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肌寒さを覚えて意識が覚醒する。私は身体を縮め、布団を引っ張り上げようと半分寝ぼけたまま肩の辺りをさぐった。
でも、布団がない。何か薄っぺらいものをかぶっているが、温まるには足りない。
布団、布団はどこだ。探す手が何かに当たった。布団ではないけれど、何か大きなもの。私はぬくもりを求めてそこへ身を寄せる。
小鳥の声が聞こえていた。いつもより近くで聞こえるようだ。頬に冷たい風を感じる。窓を開けっ放しで寝てしまったんだろうか。
ぼんやり開いた目に、淡い青紫が映った。視界いっぱいをふさぐのは、布――服に包まれた、人の身体だ。
「……っ!?」
一気に目が覚めた。あわてて私は頭を動かす。間近に、長いまつげを伏せて眠る美しすぎる顔があった。
「…………」
……あー。
そうだった……いろいろあって、野宿したんだっけ。ここは一の宮でもユユ姫の館でもない。山の中だ。
いつ寝たのか記憶にないが、私は地面に横になって眠っていたらしい。そして私を抱え込むようにして、すぐそばにカームさんも寝ていた。私を包んでいるのは彼の上着だ。借りた覚えはないから、寝ている間に着せかけてくれたのだろう。
まだ眠っているカームさんを起こさないよう、私はそっと彼から離れ半身を起こした。彼が着ても膝に届く丈長の上着は、私には十分布団サイズである。これのおかげで朝まで眠れたのか。その分カームさんが寒かったはずで、非常に申しわけない。長袖とはいえ彼のアンダーも夏物の薄手のシャツだ。夜の冷気が堪えたろうに。
今さらかもしれないが、私はそっと上着をカームさんの上にかけた。
それにしても本当に綺麗だな。寝顔って無防備になるから、ちょっとだらしなかったりかっこ悪かったりしそうなものなのに、眠っていても美しいってずるくないか。伏せられたまつげは長くて多く、つけまつげもマスカラも全然必要ないよねって思わせる。男にこんなまつげは不要だろう。半分でいいからこっちに欲しい。
高すぎず低すぎず、すっきり通った鼻梁と、なめらかな頬のライン。全体に丸っこくて顔の大きさが気になる私には、うらやましい限りの完璧な卵型だ。唇はほんの少し厚めで、それが逆にいいバランスを生み出している。作り物めいて、ともすれば冷たく見えそうな美貌に柔らかみを加え、色香を漂わせているのだ。
いちばん印象に残るのは謎めいた紫の瞳なのだが、それが隠されていてもなお魅力にあふれた美貌に、感嘆のため息しか出てこない。
先に目が覚めてよかったなあ。私の寝顔なんて、この十分の一も美しくないって自信を持って言い切れるぞ。見られなくてよかった。
私は周囲を見回す。森の中のさらに蔓カーテンの中、薄暗いが確実に朝になっている。もう闇ではなく、ちゃんとすべてが見える。
昨日採った紫の実を思い出し、草の上から拾い上げた。日が暮れる前にもう一度ふたりで分けて食べたから、残りは二個。少し考えて、それをカームさんの枕元に置いた。
さすがに私もお腹が空いているが、カームさんはその比ではないだろう。普段の食事量を考えても、彼の方が堪えているはずだ。私は一、二食抜いても割と平気である。連休の時など寝食忘れてゲームに没頭し、祖母に叱られたっけ。
もっとたくさん採れればよかったのにな。もしかして、他の場所にも生えていないだろうか。昨日は追われている不安もあってゆっくり探せなかったから、今のうちに探してみようと考えた。
立とうとしてふと思い出し、カームさんの上着を調べる。胸元の飾りは縫いとめたものではなく、留め金で取り付けられていた。それを外し、拝借して外へ出る。
多分、まだ夜が明けたばかりなのだろう。空気の冷たさと静かさでそう思う。早起きの小鳥がさえずり始めたといった雰囲気だ。
刺客も捜索隊も明るくなるのを待っていただろうが、まだ来ないはずと辺りに注意を払いながらも歩き出す。迷わないよう木の枝を折って印をつけながら、どこかに水や食料がないかと探し歩いた。
野草は周囲を埋め尽くしている。キノコも時々見かける。私に野歩きの知識があったなら、その中から食べられるものを選び出せただろう。しかしどれが安全でどれが毒なのか、私にはわからない。まずキノコは避けるのが鉄則だろう。食べられるものなんてごく一部で、大半は毒だと聞いている。
