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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第四部 たくらみの宴
39/130



 地竜隊の訓練所および隊舎は、宮殿を出てふもと近くまで下りた所にある。

 歩くより飛ぶことが中心の飛竜と違い、地竜は常に四足行動だし身体も大きい。そのため傾斜のきつい場所は不得手だ。野生の地竜も、棲息しているのはなだらかな場所である。

 平屋建ての隊舎は、赤い屋根が特徴だった。山の緑に映えてどこかメルヘンな雰囲気を漂わせている。周囲に塀や柵などはなく、道からフリーパスで入れる構造だ。騎士が集まる場所に悪さをしに来る者などいないだろうから、問題はないのだろう。誰が手入れしているのか小さな花壇まであって、季節の花が咲いていた。

「はい、到着」

 訓練所の広い庭に着陸して、イリスがイシュちゃんの背から私を抱き下ろした。そこかしこでのんびりくつろいでいた地竜たちが、なんだアイツらといった顔で注目してくる。竜って縄張り意識とかどうなのかな。地竜の縄張りに飛竜が入り込んでもケンカになったりしないのだろうか。

 イシュちゃんは知らん顔でツンとしている。自分より身体の大きな竜たちに囲まれていても、怯えるようすはない。いざとなったら飛び立てるからかな。

 私はねぎらいと感謝の心を込めて、イシュちゃんの首筋をなでた。

 二の宮からここまで、まともに歩いて下りてきたら三十分以上かかる。それを五分もかけずに飛んでしまうのだから、さすが飛竜だ。その代り高所の恐怖に耐える必要があったわけだが、何度か経験して私も少しは慣れてきた。怖いには怖いものの、一応景色を眺める余裕だってあったぞ。

「ご苦労様。朝からありがとうね」

 私の言葉に、イシュちゃんは甘えるように顔を寄せてくる。鼻先をなでてあげると気持ちよさそうに目を閉じる。竜の鱗は爬虫類のものと同じで、硬い革のような感触だ。表面はさらさらしていて、意外に手ざわりがいい。

「僕には何も言ってくれないわけ?」

 いちゃいちゃする私たちの後ろでイリスがいじけている。私は頭だけ肩越しに振り返った。

「ちゃんとお風呂入ってるの? ちょっと汗臭かったわよ」

「そういう言葉!?」

 イリスはがっくりと肩を落とした。

「早朝から訓練してたんだよ。昼間にやると暑いから」

「訓練ってどんなことやるの」

「そりゃ、武術とか体力づくりとか……今度見に来る?」

「行かない。男が集まって暴れてるとこなんか近寄りたくもない」

「はあ……」

 ため息をつくイリスの背後に、歩いてくるトトー君の姿が見えた。隊舎の外で待っててくれた彼は、私たちが着くとこちらへやってきた。

「おはよう」

「おはよう。今日はよろしくお願いします」

「うん」

 いつもと変わらないテンションの彼に、私はきちんと頭を下げて挨拶する。イリスが「差別だ」とかぼやいているが当然無視だ。

「もう帰っていいわよ、奴隷」

「奴隷って呼ぶなよ!」

「不満が? なら犯罪者と呼びましょうか」

「すみませんごめんなさい反省してます」

 自分のしたことを思い出させてやれば、イリスはへこへこ謝る。くしゃりと銀の髪をかきまわして、ため息をつきつつトトー君の肩を叩いた。

「じゃあ、後は任せるよ。頼む」

「ああ……ご苦労様、奴隷」

「お前まで言うなっつの!」

 いじけながらイシュちゃんの背に戻り、飛び立つイリスを私たちは見送る。同時に視線を下ろし、なんとなく互いの顔を見る。何も言わずに無表情で見つめ合ったが、多分気持ちはシンクロしていた。イリスをいじるの面白い。

