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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第四部 たくらみの宴
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 靴を脱いで窓枠に乗り上げ、私はうんと手を伸ばす。窓硝子のいちばん高い場所は、それでも手が届かない。

 うーん、拭き残しが気になるなあ。脚立でも借りられないかなあ。

 天井近くにある窓の上辺はアーチ型になり、部分的なステンドグラスの装飾がほどこされていた。ステンドグラスといえば赤や青などはっきりした色合いのものを思い浮かべるけれど、これは淡い薔薇色の硝子で花の模様を作り上げている。なんとも可愛らしい雰囲気だ。

 可愛いのは窓だけではない。部屋全体が、なんとなく可愛い女の子仕様になっている。カーテンやソファの布張りも淡い薔薇色だし、優しい曲線を持つ家具は白で統一され、隣の寝室には薄絹の帳を垂らした天蓋つきベッドまである。

 大抵の女の子が一度は憧れるお姫様ルームではなかろうか。

 実を言うと、私はけっこう少女趣味な方だ。フリルやレースの世界が大好きだ。でもあんまりブリブリしていると馬鹿にされそうだから、元の世界ではなるべく控えていた。いくらファッションが多様化しているとはいっても、一般的大多数には含まれない部類だから、趣味にひた走るわけにはいかなかった。イベント会場で見かけたロリータファッションの子に、よくやるなあと憧れ半分呆れ半分だったものだ。

 ところが、こちらではフリルもドレスも普通のものである。私がアンティークドールみたいな格好をしていても、誰にも笑われない。だって周りも同じだから。

 不便きわまりない生活にいろいろと不満はありつつも、この点だけには感謝していた。気兼ねなく好きな服が着られるって素晴らしい。さらにこんな可愛らしい部屋まで与えられて、うれしくないわけがなかった。

 ……ただ、あまりに立派すぎて、自分の住処として使わせてもらうのが申しわけない気もする。

 ここはロウシェンの宮殿最上層、一の宮だ。公王ハルト様が暮らす場所。

 しばらく中途半端だった私の立ち位置は、先ごろ正式に定まった。ハルト様との養子縁組は辞退したけれど、代わりにハルト様は後見人となり、私を引き取ってくれた。書類上は他人でも、実質上は親子関係を結んだわけだ。

 それに伴って、私はユユ姫の館からこの一の宮へ引っ越した。

 もし私がもっと大人っぽい外見だったなら、同居の話も辞退しただろう。いくら親子関係になったのだと主張したところで、人は自分の見たいように見る。王が女をそばに住まわせるだなんて、さあ誤解してくれ噂してくれと言っているようなものだ。

 しかしこちらの人にとってはほんの子供にしか見えないらしい外見が、今回は大いに役立った。つっこんで考えると微妙な気分なのだが、変な誤解をされるよりはいい。おかげさまで私たちは、義理の親子として周囲に認知されつつある。

 ――とはいえ。

「よいしょ」

 手の届く範囲を拭き終えて、私は窓から下りた。後でお掃除棒を作ろう。手が届かないからってそのままにしておくのは、ものすごく気になって落ち着かない。

 バケツを持って部屋を出る。シンクがないのはとっても不便。外の水場まで行かなければならない。

 部屋が広いと掃除も大変だ。土足で上がり込む生活スタイルだから、床を拭くため二、三回はバケツの水を替えに行かないといけない。実にめんどくさい。

 でもそれを他人任せにするつもりはなかった。

 重たいバケツを下げて歩いていると、行き会った女官が声をかけてきた。

「ティトシェ様、お引き受けいたします」

 バケツを受け取ろうと手を伸ばしてくれる。私はなるべく丁寧に愛想よく、と心がけながら答えた。

「ありがとうございます。でもこれで終わりなので、自分で行ってきます」

「……さようですか」

 私が断ることは予想していたのだろう、女官はすんなり引き下がったが、あまりいい顔はしていない。不満なのか、それとも呆れているのか。

「あの、何度もお願いしてますように、どうか私に気を遣わないでください。様なんて呼んでいただける身じゃありませんし、掃除も自分でやるのが当然ですから」

 私は軽く頭を下げて、また歩き出した。女官はついてこなかった。

 一の宮の職員さんたちは、みんな私に丁寧な態度で接する。お姫様にでも対するように。それが居心地悪くてしかたがない。

 私がお姫様どころかお嬢さまでもない、拾われただけの身寄りのない子供だと、誰もが知っている。彼女たちの敬意と遠慮は私を通り越して、後ろのハルト様へ向けられている。誰の目にも明らかな構図なのに、うわべだけ取り繕われるのが気づまりだ。

