6
道から外れ、迷ったとはいえ、ここはまだ宮殿に近い場所のはずだ。お供の騎士たちだけでは人手が足りないし土地勘もないから見つけにくいだろうが、ハルト様に報告が行って捜索隊が出されれば、多分見つけてもらえるだろう。
私とカーメル公の意見は一致し、移動せずここで救助を待つことになった。
もうじき日が暮れる。ただでさえ足元の悪い山の中を、暗くなってから動き回るのは危険きわまりない。明るいうちにできるだけのことをしておこうと、私たちは付近を調べた。
私はどこかに水がないか探した。それほど暑さに悩まされないとはいえ、夏場に水を飲めないのは辛い。顔の腫れも冷やしたい。湧き水でもないかと思ったのだが、残念ながらそれらしいものは見つけられなかった。でもその最中に、実をつけた蔓植物を見つけられた。スモモくらいの大きさの紫の実には見覚えがあった。お母さん竜が子供たちのために採ってきて、私にもおすそわけしてくれたものだ。食べられることは確認済だったので、私はそれを採ってカーメル公の元へ戻った。
彼は不思議な作業をしていた。ナイフをまた取り出して、長く垂れた蔓植物を刈り取っている。一体どうするのだろうと見ていると、集めた蔓を木の枝にまきつけ、カーテンのように垂らした。
木に囲まれた、ちょっとした隠れ家ができあがっていく。上手く偽装してあるから、蔓はもともとそこに生えていたように見える。これなら追手が来ても、すぐに見つかることはないだろう。
感心している私に気付いてカーメル公が振り返った。手伝うべきかと足を踏み出しかけて、私はぎくりと立ちすくんだ。
ナイフの柄に血の汚れが残っていた。たまたま見えてしまったそれが、嫌な記憶を呼び戻す。そうだ、あのナイフが胸に刺さって――そして、人が死んだ。
血を流しながら倒れる身体や、崖を落ちていく姿がフラッシュバックする。呼吸が乱れる。めまいがする。
私の目の前で人が死んだ。私が、この手で……。
カーメル公は私の視線に気づき、ナイフを上着の下にしまった。こちらに背を向け、また作業に戻る。私は深呼吸をくりかえし、呼吸を落ちつかせる。頭を振ってめまいを追い払い、彼のそばへ歩いていった。
「お手伝いします」
「大丈夫、もう終わりますよ」
私では到底手が届かない場所に最後の蔓を巻き付けて、彼は振り返る。私の手の中のものを見て、にっこりと微笑んだ。
「おや、よいものを見つけてきましたね」
私は実を差し出した。
「向こうに、なってました。もう時期が終わりなのか、これだけしかなかったんですけど」
「渇きを癒すには十分でしょう。ありがとう」
六つある中のひとつだけを取って、カーメル公は蔓のカーテンを開けた。
「どうぞ。快適な空間とはいきませんが、身体を休める場所くらいはありますよ」
私は蔓をくぐって中へ入る。いいあんばいに、私たち二人が落ち着ける程度のスペースがあった。
私は木を背にして地面に座った。カーメル公も隣に座る。私たちは実を食べて喉をうるおし、一息ついた。
「……武器、持ってらしたんですね」
後のために残した実をとりあえず草の上に置いて、私は口を開いた。
「戦わないっておっしゃってたくせに」
「最終手段ですよ。相手の隙を突くくらいしかできません」
私は顔を上げないまま、白く長いカーメル公の指を見つめた。どこまでも繊細なつくりのそれは、騎士たちの手とは全然違った。この手は絵を描き、楽器をつまびくためのものだ。武器を持つためにはできていない。
その手にナイフを握り、戦ったのは、彼が助かるためではなく――
「……なんで、来たんですか」
気づくと私は疑問を口にしていた。
「あのまま隠れていれば、見つからずに済んだのに」
「こちらこそ聞きたい。なぜあんな真似をしたのです」
返ってきた声は、どこかひんやりしていた。
「君こそ、戦う技も力も持ち合わせていないというのに、刺客をわざと自分に引きつけるなど。自殺行為でしかないでしょう」
「しょうがないじゃないですか」
私は自分の足元に視線を落とし、息と一緒に吐き出した。
「死にたくなんかないけど、ああするかなかったもの。私だって、好きで危ないことしたわけじゃありません」
「何がしょうがないと言うのか。君に、わたくしを守る義務や責任などないでしょう。それはこちらが負うべきことです」
「義務とかじゃなくて……」
私は膝を立てて抱え、そこに頭を乗せた。
