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カーメル公との約束の日、私は朝食の席でハルト様にその予定を報告した。
「カーメル殿のところへ、か」
「はい。お土産をくださるそうなので、行ってきます」
お粥を食べ終わってごちそうさまをする。お茶を飲む私の前で、まだまだ食べているハルト様は少し考えるようすだった。
「何か問題ですか?」
「問題はないが……一人で行くのか?」
「そのつもりですが」
ユユ姫を誘うことも考えたのだが、外を散策しましょうという話になったためその案は却下するしかなかった。なんでも三の宮から山の中へ出られる林間コースの遊歩道があるそうで、せっかくいい季節なのだからそこを歩こうと提案されたのだ。
山歩きは趣味ではないが、多分さほどハードなコースではないだろう。カーメル公だってアウトドアとは無縁そうな人だ、オリエンテーリングにはなるまい。景色を楽しめる散歩道を、優雅に歩くだけだろう。ここで、お土産を渡すだけじゃないのかよというつっこみはしない。彼の目的が私を誘い出すことなのは明白だから、黙って乗ってやりますとも。密室で会うよりはよほどましな気がするし。
と、私は簡単に考えていたのだが、ハルト様の反応は違った。食事の手を止めて考え込んでいる。そんなに問題視されるとは思っていなかったので、私は首をかしげた。
「行かない方がいいですか?」
「いや、行くのはかまわん。ただ……そう、誰か供を連れていくとよいのだが」
「一人で行くのは礼儀違反なんですか?」
「そういうことではない。今は外部から人が大勢入り込んでいて、普段とは違うからな。何かあってからでは遅いので、用心をしておくべきだろうと思うのだ」
「何に対する用心ですか? いくらお客さんがたくさん来ているからって、まさか宮殿内で犯罪が起きるとでも?」
「……まったく可能性がないでもない」
真面目な顔でハルト様は言った。
「リヴェロとアルギリの一行だけでなく、ロウシェン側も遠方から人が集まっている。そうなると、身元確認も完全には行き届かなくなる。随行の者の一人ひとりまでを調べることは、難しいからな」
……つまり、お客さんの中に混じって、おかしな人間が入り込む可能性があるということか。
これが日本の両親や先生から言われたなら、スリや置き引きに注意しましょう、知らない人に声をかけられてもついて行かないようにしましょうって話になるのだが、王様の懸念はそんなものではないだろう。
不特定多数の人が出入りする時期を見計らって宮殿に潜入してくる人間。そう考えると、なんとなく察しはつく。
「過去にも、そういった問題が起きたわけですか」
「例がないではないな。何も毎回問題が起きているわけではないぞ。ただ、そういう可能性もあると」
「そうですね。特に今はエランドのこともありますし」
私がずばり口にすると、ハルト様の手元で食器が耳障りな音を立てた。あわててカトラリーを置き、ハルト様はお茶を飲んでごまかす――つもりが、おかしなところに入ってしまったようでひとしきりむせ込んだ。給仕の女官が急いでナプキンを差し出す。ハルト様は苦しそうに息を整え、口元を拭いた。一連の騒ぎを私はお茶を堪能しながらのんびり眺めていた。
ハルト様のこういうところ、好きだなあ。どっかの腹黒公王と違って心がなごむ。
ここしばらく聞かなかったからと言って、私は忘れてなんかいない。海の向こうの脅威、いつか戦うことになるかもしれない帝国の存在を。
このシーリースを狙い、三公国を分裂させようと策を仕掛けてきた可能性が高いのだ。一時は疑心暗鬼に陥っていたハルト様やカーメル公も、誤解をときあらためて結束の強化に乗り出した。今回の会談だってメインの議題は対エランド問題だろう。
だからって帝国もそう簡単にあきらめるとは思えない。きっと今もあれこれ画策し手を打っているはずだ。
今この宮殿に、スパイの一人や二人もぐり込んでいても不思議はない。
私なんぞに目をつけたところでエランドにとって何の収穫にもならないが、そうとは知らずに近づいてくる可能性はたしかにあった。はた目には、ロウシェンとリヴェロの両公王と親しくしている人間だ。利用価値があると思われるかもしれない。
「わかりました。行きの道中だけ、誰かについてきてもらいます。帰りは向こうの人に送ってもらいますから」
ハルト様によけいな心配や迷惑はかけたくない。宮殿内を移動するだけでわざわざ人についてきてもらうだなんて大げさに思えるが、ここはおとなしく従っておこう。
