5
「だいじょうぶ……大丈夫ですから。ここに刺客はいません。騎士たちがすべて始末してくれますから、心配しないで。大丈夫ですよ」
カーメル公の声が、私の耳元にささやき続ける。大丈夫と言いながら、周囲に聞こえることのないように、私にだけ聞こえる小さな声で言う。
私が何の反応も返さないから、彼は戸惑っているようだった。
「チトセ、大丈夫ですよ。君にはけして手出しさせません。かならず、無事にハルト殿の元へ帰してあげますから」
大きな木と茂みに隠れた場所で、私たちは息をひそめている。地面に腰を下ろしたカーメル公は、膝の上に私を抱いて、ずっと髪をなで続けていた。
「すぐに終わります。もう怖いことは起こりませんよ。だいじょうぶですから……ね?」
長い指が頬をなでる。私は自分の膝に視線を落としたまま、口を開いた。
「あれは、エランドの刺客ですか?」
「…………」
指が動きを止める。
「これが目的だったんですね。狙われていることを、知っていたんでしょう? わざわざこんな場所へ出かけて、いかにも隙があるように見せかけて、刺客を誘い出したんですね」
「チトセ……」
私はゆっくりと顔を上げる.。いつも余裕の笑みをたたえた美しい顔に、今どんな表情が浮かんでいるのだろうと見上げた。
笑ってはいなかった。無表情に近いが、少しだけうしろめたさをのぞかせている。素の表情なのかもしれないが、今の私にはわざとらしい演技としか思えなかった。
思わず、口元がゆがむ。私の顔に浮かんだのは、軽蔑の笑いだろうか。それとも、まんまと利用された己への自嘲だろうか。
「油断して隙を作っているように見せかけるには、女連れで出かけるのがいちばんですよね。わかってみればありがちな手段ですが……宴の時から親しげにしていた相手を連れ歩いていたから、向こうもだまされてしまったようですね」
「…………」
「ただ襲われて撃退しましたってだけじゃ、仕掛けた意味がない。護衛の騎士以外に、どこかで隠れてようすを見張ってた人がいるんじゃないですか? 刺客を全員返り討ちにはせず、ひとりくらいはわざと逃がして、どこへ逃げ込むのかを突き止める。そうして、誰がエランドに通じているのかを、探り当てようとしたってところですか」
どうりで、ハルト様が複雑な顔をしていたわけだ。
きっとハルト様も、カーメル公が狙われていることを知っていた。この作戦を知っていたかどうかは不明だが――ハルト様なら、私を巻き込むことは了承しない気がする。多分カーメル公の独断だろう。
私の推理は、一部は当たっていたけれど、おおむね外れだった。カーメル公が釣り出そうとしていたのは私の知り合いなどではなかった。連れ歩くのは誰でもよかったのだ。刺客を油断させられるような、いかにも呑気に遊んでいるように見せかけられる相手なら。
たまたま私がちょうど条件に合っていて、都合がよかっただけだ。
ハルト様め。こんな事情があるなら、ちゃんと教えてくれればよかったのに。きっと私に、暗殺の話など聞かせたくなかったのだろう。いつもの過保護を発揮して、結局私を必要な情報から遠ざけた。
……いや、ハルト様を責めるのは間違いだ。私はカーメル公に何かたくらみがあるらしいことは察していた。だから断ることもできたのだ。でもそうはせず、わざと彼の策に乗った。どんな動きが出るかなんてのんきに考えて、危険があるかもしれないと思いつかなかった私が馬鹿なんだ。誰のせいでもない、自己責任だ。
やっぱり、自分を笑いたい気分だ。
「……申しわけありません」
カーメル公が素直に謝った。と、いうことは、私の話を認めるのか。
「君の言うとおりです。ここ最近、わたくしの周辺に刺客がうろついていました。エランドの差し金かどうかはまだ断定できませんが、その可能性は高い。前回も第一に狙われたのはわたくしでしたからね」
そうだろうな。私だってやるならカーメル公から狙う。アルギリのクラルス公がどんな人かはまだ知らないが、ここまで見た印象では自分の感情も隠しきれないような人物だった。年も若いし、老獪さではカーメル公には及ぶまい。ハルト様は誰もが認める温和で優しい性質だし、敵として、いちばん厄介で邪魔なのはカーメル公だろう。真っ先に排除したいと思うはず。
ロウシェンの宮殿内で襲撃を受け、それでカーメル公が命を落としたら、たとえエランドのしわざだとわかってもリヴェロからロウシェンは非難されるだろう。警備体制はどうなっていたのか、なぜ宮殿内に侵入を許したのかと。それで両国の関係にひびが入れば、三国の結束なんてあっさり崩れる。エランドとしては一石二鳥だ。
「今回の会談は刺客側にとっても、わたくしにとっても好機でした。警備に隙が生じ、狙いやすい時期……それを逆手に取りました」
「うまくいきましたか?」
