禁断の歌姫
最近できた友人に対して、僕はずっと不満を抱き続けている。
異世界から数奇なめぐり合わせによってこのシーリースへ流れ着いたティト――それは彼女の本当の名前ではないのだが、僕には発音できなくてティトシェとしか呼べない。ハルト様やカーメル公やアルタは、どうやってあの発音を会得したのだろう。コツがあるなら教えてほしい。
それはともかく、僕はティトに不満がある。
波乱含みな定例会談も終わりを迎え、最後にハルト様主催の小規模な宴で締めくくりとなった。三公王とその側近や身内だけで集まった、ティト曰く「ホームパーティ」なるものだ。
当ロウシェンからはハルト様以下宰相閣下ご夫妻、竜騎士団長アルタ、竜騎士隊長三名――つまり僕とトトーと騎馬隊長ザックス――に加え、ユユ姫とティトが出席して客人たちをもてなしている。
ユユ姫はアルギリのクラルス公のそばにいて、彼のご機嫌を取ってくれていた。気難しいクラルス公も、ユユ姫がいると表情がやわらいでいる。美女の接待は効果抜群だ。
ティトはというと、カーメル公につかまっていた。
魔性の美貌と名高いリヴェロ公が小さな少女に首ったけなようすは、見ていて異様だ。いったいティトのどこがそんなに気に入ったのか――もしやそういう、ちょっと感心できない嗜好の持ち主だったのだろうかと、関係者一同微妙な気分である。リヴェロの秘書官シラギ殿も、複雑そうな顔で主君の恋路を見守っていた。
いや、ティトは可愛いよ? 小さくて華奢で色白で、いかにもか弱そうな庇護欲をかきたてられる姿をしている。普段は無口でおとなしく、よからぬことをたくらむ男には目をつけられやすいだろう。騒いだり抵抗したりできないと思われて狙われそうだ。美人というわけじゃないのだが、けっこう男の目を引く女の子である。惚れる奴が現れたって不思議じゃない。
が、か弱そうなのは外見だけだ。中身はどうして、か弱いどころかしたたかで大胆で好戦的だったりする。見た目にだまされて舐めてかかると痛い目に遇う。おとなしそうな顔の下で、相手を陥れる策を考えるような子なんだから。
カーメル公もだまされた口だろう。けっこう苦い思いをさせられているはずなのに、なぜああも惚れ込めるのか。たしかにティトは可愛いんだけど……恋愛って謎だよな。
ハルト様が話しかけた隙をついて、ティトがカーメル公から逃げてきた。色気過剰な口説き攻勢に、さすがに辟易とした顔だ。
「お疲れ。飲むかい?」
僕が差し出した杯を、ティトは素直にうなずいて受け取った。
甘い物が大好きな彼女の気に入るように、果汁や蜂蜜を混ぜたものだ。口をつけたティトは、案の定目を輝かせた。
「おいしい……これ何」
「カルパをディグランの果汁に混ぜたものだよ」
僕の説明によくわからないという顔をする。そうだろうな、この世界における彼女は生まれたての赤ん坊みたいなものだ。見る物聞く物すべてがはじめてのものばかりで、カルパが何かなんてわかるはずがない。
知っていて飲ませる僕も、たいがい悪い大人だと思う。ハルト様にばれたらものすごく叱られそうだ。ほんの少ししか混ぜていない、なんて言い訳は、多分通用しないだろうな。
何よりティトの報復が怖いが、それでも僕にはかなえてほしい願いがある。彼女にどれだけ頼んでも聞き入れてもらえず、冷たく拒絶されるばかりで、もういっそ酒に酔わせるしかないかと思っての犯行だ。むろん責任は取るさ。後で仕置きも説教も受ける覚悟だ。
気に入ったようで、ティトはカルパ入りディグランをこくこくと飲んでいた。僕は悪事をはたらくうしろめたさと緊張感、そして狙いが当たるかという期待をもって彼女を見守る。杯の中身をすべて飲み干しても、一見したところティトのようすに変化はなかった。
前回酔った時も、見た目にはそうとわからなかった。顔に出たりろれつが回らなくなったりはしないようだ。ただ、普段口数少なくおとなしく、目立たない場所で静かに腹黒いことを考えている彼女が、一転して積極的かつ行動的になるという変化がある。
頃合いを見計らって僕は切り出した。
「みんな楽しんでるようだけど、ちょっと盛り上がりが足りないかな。音楽でもほしいよね」
「そうね。楽団とか呼ばないんだ」
大がかりな宴ならもちろん楽師も呼ばれる。今回は内々の集まりということで、そういったものは用意されていないのだ。
「ああ、落ち着いた雰囲気にしたいということだったからな。でもまったくないのも寂しいよね。そういえばカーメル公はウルルがお得意だっけ。何か演奏していただこうか」
「王様に宴会芸頼むの? しかもゲストなのに」
「よくあることだよ。君がお願いすればきっと弾いてくださるさ」
