7
追手が来ることを警戒して、その後私たちはあまりしゃべらず静かに過ごした。幸いにして刺客は現れなかった。残念なことに、救助隊も現れなかった。
夏の日が長くてもやがては夜が来る。数時間が経ったであろう頃には、辺りはすっかり闇に包まれてしまっていた。
こっちの月は三つもある。追いかけっこをするように姿を現す。今日の天気は曇りがちな晴れ。雲以上に、生い茂った木々が空を隠してしまい、月の光をさえぎっていた。
外灯はおろかろうそくの明かりさえない暗闇の中、私は落ち着かない気持ちで過ごしていた。
暗がりに目が慣れても、あまりに明かりが足りなさすぎて何も見えない。すぐそばにいるカームさんの姿ですら、黒っぽい影として認識できるだけだ。怖いし、気持ち悪い。これほどの闇を経験したのなんて初めてだ。これが本当の夜なんだと思い知る。日本での、深夜ですらどこかに明かりが灯り、明るすぎる地上のせいで星が見えにくいという、そんな夜は嘘っぱちだった。
伸ばした自分の手すらろくに見えない闇。それこそが、本物の夜だ。
ぞくりと、身体が震えた。体感的な寒さもあった。夜になると山の気温は急激に冷え込む。背中や胸元が開いたこの服では防寒の役には立たない。半袖からむき出しになっている二の腕をさすると、ぶつぶつとした感触があった。寒さと不安でおもいきり鳥肌が立っている。
まだ夜は始まったばかりなのに。今からこんな調子で私朝まで耐えられるのかな。
あちこちで何かの鳴き声が響いている。夜行性の鳥や小動物だろう。エンエンナに危険な獣はいないという話だったから、襲われる心配はしなくていいのだろうが、得体のしれない鳴き声が闇から響いてくるとどうしても怯えが走る。今にも目の前に何かが現れるんじゃないかと、生きた心地もしない。
不意に間近で物音がして、私はびくりと身をすくめた。しかしそれはカームさんが身じろぎしたものだとすぐわかる。そんなささいなことにも、ひどく臆病になっている自分が情けない。
カームさんが身体を寄せてきた。大きな身体と服の感触が私を取り巻く。彼は私の身体に腕を回し、膝の上へ抱き上げた。
「冷えてきましたね。こうしていると、少しはあたたかい」
胸の中に私を抱き込み、耳元にささやく。彼が温まるためではないだろう。私を気づかってくれたのだとわかった。情けないけれど今はその親切にすがるしかない。この状況は私には辛すぎる。
でも四十キロもの肉塊をずっと膝に乗せていたら大変だろうから、ほどほどで降りないとな。こっちに来てからやれ食べろそれ食べろと迫られていたから、ちょっと太ってしまったかもしれないし。これがアルタくらいたくましくて大きい人が相手なら気にしないけれど、カームさんでは辛いだろう。
「少なくとも、朝までは安全ですよ。この暗がりでは、刺客も動きようがありませんからね」
「ええ……」
「ですから、安心して眠りなさい。疲れているでしょう」
髪をなでられる。たしかに疲労は大きかった。でも神経が昂って、とても寝付けそうにない。
「カームさんこそ、私を気にしないで休んでください。この体勢、辛くないですか。ずっとだと重いでしょう」
吐息だけで彼は笑った。
「騎士のようなたくましさはありませんが、わたくしとて男ですよ。君のような小さな子を乗せたくらいで、辛くなるほどひ弱ではありません」
……こんな言葉を額面通りに受け取って、安心してしまってはいけないよね。ここで、はい重いですと答えが返ってくるわけがない。
「そばに人がいるって感じるだけで安心できますから……できれば、眠るまでの間、何か話していただけるとありがたいですけど」
「そうですね。わたくしも、まだ眠れそうにはありませんし、少し話しましょうか」