「おそらくは。ただ、予想していた以上に刺客の数が多かった。本当はここまで君を危険にさらすつもりはありませんでした」
物陰に隠れた状態のまま、カーメル公は動こうとしない。まだ完全に危機が去ったわけではないと、警戒しているのだろう。
「人数は最小限に抑えましたが、護衛についていた騎士たちは我が国の精鋭です。刺客ごときにたやすく後れはとりません。もっと簡単に終わらせるつもりだったのですが」
カーメル公は私を抱きしめ、また髪をなでた。
「本当に、君には申しわけないことをしました。怖い思いをさせてしまいましたね」
「その『申しわけない』は、読み違えたことに対してですよね? 私を利用したことにではありませんよね?」
「…………」
「謝るところが違いませんか? 根本的に考え方がずれてますよ」
「……申しわけありません」
私はカーメル公の胸を押し、身体を離した。彼は逆らわず、私から腕を放した。
「利用したいならそれでもかまいません。リヴェロだけの問題じゃない、シーリース全体に関わる問題なんですから、こういう事情だと説明して協力を求めてくださったらよかったんです。私が少しでも役に立てるなら、ハルト様への恩返しになるから、喜んで協力したのに」
「…………」
「私の意志は求めていない、勝手に利用する。それが不愉快ですね。王様なんてそんなものかもしれませんけど」
カーメル公の膝から下りて、立ち上がる。周囲の森に、人の気配はなかった。
「大分離れたせいかな……剣の音とか聞こえませんね。もう終わったのかな」
「わかりません。騎士たちが迎えに来るまでは、ここにいた方がよいでしょう」
私は唇の端に笑いを引っかけて、カーメル公を見下ろした。
「いつも気取ってらっしゃるくせに、部下たちにだけ戦わせて自分はこそこそ逃げ隠れすることには抵抗ないんですね。男性として、あまりいい格好には見えませんけど」
我ながらけっこうな暴言を吐いていると思う。いくら優しく愛想よく接してくるとはいえ、相手は一国の王だ。そんな人物を相手にここまで言ったら、普通は罰を覚悟しないといけないだろう。
でもこの状況で、無礼だとわめけばみっともないのは向こうの方だ。
カーメル公は私の挑発に乗らなかった。
「わたくしは戦いませんよ」
静かに言い返す。
「戦うのは騎士の仕事です。わたくしは王ですから、自ら剣を取ることはしません。戦えば、傷を負うこともある。悪ければ命を落とす。わたくしはそのような危険に身をさらしてよい立場ではありません」
「刺客をおびき出す囮にはなるのに?」
「ちゃんと、護衛を付けていたでしょう?」
微笑むカーメル公は、虚勢を張って言い訳を口にしているというふうには見えなかった。
「ハルト殿も同じですよ。彼はわたくしと違って剣の心得がおありですが、だからといって戦おうとはなさらない。まず第一に、己の身を守ることを考えます。それが、わたくしたちの責任ですから」
「…………」
ハルト様、剣が使えたのか。初耳だ。あの人こそ荒事は絶対無理だと思っていた。
ちょっとした意地悪のつもりで言ったのに、なんだかこっちがやりこめられた気分だ。カーメル公の言い分は、正論だと認めるしかなかった。
格好つけて危険な場所に出てくる人より、ちゃんと後ろで守られている人の方がいい王様に決まっている。こんな考え方は嫌だけど、騎士が一人や二人、十人二十人死んでも国は揺らがない。でも王は一人しかいない。将棋だってチェスだって、王が取られればゲームオーバーだ。
急に、カーメル公との差を感じた。年齢とか経験とか立場とか、いろんな差だ。
自分の立場と責任をわきまえて、表面的なことにこだわらず正しい行動を取るカーメル公の前で、私は憎まれ口を叩くだけの馬鹿な子供でしかない。それが悔しくて恥ずかしい。
……何か、勘違いしていたのだろうか。この人と対等に話せるような人間になったつもりで、思い上がっていたのではないか。
向こうが私に合わせてくれていただけだ。私は物を知らない未熟な子供にすぎないのに、ずいぶんと偉そうな態度を取ってしまった。自覚すると、たまらなく嫌になる。自分も、カーメル公も、この状況も、何かもかもが嫌だ。
ほとんど八つ当たりな気分で私はカーメル公に背を向けた。
「どこへ行くのです」
「ようすを見てきます。もう終わってるなら、向こうもカーメル様のことを探しているでしょう」
「いけません。まだ安全とは限らない。ここにいなさい」
「私が狙われてるわけじゃないんだから平気です。刺客にとって私なんかオマケでしょう。カーメル様はそこにいらしてください」
私は振り返らないまま駆け出した。後ろでカーメル公が呼び止める。でも聞かなかった。