「ああ、それがいい。そうしなさい」
私の返答にハルト様はほっとした顔でうなずいた。とても心配性でちょっと過保護な王様だ。でもその優しさがうれしい。
「ところでな……チトセ」
「はい」
表情をあらためて、ハルト様は私をじっと見つめる。言い出しにくそうにしているようすから、何を言いたいのかわかってしまった。
――私はまだ、彼に返事をしていない。
ちゃんと答えないといけないのに。でもどんな言葉で伝えればいいのかがわからず、ずっと棚上げしたままになっている。
ハルト様を傷つけたくない。失望されたくもない。今のまま、私を気にかけていてほしい。そばにいさせてほしい。……身勝手な願いが邪魔をして、はっきり断ることができないでいる。
今度うろたえたのは私の方だった。ハルト様の顔を見ていられなくて、手元に視線を落とした。一拍の間を置いて、優しい声がかけられた。
「チトセ」
「……はい」
「もう少し、食べなさい」
顔を上げれば、けして責めない優しいまなざしがあった。
私が答えられなければ、無理には聞かないと待っていてくれる。優しい人。本当にごめんなさい。かならず、ちゃんと伝えられる言葉を見つけますから。
「……もう十分です」
「食べなさい。それだけでは少なすぎる」
「おなかいっぱいですから」
こちらへ差し出されるお皿を、私は押し戻した。
「菓子ならばもっと食べるではないか」
「入るところが違うんです」
「そのようなわけのわからぬことを」
優しさへの感謝は感謝として、ここは断固として突っぱねさせてもらう。朝からそんなに詰め込めるか。
「ちゃんと食べぬから小さいのだぞ」
「日本人としては普通です。あと成長期はもう過ぎてますから、食べたところで横に増えるだけです」
「増やせばよかろう。細すぎる」
「細くないです。これ以上お肉がついたら困ります」
「つけたいのではなかったのか?」
「……どこのことを言ってらっしゃるんです?」
「あ、いや……」
しょうもない私たちの言い合いを、そばで聞いている女官はもう気にしていなかった。なにせ、最近の食卓における恒例行事だから。
なんとかして私にご飯を食べさせようとするハルト様に、無理だと抵抗する私。親子らしい光景と言えるだろうか。
「せめて、果物でも食べなさい。粥だけで済ませるのではない」
肉や卵は頑として受け付けない私に、さすがに対処法を心得てきたか、ハルト様は口当たりのいいフルーツのお皿を勧めた。私は譲歩してそれを受け取った。まあ果物なら、あと少しくらいは入る。
ちまちまつつく私に、食事を再開しながらハルト様は言った。
「チトセ、私に遠慮はしなくていい」
「ハルト様?」
手元に視線を向け、私を見てはいなかったが、彼の表情は穏やかだった。
「そなたのしたいように、望むようにしなさい。こうせねばならぬとか、こうすべきだとか、義務感や思い込みで決めるのではなく、そなたが本当に望むことを選びなさい。それがいちばんよい選択だ」
「…………」
「もし、その選択によって何か問題が生じるなら、それは私が引き受けよう。一人で抱え込もうとせずに、頼ってくれてよい」
最後にこちらを向いたグレーの瞳が、本当にどこまでも優しくて、いっそ悲しかった。
そんなに優しくしないで。私は勝手なことばかり考えているんです。こんな人間を甘やかしてはいけないんです。
自分のことは自分で頑張らなければと思っている。でも、努力も何もかも放り出して、ハルト様に甘えてしまいたいと思っている私も、たしかに存在するのだった。
予想していた通り遊歩道は歩きやすい傾斜の少ない道だったが、想像と違ってかなり自然のままに近い風景だった。
足元は歩きやすく整地されているものの、道と外を隔てる柵などはない。周りの木々だって観賞用に植林されたものではない。好き勝手に生えた木々と好き勝手に茂る草むらの中を、道だけが通っている。気分的には立派にオリエンテーリングだ。
あまり自然の風景がない環境で生まれ育った私だから、学校の野外活動以外で山や森とふれ合うことはなかった。こっちへ来てからも、ほとんど建物の中で毎日を過ごしていたから、山の中にあっても生活スタイルは変わらない。基本引きこもり体質の私には、物珍しさといくばくかの心もとなさを感じる景色の中、カーメル公と並んで歩く。
今日のカーメル公は、いつもとちょっと違ういでたちだった。長い裾の長衣ではなく、パンツスタイルの上に、ロングコートのように丈の長い薄手の上着を羽織っている。外を歩くなら当然の服装なのだが、この人がこんな格好もするのかと、これまた珍しい気分だった。