「やだ。交換条件つきつけられそうで怖い」
打てば響くように返事がかえってくる。酔っているようには、まったく見えない。
見えないが……きっと酔っているはずだ。ティトは酒に弱い。なにせケーキの香りづけに使われた酒だけで酔うくらいなんだから。
「交換条件か……なら、演奏に合わせて歌うとかは?」
「うた?」
「そう。前に君の歌をお聞かせしたんだろう? 一緒に歌うって言ったら、きっとカーメル公も喜ばれるよ」
さりげなさを装い、極力なんでもない顔をして言う。内心はドキドキだ。素面の時ならティトは僕の狙いなんか簡単に見破って、手厳しい言葉でやり返してくる。だが酒が入った今ならば……。
「喜ぶのはイリスでしょ」
そう、こんなふうに――
……こんなふうに、氷のまなざしで。
「それで誘導しているつもり? お粗末な頭ね。もうちょっとひねりを入れる知恵も働かないわけ?」
情け容赦のない言葉がかえってくる。哀れなものを見る冷やかな笑いとともに。
……やっぱり、ダメだったか。
僕はがっくりと肩を落とした。
ティトの歌が聞きたい。ティトが歌う姿を見たい。それが、ここ最近の僕の願いだ。彼女がカーメル公に歌を聞かせたと知って以来、ずっと僕も聞きたいと思っていた。異世界の音楽に単純に興味もあるが、それ以上にティトの歌ってところに魅力を感じるんだよ!
何度も言うが、日頃のティトは本当に無口で物静かなんだ。放っておいたら一言も口を利かずに一人で勉強している。人と一緒にいても聞き役に回ることが多く、積極的に発言することは少ない。口下手というわけでもなく必要な時にはちゃんとしゃべるのだが、普段はきっとしゃべるのを面倒がっている。必要最低限の言葉だけですませてしまう素っ気ないところがある。
そんな彼女だから、大声を出してはしゃいでいるところなんて見たことがなかった。ティトの歌なんて想像もつかない。いったいどんな顔で歌うのか、どんな声を響かせるのか――見たい聞きたいと思い出したら抑えられない。
「いいじゃないか、ちょっとくらい。こういう場なんだから、歌ったっておかしくないだろ。みんなも喜ぶよ。聞かせてくれよ」
開き直って僕はティトに詰め寄った。言ったところで聞いてくれないのは百も承知なのだが。
「いやよ。なんでわざわざ晒し者にならなきゃいけないのよ」
「さらし者って」
「カラオケに来てるわけでもないのに、一人で調子に乗って歌うなんて痛すぎるでしょ。喜ぶ? 白い眼で見られるの間違いでしょ。私をそんな可哀相な子にして楽しい? いじめなの? いい加減しつこくするのやめてくれない、ウザいから」
……カラオケなるものが何かは知らないが、翻訳すると恥ずかしいから嫌だってことなんだろうな。頬を染めたりして照れて言っていたなら可愛いのに、虫でも見るような目で冷たく吐き捨てるんだから泣けてくる。もうちょっと優しい反応はできないのかと不満を感じても間違ってはいないはずだ。
これがティトなんだよ。見た目の可愛さおとなしさはとんでもない詐欺なんだ。中身は辛辣きわまりない。こんなきつい女の子に出会ったのは初めてだよ。それとも女の子はみんな素じゃこうなのか? 僕が知らないだけなのか? ティトを見ていると、飛竜隊の部下たち(むさくるしい筋肉ども)が純情可憐な子犬に思えてしまう。
ティトは冷たく鼻を鳴らし、僕に背を向けた。ユユ姫たちの方へ歩き去っていく姿を、僕は切なく見送るしかなかった。
人前で歌うのが恥ずかしいなら、僕にだけ聞かせてくれたらいい。そう頼んでもやはりうなずいてくれない。そんなに歌が嫌いなのだろうか。それならなぜカーメル公の前では歌ったのだろう。勝手に聞かれたのだとか言っていたけれど、彼がいる場所で歌ったからそうなったのだろう。わかっていて歌ったんじゃないのか。
うらやましさと納得のいかない気分で彼の人を見やったら、思いがけず目が合ってしまった。向こうも僕らを見ていたらしい。ひょっとしてティトと仲良くしているのに妬かれたのだろうかと思ったら、ますます複雑な気分になってしまった。
そんな男二人になど一瞥もくれず、ティトはまっすぐユユ姫に向かって行った。いや、彼女が目指したのはもう一人の方だと、すぐにわかった。
「ごきげんよう、クラルス様」
僕に対する冷たさが嘘のように、ティトはにこやかにクラルス公に挨拶をした。これまでほとんど顔を合わせることもなく、口を利いたこともない相手に自分から挨拶をしに行ったのだ。彼女を知る者は全員が目を丸くした。ティトがそんなに社交的になるなど、誰も思わなかっただろう。
声をかけられた当のクラルス公は、とりたてて感情も見せず、素っ気なく挨拶を返された。