 頭なんか下げなくていい。敬語もいらない。私にそんな態度は必要ない。心からそう思い、じっさい口に出してお願いもした。ハルト様だってそんなことを強制しない。私をお姫様扱いする必要はどこにもないはずなのに、そういうわけにはいかない何かがあるのか、女官長以下誰も受け入れてはくれなかった。

 みんな、腹の中では私のことなんてどこの馬の骨と思っているだろうに。陰口を叩かれているかもしれない。そのくらい、いくらでもあり得る。

 皮肉でわざと丁寧にされているんだろうか、なんて勘繰りまでしたくなる。さすがにちょっと卑屈すぎる考えだと自省しつつも、疑いは捨てられなかった。

 だから私は、女官たちと顔を合わせるのが嫌だった。もう誰にも呼び止められないようにと急ぎ足で水場へ向かった。

 庭の隅にある水場は、湧き水を引いてきた水路が流れる場所だ。一の宮に井戸はない。水はこの水路から供給される。

 汚れた水は植込みの陰に捨てて、新しい水で雑巾とモップを洗い最後にバケツをすすぐ。それで汚れた水も水路には戻さない。この水は下流の別の場所でも使われるから、絶対に汚してはいけないのだと最初に教えられた。

 ひととおりの作業を終えて、私は少し休憩する。頭上の青空はなんとなく涼しげに高く思えた。

 今は七月の半ば。夏もそろそろ終わりだ。暦上では来月から秋になる。日中の陽射しはまだ強いけれど、朝晩はずいぶん涼しくなってきた。

 秋になったらこの山は美しく色づくのだろうか。そして冬になったら、雪で真っ白になるのかな。

 まだ見たことのない景色を楽しみに思うよりも、どこか寂寥感を覚えた。季節の移り変わりを感じるたびに故郷の景色を思い出してばかりだ。こちらでの生活に慣れ、楽しむ余裕が出てきても、私の心はまだあの世界に未練を残しているらしい。

 嫌なことも多かったのにな。学校ではいつも浮いていじめられていた。それでも私はあの世界が好きなのか。帰れないと思うから余計に恋しく思ってしまうのかな。他は忘れられても、家族のことだけは一生胸に残るのだろう。思い出すたびに切ない痛みが走る。

 水場の近くに腰を下ろしてぼんやりしていると、建物から人が出てきた。こちらへ歩いてくるのはしゃんと背筋を伸ばしたドレス姿の女性だ。

 女官長の登場に私も姿勢を正した。

「お掃除は終わりですか」

 最初から私に用があって来たのだろう。まっすぐこちらへやってきて、女官長は話しかけてきた。

「はい」

 私は立ち上がる。

 女官長は五十歳くらいの、きりりとした女性だ。今でも十分美人だと思うが、若い頃にはもっと美しかったはずだ。さぞやもてただろうから結婚もしたよね? でも一の宮に住み込んで自宅に帰るようすがない。家族とかどうしているんだろう。