「ほうっておいたら殺されるのがわかってて、知らん顔で見殺しにできるほど図太くなれません。責任とかなくたって、目の前で人が死にかけてたら普通助けるでしょう。助けようともせずに見殺しにするなんて、どんだけ冷酷なんだって話じゃないですか。そんな非難を浴びても平気でいられるほど私強くないし、何より自分自身の罪悪感に押しつぶされます」
私は小心者だ。助けられるのに助けなかったという罪悪感に、責任がないからと言い訳して平気な顔をできるほど強くない。何も正義感に燃えているわけじゃない。しんどいことも面倒なことも、まして危険なことなんて嫌に決まっている。やりたくてやったわけじゃないが――しょうがなかったのだ。
あの時だってそうだった。私はずっとあの子にいじめられてきて、助けてやる義理なんてないはずだった。あの状況で見殺しにしたって、誰にも非難はできないだろう。無理だったんだって、堂々と言い訳できる状況だった。
でも私の脆弱な精神は、そんな開き直りを持てなかった。助けてやったからって、あの子が私に感謝して優しくなってくれるだとか、そんな期待をしたわけでもない。きっと感謝なんかされないってわかっていた。それでも、知らん顔で見捨てる強さを持てなかったのだ。
結果、あの子の代わりに私が海に落ちて、そのままなら死ぬところだった。
笑うしかない、貧乏くじ体質だ。
「カーメル様こそ、私を助ける必要なんかなかったでしょう。身を守る責任があるっておっしゃってたじゃないですか。そのとおりですよ。カーメル様に何かあったらシーリースが揺れます。ロウシェンだって他人事ではいられない。あのまま、隠れててくださらないといけなかったのに」
「そうしてわたくしに、少女を犠牲にして生き延びた卑怯な男になれと?」
「それが王様の責任なんじゃないですか? 時には卑怯も必要でしょう。私一人を助けるためにリヴェロの国民を……シーリースの民を危険に巻き込む方が間違ってます」
王様なんだから、罪悪感とも戦って勝ってよ。ちょっと意地悪な気分でそんなことを考えてしまう。助けに来てくれて、うれしくなかったわけじゃない。よけいなことだと、迷惑に思ったわけではないけれど……そこをよろこんでしまったらいけないのだとは、わかっていた。
この人は王なのだから。私とは比べ物にならないほど重く、たくさんの義務や責任を負っている。命すらこの人個人のものではない。
「ひどいこと。わたくしに、罪を抱えて生きよと言うのですか」
「この場合は罪にはならないでしょう。あなたは身を守ることを最優先しなければならない立場なんですから。私のためにご自身を危険にさらす方が、罪ではありませんか」
あの時の私とは違う。彼には責任があって、ここで死ぬわけにはいかない。私を見捨てることは、むしろ正しい選択なのだ。
「普通の人だって、自分の命がかかっていたら一人で逃げることを選びます。生き物の本能として、それは自然なことです。まして王様が身を守ったからって、喜ばれこそすれ非難する人なんていないでしょう」
「おかしなことを。君は逃げなかったではありませんか」
「私は……」
たしかに、言っていることが矛盾している。私は思考を整理して、説得力のある言葉に置き換えた。
「だから、弱いから。逃げる強さを持てないんです。それにもともと、死ぬはずだった人間です。ここまで生き延びられたのが奇跡なんです。ハルト様には返しきれないほどの恩を受けました。他のみんなにも。ここで役に立てたら、私にもちょっとくらい存在価値があったんじゃないかって思えます」
言いながら、ああそうかと初めて自分の気持ちを理解していた。
ユユ姫の時も、今回も、簡単に危険に身をさらせた。なんでそんなに勇気が出せたんだろうと不思議なくらいだ。でも、そうなんだ。私は本来ならとっくに死んでいる人間なんだから。そういう気持ちがいつも根底にあったのだ。
自殺願望があるわけではないけれど、今の状況がとても幸運な、奇跡の産物であることはわかっている。あの事故で、きっとたくさんの人が死んでしまった。私ひとりが反則的な幸運で生き延びて、その後も助けられて。ずるい、と思う。海に呑みこまれた人たちの誰もが、その幸運を望んだだろうに。
あの時のことを考えるのが辛かった。私だけが生き延びたことに、罪悪感を覚えずにはいられなくて、なるべく考えないようにしてきた。でもどこかで、ずっと考えていたんだ。