なんで私がこんな気分にならないといけないんだろう。カーメル公は刺客をおびき出す罠に、勝手に私を利用した。いくら護衛がついていたって、危険がまったくないとは言えない話だ。どう考えても悪いのは向こうじゃないか。なのに、なんで私が負けた気分になっているの。
くやしい。今はカーメル公と一緒にいたくない。ふてくされているだけだって、自分でもわかっているけれど、これ以上あの人と自分の差を見せつけられたくない。自分が馬鹿だって思い知らされたくなかった。
元来た方向へ私は進んだ。周囲は鬱蒼とした森だが、道に戻る方向はわかる。私は辺りの気配に注意を払いながら歩いた。
少し離れた場所からかすかな人声と物音が聞こえ、足を止めた。カーメル公を探しに来た騎士たちだろうか。逆の可能性もあるので、すぐに飛び出したりはしない。木陰に隠れて音のする方をそっとうかがった。
男が二人、歩いてくる。騎士ではなかった。似たようないでたちで腰に剣を提げているが、護衛の中にあった顔ではなかった。
……刺客なのだろうか。
私は木に身体を寄せて身を隠し、息をひそめた。男たちは私に気付かず、すぐ近くを通り抜けた。
「いないな……こっちの方に逃げていったと思ったが」
「女連れだ、そう遠くまで行けるはずがない。近くにいるはずだ」
「さっさと仕留めないと、騎士どもがやってくるぞ」
聞こえてきた会話に冷や汗が流れた。やはり刺客だ。見つかったら殺される。暴れ出す鼓動に耐えて、私はじっと隠れ続ける。
――でも、待って。
男たちが歩いていく方向。そっちは、カーメル公がいる方だ。
あのまま進んでいったら、見つかってしまうかもしれない。
カーメル公も追手に気付いてうまく隠れていてくれればいいけれど。でももしかして、私を追って出てきていたらどうしよう。戦うことのできない人が刺客を二人も相手にして、無事に済むはずがない。
騎士たちはまだ来ないの? 私はすがる思いで周囲を見回した。どうして刺客しか現れないの。早く助けに来てよ。
あわてている間にも男たちはどんどん進んでいってしまう。だめだ、ぐずぐずしている暇はない。あいつらを違う方向へ誘導しないと。
私は隠れていた木陰から飛び出した。男たちと違う方向へ向かって走り出す。物音に気付いて彼らがこちらを振り返った。
「いたぞ!」
たちまち追ってくる。私はもう振り返ることなく、森の中を必死に走った。
これでどうにかカーメル公からは引き離した。でもこの後どうしよう。作戦なんて何も考えていない。考える余裕もない。ただとにかく、カーメル公と鉢合わせするのだけを防ぎたかった。
周囲を見回しても、どこも同じ風景ばかりだ。木と草しか視界に入らない。何か、どこか、見つからないか――
木の根に足を取られる。私はこんなに走りづらいのに、追手はどんどん迫ってくる。もう息遣いが間近に聞こえるほどだ。逃げきれないのはわかりきっていた。私は低木の茂みを背にして立ち止まった。
抜身の剣を手に、男たちが近づいてくる。
「女だけじゃないか。リヴェロ公はどこだ」
男たちは周囲を見回した。彼らの目的はカーメル公だ。私一人を見つけたってしかたがない。
「おい、リヴェロ公はどうした」
目の前に切っ先を突き付けられた。
「……知らない」
「とぼけられると思うな。きさまなどに用はない。今すぐ殺してやってもいいんだぞ」
今すぐじゃなくたって、どうせ殺すつもりのくせに。
「本当にわからない……逃げてる途中ではぐれたから」
私に剣を向けた男は、いまいましげに舌打ちした。剣を下ろしたかと思うと、私の腕を乱暴につかんで引き寄せる。もう一人の男は近くにカーメル公が隠れていないかと、木の陰や茂みをのぞき込んでいた。
「いないな」
「くそ、外れか。この餓鬼のせいで逃げられた」
憎悪にぎらつく目が間近から私をにらむ。演技でなく身がすくんだ。一度は下ろされた剣が、また私に向けられる。
「たしかそいつは、ロウシェン公のお気に入りとかいう話だったぞ」
「それがどうした。こんな小娘一人に価値などあるまい。人質の役にも立たん。さっさと片付けるぞ」
私に剣を突き立てようと、男が無造作に構える。私はぎゅっと目をつぶった。ああ、どうか一瞬で済みますように――
「待ちなさい」
艶めいた声が静かに割って入った。思わず私は恐怖を忘れて目を開いた。私をとらえる男もふりかえっていた。
「わたくしはここにいます。その子を放しなさい」
――そんな。どうして。
カーメル公が歩いてくる。周囲に騎士の姿はなく、彼一人だけが刺客の前に姿を現している。
どうして、いるの。
せっかく引き離したと思ったのに。なんでここにいるの。
信じがたい思いで彼を見つめる。黒髪の麗人は無防備な丸腰のまま、数メートル手前で立ち止まった。
いきなり放り出されて、私はその場に尻餅をついた。凶暴な狩人たちが目を輝かせて獲物へ向かう。だめだ――駄目だ!