「ああ……ティトセ、だったか。よい夜だな」
惜しい。ティの部分を正確に発音できたら完璧だったのに。
でもティトは気にするようすもなくにこにことうなずいた。実は名前にこだわっていることを知っている。ちゃんと呼んでもらえないと、いつも寂しそうな顔をしているくせに。だから僕はなんとか発音できるように、ずっと練習しているのに。
クラルス公には不満を見せることもなく、ティトは許しを得てユユ姫の隣に座った。
「突然お邪魔して申しわけありません。実は私、ずっとクラルス様とお話がしたかったんです。でも機会がなくて……私なんかが気軽に近づけるお方でもありませんし、このままお帰りになるのを黙って見送るしかないのかなって残念に思っていたんですけど、やっぱり後悔したくないし。なので、思いきって来ちゃいました。不躾で申しわけありません」
ああ、いいなあ。僕もティトにあんなことを言われてみたいよ。
ティトじゃなくても女の子にこう言われて悪い気のする男はいないだろう。
と、思ったが、そうでもなかった。クラルス公は白けた顔で笑った。そう、ちょうどさっきのティトのように。
「カーメル公だけでなく、私にも媚を売りに来るとはご苦労なことだな。ハルト公の指図か? 女を使って機嫌を取ろうなど、ハルト公も存外俗なことを考えられるものだ。しかしそれなら、もっとましな女を用意していただきたいものだな。私はカーメル公と違って子供に興味はない」
ひねくれまくった発言に顔色を変えたのは一人や二人じゃない。アルギリの高官たちは真っ青になってハルト様やカーメル公をうかがったし、ユユ姫はクラルス公の機嫌を損ねたとあわてつつもハルト様をけなされて腹を立てるという、複雑な反応を見せている。ハルト様はご自分に対する発言そっちのけでティトを心配しておられるようだ。そして、ティトは……。
ティトは、笑っていた。
いつもの、上っ面だけの作り笑いなんかじゃない。心からうれしそうに柔らかな笑顔を見せている。まるで恋でもしているかのような。
いや、なんでだよ!? 喜ぶところじゃないだろう!? ここでなんであんな顔を見せるんだよ!?
あり得ない反応にさらに周囲がうろたえている。自分の言葉に予想外な反応がかえってきて、クラルス公も絶句していた。
「……ああ、やっぱり」
ティトがつぶやいた。本当にうれしそうだ。いったい何がそんなにうれしいのかさっぱりだが、彼女は目を輝かせてクラルス公を見つめていた。
「何が、やっぱりなのだ」
「クラルス様が思ったとおりのお方で、うれしくて」
「……どういう意味だ」
警戒と困惑を露わに、クラルス公はティトをにらんでいる。それに臆することもなく、ティトは答えた。
「私とよく似た性格してらっしゃるんじゃないかなって、ずっと感じていたんです。もしそうなら友達になれるかも、いえぜひなりたいと思ってて。だから予想どおりでうれしいです」
えええええ!?
似てるって、ティトとクラルス公が? どこからそんな発想が出てくるんだ。
そりゃあどっちも社交的とは言い難い性格だし、人見知りで人間不信入ってるし、疑り深くてひねくれてて素直じゃないけれど……。
……似てる、かもしれないな。
言われてみればそのとおりだと、気づいて愕然となった。
「私とお前が似ているだと? はっ、何をくだらぬことを。お前に私の何がわかる」
当然というか、クラルス公は言下に切り捨てる。取りつく島もない態度だが、ティトはびくともしない。
「私、他人が信用できません」
そのままの表情で言い切った。いやそれ、うれしそうに言うことじゃないから。
「笑顔も優しい言葉も簡単には信じられません。初対面から愛想よく近づいてくる人間はぜったい何かたくらんでるって警戒します。どうせ心の中じゃ私のことを馬鹿にしてるんだろう、いないところじゃ陰口叩いてるんだろうって、そう思います」
「…………」
「特に男は嫌いです。男なんてうるさくて乱暴で臭くていやらしくて目障りでたまりません。この世から男という生き物が絶滅すればいいのにって思います」
……そこまで言うかよ。
僕も男だぞ。そして見ろ、ハルト様が泣きそうだ。
「女のことを見下してるくせに、表面上だけ仲良さそうなふりをして、仲間内じゃ悪口言ってるんだろうって腹が立ちます。征服欲だかなんだか知らないけど、女を支配して凌辱することに憧れるような下種な生き物です。吐き気がします」
おいおいおい、言ってる相手も男だぞ。これ以上怒らせてどうする。
――と、思ったのに、クラルス公が怒る気配はなかった。どころか、驚きの表情に感心が混ざっているようにも見える。え、なんで? 今の何が琴線にふれたんだ? わからないんだけど!