私は例によってメイドさんもどきのワンピースである。これがいちばん活動的だし外を歩くなら涼しい服の方がいいと思ったのだ。でもあまり直射日光を浴びない森の中では、それほど暑くない。歩いていてもほとんど汗ばむことはなかった。
私たちから大分遅れて、お供の人たちがついてくる。護衛の騎士たちだ。王様を一人で出歩かせるわけにはいかないが、邪魔にならないよう精いっぱい距離を取っているという雰囲気だった。なんというか、偉い人もその周りの人も大変だな。
「あ」
私たちの前方をのんびり移動していた生き物が、人影に驚きあわてて森へ逃げ込んだ。けっこう大きな蛇だった。まだ近くにいないかと草むらをのぞき込む私に、カーメル公が面白そうに言う。
「竜に怯えないだけはありますね。たいていの女性は、蛇などを見ると悲鳴を上げるものですが」
「脚のない生き物が苦手な人と、脚の多い生き物が苦手な人に分かれるって聞きますよね。私はどちらかというと後者です。蛇は見ている分には平気ですけど、毒があったらさすがに怖いです。……この島って、毒蛇います?」
「いますよ」
カーメル公はあっさりと言ってくれた。
「さきほどのは違いますが、咬まれると厄介な蛇もいますね。特徴は黒に黄褐色の斑紋です。見かけたら絶対に近づかないように」
「…………」
「もっとも棲息地は主に海辺ですから、この辺りにはいないでしょうが」
つらっと続けたカーメル公の顔を、私はちょっとにらんだ。澄ました顔に少しだけいたずらっぽい表情を混ぜて、彼は私を見返す。
なんで男って、女の子を怖がらせるのが好きなんだろうな。クラスの男子も何かとそういう嫌がらせをしたものだ。お人形みたいな顔をしていても、しょせんこいつも同じ生き物か。
「覚えておいて損はないですよ。海辺へ出向くこともあるでしょうからね。岩場などに潜んでいますので、気を付けなさい」
「……あまり、そういう場所を歩く趣味はありませんので」
私はつんと顔をそむけ、また歩き出した。後ろでくすりと笑う気配がする。ちくしょう。
しばらく進むと、今度は手が届くほどの背の低い木に、真っ赤な実が鈴なりになっていた。可愛らしいし、美味しそうである。茱萸だろうかと手を伸ばすと、後ろからそっとさえぎられた。
「それこそ毒ですよ。食べなければ中毒にはなりませんが、肌の弱い人だとさわっただけでかぶれることがあります」
「…………」
大自然怖いな! ていうか、そんな危険な植物がすぐそばに生えているって、この道危なくないか。
「君は見るからに弱そうですからね。皮膚は薄いしあまり日に当たってもいなさそうだ。避けた方がよいでしょう」
やんわりとつかんだ私の手を、カーメル公はたしかめるようになでて観察している。敏感肌でも紫外線アレルギーでもないけれど、インドア人間だから丈夫そうには見えないだろう。じっさいにかぶれるかどうか、試してみる気はもちろんない。
「健康のために日光を浴びるっていうのは、間違った考え方なんですよ。通常の生活で浴びる程度で十分足りるんです。あまり日に当たりすぎるとシミやシワの原因になります」
「君はそのようなもの、心配する必要ないでしょう」
きれいな指先が、今度は頬をくすぐる。そう言うカーメル公の方が、シミひとつない陶磁器みたいな肌だ。男のくせに。
「甘いですね。蓄積されたメラニンが、やがてメラノサイトとなって沈着するんです。肌老化の原因は大半が紫外線による光老化ですよ。今見た目に問題がないからといって対策を怠ると、悲惨なことになります。こっちじゃ日焼け止めなんて手に入らないだろうし、なるべく日に当たらないようにするしかないんです」
「メラニン……?」
まくし立てる私に、王様はきょとんとしている。ふっ、日本じゃ常識のUV対策も、こっちの人には理解できまい。むなしいことを語ってしまった。
「君も、女性なのですね。幼げでいながら、美容に気をつかうのですか」
笑い含みに言って、カーメル公は頬の輪郭をなでる。どうでもいいけど、さっきからさわりすぎじゃないですか。
私は一歩離れて彼の手から逃れた。
「前にお話ししましたよね、私は十七歳です」
「おや? 十六歳ではありませんでしたか?」
「あれから三か月経ってます。多分もう誕生日は過ぎてます」
こちらでの誕生日は、夏至の日にすることにした。ちょうど、そろそろ誕生日だろうと思う頃に夏至が訪れたのだ。覚えやすいので、これからは夏至を誕生日代わりにすることにした。