そう言ったカームさんは、やはり私を下ろそうとはしなかった。
「さて、何から話しましょうか?」
「……多分、朝になったら刺客の数がうんと増えますよね」
「そこからですか。色気のない」
呆れた声を返された。ここで色気を求めてどうする。
「おそらくは。これであきらめる道理がありませんからね」
一度目の襲撃には失敗したものの、まだ彼らにチャンスは残っている。捜索隊が私たちを見つける前に、何としても先んじてカームさんの息の根を止めようと増員態勢でやってくるだろう。
「刺客と味方、どちらが先にやってくるかがわたくしたちの明暗を分けますね。神に祈りましょう」
「神頼みもいいですけど、何か手を打つことはできないでしょうか」
ふふ、と楽しげに彼は笑いをこぼした。
「頼もしいこと。そうですね、何かできればよいのですが……」
「発煙筒とかあったらなあ……きっと飛竜で空からも捜索してくれるだろうから、一発で見つけてもらえそうなんだけど」
「はつえんとう?」
「煙を出して緊急事態を知らせる道具です。乗り物に常備されていて、事故の時なんかに使われていました」
「なるほど、狼煙を上げるわけですか。たしかに、それができればよいのですが……ないものを考えても、しかたがありませんね」
本当に仕方がないのだろうか。私は考える。
「カームさん、火をつける道具とかは、持ってらっしゃいませんか?」
「あいにくと」
「……たしか、服に丸い硝子の飾りがついていましたよね」
胸元に鎖でつながれていた。逃げる途中で落としたりせず、まだそこにあるだろうかとさぐってみる。くすくすと、耳元で艶っぽい笑いがこぼれた。
「大胆なこと。このような場で何をする気です?」
「セクハラ発言やめてください。真面目に考えてるんですから」
ついでに顎やら首筋やらを指先でさわるのもやめろ。猫でもなでているような感覚なのだろうが、こそばゆくてかなわない。
悪さする手をぺしっと払いのけ、私は飾りがあるであろう辺りを探った。細い鎖の感触を見つけて引っ張る。たどると先に丸いものがあった。
「これ、使えないかな……」
「何にです?」
「火をつけるのに。朝にならないと試しようもないか……」
火がつかなくても、これで光を反射させて合図を送ることができるかもしれない。明日になったら試してみようと、私はひとまず鎖から手を放した。
今度は耳の後ろあたりをこしょこしょといじる感触がする。
「柔らかい髪ですね……子猫のような」
やはり猫扱いか。
普段ならセクハラだと文句を言うところだが、抱っこしてもらっている状態ではあまり注文もつけられない。髪くらいいいかと、好きにさせておくことにした。
「チトセの世界の話を聞かせてもらえませんか」
「いいですけど、どんなことを?」
「聞きたいことはいろいろありますが……まずは、君がこちらへ来る原因になった事故の時の話を詳しく」
暗がりで見えないと知りつつ、私は盛大に顔をしかめた。
なんで、よりにもよってそれをチョイスするかな。あまり思い出したいことではないのに。
「そんな話をしても、何も面白くありませんよ」
「そうですね、君には辛い記憶でしょうが、聞く必要があると思うのですよ」
「必要なんか……」
「嫌なことを思い出させて申しわけありませんが、聞かせてください」
なぜそんなにこだわるのだろう。優しい口調の中に、断ることを許さない強さをにじませてカームさんは言う。私はため息をついて、忘れたくても忘れられない、脳裡にこびりついた光景を話し出した。
あれはもうじき目的地に到着するという頃だった。集合時間が迫っていて、私は班の子の姿を探していた。