真っ赤な実を鈴なりにつけた木があった。昨日も見かけた、茱萸に似た毒植物だ。私はうらめしく横目に眺め、その木を通り過ぎた。
あれが食べられればよかったのになあ。一つひとつは小さくても、あれだけ量があれば腹ごしらえできただろうに。
昨日よりもさらに遠くへ歩き、水と食べ物を探した。ついでに空が見える場所では、借りてきた飾りを使って日の光を集めてみたりもした。
レンズのように熱を集めて火をつけられないかと思ったのだが、やはりそう簡単にはいかないようだ。きれいな色硝子の飾りは滴型をしている。これをレンズ代わりにっていうのが無理な話だった。
ならばと上空に向けて光を反射させてみる。空からしか見えないだろうから、刺客にはわからず、捜索隊にだけ届く合図だ。イリス、来てくれてないかな。お願い気づいて。
そんなことをしながら歩いていたら、前方が明るくなった。木々が途切れて開けた場所があるようだ。私は足を速めた。
たどり着いた私は小さく歓声を漏らした。川だ!
私が立っている場所より少し低い位置に、五メートルくらいの幅の川が流れていた。小石が敷き詰められ岩もごろごろしている岸が、両サイドに広がっている。バーベキューとかできそうなロケーションだ。
二メートルほどの高低差は、飛び下りるにはちょっと高い。下の足場も悪いから、それはやめておいた方がいい。私は下りられそうな場所をさがし、草や岩を手がかりにどうにか川岸へ下りた。
浅い川だ。膝までもなさそうに見える。でも要注意。川は見た目で判断してはいけないと、祖母によく聞かされた。いきなり深くなっていたり、二重底になっていたりするのだそうだ。なんでも祖母が子供の頃、近所の子がそんな川で亡くなったのだとか。
私は川の中には踏み込まないようにして、岩の上を歩いた。ためらう余裕もなく手で水をすくって飲む。冷たくて美味しい。ああ、ほっとする。
水質検査、なんて言葉が一瞬頭にちらついたけれど、そんなことを気にしていられる状況じゃない。日本と違ってここは環境汚染なんてなさそうだし、流れの速い山の中の川だもの、きっと大丈夫。最悪でもちょっとおなかをこわすくらいだ。
そもそも普段飲んでいる水だって、浄水施設で殺菌消毒されて上水道から給水されたものなんかじゃないのだ。井戸水や川の水だろう。それを思えば、何を今さらだ。
喉を潤すと次に顔を洗った。これだけは、乙女としてはずせない。昨日から走ったり転がったり落っこちたりして、汗もかいたしきっと汚れただろう。日が暮れるまでの間、そんなひどい顔をカームさんに見られていたわけで、意識すると恥ずかしい。美人じゃないのはしかたないとしても、せめて清潔感は保たねば。小ぎれいにしていれば二割増くらいにはなれるのだから。
鏡で確かめられないので、汚れが残らないよう念入りに何度も洗った。水の冷たさで指先がしびれるまで洗った。殴られた場所はさわると少し痛むけれど、それほどひどくはなっていないようだ。たいして違和感もなく、ちょっと腫れているかなといった程度だ。
ポケットからハンカチを出して顔を拭く。ついでに首筋も。さっぱりして気持ちいい。できれば全身を拭きたいくらいだが、さすがにそれは我慢しよう。脱いでいる最中に何か起こったら目も当てられない。
私は川岸に戻り、岩に腰を下ろして休憩した。ちょっと左脚が痛い。昨日から大分無理をしているせいだ。さすって、足が不自由なのは大変だとつくづく思う。ユユ姫の苦労をほんのちょっとでも理解できたかな。
休んでいる間も時間を無駄にはできない。私はまた例の飾りで光を反射させた。張り出した枝で岸のあたりは陰になっているが、川の上は明るい。日が当たる場所でいろいろ角度を変えつつ救難信号を送った。
多分、今いる場所は雨が降ると急激に増水して水没してしまうのだろう。天候の変化には注意しておかないと。ここだけじゃなく頂上付近の空模様もたしかめておかないと、思いがけない鉄砲水に流される可能性がある。
木々の合間から垣間見える山の頂上付近は、今のところ晴れているようだ。どうかそのままであってほしい。
少し休んだらカームさんを呼びに行ってあげようと思っていたら、背後の森で物音がした。下草を踏み分ける音にびくりと振り返る。刺客かと胆を冷やし、息をひそめてうかがうと、現れたのはカームさんだった。
私はほっと胸をなでおろす。向こうもほっとした顔になった。
「そこにいたのですか」