「行く?」

「うん」

 短い問いにうなずいて私はトトー君の後に続く。隊舎の窓から騎士たちが顔を出してこちらに注目していた。

「あれが噂の龍の姫さんかー」

「ちっさ! 胸もちっさ! あれで隊長と同い年ってマジかよ。いや隊長もちっさいけど」

「なんか雰囲気似てね? 女版隊長ってカンジ」

「つがいの小動物みたいだよな。野菜とか黙々と食ってそう」

「ちっさい同士で可愛いじゃん。並べて飾っときたいな」

 口々に好き勝手なことを言っている。一部非常に不愉快な表現も聞こえたが、もちろん無視だ。男の下品な野次など相手をするに値しない。

「たーいちょー、可愛い子とおでかけうらやましいっすねー」

「せいぜい楽しんできなコンチクショー」

「でも朝帰りはダメよー」

 ぎゃははと笑い声が上がる。本当に下品だ。騎士ってこんなもんか。

 呆れてちらりと見れば、また(バカ)どもが騒いだ。

「うおっ、すげー冷たい目で見られた!」

「可愛くねー」

「飛竜隊の連中が言ってたとおりだな。あれを喜ぶ気持ちが俺にはわからん」

「そうか? 俺はちょっといいかなと思うけど」

「お前もそういう趣味かよ!」

 私はトトー君に視線を戻した。

「明るいお仲間たちね」

「気にしなくていいよ……後でシメとくから」

 さらりと付け足された言葉に反応したのは騎士たちだった。

「嘘ですウソウソ! 姫さんすごく可愛いと思います!」

「冷やかな視線たまりません、いやマジに!」

「行ってらっしゃい気を付けて!」

「俺たち真面目にお仕事してますから!」

 急にお行儀よくなって私たちを送り出す。調子のいいことだ。こんな連中の騎士団ってどうなんだと思ったが、何しろトップがアルタ(アレ)だからな。しょうがないのかも。

 ――に、しても。

 私は前を歩く姿を見つめる。ふわふわした赤い髪の、私より少しだけ背の高い男の子。だいたいユユ姫と同じくらいだ。まだ成長の余地はあるだろうけれど、図体のでかい騎士たちの中に混じると、彼はあまりに小さく華奢に思えた。年齢だってたいていの騎士よりずっと下だ。とても隊長には見えない、むしろ下っ端だと言われた方が納得できる。

 騎士たちの態度も上官に対するものとは思えず、年少の後輩をからかっているようすだった。ちゃんと隊長として認められているのかなと心配になってしまうけれど、トトー君が脅し(?)を口にした途端みんなおとなしくなった。それってやっぱり認められている? それとも恐れられている? 可愛い顔だちでいつもおっとりぽやんとしていて、ちっとも怖くなんかないのにね。

 騎士の関係ってよくわからないな。

 外の道近くに待機していた地竜のところへ、トトー君は私を連れて行った。彼が近づくのをうれしそうに待っていたから、これがトトー君の竜なのだろう。銀灰色の鱗をした、ちょっと小柄な地竜だった。普通の地竜は飛竜より大きいが、この子は同じくらいのサイズである。

「カルっていうんだ」

 竜の身体をなでながらトトー君が言った。この子の名前だよね。多分男の子だな。

「よろしく、カル君」

 私が挨拶すると、カル君はずいと顔を寄せてきた。竜は犬のように表情豊かではないけれど、なんとなく興味を持たれていることがわかる。目が好奇心に輝いて私を見ている。

 小柄な身体にふさわしい小さめの角をなでながら、私はトトー君に訊ねた。

「もしかして、この子まだ子供?」

 トトー君はうなずいた。

「二歳なんだ」

「竜っていくつで大人なの」

「身体は四歳くらいまで成長するけど、三歳になれば性格は大分落ち着くね」

 ふむ。してみると、カル君は人間で言えばローティーンくらいかな。

「じゃあ、トトー君が竜騎士になったのは二年前なの?」

「いや……まあ、その前は見習いだから、正騎士としてならたしかにそうかな……」

 十四、五歳で正騎士か。それって早いのか、普通なのか、どっちだろう。

 トトー君は先にカル君に乗り、鞍の上から私に手を差し伸べた。その手を取ってよじ登ろうとしたら、ほとんど一瞬で引き上げられた。気が付いたらカル君の背中の上だ。そういえば以前助けてもらった時にも思ったけれど、トトー君って見かけによらず力が強い。