「この世の人間すべてが悪なわけじゃない、大部分は善良な人のはずだって理屈ではわかっています。でもどうしても、目の前の人を信じることができない。敵に囲まれているような気にしかならない。怖いんです、人の目が。自分を指差して笑ってるんじゃないかって、気になってしかたないんです」
「…………」
「さして苦労もせず人の輪に溶け込んでいる人が、うらやましくて妬ましい。なんであんな簡単に友達が作れるんだろう、なんであんな簡単に好かれるんだろうって、自分との違いに悲しくなります。結局自分に魅力がないのが、性格が悪いのがいけないんだってわかってるけど、理解してくれない周りを恨みたくなる……でもそんな自分が間違ってるってこともわかるから、自己嫌悪で落ち込みます。いちばん嫌いなのは自分自身です」
……そんなふうに考えていたのか。
ティトが必要以上に自分を卑下しているのは知っていた。本人が言うほど性格が悪いわけじゃない(そりゃ時々臓腑をえぐってくれるけどな!)のに、人から嫌われて当然だ、みたいな考え方をしている。その考え自体が悪いんだって、前に言ったはずなんだけどな。
身に滲みついた意識は、なかなか変えられないものなのか。
「ティト……」
彼女を止めようとうろたえていたユユ姫も、驚いて告白に聞き入っていた。
束の間の沈黙に、クラルス公の笑いが落とされた。あまり力のない、どこか寂しげな吐息だけの笑いだった。
「お前にはすでに信じられる相手がいるようだがな。男が嫌いだと言うが、ハルト公やカーメル公はどうなるのだ」
「あれは男じゃありません、お父さんと友達です」
……言い切ったな。きっぱりと躊躇なく。
ハルト様はともかく、カーメル公の心境を思うと気の毒でならない。いや、多分僕も男扱いされていないんだろうけど。
「こっちへ来てから、はじめて友達と言える相手ができました。こんな私にも優しくしてくれる人たちがいて、はじめはそれも信じられずに期待を裏切られるのが怖かったけど……少しずつ、変わっていける気がします。私もたくさん努力しないといけないけど、世界はそれほど冷たくないってわかってきた気がします」
「…………」
「クラルス様を見ていて、勝手に自分と重ねてしまいました。立場も違うしまったく同じなはずもないけれど……それならそれで、どこが違うのか、それも知りたい。クラルス様のことを知りたいです。他人のことを知りたいと思う気持ちは、多分自分を知ってほしいという気持ちでもあるんだと思います。そうやってお互いを知って仲良くなれたら、それが友達というものなんだろうなって」
人見知りで、自分から踏み出すことが苦手なティトが、これほどの想いを自ら口にするなんて――僕は見ていてちょっと胸が熱くなる気分だった。ああ、頑張ってるんだな、成長したんだなって。
まあ原因はわかっている。うんあれ酔ってるんだよな。酒の勢いで言ってるんだよな。
元凶である僕には、ティトの変貌ぶりが何故なのかはっきりわかっていた。そうか、ティトは酔うと普段胸におさめて見せない本心を、吐きだしてしまうんだな。
たまにはそれもいいと思う。彼女はしゃべらなすぎるんだ。もっと言いたいことを言っていいんだよ。聞かせてほしいよ、こっちだって。
ただ今の場合、ちょっとまずいかもしれない。はた目にはこれ、愛の告白にしか見えないんだけど。
いくら友達と口では言っても、うるんだ瞳で見上げて切々と訴えかける姿は、男にとって実に威力のあるもので……どうするよ、クラルス公が誤解しちまったら!
