたものを決壊させてしまったのだろうか。

 一気にこみ上げてきたものはあまりに強く大きくとどめようのない勢いで、私は抗うことができなかった。

「でええぇっ!!」

 どこかで上がった悲鳴は、とりあえずトトー君のものではなく。

 男の声だったから、多分さっき言い争っていた相手だろう。

 私は……ただ、苦しく呼吸を繰り返すしかできなくて。

 お腹と胸の辛さは、ほんの少しだけマシになった。けれど意識は急速に薄れていく。

 私はそのまま、力尽きて気を失った。

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