 私を前に座らせて、トトー君はカル君の手綱を握った。合図を受けてカル君が立ち上がる。私たちを乗せて、カル君は道を歩き始めた。

「後ろに行った方がよくない? 前が見づらいでしょ」

「大丈夫……見えるよ。後ろでもいいけど、前にいた方が状態がわかるから安心する」

「そう? ならいいけど」

 カル君はお散歩気分なのか、軽快な足取りで進んでいる。馬で言うならキャンターくらい。ちょっと揺れる。でもトトー君の両腕が私を抱えるように挟んでいるので、落ちる心配はない。

 同年代の男の子に守られている感覚は、なんだか不思議な気分でちょっとどきどきした。なにせ今まで私の周りにいた男子たちは、よくて無関心、悪ければ嫌がらせをしてくるいじめっ子ばかりだったから、好意的に接してもらった記憶なんてない。私に優しくしてくれるのは弟と、その親友だけだった。

 イリスやカームさんみたいにずっと年上の人なら、大人だからと納得できてあまり意識することもない。でも同い年の男の子に優しくされると、そのこと自体が妙に気になる。我ながらひどく自意識過剰だと思うけれど。

 トトー君は約束だから私に付き合ってくれているだけだ。私から案内をお願いしたのであって、彼から言い出したことではない。ひょっとしたら内心めんどくさいと思いつつも、ハルト様に遠慮して私の面倒を見てくれているのかも。あるいは騎士として女性には親切にするものだと考えているのか。

 なんにせよ、トトー君にとって私自身が特別なわけではないのだと、そこはちゃんと認識しておかないと。

 ……でも、じっさいのところ、トトー君は私をどう思っているのだろう。

 嫌われてはいない……と、思いたいけれど。お見舞いにも来てくれたし、時々誰よりも理解を示してくれるし。でもトトー君はたいてい無表情で口数も多くないから、何を考えているのかよくわからない。

 私を嫌いだったら、こんなふうに付き合ってくれたりしないよね? いくら賭けで約束したからって、頼んだ私が忘れていたのに、わざわざ自分から言いに来たりはしないよね。

 そうであってほしい、と思った。クラスの男子には興味もなくてどうでもよかったけれど、トトー君とはできれば仲良くなりたい。

 今日一緒に出かけることにして、よかったのだと思う。少しでもトトー君のことがわかるようになるといいな。友達になれたらいいな。

 下へおりるにつれて道幅は広くなり、人通りも増えた。乗り物や馬を使っている人も多いが、竜に乗っているのは私たちだけだ。やはり目立つせいかちらちら視線を向けられる。

 周囲から山の木々が途切れがちになり、だんだん人里の風景に変わっていった。山の手には立派なお屋敷が建ち並び、下るにつれて雑多な町並みになっていく。宮殿に近い方が高級住宅地というわけか。

 木造の建物が多かった。漆喰や煉瓦も使われているが、基本は木造だ。山岳地帯だから木材がいちばん確保しやすいのだろう。屋根は瓦葺き。高いところから見ると赤茶色の波が一面に広がっている。

 街の印象をひと言で現すなら、坂の街、だった。宮殿からかなり下ったというのに、まだまだ坂は続いている。傾斜はゆるやかになったものの、ボールを置いたらどこまでも転がっていくだろうなという程度には坂だった。

 そんな地形ゆえか、道幅はあまり広くない。馬車がぶつからずにすれ違える幅があればいい方で、歩行者しか入れないような道も多かった。日本だって狭いところは狭かったけれど、街なかの大通りになれば最低でも片側二車線はあった。その感覚から見るとせせこましく感じる。

 道を狭くしているのは通りの両脇に並んだ屋台のせいでもあった。あれがなければもっと広々としているはずだ。でも簡素な店に天幕を張って、食べ物や衣類などをたくさん陳列している光景は、にぎやかで活気に満ちていた。テレビで見た外国の市場風景を思い出す。本当に観光気分になってきてわくわくする。