私をさがしに来たのだろうか。
「目が覚めたら姿が見えないので、あわてましたよ」
「すみません、何か食料が見つからないかと思って。とりあえず水を見つけたところですけど」
苦笑してカームさんは段差を下りてくる。上着は急いで羽織ったといった風情で、昨日よりちょっと着崩した印象がある。それでもだらしなさは微塵もなく、むしろ色気が倍増しているのだから難儀な人だ。
「よくここがわかりましたね」
「目印を残していったのは君ではないのですか?」
「あ、気が付いたんですか」
「はじめは焦りましたが……君がとても利口に印をつけてくれていたので、後を辿ることができました」
どこを見ても同じような景色なので、目印がないと絶対に帰れなくなる。そう思い、道々枝を折りその下の幹に進行方向へ矢印を刻み付けてきた。わかりやすさを第一に考えたけれど、それは刺客にとっても目印になる。あまりここに長居はできない。刺客が印を見つけたら追いつかれてしまう。
私の言葉にカームさんはうなずき、とりあえず彼も水を飲んで顔を洗った。このまま川岸を下ってみようかと二人で検討する。途中で滝になっている可能性もあるが、ふもとへ近づけば別のルートも見つけられるかもしれない。
カームさんが隠しから取り出したものを私に差し出した。置いてきた実だ。
「食べなかったんですか?」
「君こそ、何も食べていないでしょう」
「私は大丈夫ですよ。一日くらい食べないの、前からよくありましたし。カームさんはかなりおなかが空いてるんじゃないですか」
「クラムを一個や二個食べたくらいで大きな差はありません。まあ、気持ちの問題ですが、これも半分ずつにしましょう」
そう言って、私の手にひとつを握らせる。私はうなずいてかじりついた。
「クラムっていうんですか、これ」
「知らなかったのですか?」
「はあ、名前は……こないだ地竜のお母さんにもらったんです。それで、食べられることだけはわかってて」
「地竜のお母さん?」
並んで川沿いに歩きながら、私は先日のできごとを語って聞かせた。チビ竜たちにじゃれつかれた記憶がなつかしい。見た目爬虫類のくせに、性質は哺乳類に近い気がする。
「子育て中の竜に……」
カームさんもそこに驚いていた。
「やっぱり、普通はありえないことですか」
「ありえませんね。まず殺されます」
やはりそうなのか。
「でも私を巣穴へ連れ帰ったのはお母さんですよ」
「龍の加護とはそれほどに……」
カームさんはうなる。私は前から疑問に思っていたことを口にした。
「でもどうやって見分けてるんでしょうね。印がついているわけでなし、においもないと思うんですけど」
「そうですね、不思議な話です。祖王もすべての竜を従えたと言い伝えられていますが、その辺りについては聞いた覚えがありません」
「祖王?」
「はるかな昔、この島に国を興した初代の王ですよ。ほとんど伝説ですが、君と同じ龍の加護を持っていたと言われています」
へえ、そんな話があったのか。初耳だ――と思いかけて、ちょっとひっかかった。祖王という名前を、どこかで聞かなかっただろうか。
記憶を掘り返してみるけれど、思い出せない。イリスかトトー君が言っていたような気がするのだけれど、はっきりとした記憶ではなかった。多分会話の流れで、名前だけ出てきた程度なのだろう。
それが疑問だな。私と同じ龍の加護を持つ人がいたのなら、なんで今まで教えてくれなかったのだろう。その人について調べれば、龍の加護が何なのか、わかるかもしれないのに。
「祖王についてくわしく教えてくださいませんか。その人にはどんなことができたんです?」
元の世界に帰ることは、ほとんどあきらめている。この世界にもなじみ始め、大好きな人たちもできた。ここで生きていく覚悟は決めたつもりだけれど、まだ可能性が残っていると思うと、どうしても故郷と家族をあきらめきれない。
私にそなわった不思議の力を解明することができれば、帰れるかもしれない。そんな期待をかすかに抱いてたずねてみたけれど、カームさんは静かに首を振った。
「何百年も昔の、伝説です。どういう人物だったのか、ほとんどわからぬのです。大いなる知恵と力を持ち、人々を導いて乱世を終わらせた英雄と語り継がれていますが、後世に付け足された逸話も多い。どこまでが真実を正確に伝えているのかもわからない……そんな程度の話なのですよ」