私は一度死んだ人間だ。生きている方がおかしい。だから、ここでまた死んだってしかたがない――と。
しばらく沈黙が落ちた後、カーメル公が静かに訊ねた。
「君は、誰なのです?」
「え?」
変なことを聞かれて、思わず顔を上げる。見上げた美しい人は、とても深いまなざしで私を見つめていた。
「君は何者なのか、ずっと疑問に思っていました。ただ事故で遭難して助けられただけというには、納得できないことがいくつもある。そもそも、君はどこの島の生まれなのです」
「……日本です」
「ニホン。聞いたこともない名ですね」
「うんと東の方にある島です」
「わたくしが知らないほどに遠い海の彼方というわけですか? ならばどうやって、そこからこの島までやってきたのです。それほど遠くの未知の島と交流している国などないはずですが」
「……船が沈んで、たまたまシーリースに流れ着いたんです」
「それならば、事故は近海で起きたことになります。遙か遠くの島からこの島の近くまで来た理由は?」
「…………」
カーメル公の追及は容赦ない。アメジストの瞳が嘘やごまかしは見逃さないと、まっすぐに私を射抜いてくる。
私はたじろいだ。別に、聞かれて困ることなんて何もないけれど。悪いことをしたわけじゃないし、隠す必要もないが、こんなふうに詰問されると、なんだか悪事を暴かれている気分になってしまう。
「遠い国の生まれという割に、言葉はちゃんと通じている。読み書きはまだ不自由しているようなのにね。気になることは他にもあります。離宮で会った時に、言っていましたね。君の国は隣国と仲が悪く、世界中どこもそんな感じだったと。百年も戦をした国もあったと。わたくしの記憶にはない話です。この周辺の国の話ではないと、すぐにわかりました。しかし君がでまかせを言っているようにも見えなかった。ならば、どこの話なのでしょうね?」
言ったっけか、そんなこと。どこでそんな話を持ち出したのか、自分で思い出せない。
「そしてひとつ、重要な事実があります。君は竜に愛されている。竜がなつくのは主人だけです。それとて、生まれたときから世話をしているからです。育ての親ですらない人間になつくはずがない」
「…………」
「不思議ですね。なぜ君だけが竜から特別扱いされるのでしょう。理由を考えて、ひとつだけ可能性を思いつきました。竜が無条件で従う相手といえば、龍しかいない」
「…………」
ちょっと、ちょっと、この人何なんですか。一人でどんどん真実に近づいていってるんですけど。怖いよ、どこの名探偵だ。
「竜の祖とも、王とも言われる龍――その能力は、天地海あらゆる場所を行き、そして世界の壁さえも越えて異なる世界とも行き来する……」
白く長い指が、私の頬を包み込む。まるでくちづけをするように、間近に顔を寄せて彼は私の瞳をのぞき込む。
「誕生日の話をした時も、多分もう過ぎているはずだなどとおかしな言い方をしましたね。それは暦をたしかめられないからですね? 読み書きに不自由しているとはいえ、君は暦を知らない無学な人間には思えない。君の知っている暦と、この世界の暦とが違うからでしょう。チトセ……君は、どこから来たのですか? なにに連れて来られたのですか」
目の前のアメジストに呑みこまれそうな錯覚を覚える。我知らず息を詰め、吐き出した胸が大きく上下した。
後ろ暗いことなど、何一つないはずなのに。
今の私の心境は、まさしく蛇ににらまれた蛙だった。
「……そう、やはり龍に運ばれて」
懸命に押しのけてなんとか元の体勢に戻ってもらい、木に背をもたせかけたカーメル公に、私はしつこいくらいに念押しした。
「偶然、たまたまです。私にも龍にも想定外のできごとです。私に何か特別な要素があったわけじゃありませんから。龍の加護があるっていったって限定的なものだし、龍が意識して私に与えてくれたわけでもないですし。基本的に私はただの、その辺の、普通の庶民です」
漫画の主人公みたいに特殊能力があるだとか神に定められた使命があるだとか、そんな曲解をされては困る。私の身に起こったできごとは、たしかに非凡なファンタジーだったが、私自身はいたって平凡で無力な一般人だ。私はただ偶然に転がされてこの地へ流れ着いただけだ。そこのところをきちんと理解してほしい。
一生懸命説明する私に、カーメル公はくすりと笑いをこぼした。
「普通の?」
「普通でしょう」