出席番号順で決められた班は、不運なことにいじめっ子グループの中に混じるというものだった。生徒の好きにさせると仲間外れが出てしまうから、強制的に決められた班分けだったのだけれど、皮肉にもいじめを助長する結果になってしまった。おかげで出発する前から憂鬱でしかたがなかった。せっかくの修学旅行になんの期待も持てず、高校生活にまたひとつひどい思い出が増えるのだと毎日ため息だった。
事前に覚悟とあきらめができていただけに、いざ出発すればまあそれなりにやりすごしていたけれど、もちろん楽しいことなんてひとつもなかった。私ひとりを無視して、わざと仲間同士で楽しそうに盛り上がってみせたり、ちょっと何かに気をとられている間においてけぼりにされたり。そんなことばかりが続き、最後の船の中でも私は完全にのけ者にされていた。
トイレに行ったのは全員でだったけれど、出てみればあの子を中心としたいじめっ子たちは、私を置き去りにして姿をくらましていた。まただと、私はため息をつく。このままだとひとりで集合場所へ向かうことになる。私はそれで全然かまわないのだが、規則として単独行動をしてはいけないことになっている。それを利用して私を悪者にし、周りからも非難させようという魂胆だ。同じ手口で何度か集合に遅れて、私は勝手な行動をするやつだということにされてしまっている。彼女たちがわざと私を置き去りにするのだと主張したところで、きっと信じてもらえないだろう。――あの時はそう思っていた。直接いやがらせをしてこなくても、見て見ぬふりする周りの人間みんなが敵だと思っていた。私の味方をしてくれる人なんていない――味方を作ろうと努力もせず、そう思い込んでいた。
飽きもせずにくだらない嫌がらせをすると、馬鹿馬鹿しさにうんざりしつつ、多分こっちにいるはずだと見当をつけた方向へ歩く。視界に同じ制服が見えて、足を速めた時だった。突然、何の前触れもなく船が揺れた。揺れなどという表現では足りない、何かに殴られたような衝撃だった。私はたまらずに甲板に転がった。あちこちで悲鳴が上がった。
一体何が起きたのだろうと、転がったまま周囲を見回した。この衝撃は並大抵ではない。どこかで爆発が起きたのだろうか。それとも、他の船と衝突した? 昔あったという、潜水艦との衝突事故の話を思い出した。
一気に押し寄せる不安と恐怖に、落ち着けと言い聞かせる。すぐに沈むとは限らない。船は何層にも区切られていて、浸水があっても隔壁で防げるようになっているはずだ。もちろん脱出用のボートが備えられているし、ここは近海だ。最悪海に投げ出されることになっても、なんとか沈まずに頑張っていれば救助がやってくるだろう。
とにかく、状況を把握しないと。そして、もし脱出が必要なのであったら、逃げ遅れることのないように、ボートや浮き輪があるところへ行っておかなければ。
私は立ち上がった。立って、周囲がおかしいことに気付いた。
船が傾いている。
地上にいるのと変わりなく動けた大型船の甲板が、はっきりわかるほどに傾いている。
悟ると同時に血の気が引いた。沈む。もう、それは確実だった。きっと時間の猶予はない。
震えそうな足を叱咤して、私は駆け出した。先生を、船員さんを探して傾いた甲板を走る。
その耳に、泣きそうな声が飛び込んできた。
「佐野さん――待って、助けて」
反射的に足を止めて振り返る。声の主を探して、見つけた瞬間また総毛だった。
一体どうしてそんなことになったのか。さっきの衝撃で投げ出されたのだろうか。船の手すりを乗り越えて、女生徒が一人、落ちそうになる身体を必死に支えている。私は夢中でそっちへ走った。私に救いを求めるのがあの子だと、もちろん気づいていたが、それどころじゃなかった。早くなんとかしないと落ちてしまう!