「記録とかは残ってないんですか」
「文字で記録を残すようになったのは、祖王による建国より後なのです。それ以前は口伝のみで受け継がれていたため、当時の記録というものは残っていません。後に記されたものがわずかにあるばかりで、それもごく短いものですし、くわしい情報を得ることはかないません」
……邪馬台国の卑弥呼みたいなものか。存在したらしいことはたしかでも、あまりに昔すぎてはっきりしたことはわからない。そんな人なんだな。
卑弥呼の時代から文字があった私の世界と、こちらとを同じに考えてはいけない。元の世界にだって文字の記録を持たない文明があった。どちらかと言うと、それに近かったのだろう。
さらに何百年も歴史が進めば、未来の考古学者が祖王について新発見をするかもしれない。でも現段階では、伝説以上のものは何もわからないんだな。
かすかでも期待を持った分、ついえた時の落胆は大きかった。ため息をつきそうになる気分を、無理やり立て直す。今はそんなことで落ち込んでいる場合ではない。もっと差し迫った状況にあるのだから。これ以上考えるのはよそう。無事に帰れて、落ちついてからでいい。
でも、今回も竜に出会えたらよかったのにな、とは思った。さすがにそう何度も都合のいいことは起きないか。自力で頑張るしかないね。
歩いているうちに、だんだん気温があがってきた。動いたせいもあって汗ばんでくる。ありがたいのはすぐそばに水があることだ。これで給水できなかったら倒れるところだった。
上空に光の合図を送る私の手を引き、カームさんは周囲に気を配りながら歩く。足元がごろごろしていて歩きにくい。転びそうになるのを踏ん張るたびに、左脚に痛みが走る。でも我慢だ。少なくとも前回の事件の時よりはずっと楽だ。
「疲れてはいませんか」
「それなりに。でもまだ歩けますよ」
「先は長いのですから、無理をしない方がよいでしょう。少し休みますか」
カームさんの身長よりも高い大岩があったので、そこで休憩することにした。水を飲み、岩の陰に座り込む。
さすがにきついなあ。元々アウトドアな人間じゃないから、長時間歩き続けるのは苦手だ。それもこんな、足元の悪い川岸だし。
夏のイベント会場もなかなかに過酷で、毎回主催者が熱中症対策をうながしていた。スポーツドリンク持参は当然のこと、冷却グッズも用意して、もしも具合が悪くなったら無理せずリタイヤとかいろいろ注意していたっけ。そんな対策を何ひとつできず、食事すら摂らずに歩き続けているのだから、きついに決まっている。私の体力がどこまで保つだろうか。カームさんは大丈夫だろうか。
「……申しわけありません」
ぽつりと、カームさんが言った。なんのことだと私は顔を上げる。美しい顔にやはり疲れをにじませて、彼は足元に視線を落としていた。
「君をこのような目に遇わせてしまって……いくら謝っても足りませんね」
「…………」
――ああ、まあ、そうだな。彼は謝るべきだし、私には謝られる権利がある。
でも、それだけでもないだろう。
「状況を悪くしたのは私かもしれません。あの時、刺客に見つからずうまくやりすごせたかもしれないのに、私が飛び出したから」
あそこで私が刺客を引き連れて走ったりしなければ。その後崖から落ちたりしなければ。彼は山中で迷うことなく、護衛の騎士たちと合流できただろうに。
少なくとも現在の遭難状態は、私自身の招いたことだ。
カームさんが顔を上げてこちらを見た。
「君がそんな責任を感じる必要はありません。わたくしを助けようと、身を危険にさらしてまで動いてくれたのに、なぜそれを……そもそも、あの状況ならばきっと見つかっていましたよ。どうか、自分を責めるようなことはしないでください」
「じゃあこの話はここまでにしましょう。ここで言っててもしょうがないです。それに悪いことばかりでもありませんし」
「はい?」
珍しく少し落ち込むようすの王様に、私は笑ってみせた。この人でもこんな顔をすることがあるんだな。
「告白しますけど、私カームさんのこと、ものすごく、大嫌いでした」
「……ええ、まあ、察していましたが」
ものすごく、大嫌いと強調したことが、彼の自尊心を少し傷つけてしまったようだ。まあこのくらいは許してもらおう。自分の美貌を利用して女心をもてあそんだ罰だ。
いや、私のことじゃないよ! きっとこれまでに、たくさんの女性が泣かされてきただろうと思ってね!