残念ながらね。ええ、私だって、もっと美人で賢くて、何か特別に優れた能力を持っていたかったですよ。私の特技なんてカラオケとゲームくらいで、何の役にも立ちやしない。
「普通ね……」
しつこくカーメル公は繰り返す。本当にちゃんと理解してくれたのだろうか。まだ何か疑われているんじゃないかと、びくびくする。
私は大きく息を吐き出した。
「別に秘密でも何でもなかったんですけど。でも異世界人だなんて言ったって、誰も信じないでしょう。頭がおかしいと思われるだけです。だから言わなかっただけで……出身がどこだろうと、生き物としては同じ人間ですし」
こちらの人々と私との間に、生物的な差はほとんどない。せいぜい食事量が違うくらいだ。それだって、日本人じゃなくアメリカ人とかなら同じくらい食べそうだから、まったく同じ生物だと言っていい。
「なんだか私、取り調べを受けている犯罪者の気分です」
やたらと疲れた私は、ついそんな愚痴をこぼしてしまった。
「さっきのカーメル様、怖かったです」
「そう。では、わたくしの気持ちも少しは理解していただけたことでしょう」
「……は?」
眉を寄せて彼を見る。カーメル公は先ほどの底知れない迫力をたたえた雰囲気ではなく、ごく明るいちょっといたずらっぽい顔をしていた。
「秘めたことを言い当てられた驚きと恐れを、君にも味わってもらえたのならしてやったりです。わたくしばかりが驚かされては、癪ですからね」
「なんのお話ですか」
「心当たりがないとは言わせませんよ。毎回、わたくしの目論みを看破して、ずばり言い当ててくれるのは誰ですか」
「……いや、けっこうわかりやすい状況でしたし」
「わたくしが浅はかだというのでしょうか。そのにくたらしい口を封じてやりたくなりますね」
口封じって、笑顔でさらっと怖い冗談を言わないでほしい。王様が言うと洒落にならない。
「でもチトセ、ひとつだけ言い訳をさせてください」
「いいわけ?」
内心びくびくして相手の出方をうかがう私に、カーメル公は苦笑まじりに息をついた。
「そう警戒しないで……わたくしは、君を利用するために誘ったのではないのです。本当に、ただ君と過ごしたかったのですよ。言い訳にしかなりませんが、これだけは本当のことです」
「…………」
「せっかくだからその状況を利用できるとは考えましたがね。刺客をおびき出すのにちょうどよいと。君と楽しく遊び、ついでに内通者をあぶり出すことができれば一石二鳥だと。よいですか? そちらがついでです。君と過ごすことが第一の目的だったのですよ」
「…………」
私はとてつもない脱力感を覚えて、どっと息を吐き出した。返事をする気にもなれなかった。
何を力説しているんだか。結局、利用したのは一緒じゃないか。どっちが先か後かなんて、大した問題じゃない。胸を張って主張できることじゃないだろうに。
でももう怒る気にはならなかった。先に言ってくれればよかったのにという文句は、さっき言ってしまったし。同じ話を何度もくり返すのはめんどくさい。王様だから、私とはものの考え方も価値観も違うだろうしね。それに腹を立てても疲れるだけだろう。
まあ、問題が山積しているのに女の子と遊ぶことしか考えない人でも困る。これはこれでありなんだろう。私一人が我慢しておさまる話なら、もういいや。これ以上考えるのはやめよう。
でも、せっかくだから私もこの状況を利用させてもらおうか。
「取り引きを、しませんか」
「取り引き?」
「今回の件にロウシェンの人間が関わっている可能性は大きいです。それも、だまされて利用されているのではなく、積極的に暗殺計画に協力しているのでしょう。でなければ、あれだけの人数を潜入させかくまうことはできません」
「そうでしょうね」
不特定多数の人が出入りする時期とはいえ、外国人が入り込むのは容易ではない。リヴェロとアルギリの一行に紛れ込むくらいしか、宮殿に潜入する手段はないだろう。リヴェロは除外として、アルギリだって今カーメル公に死なれたら困るはずだ。
だとすれば、ロウシェンの人間が敵に内通している可能性が高い。
「もちろん、ハルト様のご意志とは関わりのないことです。ハルト様は三国の結束を固めてシーリースを守ることを望んでいらっしゃいます。それに、暗殺なんて考える人じゃありません」
「ええ」