すでに公王を一人落としてるのに、こっちも落とす気か! 想像するだに怖い構図だぞ、それは。遊び慣れたカーメル公はいいけど、クラルス公には絶対そんな余裕も器用さもない。本気になられたらこのうえなく厄介だ。そんなつもりじゃありませんでした、なんて言っても通用しない。
これは、そろそろ止めるべきだよな。取り返しがつかなくなる前に――今なら無礼を謝って終わりにできそうだ。
同じことを考えたのか、視界の隅で動くハルト様が見えた。おまかせした方がいいかな? いやでも、僕も一応近くに待機しておこうか。
「友達……か」
クラルス公がつぶやいた。その顔にはまだ皮肉げな表情が貼り付いている。それでいい、どうかティトに落ちてくれるな。
「くだらぬな。しょせんは傷の舐め合いだろう。そんなことをして何になる?」
「別にいいんじゃないですか? 他の誰ともできないことです。たまには理屈抜きでなぐさめてほしい時もあります。そういう相手がほしい時もあります。頑張るばかりじゃしんどいから、甘えて愚痴もこぼしたい……けど、それだけで終わったんじゃたしかに不毛ですよね。むなしい気分が残るだけです。くだらないと言い切ってしまえるクラルス様は、立派な方です。甘えるだけじゃだめだって、ちゃんとわかってる。それでいいでしょう? 甘えた後、そこからどう立ち直るべきなのか一緒に考えて、一緒に頑張れたら、とてもうれしいです」
「…………」
クラルス公は気付いているのかな。ティトの言葉を完全には否定していない自分に。彼女が言うとおり、周りを信用できず裏切りをおそれて、一人で悩んでいるのだと認めたも同然だ。とりつくろって否定するのを忘れるほどに、ティトの言葉は彼にとって衝撃だったのだろうか。たしかに公王に向かってこんなことを言う人間は今までいなかっただろう。なぐさめたり励ましたりする者はいるだろうが、信じられなければすべてが白々しく煩わしい重荷に感じるばかりだ。
違う形で飛び込んできた少女に、彼が心を動かされているのは明らかだった。それはいいことなのかもしれない。クラルス公の背後に控えた、いかにも苦労人っぽいご老人が涙ぐんで二人を見守っている。きっとクラルス公のお目付け役みたいな人なんだろうな。孫みたいに見守ってきた主君の悩みを知りながら、自分では解決してやることができずにいたんだろう。初めて彼の心を揺り動かす存在が現れて感激しているのが手に取るようにわかる。そこだけを見れば感動的な光景なんだが。
しかしティトに恋愛感情はまったくない。断言してやる、あれはそんなんじゃない。本当に、言葉どおり友達になりたがっているだけだ。
それがわかっている我らロウシェン側は、はらはらしてふたりを見守っていた。そしてリヴェロ側は……正直、見るのが怖い。今カーメル公がどんな目でふたりを見ているのか、直視する勇気はない。
今や広間の空気は緊迫感に包まれていた。全員がふたりのやり取りを固唾をのんで見守っている。酔っぱらっているティトは気にもとめないが、さすがにクラルス公は全員から注視されていることに気付いた。一気にしかめっ面になり、ふてくされてそっぽを向いてしまう。
「お前のような子供となれ合うほど落ちぶれたつもりはない。見くびるな」
冷たく突き放す言葉は単に気まずさをごまかそうと必死なだけで、気の毒なほどわかりやすい。でもここは知らん顔をしてやるのが優しさだよな。
「クラルス様はおいくつなんですか?」
ティト、もういいから、そこらへんでやめてくれ。
「……十九だ、それがどうした!」
いやクラルス公、別に若いことを引け目に感じる必要はないですから。そりゃカーメル公もその歳で即位してたちまち内乱を終息させて国内をまとめあげた実績があるから、比較されていると思うんだろうけど。じっさい言う奴もいるんだろう。ああたしかに可哀相な人だよな、ひねくれたくなるのもわかるよ。
「なんだ、二十歳越してないんですか。じゃあ二つしか違わないです。十分友達圏内です」
「――なにっ!?」
ふたたびの衝撃発言に思わずといったようすでクラルス公が振り返った。
「二つ……って、お前まさか十七歳かっ!?」
「はい」
笑顔でうなずく彼女にどよめいたのはアルギリ陣営だけだ。他はみんな知っていたから――って、いや待てよ?