「ハルト様を困らせるくらい、嫌ってました。それがこうして仲良くできてるんだから、よかったですよね」
「……はい?」
「仲良くはないですか? 私の勝手な思い込みでしたか」
「いいえ」
首を振り、カームさんは私の手を取った。すかさずこういうことをする辺り、やっぱり女の敵だと思うが今は許そう。
「そう言ってくれるのですか」
「王様なのに全然偉そうにふんぞり返らないで、ずっと私を気づかってくれて、申しわけないって謝ってくれる人を、いつまでも嫌ってはいられません。こういう時に人間の本性が出ると思うんですけど、カームさんは変わらずに優しかったですよね。上辺だけじゃないんだって、わかりました。本当に優しい人は好きです」
何より、この人は私を助けに来てくれた。
狙われているのはカームさんなのに、囮になった私を見捨てず助けに来てくれた。本当はどれだけうれしかったか――彼の立場を考えれば、けっしてそれをよろこんではいけないのだけれど。でも一人の人間として、見捨てられなかったことがとてもうれしかった。一度見捨てられた私だから、それはよけいに身に沁みた。
そりゃあ腹黒で、人を利用しちゃったりする策士で、カームさんの全てが好きだとは言えないけれど。でももう嫌いとは言えない。思えない。私はこの人が好きだ。
「チトセ……」
カームさんが顔をほころばせる。私のこんな言葉でうれしそうにしてくれるなんて、ちょっと照れてしまう。私が嫌いじゃない、好きだと言ったことでよろこんでくれるなら、それは私にとってもうれしいことだ。どうでもいい人間だとは思われていない、好かれているのだとわかるから。
ゆうべは疑ったけど、本当に友達になれるかもしれない。
「ありがとう」
カームさんは私を抱きしめた。喜ぶにしてもスキンシップ過多じゃないかと思ったが、まあいいか。いやらしさは感じないし、友情のハグだと認識しておこう。そう思っておとなしく抱かれていた私だったが、少し身を放した彼が私の頬に手を添えて、なにやら顔を近づけてきたので考えを改めた。
ちょっと待て。何する気だコラ。
意図を理解できないほど馬鹿ではないぞ。これはアレだろう。やる気だろう。
こういうところは相変わらずというか……本当に女ったらしだな! ちょっと人がいい顔を見せればすぐそう出るか。
どついてやろうと私は拳を固めた。その気配を察したのか、カームさんは寸前で動きを止めた。硬い表情になって視線をよそへ向ける。
私も身を固くして耳を澄ませた。何を聞かずともわかった。彼の警戒が伝わってくる。
水の流れる音と鳥の鳴き声。そこに混じる、下草を踏み分ける音。
……来たのは、どっちだ。
カームさんが動いた。引っ掴む勢いで私の手を取り、共に立たせる。
「いたぞ!」
「そっちだ!」
荒々しい声が響いた。振り向いた視線の先に、森から飛び出してくる男たち。ああ――神様に見捨てられた? 来たのは刺客の方だった。
カームさんが私を引いて走る。でもこれ、逃げられそうにない。
男たちが段差を身軽に飛び下りて、石を蹴散らして追ってくる。前からも現れた。挟まれて私たちはたたらを踏む。
「そっちへ」
カームさんが川へと私を押した。たしかに逃げられるのは対岸方向しかない。でもそんなの、すぐに追い詰められそうだ。
「早く! 行きなさい!」
鋭く言われて、私は川へ踏み込んだ。水しぶきを上げて浅い川を渡る。水は膝までもないのに流れに足を取られ、何度も転びそうになる。必死に対岸へ辿りつき、ふらふらになりながら振り向いた私は、信じがたい光景に息を呑んだ。
てっきり一緒に川を渡ったと思ったカームさんは、向こうの岸に立ったままだった。こちらに背を向け、刺客たちに対峙している。
凶器を手にした男たちが、ぞろぞろと集まってくる。勝利を確信して、ゆがんだ笑みを浮かべ包囲網を狭めていく。
「お前たちが狙っているのは、わたくし一人でしょう。わたくしさえ殺せれば、他はどうでもよいはず。あの子には手を出さないでください」
カームさんの声が聞こえる。そんな――そんなの、相手が聞いてくれるわけがない。そんなことのために、刺客の前に残るだなんて!