 ――なんて不躾なことを聞くわけにはいかないから、私はお行儀よく彼女の次の言葉を待つ。

 私が洗った掃除道具を一瞥し、女官長は言った。

「では、お部屋へお戻りいただけますか。お手紙が届いておりますので、ご検分を」

 聞いた私は思わずため息をついてしまった。

 またか……。

「……わかりました」

 バケツに雑巾を放りこんで持ち、反対の手にはモップを持つ。女官長が手を伸ばす隙を与えないように、私はさっと先に立って歩いた。

 私の後ろを女官長もついてくる。

「ご自分で身の回りのことをされるというお考えはご立派ですが、こうした仕事は下の者に任せるべきですよ」

 ただついてくるだけでなく、女官長は私に注文をつけてくる。これまでにも何度か聞かされた言葉だ。

「私より下の人なんていないでしょう」

 私も同じ言葉で返した。それで黙る相手でもない。

「正式な養子縁組をなさらなかったとはいえ、あなたは陛下の義娘として一の宮へ上がられたのです。そのお立場をご理解していただきませんと」

「ハルト様をお父さんと呼ぶのは、あくまでも個人的な気持ちです。法的には他人のままなんですから、私の立場が何か変わるものではないと思いますが」

「ティトシェ様がそう思っておられても、周りは違う目で見ます。不本意でも、無視すべきではないことです」

「…………」

 またため息をつきそうになるのをこらえる。ハルト様が後ろについているだけで、こうも扱いが特別になるのか。

 もっとも、まったく想像していなかったわけではない。人は損得を考える生き物だ。いつの時代、どこの国、どこの世界だって同じだろう。

 ハルト様と親子になったからって、私自身が何か変わるわけではないけれど、周りの見方は変わる。それはわかっていたつもりだった。

「掃除と洗濯、この二つだけはこちらにお任せいただけませんか」

「その二つを取ったら他に何が残るんでしょう。ご飯は完全にお世話になっていますのに、掃除も洗濯もしないんなら、あとは庭の草むしりでもするしかありませんが」

「それは庭師がいたします」

 あてつけの言葉に女官長も間髪を入れず言い返す。

「ティトシェ様にはお勉強がおありでしょう。使用人の真似事をなさる必要はありません」

「使用人のつもりでやってるんじゃありません。自分のことは自分でやるという、誰もがしている当たり前のことをやっているだけです」

 私は何も意地になっているわけじゃない。掃除が好きなわけでもない。正直疲れるし、夏でも冷たい山の水に、冬になったらどれだけと不安も覚える。せめて掃除機があったらどんなに楽かと心から思う。欲を言うなら埃取りのワイパーやウェットシートがほしい。最低限、すぐ近くに水道があれば――

 ここでの生活は掃除ひとつにも大変な労力を要する。今までの生活がどれほど恵まれていたのか、日々思い知らされる。けれどそれを厭い女官にまかせたら、自分の部屋に他人が毎日入ってきてあちこちさわられることになる。それが私には受け入れられなかった。使用人に世話をされるのが当たり前の育ち方をしていないから、プライバシーに踏み込まれる気がして嫌なのだ。しんどくても自分で掃除する方がまだましだ。

 それにいくら私の外見が子供っぽいからといって、あらぬ誤解をされる可能性が全くないわけではない。いやらしい見方をする人間は必ず出てくるだろう。でなくとも、私が公王から特別扱いを受けているのは事実なのだ。それを好意的に受け止めてくれる人はむしろ少数派だろう。

 私が厚待遇に甘えてお姫様暮らしをしていたら、よけいに反感を持たれて噂を助長する。わかりきったことだ。せいぜいおとなしくも慎ましく、謙虚な姿を見せつけておかないと。

 もうじきハルト様の誕生日で、その日には外国からもお客さんが来て記念式典が行われるとのことだったが、その席で私をお披露目しようという話は拒否させてもらった。私はそんな場所に出なくていい。出てこられるような立場じゃないって扱いで、聞かれたら留守番させてますとでも言ってくれればいい。知らない人に囲まれるのが嫌だとか、そういう理由では――あるけれど。

 私は女官長の小言を聞き流しながら部屋へ戻った。隅の棚に掃除道具を片づける。勉強用の机には封書を入れた箱がすでに置かれていた。

 箱、というところから察しはつくだろうか。中身は一通や二通ではない。女官長がわざわざ呼びにきた時点で予想はしていたが、思った以上に多かった。数えてみれば十通を超えている。

 私は、ここではこらえることなくため息をつきながら、一つ一つ開封していった。

 スーリヤ先生の指導と私自身の必死の努力が成果を出して、こちらの文字も大分読めるようになってきた。簡単な文章ならもう手作りマイ辞書も必要ない。しかし貴族の書く装飾過多な手紙は読みづらかった。どうしてもわからない部分はそばに控えた女官長に聞いて教えてもらう。そのために彼女は出て行かず最後まで付き合ってくれているのだ。忙しいのにすみません。