私は今解放されたばかりの男に、自分から飛びついた。丸太のような脚にタックルする。後ろから不意をつかれて、男は地面に倒れた。
「この餓鬼っ!」
振り上げられた剣を避け、今度はその腕にしがみつく。もみあいになった。髪をつかまれ、引っ張られる。ぶちぶちと引き抜かれる音が、びっくりするほどはっきり聞こえた。
殴られても私は死に物狂いで男にへばりついていた。すぐそばが灌木の茂みだ。それをたしかめながら、全身に力を込める。
「この……っ、邪魔な餓鬼がっ!」
男を押しやるには力が足りない。そう思った時、横から別の人間が体当たりしてきた。こんな時なのに意識してしまう、上品な花の香り。カーメル公が手にした何かを男の胸に突き立てる。
「ぐ……あ……っ」
男が胸を押さえ、よろめく。そこから大量に流れ出す赤い色。口からも血を吐いて男は倒れた。
細い小ぶりのナイフを手に、カーメル公は私を引き寄せる。ナイフが血で汚れている。この人には似合わない色だ。こんな汚れをまといつかせてはいけない人だと、そんなことを考えてしまう。
「こんのぉ――っ!」
もう一人の刺客が襲いかかってきた。カーメル公は私を引いて、素早くかわす。空振りした男の目の前が茂みだった。それを認識するのと同時に、私はカーメル公の手を振り払って飛び出した。
振り返ろうとする男の体勢が整いきらないうちに、全身でぶつかっていく。男は私を抱えるような状態で後ろへよろめいた。茂みに踏み込む。
その足元が不意に崩れた。
「あ――うわああぁっ!」
踏むべき地面を失って、男は崖を転がり落ちていった。
灌木に隠された崖。それに気づいていたのは、私だけだった。
私も勢いを殺せず、そのまま落ちてしまう。けれど身体が軽いのが幸いして、斜面に生えた木に引っかかった。刺客は枝を折って落ちてしまったけれど、私はそこでかろうじてストップできた。
下を見て、今頃ぞっとする。おそろしく高い崖だ。木々に隠されて下の地面は見えない。さっきの男がどうなったのかもわからない。
私は下を見ないようにした。いつ枝が折れて落ちるかわからない不安定な状況が怖い。一緒に落ちるつもりだったのに、助かってしまうと恐怖心がふくらんでくる。震えるおのれを、あの世へ直行でなくてよかったとなだめる。深呼吸して上を見上げると、崖から身を乗り出して見下ろしているカーメル公と目が合った。
「…………」
カーメル公が深く息を吐く。元々色白な顔が、さらに蒼白になっていた。
「そのまま、じっとしていなさい。動いてはなりませんよ」
固い声で彼は言って、周囲の枝を伝いながら崖を下りてきた。
「だ、だめです。危ないですよ」
「動くのではありません! じっとしていなさい」
私を叱りつけ、少しずつ下りてくる。周囲をさぐり、足場にできる場所を選んで慎重に近づいてくる。自分の状況も怖いけれど彼を見ているのも怖かった。足元が崩れないか、手が滑らないかとひやひやする。
手が届くところまで来ると、彼は私にゆっくり動くようにと言った。手をつなぎ、引っぱられる。私をしっかり抱きよせて、彼はまた息を吐いた。
「寿命が縮みました……なんて無茶をするのですか」
「人のことが言えますか? 無茶はそっちも一緒じゃないですか」
「この状況でも口が減らぬとは。……そちらの方へ移動しますよ」
比較的しっかりした足場になりそうな場所へ、私たちは移動する。大きな岩が張り出した場所で、どうにか歩けそうな幅があった。
「上に戻るよりも、このまま下りた方がよさそうですね」
カーメル公は周囲を確かめて言う。崖は途中で段差ができていて、こちらには十メートルほど下に平らな地面が見えていた。無理に上ろうとするよりも、あそこへ下りる方が安全だ。