手すり越しに引っ張っても、彼女の身体を船内に戻すのは難しい。私にそれほどの力はない。どうするか。考えたのは一瞬だった。私は手すりに乗り上げて、足を踏ん張り体重をかけて彼女の身体を引っ張った。
二人の努力と火事場の馬鹿力で、どうにか彼女を引き上げることに成功した。身体を手すりに乗り上げ、落下の恐怖から解放された彼女は、ほとんど泣きべそをかいていた。私もほっとして、今さらに身体が震える思いだった。見下ろした海面は遠い。何階分の高さがあるのだろう。ここから落ちたら、ただではすまないところだった。
でも、そこで安心するのは早かった。
再び船が大きく揺れた。手すりの上に乗るという不安定な体勢だった私たちは、バランスを保つことができなかった。あの子は船の内側へ、私は外へと転がり落ちた。
とっさに伸ばした片手が手すりをつかんだのは、私にしては上出来だったろう。けれど、そこまでだ。片手一本で昇ることはおろか、そのまま体重を支えることもできない。早くも手は震え出し、力を失いそうになっている。
立ち上がったあの子とぶらさがる私の視線がぶつかった。
あの子の顔には恐怖が貼り付いていた。今にも落ちそうな私の姿を見て――そして、そらされた。
視界から消える姿。あの子は私を置いて、逃げてしまった。
……当たり前だ。
あの子が私を助けるはずがない。あんなに嫌われて、そこにいること自体が許せないという態度を取られていたのに、なんで助けてくれるものか。
私があの子を助けたからって、お返しにあの子が私を助けてくれるわけがない。そんな期待をどこかで持っていたのかもしれない自分に、笑いがこみあげた。
どうしようもない、馬鹿だ。
私も見捨てて逃げればよかったんだ。あんな子を助けてやる義理がどこにある? ずっとずっと、あの子のせいで嫌な思いをさせられてきたんじゃないか。あんな子いなくなってしまえばいいのにと、何度も思ったじゃないか。
でも、できなかった。私は臆病な小心者だ。目の前で人が死にかけていて、それを無視して逃げる強さを持てなかった。
そんな人間は勝ち残れない。いつだって貧乏くじばかり引いて、損な目に遇って、他人の踏み台にされるのだ。
私のこれまでの半生は、そんなことばかりだった。自ら負け犬の道を選び、そして最後がこれか。
笑うしかないじゃないか。あまりに自分がみじめで、なさけなくて、むなしくて。なんでもっとうまく生きられなかったんだろうって。
力が尽きる。手が滑り、私は落下していく。にくらしいほどの青空が視界に広がっていた。
話すだけ話し終えて、私は口を閉ざした。細かいところは省いて事故の状況だけを話すつもりだったのに、途中で何度も口を挟まれ、質問され、結局あの子との関係まで話してしまった。最後の、できごとも。
カームさんって尋問が上手い。言葉たくみにこちらを揺さぶって聞き出してしまう。まあ、いいんだけど。今となってはもう、二度と戻ることもできない文字通り遠い世界の話で、あの子とも誰とも顔を合わせることはないんだし。それに毎日一緒にいるハルト様たちと違って、カームさんは外国の人だ。会談期間が終われば自分の国に帰って行く。気まずい話を知られても、そう問題はないだろう。
私を懐に深く抱きしめて、カームさんは何度も髪をなでていた。
「やはり、君は誰かのために自らの命を差し出すのですね」
「そんな立派な考えじゃないです。私だって死にたくないし、痛いのも怖いのも嫌です。自己犠牲の精神なんて持ち合わせていません。私がいちばん大事なのは自分です。ただ……弱いんです。見ないふりをすることができない。他のみんなはそうやってうまく立ち回っているのに、私はいつも誰かに責められている気がして、やりたくないことでも仕方なくやってしまう。それだから、どんどん損な役を押し付けられる。それをはねつけることもできない、弱くて駄目な人間なんです」
私がいじめられていた原因は、半分以上私自身にあった。他人とかかわろうとしない、一人で殻に閉じこもっていた私が悪いんだ。
でももし、私がもっと強い人間だったなら。いじめられても黙って我慢するだけでなく、やり返す強さを持っていたなら、もっと状況は違っていたはずだ。あんなに一方的にいじめられてばかりではなかっただろう。
心の中では悪態をつきながらも表面に出すことはせず、嫌なことも我慢して損な役も引き受けて、何を言われても聞き流すばかりの無抵抗な人間だったから、好きなようにいじめられた。なにもかも、私の弱さが招いたことだ。
「それを弱さと言うのは、違う気がしますね」
カームさんは言う。別になぐさめてくれなくていいんだけど。現実から目をそらす気はない。自分がなさけない人間だということは、認めている。
「見ないふりをして逃げることこそ、弱さの表れです。そこで手を出す勇気が出せない人間のすることです。君は逃げない強さを持っている。自らを危険にさらしても、逃げずに踏みとどまる。そういう人の方が強いのですよ」
「違います。私はそんな立派な人間じゃなくて……ただ、責められるのが嫌で」
「誰が責めるというのです?」
「…………」
「他はいざしらず、命のかかる場面で己が助かることを優先しても、誰に責められましょうか。君自身言ったではありませんか。それは生き物の本能だと。そのとおりですよ。誰も責めはしない。責めているのは、君の中の良心でしょう」
良心――?