どうにもならない状況の中、わずかな可能性に期待をかけたのだとはわかる。彼が襲われている間に私が逃げれば、刺客たちも追わずに見逃すかもしれないと。でも、逃げられるわけがない。とても我慢できない。このまま、目の前であの人が殺されるのを見捨てるなんて!
私は今渡ったばかりの川に、また踏み込もうとした。私が行ったからって何の役にも立たないのはわかりきっている。だけど、じっとしてなんかいられない。
夢中で駆けだそうとした時、いきなり後ろから引っ張られた。思わず悲鳴を上げてしまう。こっちにも追手が回っていたのか。振り払おうと暴れた身体を、ひょいと後ろへ押しやられる。
――あれ?
捕まえられたのではなく、武器を向けられるのでもなく。ただ川から引き離されただけですぐに解放され、そばを人が駆け抜ける。
赤い髪の、小柄な後ろ姿。
ものすごい速さで石を蹴り、ほんの二歩三歩で対岸へたどりついてしまった。振り向くカームさんの横をすり抜けて、間近な一人に蹴りを放つ。
「ト……っ」
トトー君! トトー君だ!
驚く刺客たちにトトー君が襲いかかる。腰の剣も抜かないまま、一人、また一人と倒していく。
カームさんがこちらへ駆け出した。川を渡る彼を追って、刺客の何人かが水に踏み込む。一人がカームさんに接近したその時、上から何かが降ってきた。
「……っ」
私はまた息を呑む。刺客の身体を長い棒が貫いていた。背中に刺さり、おなかから飛び出した先端が川の中に突き立っている。串刺しにされたまま倒れることもできず、刺客はその場で絶命した。
影が差す。
見上げる暇もなく、今度は人が降ってきた。私のすぐ近くに着地した人が、一瞬の動作で腰の剣を抜く。カームさんを追う刺客に斬り込んでいく。ひるがえる長い銀髪。イリスは左手に持った剣で、刺客を斬り伏せる。
「公王様!」
「ご無事ですかっ」
次々と騎士たちが駆けつけてきた。川を渡りきったカームさんが、私のそばへやってくる。さらにそれを取り囲み、騎士たちが敵から守る。
助かった――味方が、間に合ってくれた。
その安堵は感じていたが、私は眼前の光景から目を離せずにいた。
形勢不利を悟り逃げようとする刺客を、イリスもトトー君も許さなかった。追いかけては倒していく。トトー君は素手で戦っているから相手を気絶させるだけだが、イリスは違った。剣をふるうたびに血しぶきが上がる。やぶれかぶれに向かってくる敵の剣をあっさりとはね返し、横なぎにふるわれた剣が敵の首元に――頭が――
胴からはなれて頭が飛んでいく。思考が麻痺して、コントみたいだなんて思ってしまう。残された身体が首から血を噴き出し、奇妙にゆっくりと倒れていく。喉から悲鳴が出そうになって、けれど引き攣れた息しか出てこない。
また、血が流れている。
今見た光景と昨日の光景が混じり、頭が混乱する。血が流れる――人が死ぬ――崖を、落ちていく。
呼吸すら忘れそうになった私を、カームさんが抱き寄せた。胸元に顔を伏せさせ、何も見えないようにする。私は彼の服にしがみついて、震えながらすべてが終わるのを待った。
「チトセ!」
飛竜から下ろされた私に、地上で待っていたハルト様が駆け寄ってきた。痛いほどに強く抱きしめられる。
ハルト様は少し震えていた。私が生きていることをたしかめるように、大きな手が何度も髪や背中をなでる。ユユ姫の時にもこんなだった。どれだけ心配させたのだろう。青ざめた顔を見上げて、私は謝った。
「ごめんなさい。ご迷惑とご心配をかけました」
「……怪我は、ないか」