私たちはそろそろと崖を下りた。前回も崖から落ちたのに、こんなのばっかりだと下りながら考えたが、山の中なんだからしかたがない。後に知ったことなのだけれど、このエンエンナ山は見た目の美しさに反して、崖だらけの非常に登りにくい危険な山なのだった。安全なのは宮殿が作られている一角だけで、そこはちゃんと整地されているけれど、一歩外れて山の中に踏み込めば遭難の危険がすぐそばにある。城壁などを持たなくても、ロウシェンの宮殿は天然の守りに囲まれているのだった。
ようやく下まで到着して、私たちはほっと息をついた。よくもまあ、助かったものだ。刺客ふたりを相手にして、崖から落ちかけて、大した怪我もなくこうして立っていられるだなんて。
「カーメル様、お怪我はありませんか。さっきの刺客ともみ合った時に、どこかやられたりしませんでしたか」
私が格闘している間、他の二人がのんびり傍観しているはずもない。そっちはそっちでやりあっていた。よくそれをかわして私の方へ来られたものだと感心する。
乱れた服を整えていたカーメル公は、あきれたまなざしをこちらへ向けた。
「それはこちらの台詞ですよ。君こそ怪我は……と、聞くまでもありませんね。ちょっと、こちらへいらっしゃい」
「私は大丈夫です」
「どこがですか。こんなに腫らして……」
私の頬にそっとふれる。そういえば殴られたっけ。もう必死のがむしゃらだったから痛いとか思う余裕もなかったが、自覚するとこめかみの下辺りが痛かった。嫌だな、顔が腫れてさぞかしブサイクになっているんだろうな。髪の毛もいっぱい抜けたから、頭がひりひりする。
カーメル公は私の前に膝をつき、全身をたしかめていく。くしゃくしゃになった髪を手櫛で直してくれ、他に怪我はないか調べる。
「……ひどいのは顔だけですか」
「ひどいですか」
「怪我が、ですよ」
「わざわざ断られると、かえって違う意味に聞こえます」
「憎まれ口を叩く余裕はあるようですね」
苦笑して立ち上がる。どうやら彼の方も大きな怪我はなさそうだ。よかった。
「冷やせるとよいのですがね……どこかに水がないものか」
そういえば、滝の音が届かない。ここは山のどの辺りなんだろう。
私は周囲を見回し、そして気が付いた。ひとまずの危機は脱したものの、別の問題に直面していた。
「カーメル様……ここから遊歩道に戻ること、できますか」
私が気づいたことに、彼もとうに気づいていたようだった。肩をすくめてあっさりと言う。
「わたくしは外国人ですよ。土地勘もないのに、戻れるとでも?」
「威張っておっしゃらないでください」
やばい……完全に迷子だ。
隠れていた場所から大分離れ、そのうえ崖から落ち――いや下りて、違う場所に来てしまった。もうどっちが元来た方向なのかもわからない。
今頃騎士たちがカーメル公を探しているだろう。でもまさか、こんなところにいるとは思うまい。
私は困り果ててしまった。大声を上げて助けを呼んだりしたら、何が来るかわからない。味方ならいいけれど、また刺客が来たら今度は切り抜けられる自信がない。
山で遭難したらどうすればいいんだっけ。遭難のニュースはよく目にしたけれど、その場合の心得までは知らない。そもそも私たちは登山客ではない。優雅にお散歩していただけで、ハイキングの装備すらしていなかった。
このまま救助が来なかったら、真剣にやばい状況だ。
私は木々の合間にのぞく空を見上げた。夏の日は長い。そろそろ夕方になるはずだが、頭上はまだ青かった。
けれど昼の色とは確実に違う。夜に向かい、青さから輝きが失われつつある。
夜になったら、どうなるんだろう。
テントもない。明かりひとつない。ただこの身だけで、どうやって乗り切ればいいのだろう。
サバイバル能力の欠片もなく、遠出といえばせいぜい同人誌即売会くらいなインドア人間には、大いなる試練だった。