今頃日本ではお正月も過ぎて、一年でいちばん寒い時期だろう。私のことがあったから、きっと喪中になって年賀状は出さなかったんだろうな。
「そういえば、あと三月ほどだと言っていましたね。うかつでした。誕生日のお祝いを失念していましたよ」
「そんなの、気にしてくださらなくてけっこうです」
ねだるつもりで言ったわけじゃない。お祝いしてほしいのは家族だけだ。でもそれはもう、二度と望めない。だからあきらめている。
「わたくしからの祝いは受け取ってくれないのですか? ハルト殿からはいただいたのでしょう?」
「いいえ。誕生日の話とかしてませんし」
「言っていないのですか?」
カーメル公は不思議そうな顔をした。こちらの人にとって、誕生日ってすごく大事なのかな。暦は民間レベルまで一般的に認知されているらしいから、昔の日本みたいにお正月で年を数えるなんて習慣ではないようだ。
みんなの誕生日を聞いておいた方がいいかな。でも当人に聞くと私の誕生日も聞かれそうだ。別口からさり気なくさぐっておくか。
目の前の人にはもう言っちゃってるので、かまわず正面から聞く。
「カーメル様のお誕生日はいつなんですか?」
「お願いしませんでしたか? カームと」
「……カームさん」
言い直せば、カーメル公はくすりと笑う。
「わたくしは白露月の七日ですよ」
白露月というのは、十月の異名だ。十月七日生まれか。いちおう覚えておこう。
ちなみにこちらでは、一月から三月が春、四月から七月が夏、八月から十月が秋で十一月から十三月と閏月が冬ということになっている。夏がいちばん長いが、平地でも日本ほどの猛暑酷暑はめったにないらしい。
「君が美容に興味を持っているとはね。……ふむ、服装にもこだわりがあるようですし、意外におしゃれ好きですか。それなら、土産はもっと大人なものを用意すればよかったですね」
意外って何だ。女の子がおしゃれ好きでおかしいか。
「いえ、お菓子でいいです。ていうか、お菓子がいいです」
でもおしゃれとスイーツ、どちらを選ぶかと問われれば、私は迷わずスイーツを取る。
「もちろん、あげますよ」
カーメル公は笑いながら私の背を押し、また歩き出した。この後離宮に戻り、晩ご飯を一緒に食べる約束になっている。なんだか予定だけを見ると完全にデートコースだ。こうして歩いている今も、たわいのない話ばかりでこれといって他の意図は見えない。前回のように私にさぐりを入れてくることもしない。本当にただ会うだけが目的だったのかと思うほどだ。しかし彼が私とデートしたところでうれしくもないだろうし、一体何が狙いなのかと内心首をひねる。おかしな意図がないのなら、それはもちろん結構な話なのだが、この人が何のたくらみもなしに私に近づいてくるとは思えないし。
私自身から何かを得るのではなく、私に接近することで何かを釣ろうとしているのだろうか。そっちの方がありそうだ。私から得られるものなんて何もないと、もう彼は知っているのだし。
でもハルト様は私とカーメル公がデートしたからって、気にはしないだろう。むしろ仲良くなってほしそうな雰囲気だった。私がカーメル公に対する嫌悪感を表すたびに、感心しないという顔をしていたものだ。
釣り上げたい相手は他の誰か。私に関係していて、なおかつカーメル公を動かす人物……って、誰だ?
だめだ。今回はさっぱり読めない。これは私の頭が悪いのではなく、情報が不足しているせいだと思いたい。今回の会談について、もっといろいろと聞いておけばよかった。
山の中の遊歩道は、けっこう歩きがいのあるコースだった。日頃運動不足な上に最近は寝てばかりだったから、リハビリにちょうどいい。でも一人では歩けないな。護衛の騎士たちもいるから安心して歩けるが、何もない山の中の道はちょっと怖い。茂みから何かが飛び出してきそうな不安を覚えるのは、私が自然に不慣れな街の子だからだろうか。
そう思っていると、不意にカーメル公が足を止めた。つられて立ち止まった私を、彼はそっと引き寄せる。胸に抱き込まれて、私は眉をひそめた。
見上げたアメジストの瞳とぶつかる。策士の顔で彼は微笑んでいる。なだめるように私の髪をなでるのはなぜなのか。嫌な予感を覚えて周囲へ目を向けた瞬間、近くの茂みが音を立てた。
「……っ!」
驚きに身体がびくりと反応する。私を抱く腕に力が増した。飛び出してきた人影は、手に何か持っていた。長いもの。剣だ。鞘から抜かれて、鉛色の刃物にいやな光がまとわりついている。