「内通者はただの裏切り者。とはいえ、ロウシェンの手落ちには違いありません。そのことを非難しないでいただきたいんです。この件を口実にロウシェンを責めたりしないで不問にしていただけるなら、カーメル様が危険と知りながら私を利用したことも追及しません。お互い様ということで、手を打ちませんか」
背筋を伸ばしてカーメル公に向き直る。自分よりひとまわりも年上の、経験でも知識でも到底かなわない大人が相手だが、私は一歩も引く気はなかった。
これは大切なことだ。なんとかして、彼から言質を得ておかないと。
「さて、どうしましょうか?」
意地悪くカーメル公は笑った。
「その条件は少々釣り合いませんね。君を巻き込んだのは事実ですが、それが意図的なものであるとどう証明します? 君を盾にしたわけでもなく、ちゃんと守っていましたし。追及されてもどうということはありませんね」
「証明なんか必要ありませんよ。ご存じでしょう? 人のうわさって怖いんです。事実でないことも時に事実として認識されてしまう。基本的に人間って刺激的な噂が好きですしね。王族のスキャンダルなんてワイドショーの定番ネタです。普段品行方正な人が問題起こすと、ことさらに大きく取り上げられるものです。日本の政治家は足の引っ張り合いが多くて、ちょっとした失言やスキャンダルで更迭されちゃった人もたくさんいます。王様を更迭はないでしょうけど、カーメル様にだって政敵くらいいるでしょうから、格好の攻撃材料を与えることになりますよね。メリットデメリットを考えれば、乗っておいた方がいい取り引きだと思いますけど」
私も薄く笑みを浮かべて言い返した。ここは度胸とはったりだ。気おくれしたら負けである。正直分の悪い提案なのだが、弱気を見せてはいけない。おたがいさまだと堂々としていなければ。
子供が何をえらそうにと、一笑に付される可能性もある。ただなんとなく、カーメル公はそうはしないのではないかと思った。すべてを信用するには癖のありすぎる人だけれど、そこは信用してもいいのではないかと思う。
しばらく無言のにらみ合いが続き、折れたのはカーメル公の方だった。彼はあきらめたように息をつき、肩をすくめた。
「これだから、君は怖い。誰が普通なのですか」
「普通ですよ」
内心私はほっとする。突っぱねようと思えばいくらでも突っぱねられる話なのに、彼は受け入れてくれるようだ。私を巻き込んだことに対する謝意のつもりだろうか。腹黒い策士ではあるけれど、悪人じゃないんだよね。むしろいい人かもしれない。
カーメル公は片膝を立て、リラックスした姿勢に戻っている。普段は装飾の多い長衣に隠された脚が、すらりと目の前に投げ出されている。細身のパンツスタイルは正直けっこうかっこよくて、なんというか……脚長いよね! 座高低いよね! 並んで座りたい人じゃないよね!
念のために断っておくが、私が彼より座高が高いだなんて、そんな馬鹿なことはない。もちろん私の方が低いとも。ただ、立っている時は肩にも届かないのに、座っていると視点が肩に近づいて、その事実にものすごく複雑な気分になる。
「もうひとつ条件をつけてくれるなら、その提案に乗りましょう」
ひそかにやさぐれる私に、カーメル公は言った。
「なんですか」
「君が、わたくしの元へ来てくれるなら」
私は首をひねった。
「また何かのお誘いですか?」
「誘いといえば誘いですが……」
「ちゃんと最初から目的を教えてくださるなら行きますよ。少々危険でもかまいません。そのかわり、隠し事はなしにしてくださいね」
「…………」
カーメル公は何とも言えない顔で私を見つめる。なんですか、その残念な子を見るまなざしは。
「君は、何歳だと言いましたか?」
「なんですか、今さらに。十七だって言ってるじゃないですか」
「本当に?」
「この歳でサバは読みません」
カーメル公は深々とため息をついた。だから何なのだ、その反応は。
「わたくしは、君をリヴェロに連れて帰りたいと言っているのです。ハルト殿の許を離れて、わたくしのものになってほしい」
「えー」
礼儀を忘れて、つい私は顔をしかめてしまった。
「なんですか、それは。今度は何をたくらんでらっしゃるんです?」
「人聞きの悪い。わたくしは常にたくらみごとをしている人間だと思われているのですか」
「違うんですか?」
「……他意はありません。君がほしいと、そう言っているだけです」
「だから何のために」
「……わざとですか?」
「え、何が?」
「…………」