「あら、ティト、あなた十六じゃなかった?」
ユユ姫がつっこんだ。そうだよな、そのはずだよ。
……あ、でもたしか、もうじき誕生日みたいなことを言ってたっけ。
「こないだ十七になったの。日本じゃ冬生まれだったのに、こっちじゃ夏に誕生日が来るのよね。変な感じ」
「ええ!? いつよ、いつ誕生日だったの? どうして言ってくれなかったのよ!」
「聞かれなかったもん。それに向こうとこっちじゃ暦も違うし、正確な誕生日ってわけじゃないのよ。いちいち計算するのめんどくさいから夏至を区切りにすることにしたの。おぼえやすいでしょ?」
あっさり言い放つティトに、僕らは切なさを覚えるばかりだ。家族と生き別れになった彼女に、せめて僕らが祝ってやりたいと思う気持ちは伝わらないのか。
まあしかし、これで話がそれていってくれればしめたものだ。クラルス公が衝撃で固まっているうちにティトを引き離せばいい。
ようすをうかがっていたハルト様が、ここで割り込んだ。
「そうだったな、もうじきだと聞いていたのに失念するとはうかつな話だ、すまなかった。後日改めて祝いの席を設けよう」
「いらないです」
こらティト、すぱっと断るな! ハルト様が泣いちまうだろうがっ。
「小さい子じゃあるまいし、お誕生パーティーなんて恥ずかしい。お祝いなんておめでとうの言葉だけで十分です」
「い、いや、それでは、あまりに……」
「私のことを気にする暇があったらユユ姫とデートでもなさってください」
「なっ、なんでわたくしなのっ!?」
ユユ姫、声がひっくり返ってますよ。ああ、真っ赤になっちゃって……何を言うよりも雄弁だよな。
あ、ちょっとクラルス公が遠い目になってる。目の前で見せつけられるのはきついよな。
「いや、その……チトセ、そろそろ休むか? もう遅いしな、眠いだろう」
「平気です、小学生じゃないんですから。あからさまに苦し紛れのごまかし言わないでください。問題とまともに向き合わないで逃げるなんて卑怯ですよ。いい加減ハルト様だってわかってるでしょう、ユユ姫の気持ちは」
「ティト!」
「はっきりさせないでのらくらごまかしてばかりなんて最低です。その気がないならそう言うべきだし――でもぶっちゃけ、その気あるでしょう? 嘘ついてもわかりますよ。目が可愛い、愛しい、大切でたまらないって言ってますから」
「あ、や、なな何を……っ」
「年の差がなんですか、別にいいでしょうそんなもん。それとも亡くなった奥様に対する罪悪感ですか? 私が奥様だったら自分を理由にして不幸になられたら迷惑ですよ。別の人を愛したって奥様のことを忘れるわけじゃないでしょう。私だって故郷の家族を忘れたりしません。でもハルト様もお父さんだと思ってます。それでいいって言ってくださったじゃないですか。ご自分も同じに考えられないんですか」
「チ、チトセ……」
「ていうか三十路も半ばのいいおっさんが、いつまでもぐじぐじうだうだやってんな、うっとうしい! 見てて苛つくし! とっとと決めろこのヘタレダメ親父!」
……うわああぁ。
僕は頭を抱えてうずくまりたい気分になった。もうだめだ、手がつけられない。酒乱の本領発揮だ。
「ティトのようす、おかしいよね」
不意にそばから声がして、僕はびくりと振り返った。いつの間に来たのか、トトーがすぐ隣に立っていた。
「あんなによくしゃべるティト、普通じゃないよね……普段なら絶対に言わないようなこと言ってるし、おかしいよね……」
言って、ティトからこちらへ視線を移してくる。その目つきに僕はたじろぐ。ぼんやりしているように見えても、こいつは鋭いんだ。地竜隊長の肩書は伊達じゃない。けっして剣技だけでその任に就いているわけじゃない。
「そ、そうだな……」
引きつらないようにするのが精いっぱいで答えれば、反対側の肩がつかまれた。ザックスだ。
「イリス、お前さっき彼女に何か飲ませてたな?」
見ていたのか。ザックスの目も剣呑だ。両側からにらまれて僕は逃げ道をさぐる。だが逃げる暇もなく今度は背後から首根っこをつかまれた。だけでなく、上に吊り上げられる。こんな真似ができる奴といったら――
「イ~リ~ス~?」
……アルタだけだよな。
僕はあきらめて笑うしかなかった。いや、うん、覚悟はしていたからな。責任は取るよ――取るけど、目の前の惨状はどうしよう。
ティトの暴言に魂を飛ばしたハルト様にかわって、カーメル公がするりと割り込んだ。さり気なくも強引にティトを抱き寄せる。
「そのくらいでよいでしょう。後はおふたりにして差し上げなさい。はたからあれこれ言いすぎるのはよくありませんよ」
さも常識的なことを言っているようだが、本音は自分がティトを取り戻したいだけだろう。
ハルト様からもクラルス公からも引き離し、ティトを連れ去ろうとする。その腕を、ティトが邪険に振り払った。
「ベタベタくっつかないでくださいよ。それ友達のすることじゃないですから。セクハラです」
「セクハラ? よくわかりませんが、君ともっとゆっくり語らいたい。明日にはここを発たねばならぬのです。最後の夜を惜しませてはくれないのですか」
「歯が浮くような寒いことをおっしゃらないなら付き合ってもいいですけど。あと息を吐くのと一緒に色気垂れ流すのもやめてください。ただでさえ見た目がエロいんだから、言動には注意してくださいよ。ハルト様は年の離れた相手と結ばれても温かく見守ってもらえるでしょうけど、あなたの場合はロリコン公王って白い眼向けられるのがオチですから。日頃の行いは大事なんですよ、今さら言っても遅いですけど」
あああああ、リヴェロ陣営が凍り付いている。だめだ、もう突入して力ずくでティトをこの場から強制退去させるしかない。放してくれアルタ。
「どのような目で見られようとかまいません。他人など関係ない。わたくしは、君の心を得られるなら他の何と引き換えてもいい――とは、言えませんが」
すごいぞカーメル公、あれだけ言われてもめげることなく食い下がれるとは。なんて打たれ強さだ、尊敬する。でも最後の最後で冷静なんだな、そこもさすがだ。
「しかし多少の非難などいくらでも聞き流せますし目に余るものは叩き潰します。その程度でわたくしを追い落とせるなどと思う者はいないでしょうし、もしいたならば己の愚かさを骨の髄まで思い知らせてやりますよ」
おいおいおい、まさかカーメル公も酔ってるとか言わないよな? 今の、ものすごい発言だったんだけど!