悲鳴を上げる暇もなかった。こちらへ飛びかかってきた男が剣を振り上げた瞬間、横合いから何かが飛んできた。それは男に命中して凶行を防ぐ。私たちの目の前で男はどうと倒れた。
嫌なものを見てしまった。男の首に、短剣が突き刺さっていた。
護衛の騎士たちが駆け寄ってくる。彼らはちゃんと職務を果たしたのだ。主君を守った。それはわかった。
でも流れ出た血の赤さに鼓動が乱れる。即死せずに口から血の泡を吹き、苦しげに喘いでいる男の姿から目が離せない。あれはテロリストだ。あやうくこちらが殺されかけたのだ。わかっている。わかっているのに、今ならまだ助けられるんじゃないかと、そんなことを思ってしまう。
目の前で人が死にかけているのが怖い。
カーメル公の手が私の頭を押さえ、自身の胸に押し付けて視界をふさごうとした。でもそれより早く、第二、第三の兇手が現れる。テロリストは一人ではなかった。
周囲で金属音が響いた。騎士たちとテロリストがもみあっている。カーメル公が私から一旦離れ、手をつかむ。彼に引かれて私はつんのめりそうになりながら走り出した。
戻る道はふさがれている。前へ進むしかない。けれど前方からも人が飛び出して来る。一体テロリストは何人いるのだろう。なぜこれほど大掛かりな襲撃が行われるのだろう。ここはロウシェンの宮殿内だ。山に踏み込んだ場所とはいえ、これだけの人数がどこから侵入してきたのか。
私たちを追い抜いて騎士が前に出た。前方からの敵と斬り結ぶ。公王の護衛につくだけあって、みんな腕が立つようだ。でも人数はテロリストの方が多い。
「……っ、公王様!」
騎士の一人が、視線でうながした。このまま道にいるのは危険だった。丸腰のカーメル公と戦うすべなど持たない私は、少しでもテロリストから距離を取らなければならない。カーメル公も同じ判断をしたようで、私を連れて森へ飛び込んだ。
ここにも敵がひそんでいなければいいのだけれど。
そう思った瞬間に、やはり飛び出してくる。しかしそれは誰もが予想していたのだろう、騎士の投げたナイフが仕留める。肩とか胸なんて生易しい光景じゃなかった。眼球を貫いている。顔を押さえて転がる身体をすりぬけて、カーメル公はさらに走った。
草だらけの足元が走りづらい。それに急に走ったから左脚が痛い。私は何度も転びそうになった。引き起こしたカーメル公がそのまま私を抱き上げる。彼の肩越しに、遠ざかっていく乱闘の光景が見えた。
漫画やアニメの中では当たり前に見ていた場面だ。自分でキャラをあやつって敵をなぎ倒すゲームもやっていた。物語の中でだけなら、私は戦うことも大好きだった。
だけど、だけど、だけど!
現実でなんて見たくない。血が流れるのは嫌だ。人が死ぬなんて怖くてたまらない。
事故であっても直視できない。あの船の乗客がどれだけ亡くなったのか、考えるのが辛すぎて私はずっとそこから目をそむけていた。ましてや殺し合いなんて――襲いかかってくるテロリストが怖いのは当然のこと、助けてくれている騎士たちすら、私には恐ろしく思えた。斬り合う剣が、人の身体に叩き込まれる武器が、私の恐怖を駆り立てる。
わかっていたはずなのに。この地では、こうしたことが当たり前に起こるのだと。
イリスもトトー君も、常に剣を提げていた。彼らは戦うのが仕事だ。戦うというのは、人を殺すことだ。日本の自衛隊のように、武器を装備していてもじっさいにそれを人間へ向けて命を奪った経験のある隊員はいないだなんて、そんな軍隊の方がおかしいのだ。それでもやっていける時代、国だったけれど、ここは違う。
戦争の危険はすぐ近くにひそんでいる。何かあればためらわず剣を抜き、戦う兵士たち。血が流れることの当たり前な世界。
嫌だ。帰りたい。こんな世界嫌だ。平和な私の世界に帰りたい――
……違う。同じだ。あの世界にだって戦いはあった。今もなお、人が殺し合っている国があった。兵士だけでなく民間人も、小さな子供でも、容赦なく命を奪われる、そんな国は存在していた。
私がそれを見ていなかっただけだ。知識として知ってはいた。物語ではない現実だと、わかっているつもりだった。けれどテレビやインターネットを通じてしか見ることのない遠い外国のできごとで、私の日常に関わってくる話ではなかった。流される血は本物だったのに、私は物語と同じ感覚でしか見ていなかった。
ただそれを、目の前に突き付けられただけだ。何も変わらない。あの世界も、この世界も。
人間は、そういう生き物なのだという事実があるだけだ。