 いくつかの道が交差して、中央が広くなっている場所があった。こういう広場には噴水がつきものな気がするが、それはない。代わりになぜか足浴用の温泉があった。壁のない柱と屋根だけの東屋が、四角い浅い湯船を囲んでいる。お湯を流す水路は道の下に埋設されているらしい。朝だから利用者はいないかというとさにあらず、お年寄りが集まっておしゃべりに興じている。トトー君はその東屋のそばでカル君を止めた。

「ちょっと待ってて」

 私を下ろした後、小走りに近くの屋台へ行って何かを買ってくる。赤いリンゴみたいな果物を、いくつも抱えて帰って来た。

 それをカル君の足元に置いて、トトー君は銀灰色の首筋を軽く叩く。

「ここで待ってろ」

 カル君は与えられたおやつの匂いをかいでいる。おとなしく伏せの体勢になって、ひとつを遊び半分にかじり始めた。

「行こう」

 トトー君が私をうながす。いいのかな。

「カル君このままで?」

「ああ……待てと言われたらちゃんと待ってるよ。もしどっか行ったとしても、そのうちねぐらへ……隊舎へ帰るから、心配しなくていい」

 おおらかだなあ。でも竜はとても賢くて、主人の命令には忠実なんだっけ。それに悪い人間が近寄ってきても、まず盗むことは不可能だろう。こんなでっかいこわもて君、うかつに手も出せまい。

 街の人々は竜をよく知っているのだろう。足浴中のお年寄りたちも、興味深そうにこちらを注目しながら、近寄ってこようとはしない。

「子供が来ても大丈夫?」

 無邪気で怖いもの知らずな子供なら、珍しがって手を出してくるかもしれないと思い訊ねれば、トトー君はだいじょうぶとうなずいた。

「むやみに人を襲ったり威嚇したりしないよう躾けてるから……それに竜は子供なんか相手にしないよ。子育て中以外はね」

 子育て中に近付くと問答無用で殺されるらしい。でもカル君は男の子だしまだ成竜じゃないし、その辺は心配ない。

 そんなわけで私はカル君に行ってくるねと告げて、トトー君と坂の街を歩き出した。

「何か、ほしいものとかある?」

 私をどこへ案内しようかと考えているのだろう。トトー君が聞いてくる。私は首を振った。

「お金もないし、買い物をしようとは思ってないわ。街の風景をいろいろ見て回りたいの。どんなふうに人々が暮らしているのか、それを知りたい」

「ん……じゃあ、適当に案内するけど、いい?」

「うん。お願いします」

 トトー君はまず私を、いちばん店が多くてにぎわっている市場へ連れて行ってくれた。朝なのに買い物客でごったがえしている。これが朝市というものか。人混みが苦手な私は見ただけでちょっと尻込みしてしまった。それにこんな混雑じゃあ、うっかりよそ見していたらトトー君とはぐれてしまいそうだ。そう思うと落ち着いて店を眺める気にもなれない。

「……手」

 はぐれないよう懸命にトトー君の背中を見ていたら、不意に立ち止まった彼が左手を差し出した。手?と私は首をかしげ、遅れて理解する。

「…………」

 手をつなごうということだよね。うん、それ以外ないよね。

 この状況だから当たり前だ。特別な意味なんかないのはわかりきっている。親切心に感謝するだけでいいのに、この動揺は何なのだろう。

 できるだけ不自然にならないように、平気な顔をとりつくろって手を伸ばす。指なしの革手袋に包まれた手は、意外なほど大きかった。私の手とたいして違わないだろうと思っていたのに、指の長さも掌の大きさもまるで違う。って、カル君に乗り降りする時にも手を借りたじゃないか何を今さら。でもこんなにずっと握っていたわけじゃないしって誰に言い訳しているんだ私は!

 ちょっと待て、落ち着け私。手をつないだだけで動揺するって、どんな少女漫画だ。そんな初々しい恋愛物どころか、18禁だって平気で読んでいたんですけどね!