……つまり、それが弱さなのではないのか。
「君は弱いのではなく、少し不器用なのですね。お人よしだと言われませんか?」
「…………」
そんなことを言ったのは、イリスくらいだ。いや、弟にも言われたことがあったかな。でもそのくらいだ。クラスメイトの誰も、私をそんなふうには言わなかった。とっつきにくい、感じの悪いやつだとしか思われていなかっただろう。
「ずるい人間には利用されてしまうでしょうね。損な役を押し付けても、黙って引き受けてくれる都合のよい人間だと思われることでしょう。たしかに、人のよいのも良し悪しです。拒絶すべきことは拒絶しないと、理不尽な被害を受けかねない。君になら、それはできるはずですが」
「……できません」
「できないのではなく、する気がないだけでしょう。お人よしであると同時に、面倒くさがりな面もあるようですからね。人と争うのを、恐れるのではなく面倒がって、それで抵抗しないのではありませんか?」
「…………」
「その気になれば君は強い。なにせ、このわたくしに対抗してみせるくらいですからね。たくらみがあると知りつつ乗り込むような、好戦的な面も持ち合わせている。誰が弱いというのか……君は、自分は蜥蜴だと思い込んでいる竜ですよ」
どんなたとえだ。女の子に向かってトカゲとか竜とか。
笑いを含んだ吐息が耳をくすぐる。相変わらず彼の手は私の髪や頬をなでまくっている。私はため息をついて、唇までさわろうとする指先を叩き落とした。
不思議な気分だ。いじめられていたことを、見捨てられたことを、思い出すたびに悔しさとなさけなさでいっぱいになっていたはずなのに。今はあまり気にならない。遠くなった記憶を振り返るだけだ。
今も私がひとりぼっちだったなら、まだ辛いままだったのかもしれない。でもこっちへ来てから、私の周りは変わった。私自身も変わろうと努力している。それがあるから、落ち着いて過去に向き合える。
似たような状況の中、ユユ姫は私を見捨てなかった。必死に助けを呼びに行ってくれた。カームさんも助けにきてくれた。戦える人ではないのに、死ぬわけにはいかない立場なのに、刺客の前に姿を現して私を助けてくれた。
こっちへ来たばかりの頃、どうせ誰も助けてなんかくれない、自分で自分を助けるしかないんだって思っていた。今思うと、すごくいじけた考えだった。ハルト様に言われた言葉が、ようやく身に染み込んでくる。そんなに冷たい人ばかりじゃないのだ。ただ私が、彼らと関わり合おうとするかどうか、それだけなのだ。
「私ばっかりじゃなく、そっちの話も聞かせてくださいよ」
「ええ、何でもどうぞ。なにが聞きたいのです?」
「えーと……結局、護衛の騎士以外に、追跡役の人は用意していたんですか?」
「だからどうしてそう色気のないことを」
頭上でため息をつかれた。だから色気なんぞ求めるなって。
「もっと、わたくし個人のことを聞いてくれませんか。それともわたくしになど、まったく興味を持ってくれないのですか」
「そういう話でごまかさないでください。大事なことじゃないですか」
「ひどい子。ええ、追跡役は忍ばせていましたよ。今頃は内通者を探り当ててくれていることでしょう」
ちょっと投げやりっぽい返事に、私は考えた。
「……やばくないですか?」
「何がです?」