 手紙の内容は予想どおりのものだった。どれもこれもが、自宅で開かれる宴だのお茶会だのへの招待だ。全然面識もない知らない人からのお誘いである。ありえない。

 日時やイベント内容が若干違うだけで、どれも同じような内容の手紙の束に、私は呆れるしかなかった。

 こんなもん、普通知らない相手に送ったりしないだろうに。手紙には、これを機に親しくなりたい的なことが書かれているが、つまりは私を手なずけて利用してやろうという思惑だ。もしくは、ぽっと出の馬の骨に慣れない場で恥をかかせてやろうという思惑か。昔の少女漫画みたいな発想だが、人間のやることなんて案外ベタなので、その可能性も十分あった。

 それぞれ立派な家の、いい年した人たちだろうに、こういうことをするのが理解できない。もっと上手いやり方を考えるべきだろう。こんなあからさまにわかりやすい真似をして、私が尻尾を振って飛びつくとでも思っているのだろうか。

 私だって友達はほしいが、利害がらみで手を結ぶオトモダチは今の所必要ない。もっとちゃんと、お互いに好意を持って付き合える本当の友達だけでいい。

 ひととおり内容を確認した私は、返事を書くべく便箋を取り出した。もちろんすべてお断りである。これが初めてではないからもう慣れたものだ。スーリヤ先生やユユ姫の協力によって、できるだけ低姿勢になって相手をおだてつつも誘いは断るという、難しいテクも身につけた。相手の手紙に合わせて微妙に表現を変えつつも、基本的にはまったく同じ手紙を十数通書いてやれやれと息をつく。手が痛い。

 パソコンがほしいなあ。全部メールで処理できたら楽なのに。コピペして一括送信しちゃいたいよ。手紙は直筆でなきゃダメだって言うなら、一枚だけ書いてそれをスキャンすればいい。ぱっと見直筆っぽくなるだろう。

 現代オタク人的なことを考えつつ封をしていって箱に放り込む。それを女官長に預けると、今度は小包つきの手紙が渡された。

 えーまだあったのー? しかも賄賂(プレゼント)つきかよめんどくせー。

 と、一瞬げんなりしたが、封筒の宛名を見てぱっと気持ちが明るくなった。どの手紙よりも流麗な筆跡には見覚えがある。封筒を鼻先に寄せれば、かすかに感じる花の香り。間違いない、カームさんからだ!

 女官長め、宿題の後にご褒美を用意しているとは、飴と鞭の使い分けがうまい。

 私は急いで封を開いた。先日の定例会談以降、カームさんは時々こうやって手紙をくれる。内容はそれほど特別なものではなく、日々のちょっとした出来事を楽しく書き綴ったり、私を気づかってくれたりするものだ。これこそが本当の友達の手紙だろう。まあ、相変わらず口説きまがいなことも書かれているが、彼のデフォルトということで流しておく。

「すぐにお返事を書かれますか?」

 女官長の問いに私は首を振った。

「いえ、これは後で書きます」

「承知しました」

 彼女は返書の箱を持って踵を返す。頭を下げて見送った私は、あらためてカームさんの手紙に目を通した。

 日本で暮らしていた頃には、文通なんてじいちゃんばあちゃん世代の思い出話みたいに思っていた。出した手紙はもう届いたかな、次の手紙はいつ来るかなって待つのが、こんなに楽しいとは知らなかった。メールや電話みたいにリアルタイムでのやり取りはできないが、お手軽さがない分想いはこもるものだ。直筆の文面にはあたたかみと貴重さが感じられる。

 文通、悪くないよね。時間はかかるけど、いいものだ。

 手紙には遅くなったが誕生祝いを贈ると書かれていた。いいと言ったのに、結局用意してくれたらしい。

 私は一緒に送られた包みを開いた。中身はまたしても箱で、でも前回みたいな仕掛けのあるものではない。真紅のビロード張りに刺繍やビーズで美しく装飾がほどこされている。金具は金色、中央にウズラの卵ほどのきれいな石が嵌められていた。え、これ本物の金と宝石? まさかね――いやでも王様だから、そういうものをぽんとプレゼントしてきちゃうかも。