 いやうん、わかっている。男に免疫がなさすぎるせいだ。これまでの十七年間、男にもてたことなんて一度もない。近寄ってくるのは痴漢だの変質者だのその予備軍なナンパだの、ろくでもないのばかりで、まともな男には相手にされなかった。だからこんな、ささいな親切だけで舞い上がってしまうのだ。かなしいな、自分。

 よくよく考えてみれば、イリスとも結構スキンシップは多かった気がするし、カームさんなんてセクハラまがいの接触をしてきた。それらに比べれば手をつなぐくらい本当にささやかなものだ。ハルト様とも手をつないだことがある。そう、今さら動揺するくらいなら、これまでだっていっぱい動揺ポイントはあったはず。全然気にしないでスルーしてきたのに、なんで今これがこんなに気になるのだろう。

 ……やっぱり、同年代の男の子だからかな。

 男は嫌いだと言いながら、それでも異性、恋愛対象という目で見ていたのか。

 歳の離れた大人たちが相手なら、そんな対象に見られるはずがないからと冷静でいられる。でも同年代の男の子が相手だと、同じ気持ちでいられない。それはつまり、相手が自分を意識するはずだと思っていることになる。

 なんだかちょっと自分が嫌になった。少し優しくされただけでどこまでうぬぼれるつもりなのだろう。自分がそんな人間だったと知ってショックだ。どこが男嫌い? 意識しまくりじゃないか。

 変な気持ちを振り払いたくて、私は周囲に目を向けた。今日の目的は市街観光であって、同行者ばかり気にしていたのでは意味がない。

 と、思った途端に向かいから来た人とまともにぶつかってしまった。男の人の肘が私の顎を直撃して、けっこう痛い。相手もむっとした顔をしている。私はすみませんと頭を下げた。この人混みではお互い様だし私の方が被害は大きいが、よそ見をしていたこちらにも非はある。

 顎をさすりながら歩いていると、今度は石畳に蹴つまずいた。危うく転びそうになったところを、トトー君が引っ張って防いでくれる。うう、まるで足元のおぼつかない幼児みたいだ。言い訳させてもらえるなら、こんな道路には慣れていないんだよ! 日本の道路はどこもアスファルトできれいに舗装されていたからね! 石畳になっているところだって、もっと平らで歩きやすかった。こんなにでこぼこしていなかった。なんでもないところで転ぶほど、私はどんくさくはない。道路事情が悪いんだよ!

 人混みと足元に気をつかいながら歩いて、なんだかろくに景色を楽しむ余裕がない。そして元々引きこもりな私は、早々に疲れてきた。でもせっかく連れてきてもらったのに、いくらもしないうちに休みたいとは言いづらい。

 テレビで見る分には市場の風景とか楽しそうだったのになあ。じっさいにそこを歩くとなると、楽しむためのスキル不足を痛感する。もっと体力脚力反射神経を鍛えないと、人の波に溺れてただ疲れ果てるだけだった。

 ……これ、明日絶対筋肉痛だな。いやその前に足にマメとかできるかも。

 ため息を押し隠して歩いていると、トトー君が立ち止まった。なんだろうと思うと、彼はすぐそばの屋台に向かう。そこではナンみたいな生地にネタを挟んだ軽食と、果物ジュースを売っていた。

 ぼんやり見ている私の前で、トトー君はジュースを二つ買う。そして私を人混みから逃れた、屋台と屋台の間に押し込んだ。

「おじさん、この箱借りるよ」

 さっきの屋台の人に声をかけて、トトー君は置いてあった木箱に私を座らせた。

「はい」

 ジュースの入った木製カップを渡してくれる。

「……ありがとう」

「脚、痛い?」

 聞かれて私はあわてて首を振った。

「大丈夫。もう完治してるから」

 トトー君は少し首をかしげる。

「疲れた?」

「……ちょっとだけ」

 見抜かれてるな。私、そんなに不機嫌そうな顔をしていただろうか。別に嫌だったわけじゃない、ただしんどかっただけで。そこを誤解されたくなくて、言い訳をする。

「ごめん、普段出歩かないから……街の風景は楽しいんだけど、人混みをうまく歩けなくて」

「ああ……そうだね、ティトっていつも物静かにしてるもんね……」

「嫌なんじゃないの。珍しい風景ばかりで楽しいわ。単に、私がヘタレなだけで……ごめんなさい」

「なんで謝るの?」

「だって、私がお願いして連れて来てもらったのに」

 トトー君はジュースを飲みながら、何か考えるようすだった。私もありがたくジュースをいただく。――うん、冷たくはなかった。そうだよね、冷蔵庫もクーラーボックスもないもんね。考えればわかることなのに、当たり前に冷えたものが出てくると思っていた現代日本人な自分を実感する。でものどが渇いてきたところだったから、少し酸っぱい果汁はおいしかった。