なのにティトは楽しそうに笑うんだ。本当に反応がおかしいよ。
「いいですね、黒さを隠さずオープンにしてるカームさんは素敵です。わざとらしいお愛想笑顔よりずっと大好きです。まさに腹黒仲間! カームさんはカームさんで、理解し合えるかけがえない友達です!」
……うん、そうだな、お似合いだよ。怖いからくっつかないでほしいけど。
もう、これどうしよう。いっそ全員殴り倒して夢でしたってことにできないかな。
そんな妄想に浸りかける僕の耳に、吹き出す声が飛び込んできた。
全員が意表を突かれて注目する。クラルス公が肩を震わせていた。
「く……っ、ぷ、は、はーはははっ!」
大爆笑。あのクラルス公が、腹を抱えて心底おかしそうに笑っている。全員目が点だ。アルギリの人々も信じられないものを見た顔をしている。そりゃそうだろう、いつもつまらなそうにしているか、さもなくば不機嫌そうに顔をしかめているところしか見たことがない。彼も笑うのかと当たり前のことに度肝を抜かれた。
「あ、あははははっ」
目じりに涙までにじませて、彼は苦しげに笑い続けている。そんな顔をすると年相応の若々しい魅力が感じられた。元々顔立ちは悪くないんだよ。あまりに痩せすぎているのと顔色が悪いのと、そしていつもむっつりしているのとでだいなしになっていたけれど、クラルス公も十分貴公子的な容貌なのだ。
「ふ……っ、おかしな娘だ……ティトセだったか」
「はい?」
首をかしげるティトに、クラルス公は自身の指から抜き取った物を放り投げた。反射的に手を伸ばしたものの受け止め損ねたティトにかわって、カーメル公が受け止め一瞥した後彼女に渡す。男物の指輪にティトはさらに首をかしげた。
「なかなか面白いものを見せてもらった。久しぶりに笑わせてくれた礼だ、誕生祝いにくれてやる」
クラルス公は尊大に言い放った。偉そうな態度だが、ティトに向ける目にはさっきとは違うものがたしかに存在している。まだ、はっきりとした好意とまでは言えないだろうが、彼の興味は引いたようだった。
「いずれまた会う機会もあるだろう。それを持っていれば、とりあえず私の元までは来られる。話を聞くかどうかは、私が決めるがな」
紋章入りか。さっきとは違うどよめきがわき上がった。クラルス公がここまで他人を受け入れるなんて、めったにないことだろう。もっともカーメル公に対する嫌がらせも込みなのだろうが。
挑戦的な目をティトの隣に立つ男へ向ける。ふたりの間に静かな火花が散った。
それを吹き消したのはティトだった。
「これが通行許可証になるんですか? ありがとうございます、ぜひ押しかけさせていただきますね!」
「勘違いするなよ。相手をしてやるとは言っていない。気に入らなければ叩き出すまでだ」
「いいですよ、行く時は相手せざるを得ないネタ持ってお邪魔しますから」
ティト、それ軽く強迫だから。
可愛い笑顔で公王を黙らせて、ティトはくるりと踵を返した。大きく開け放たれた窓の前まで行って振り返る。
「いいものをくださいましたから、こちらもささやかなお礼をしますね。イッツショータイム! ドラゴンズカモーン!」
……はい?