 あんまり高価なものをもらうと、逆に引いちゃうんだけどなあ。こっちは貧乏性の庶民なんだからさ。

 そう思いながらもふたを開けば、中には小瓶や小筆やパフといった、化粧品と道具がぎっしり詰まっていた。

 うわあ、コスメセットだ。すごーい。

 母のドレッサーを思い出すような品々だった。お化粧に必要なものがすべてそろっていそうだ。私がスキンケアを気にしたから、こういうものにしたのかな。

 お化粧して出かける機会なんてほとんどないけれど、もらって嫌な気はしない。お洒落な道具や瓶を眺めているだけでも楽しいし、ちょっと大人になれた気分だ。日本で使っていたのはせいぜいコンビニコスメで、こんな見るからに高級品に手が出せる身分ではなかった。これ全部私のものだなんて、うれしくてわくわくしてくる。

 男の人でこういうプレゼントを選ぶって、なかなかないんじゃないのかな。香水や口紅一本くらいならともかく、基礎化粧品までそろったコスメセットなんてねえ。

 女慣れしているがゆえなのか……まさか自分も愛用しているとかないよね? あの人の場合お風呂上がりに一時間かけてスキンケアしていても、全然違和感ない。口調もそこはかとなくオネエっぽいし。

 つっこんで考えない方がいいな。ただ感謝して受け取っておこう。あとお礼、書かないと。

 箱が汚れないよう大事にしまっておくべくきところだが、しばらくは眺めて楽しみたいのでチェストの上に置いておく。真紅が白い家具に映えて、ますます部屋の乙女度がアップする。

 満足して眺めていると、ドアがノックされた。女官が来たのだろうかと返事をする。急いでドアまで行き開くと、そこに立っていたのは予想外な人物だった。

「トトー君?」

「……こんにちは」

 私と同い年の地竜隊長が、いつもと変わらない眠たげな無表情で挨拶する。怪我で療養していた時にはよくお見舞いに来てくれたけれど、引越ししてから彼が訪れるのは初めてだった。

「こんにちは。どうしたの」

 私はドアを大きく開いて、彼を中へ招き入れた。

「うん……予定を聞こうと思って……」

「何の予定?」

 椅子を勧めて秘蔵のお菓子を取り出す。お茶も出したいところだが、電気ポットとかないから女官を呼んで頼まなければいけない。どうしようかと考えていると、トトー君が気にしなくていいと断った。

「非番の調整をするからさ……ティトが街へ下りたい日が決まってたら、それに合わせるよ」

 彼の向かいに腰を下ろし、私は首をかしげる。何の話かよくわからなかった。

 非番の調整って、勤務シフトを組むってことか。で、私が街へ下りたい日とかどういう……あ、そうか。

 思いついてぽんと手を打つ。大分前に約束したことを思い出し、ようやく彼の言いたいことを理解した。

 あれはまだ怪我の療養中だった。ちょっとした作戦込みでカードゲームをして、賭けの条件に街の案内と護衛を頼んだんだっけ。

 あの後も療養は続いたし、三国会談やら何やらあってすっかり忘れていた。元々思いつきで言っただけだったので、それほど強く希望していたわけでもない。でもトトー君は律儀に覚えていてくれたのか。忘れていて申しわけない。