「予定通りさっさと刺客を片づけて、問題なく帰っていたならよかったんですけど。それならすぐに次の手を打てましたから。でも今はそれができない……もし敵の首謀者が、実は罠だったんだと気づいたら、どうするでしょう?」
「…………」
「私だったら足がつく前に内通者を始末します。いわゆるトカゲの尻尾切りってやつで……」
髪をいじる手の動きが変わる。わざと私をからかういたずらな動きから、おそらくは無意識の、機械的な動きへと。
しばらく沈黙した後、カームさんは息をついた。
「そのとおりですね。なんてこと……失態に失態を重ねてしまいましたか」
せっかくの罠が意味をなくしかけている。なんのためにこんな危険を冒したのか。私もため息がこぼれそうになった。
「……敵の首謀者って、やっぱりエランドなんでしょうか」
「可能性としては、それがいちばんですね。君に言われたとおり、わたくしにも政敵はいますが、この時期に仕掛けるのは少々おかしい。彼らとて、ロウシェンと事を構えたくはないはずです。そちらの可能性も視野に入れつつさぐるつもりではありましたが、十中八九エランドで間違いないでしょう」
「エランドの皇帝って、どんな人なんですか」
次々と周辺の国を呑みこみ、拡大を続けている帝国。たった一代でそれをなしたのは、どんな野心家なのだろう。軍事力だけでなく、きっと知略にも優れた人に違いない。
「直接まみえたのは一度きりですが……そう、いろんな意味で強い人でしたね」
「強い……」
「強烈な存在感と言うのか……目を引かれずにはいられない人物です。わたくしより二つか三つ年上で」
「そんなに若い人なんですか」
「ええ。武に優れた人物で、見事な体格をしていましたよ。アルタ殿に負けていませんでしたね。見た目からして人を惹きつけ、強い指導力で臣下や国民から絶大な支持を得ている。皇帝の称号にふさわしい人物です」
カリスマ的な人なのだろうか。なんとなく、悪の帝国の欲深な親玉なんていうチープなイメージを持っていたのだが、そんなものではないらしい。
「そういえば、けっこうな皮肉を頂戴しましたね。わたくしに一晩いくらかと」
「……皮肉なんですか?」
「彼に男色の趣味があるとは聞きません。むしろ女好きと評判で。武勇とは無縁なわたくしを、女のごとしとからかったのでしょう」
「…………」
本当に皮肉だったのかな。いや、普通に考えたらそうなんだろうけど、なにせカームさんだから。この美貌とお色気の前では、ノーマルな男性ですらふらっといっちゃいそうな気がする。
「何を考えているのです?」
「いえ別に。それでカームさんは何と答えたんです?」
この王様のことだ、普通に腹を立ててみせたりはしなかっただろう。
「ではエランドの軍艦すべてをと。あの国は龍船を持ちませんが、造船技術はなかなかでしたからね」
「もらったら一晩おつきあいしたんですか?」
「むろん、冗談です。わたくしにも男色の趣味はありません」
「ないんだ」
「……君とは、本当にゆっくり話し合う必要がありますね」
「今話してるじゃないですか」
エランドの皇帝。いつか私も、その姿を目にすることがあるのだろうか。
平和な状況で会えるのなら、見てみたい気もするけれど。でも多分、私が皇帝とまみえることがあるとすれば、剣呑な状況の中でだろう。
だから会わない方がいい。会う機会が訪れないままであってくれと願いながら、いつかどこかで会うと、不思議に確信していた。