途中からの言葉の意味がわからない。わからないが、しばらくして全員が顎を落とした。耳に届くいくつもの羽音。窓の外に現れる大きな影。
何頭もの飛竜が集まってきていた。
人に育てられた竜は脱走なんてしない。自由に動き回ってもそれほど遠くへは行かないし、主人が呼べばすぐに戻ってくる。ということで、騎士団では基本的に放し飼いにしている。だからここにやってきても、それ自体は不思議じゃないのだが。
一頭や二頭じゃなく窓の外を埋め尽くすほどの竜が集まるのは異常な光景だった。中にはイシュも混じっていた。僕の指示を待つこともなく露台に降り立つ。
この宮殿の露台は、緊急時を想定してたいてい大きく作られている。竜が降りられるだけの広さと体重を支えられる強度が備わっている。そこにずらりと並んだ飛竜たち……壮観だ。見慣れている僕でもちょっとたじろいだ。
これ、ティトが呼んだのか。さっきのは竜を呼ぶ合図だったのか。
彼女に龍の加護があることを知っている連中なら、どうにか納得できる。知らない人々は驚愕しおののくばかりだ。
そんな恐怖にも近い視線を浴びながら、意に介するようすもなくティトは軽やかに声を張り上げた。
広間に響き渡る、のびやかな歌声。一瞬僕の方を見たと思ったのは錯覚だろうか? 彼女は歌っている。今僕の目の前で、たしかに歌っている――
可愛らしい声は透きとおり、耳に心地よくなじんだ。誰もが驚きを忘れて聞き入った。明るく楽しそうな歌声は、まるで鈴が鳴り響くようだ。こんなにきれいな声で歌うなんて……どうしてあんなに嫌がったんだ。ものすごく上手いじゃないか!
シーリースでは聞き慣れない、ちょっと変わった旋律は彼女の世界の音楽だろう。どうやら英雄か何かの歌らしい。子供に語りかけるような内容だから童謡かな。みんな感心して聞き入っている。が、それもわずかな間のことだった。
しばらくしてまた人々の目が驚愕に見開かれた。ティトの歌に合わせて、背後の竜たちが動き始めたのだ。調子を合わせて一斉に首を振り足踏みするその姿は、踊っているとしか言いようがない。竜が踊る!? 長いこと竜と付き合っているが、そんな話は見たことも聞いたこともない。僕が歌ったってイシュは横で欠伸しているだけだったのに、それが、ああ、なんてことだ!
指揮者よろしくティトは音頭を取って竜を踊らせる。一曲歌い終えた後、すぐまた別の歌を歌い出した。それにも合わせて竜は踊る。もうみんな言葉もなく見つめるばかりだ。
花……花の歌か。いや、人の歌でもあるのか? 花になぞらえて、葛藤する人を励ます歌だ。他人とくらべる必要はない、自分に自信を持てと。ああ、クラルス公に聞かせたいんだな。そして多分、彼女自身にも。
気が付くと歌声に楽の音が混ざっていた。いつの間にかウルルを取り出したカーメル公が、即興で合わせてつまびいていた。澄んだ歌声に美しい弦の音色が絡み合い、居並ぶ人々を夢心地に誘う。
それはまさに夢の一夜だった。すべての人の心に、生涯忘れ得ぬ記憶となって刻み込まれただろう。かなうならこのまま目覚めることなく、夢の中にあり続けたいと、そんな願いすら抱かせて、歌い終わった直後にティトが夢に旅立った。
いきなり崩れ落ちた彼女に、我に返ったハルト様があわてて駆け寄った。抱き起した腕の中で、人々を混乱に叩き落としたあげく最後は天上の夢を見せた少女は、安らかな寝息を立てていた。
――そして僕は罪状を告発され、三公王に土下座で謝罪するという顛末を迎えたわけだ。
クラルス公からは冷たい視線を浴びせられ、カーメル公には笑顔でちくちくと嫌味を言われ、アルタに強烈な拳をくらい、ハルト様からは予想どおりお叱りを受け、ついでに宰相から減俸が言い渡された。反論はない。もちろん全部僕が悪いのだ。ただただ頭を下げて謝るばかりだ。ユユ姫や宰相夫人や女官たち女性陣の視線が冷たいのも、身から出た錆とあきらめるしかない。
それでも僕は満足だった。ずっと聞きたかった歌を聞くことができた。見たかったものを見ることができた。いや、それ以上のものを。
この夜は僕にとって、間違いなく幸せな一夜だった。今、この瞬間だけは。
……問題は、ティトが正気に返った後の話で。
ハルト様の腕の中で眠る少女が目を覚ました時、それが僕の命日だ。
いったいどんな報復が待ち受けているのか……それだけが、怖い。
ティトのことだからえげつない仕返しを用意するか、それともやはり男なんてと僕を拒絶し二度と振り向いてくれなくなるか――いやいや、それだけは勘弁してもらいたい。なんでもするから。いくらでも謝るし償うから!
明日の恐怖に頭を悩ませつつも、その一方で、またいつか歌ってくれないかな、なんて懲りないことを考えている僕なのだった。
***** 終 *****