「……ティトって、何が好き?」

 唐突にトトー君が訊ねてきた。私は意味をはかりかねて、黙って彼を見上げる。

「女の子なら……装飾品とか、布地とか、裁縫道具、かな……見たい店をしぼって行動した方がいいかも」

 ――ああ、なるほど。そういうことか。

 そうだな、目的もなくぶらぶら歩くよりも、計画的に移動した方が無駄に疲れないだろう。

 ふむ。装飾品――アクセサリーか。可愛い系なら好きだ。でも見ているとほしくなりそうだな。布地や裁縫道具は別にいい。手芸には興味も才能もない。デザインするのは好きだけど、作るのは無理。

「あとは……お菓子とか?」

 おうっ! 今ものすごく魅惑的な単語を聞いてしまった!

 でもここはあえて首を振る。お菓子屋さんに行ったところで買うお金がない。美味しそうなスイーツを前に指をくわえているだけなんて、それ何の罰ゲーム。

 私は考えた。ここは違う方向で攻めるべきだろう。きっと、トトー君のことを知るチャンスだ。

「品物より、街全体の雰囲気を楽しみたいの。どこも私には珍しくて楽しいけど……トトー君はいつもどんなところに行く? 好きな場所があったら案内して」

「…………」

 今度はトトー君が考え込んでしまった。そんなに悩む質問だっただろうか。好きな場所とかない? もしや私に負けず引きこもりだったとか?

「……楽しいところじゃないよ」

 しばらくしてトトー君は言った。

「いつも行くところっていっても、別に好きだとか面白いとかじゃなくて……それに下町だから、ティトを連れて行くわけにも……」

「下町って、どんなとこ?」

「……貧しい住人が多い。治安もあまりよくない」

 ふむ。おおむねイメージ通りと思って間違いないか。

「トトー君が一緒なんだから平気でしょ」

「柄も悪いよ。ティトの嫌いな、下品で粗野な男がたくさんいる……ティトみたいなお嬢様が入りこんだら、間違いなく注目を浴びる」

 私はお嬢様なんかじゃないけれど。でもそう思われてしまうほどに、そこは柄が悪いということだろうか。

 とりあえず、トトー君が嫌がっていることはわかった。あれこれ理由を並べて諦めさせようとするほど、私をそこへは連れて行きたくないのだ。

 言葉どおり危険な場所だからか、それとも自分のお気に入りの場所に私を連れて行きたくないのか……深くは考えないようにする。考えていると、暗い気持ちになってくる。

「……じゃあ、本屋さんとかある? こっちの世界にも小説ってあるのかな」

「ああ……あるよ。少し歩くけど、本屋が集まってる通りがある」

「じゃあ、そこに」

 うなずくトトー君は、ほっとしているように見えた。反対に私は気持ちが沈む。トトー君ともっと親しくなりたいという気持ちが、拒絶されたように思えて仕方なかった。

 カップを屋台に返してふたたび歩き出す。トトー君はまた手をつないでくれたけれど、もうそれにどきどきすることはできなかった。冷静に考えれば、ときめく要素なんてひとつもない。この手は単に義務感から差し伸べられているだけだ。わかっていたはずなのに、何を浮かれていたのだろう。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。

 義務感でも何でも、トトー君はちゃんと私をエスコートしてくれている。はぐれないように、怪我をしないように気遣ってくれている。十分親切だ。だから暗い顔なんてしていたら失礼だ。自分にそう言い聞かせ、私は笑顔を作る。楽しんでいるふりをして景色を眺めながら歩いていたら、本当に目を引くものが視界に飛び込んできた。