とうとうカーメル公は片手で顔を覆ってしまった。私はそんなにおかしなことを言っただろうか。首をひねりながら、ここまでの会話を振り返る。
私がほしい、連れて帰りたいという言葉に、何の裏も思惑もないのだと仮定して、ではどういう意味だと考えれば。
――まあ、普通に考えて、私自身を求めているってことだよね。しかしなぜ求められるのかがわからない。カーメル公が私を求める理由なんて、何もないだろうに。
「……あ、もしかして」
ひとつ、思い当たった。
「私がいろいろ言っちゃったものだから、政治に役に立つとか考えてます? ないですよ、そんな能力。異世界人だからって、特殊能力は一切ありません。いずれは役に立つ人間になって、バリバリ働きたいと思ってますけど、遠い目標です。今はこの世界のことを教えてもらって、一生懸命勉強している最中です。連れて帰っても何の役にも立ちませんよ」
「いえ……ああ、ええ……そう、それはたしかに考えていましたね」
疲れた声でカーメル公は言う。
「しかし今となっては……」
「……?」
「――いいえ」
息と一緒に笑いをこぼし、彼は私を見た。しかたないなという苦笑。何がしかたないのだろう。私が馬鹿なことか。
「わたくしが悪かったのですね。少々、急ぎすぎたようです。もっとゆっくり進めねば」
「はい?」
何をだ。
「撤回しましょう。今は、まだよい。かわりに……お願いした名で呼んではくれませんか」
名前――お願いされた名前って、あれか。
「カームさん?」
ごたごたしていて、すっかり忘れていた。いや、最初は覚えていたけれど、彼に腹を立てていたからそんな呼び方をしてやりたくなかった。で、元通りカーメル様って呼んでいたら、そもそも違う呼び方があったなんてこと、さっさと頭から消し飛んでしまった。
「その名前って、何か意味でもあるんですか」
「特別な相手にだけ、許す名です」
「へえ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……え、そんな名前私が呼んでいいんですか?」
またため息をつかれた。どうでもいいが、疲れたような、ちょっとやけ入っているような顔って、この人にしては珍しいよね。面白い、なんて口には出せない内緒だけれど。
「君にだからそう呼ばれたいのです」
「友達に、なってくれるんですか?」
「……まあ、最初はそこから」
友達。それは、私にとっては最高の言葉だ。私と友達になってくれる人がいるのは、踊り出したいほどにうれしいことだ。
でもこの人に言われたのでは、素直に信じて喜ぶ気にはなれない。どうしても裏を勘ぐってしまう。だってこの王様が、シーリース三国一の腹黒公王が、何の思惑もなくただの小娘の私と友達になんて、考えるか? ありえない。
「なぜそんな目で見られるのでしょう……わたくしはそれほど、君の中で印象が悪いのでしょうか」
「胸に手を当ててお考えになってください」
「……君にはずっと、好意を見せてきたつもりですが」
「裏もね」
「…………」
でもまあ、呼び方くらいならいいか。人前で親しげに呼んだら変な誤解をされそうだから、あくまでも二人の時にだけ。それだとまた忘れてしまいそうだから、心の中でもカームさんと呼んであげよう。
裏はどうしても疑ってしまうが、彼に対する嫌悪感はずいぶんと薄れていた。もうそれほど嫌いだとは思わない。油断のならない怖い人だとは思うけれど。
内心を隠してうわべだけの笑顔を取りつくろって、だましてやろう利用してやろうと近づいてくる人間は大嫌いだ。でもこの人が腹黒い策士だってことはすっかりバレバレで、本人も開き直って認めてしまっている。いい人ぶらないで素直に腹黒いところを見せてくれるなら、それほど反発は感じなかった。
「じゃあ、取り引き成立ですね。さきほどの件、よろしくお願いしますね、カームさん」
「よろしいでしょう。もとより、ロウシェンの友誼は疑うべくもありません。これまで通り、力を合わせて外敵に対抗いたしましょう」
美しい微笑みを取り戻してカームさんが手を差し出す。私は何の疑いもなく応じた。うっかりしていた。こっちには握手の習慣がないのだと忘れていた。
握手をしようと横向きに差し出した手をすくい上げられ、口許に寄せられた時点で気が付いてあわてて引っ込めようとしたのだが、遅かった。にやりと意地の悪い笑みを見せながら、強引に私の手を引き留め、カームさんはそれはそれは麗しく優雅に、くちづけを落としてくれたのだった。