「ありがとう。でもせっかくの休日を一日つぶしちゃうね」

「別にいいよ……約束だし、特に用はないし……」

 こののんびりした口調、もうちょっと巻けないかな。いざという時にはちゃんと早口でしゃべれるくせに。

 私は自分の予定を思い出しながら考えた。

「明後日は授業がないけど、ユユ姫と約束してるし……その次だと、えーと六日後か。早すぎ? もっと後がいい?」

「いや、かまわないよ……じゃあ六日後にする?」

「うん、トトー君がいいなら」

 トトー君はうなずいた。

「じゃあ朝に迎えに来る……」

「それって大変じゃない? 地竜隊の隊舎は三の宮よりさらに下でしょ。ここまで上がってきてまた下りてって手間じゃない。私がそっちへ行くわ」

 どうせ山を下りてふもとの街へ行くのだから、その方が合理的だ。

「それだとティトがしんどいよ……隊舎まではけっこう距離があるし、宮殿から出ることになるし」

「大丈夫、タクシーがあるから」

「タクシー?」

 言葉の意味が伝わらず首をかしげるトトー君に、私は微笑みで応えた。

「イリスに会うことある?」

「今日この後会うよ……アルタのとこで、会議するから」

「じゃあ伝えておいて。六日後の朝、私を送迎するようにって」

 期間限定私専用タクシーを予約する。

 トトー君はすぐにはうなずかなかった。

「……特別な理由か緊急時でない限り、一の宮へ竜で乗り込むことは禁止されてるんだけど……」

 へえ、そんな決まりがあったのか。

「二の宮ならいい?」

「……うん」

「じゃあ二の宮の入り口で待ち合わせってことで」

 三の宮よりまだ下まで歩くのはしんどいし時間もかかるが、二の宮までならすぐだ。そこへイリスを呼ぶようにお願いする。

「まだ許してないんだ……?」

「別に、怒ってないわよ」

 トトー君のつっこみに、私はつんと顔をそむけた。

 三国の公王が揃う宴の場で、イリスにお酒を飲まされて醜態をさらしてしまったのは記憶に新しいところだが。

 私は怒ってなんかいない。本当だ。

 まあね、いくら歌が聞きたかったからって、やっていいことと悪いことがある。大人ならそのくらいの分別はつけてほしかった。これ、目的が違ったら立派に犯罪だよね。

 でもハルト様や宰相がきちんとお灸をすえてくれたらしいから、私は怒っていない。お酒で気が大きくなっていたとはいえ、あの時口にしたことは全部私の本音だ。記憶だってしっかり残っている。そのことでイリスを責めはすまいと決めていた。怪我の功名でクラルス公と少しだけ面識も持てたしね。

 怒ってはいない――が、償いはしてもらう。無罪放免にするつもりもなかった。

「ただの約束よ。しばらく奴隷になってもらうってね」

 トトー君はだまって肩をすくめた。これで当日の足は決定である。もちろん本人の意思確認は必要ない。奴隷なんだから私の要求には無条件で応じるのが当然である。

 あとは細かいところ、待ち合わせの時間や場所などを打ち合わせて、トトー君は帰っていった。思いがけず決まった外出予定に、私はどんな一日を過ごそうかと考える。

 インドア人間のプチ引きこもりだから、外出はあまり好きではない。人混みが苦手なので、同人誌即(イベント)売会以外に出かけることは滅多になかった。でもこっちでは、なるべく外へ出ていこうと思う。

 以前考えた時は、いずれそこで暮らすことになるからと下見のつもりだった。その必要がなくなった今では、単純にどんな街なのか、一般の人はどんなふうに暮らしているのかと興味だけで考えられる。観光気分だ。

 思えば、こちらの世界へ来てからもう何ヶ月も経つのに、一般の人とふれ合うことがなかった。なにせ私を拾ったのは王様だから、ずっとセレブ達に囲まれて生活していた。トトー君たちはあまりセレブという雰囲気ではないけれど、騎士団の偉い人なのだから一般人とは言えないだろう。

 しかも住処は山の中。門の外に街が広がっているという環境ではないため、外出も簡単にはできない。見ようによっては閉じ込められていたようなものだ。街へ行こうとさそってくれる人もいなかったし……うん、まあ、みんなお仕事があって忙しいんだし、そもそも私自身が出たいと思わなかったんだから、別にいいんだけど。

 でも興味がまったくないわけではないので、いつか街を見てみたいとは思っていた。この世界の人々はどんなふうに暮らしているのか、街はどんなふうになっているのか、考えていると段々楽しみになってきた。

 お買い物をしたいけど持ち合わせがないからな。お昼ごはんはトトー君におごってもらう約束だからいいとして、あとはウインドーショッピングで我慢するしかないか。まあそれだけでも楽しそうだ。

 どこか観光名所はあるのかな。トトー君の案内に期待しよう。明後日ユユ姫に会った時にも、おすすめスポット情報を聞いておこう。

 うきうきと予定を考える私は、まったく気づくことができなかった。

 いや、そもそも目的が違うし。トトー君は約束で私に付き合ってくれるだけで、その約束だって単なる賭けの賞品で。

 あまりにも自分とは縁のない話だったのと、約束したいきさつにも甘やかな状況はなかったので、思考から完全に外してしまっていた。私の頭にあったのは観光だけだ。

 けれど……男の子と二人でおでかけって、それ客観的にはデートだよね。

 ――と、いうことに私が気づいたのは、もっとずっと後になってからだった。

 それがいろんな方面へ波及する、ということにも、この時にはまったく思い至らなかった。

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