 それは、幼い子供の三人連れだった。

 荷物を持った十歳くらいの女の子と、それより少し年下の男の子と女の子。姉弟なのだろうか。年上の女の子は、連れのふたりにお姉さんぶって指図していた。

「よそ見しちゃダメよ。ミーネ、ちゃんとルウの手をつないであげなさい」

「お姉ちゃん、猫がいる」

「ダメ、追いかけてたら迷子になるよ」

 思わず足を止めてしまった。気づいたトトー君も立ち止まる。すぐになんでもないと言って歩き出すべきなのに、私は三人から目を離せなかった。

「もう、ミーネの方がお姉ちゃんなのに。ルウ、ミーネをつかまえててね」

「うん」

 少し年上の姉と、年子らしい妹と弟。あまりにはまりすぎな構図に、身体が震えそうになる。

「……ティト?」

 トトー君の呼びかけにも振り向くことができなかった。

「ごめん……あっちのお店見たいから、ちょっと行ってくるね。ここで待ってて」

 返事を聞く前に強引に手をふりほどいて、私は人の波をかきわけ走った。ぶつかった何人かに迷惑そうな顔を向けられ、時に文句を投げつけられたが、かまう余裕はなかった。すみませんと謝りながら走り続ける。

 屋台の間を抜け、さらにその奥の建物があるところまで走って私は立ち止まった。乱れた呼吸を整える暇もなく、嗚咽がこみ上げてくる。

「……っ」

 私は建物の陰に隠れて、目元にハンカチを押し当てた。

 まただ。時々、発作のように感傷の波が襲ってくる。故郷のことはもう諦めて、穏やかな思い出にしているつもりだったのに。こっちでたくさんの人に優しくしてもらって、私は十分幸せなのに。それでもまだこんなふうに、何かのきっかけで悲しくてたまらなくなる。家族が恋しくてたまらなくなる。

 こんなの、一時的な感傷だとわかっている。たまたま、私たちと似たような姉弟を見かけたから。ただそれだけの話で。

 だからトトー君の前で泣くわけにはいかなかった。彼に気付かれる前に、ちゃんと涙を引っ込めて平気な顔に戻らないと。

 大丈夫。私はだいじょうぶ。とても運のいい人生を歩んでいる。とっくに死んでいるはずだったのに、奇跡的に生き延びて、そして優しい人に拾ってもらって。何ひとつ苦労することなく、幸せに生きている。悲しいことなんて何もない。

 感傷に浸っちゃだめだ。もっと前向きに、現実を見て歩かないと。私はとても恵まれているのだから、悲しいなんて言ったらバチが当たる。

「だいじょうぶ……大丈夫」

 呪文のように口の中で繰り返す。涙はすぐにおさまった。そう、感傷は突然やってくるけれど、去るのも早いのだ。気持ちが落ち着けば、泣いたことが恥ずかしくなるほどに。

 目元が赤くならないよう、こすらずに押し当てたハンカチで涙を吸い取る。私は大きく息を吐き出した。トトー君びっくりしただろうな。突然走り出して何事かと思っただろう。うまく言い訳してごまかなさいと。

 目と気持ちが完全に落ち着いてから、私はトトー君のところへ戻るべく振り返った。

 けれどそこで動きが止まる。

 歩き出すことはできなかった。私の行く手をふさぐように――いや、じっさいふさいでいるのだろう。何人もの男が、嫌な笑みを浮かべて立っていたのだ。

 ……忘れていたなあ。

 私はため息をついた。そうだった。こういう可能性があることを、もっとしっかり覚えておくべきだった。

 昔からなぜか、私はよくからまれる。普通の男にはまったくもてないのに、近寄ってほしくない男にばかり狙われる。引きこもりになったのはそのせいだ。

 だからわざわざトトー君に案内兼護衛をお願いしたのにね。そもそもの理由を忘れていた自分に激しくツッコミを入れてやりたい。

 男たちの背後にざわめく街の人混みが見える。その中にトトー君の姿は見つからない。当然だ。見えない場所へ、私から離れたのだから。

 だからこの状況は自力で対処するしかない。

 私はもう一度ため息を吐いた。

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