グレーの瞳が私をのぞき込む。その目を見てわかってしまった。この人は怯えている。心配以上に、怯えていたのだ。
「ありません。大丈夫です」
「…………」
泣きそうな顔でハルト様は深く息をつく。また強く抱きしめられて、私は彼の恐怖の根源を知った。
これが、この人のトラウマなんだ。事故で突然奥さんと息子を失って、心の傷はけっして消えていないから。だから近しい人を失いそうになると、恐怖に取りつかれる。ハルト様は誰かを失うことを極端に恐れている。
死んじゃだめだと、思った。一度死んだ人間なんだから、どこで死んでも仕方がないなんて思っていたけれど、それはだめだ。私はなんとしても生きて帰らなければいけない。私が死んだら、ハルト様の傷はさらに深くなってしまう。
「ごめんなさい……」
腕を伸ばして彼の身体を抱き返す。思っていたより広い背中は、腕が回しきれない。少しでも彼の恐怖を取り除いてあげたいけれど、私のちっぽけな手ではまるで足りない。
ハルト様が顔を上げた。私ではなく、背後へ視線を向けている。カームさんが立っていた。
「申しわけありませんでした」
カームさんの言葉に、ハルト様の眉が寄る。眉間にしわを寄せた怖い顔で、ほとんど彼をにらんでいる。ハルト様のこんな顔を見るのは初めてで、私は何も言えなくなる。きっと、気づいているんだ。カームさんが私を利用したことに。
ずいぶん長い沈黙の後、低い声でハルト様は訊ねた。
「大事、ありませんか」
無理やり感情を抑え込んだ声だった。裏側にある怒りを誰もが感じただろう。カームさんはええ、と静かにうなずく。
「騎士たちのおかげで助かりました。ご助力に感謝いたします」
「……ご無事で、何よりです。お疲れでしょう。すぐに離宮へ送らせますので、まずはお休みください」
「ありがとうございます。ですが、急ぎお伝えせねばならぬことが」
「お話は、のちほどうかがいます」
カームさんの言葉を強引にさえぎり、ハルト様は私を放した。カームさんが言いたいのはきっと内通者のことだ。誰だったのか、報告を聞いて早く手を打たないと。今ならまだ間に合うかもしれない。
「ハルト様」
「貴族が一人、今朝早くに変死したとの知らせを受けております。おっしゃりたいのはそのことでしょう。すでに調べさせておりますので」
「……そうですか」
ああ――間に合わなかった。私はカームさんを見る。彼は視線を伏せて息をついた。
「わかりました。おまかせします。彼女を巻き込んでしまったこと、重ねてお詫びいたします」
「…………」
ハルト様はぐっと口許を引き結んだ。こらえようとしたのだろうが、どうしても我慢できなかったのか口を開く。
「くわしいことは、のちほどに……ですが、この子にはもう近づかないでいただきたい」
周りの人がぎょっとした顔でハルト様を見る。他国の王相手に、非礼と言える発言だ。リヴェロの人たちは不快感を表している。それらにかまわず、ハルト様はカームさんに背を向けた。私の手を引いて足早に歩き出す。
引っ張られて急に向きを変えたから、左脚に痛みが走った。少し脚がカクンとなって、あわてて力を入れる。いぶかしげに見下ろしたハルト様は眉間のしわを深くし、有無を言わさず私を抱き上げた。
こんなに怒っているハルト様は初めてで、私は身を小さくしておとなしくしているしかない。そっと周りに目を向ければ、トトー君が見えた。イリスもいた。ハルト様に従い歩く彼は、どこか元気がなさそうだ。どうしたのかと思ったが、それ以上にカームさんが気になって後ろへ目を向ける。
彼はじっと立ち尽くしたまま、私たちを見送っていた。