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鏡の前で身なりをチェックし、裾を整える。ここしばらく下ろしっぱなしだった髪は、久しぶりにきちんと結んだ。ポニーテールに服とおそろいの紺色のリボンをつける。足首までの短い編み上げブーツは新品で、まだ足にちゃんとなじまない。気になって床でコンコンとつま先を打ったけれど、怪我した場所が痛むことはなかった。
一ヶ月以上に及ぶ療養生活を経て、私はようやく日常に帰ってきた。
走ったりジャンプしたりすれば、まだ少し脚が痛むが、普通にしている分には問題ない。怪我の程度を考えれば一ヶ月でここまで治ったのは早いと言うべきだろう。何と言っても新陳代謝が活発な十代ですから。おじさんたちとは回復力が違うのだ。
とはいえ、この一ヶ月余りは長く感じられた。いくら絶賛インドア人間の私でも、ろくにベッドから出られず安静にしてばかりの日々は辛かった。自由行動が許されるこの時を、どれだけ待ち望んだろうか。
寝間着から新しい服に着替えれば、解放感に心が浮き立った。私はスカートの裾をひるがえし、足取りも軽く部屋を出た。
私がこの世界に流れ着いた時、季節は春の盛りだった。
それから三か月の月日が流れた。今はもう夏だ。
こちらでは三十日で一ヶ月、一年は十三ヶ月と少々。端数は閏月と呼ばれ、他とは別にされる。新年を待つ特別な数日間だ。
元の世界より少し一年が長いが、一ヶ月の長さに大きな違いはない。あれから三か月ということは、そろそろ私の誕生日が来る頃だ。
冬生まれの私なのに、こちらでは夏に誕生日を迎えることになる。元の世界の日数に合わせて計算しても、毎年どんどんずれていってしまうから、もうこちらの単位で年を数えるしかない。誕生日もどこかで適当に区切りをつけるしかないだろう。
誕生日のことを考えると、少し切なかった。我が家は記念日をきちんと祝う決まりだったから、誕生日には毎年全員からお祝いをしてもらっていた。祖母も姉も弟も、普段仕事で忙しい両親も、家族の誕生日を忘れることはなかった。
でもこれからは、一人で誕生日を迎えていくことになる。そんなものにこだわるなんて子供じみていると笑われるかもしれないが、お祝いしてもらえないからというより、誕生日に家族の顔がないことが寂しかった。
多分一生消えることのない寂しさを胸の奥に抱えたまま、でも日々はおかまいなしに流れていく。一日過ごすごとにこちらでの生活に慣れ、なじんでいく自分もいる。友達もできた。親代わりになってくれる人もいる。私はここで、新しい人生を歩き始めている。
一歩ごとに遠くなっていく故郷を恋しく思っても、立ち止まることはできない。
宮殿最上層一の宮は、公王の私的生活空間だ。行政の中心地である二の宮と距離は近く、いくつか階段や渡り廊下を通れば行き来できる。
二の宮は、日本で言えば国会議事堂、アメリカならホワイトハウスといったところ。そんな場所に私なんかが勝手に出入りしていいはずがなく、また出入りしたい用事もない。ただ、三の宮まで下りるのにそこを通過するしかないので、入口近くまで来てどうしたものかと悩んでいた。
職員さんに事情を話せば通してもらえるかな。それともどこか他にルートがないだろうか。
白亜の宮殿を取り巻く山の緑が美しく輝いていた。夏なんだなあと思う。山の中なのでうだるような暑さはなく、爽やかで心地よい。宮殿を挟んで流れ落ちる滝の音が、いっそう清涼感を際立たせていた。
……山を歩くって手もあるかな。
いや、絶対に実行できないけど。私にアウトドア能力はない。道もない山の中、草を踏み分けふもとを目指すなんて絶対無理。
うーん、どうしよう。ゆうべのうちに、ハルト様に頼んで通行許可をもらっておくのだった。
通りがかる人々にちらちら不審なまなざしを向けられながら立ち尽くしていると、警備員らしい騎士が近づいてきた。
「どうした」
二十代前半くらいだろうか。別に威嚇するような雰囲気はないのだが、武装した大きな男に目の前に立たれると、少し怖いと感じてしまう。
「すみません、三の宮へ行きたいんですけど、ここからだと二の宮を通るしかないんでしょうか。でも勝手に通っちゃいけないんですよね?」
「……上から下りてきたのか?」
上、というのは一の宮のことだ。単純に位置関係が上下になっているので、そう呼ばれている。これがふもとでの会話なら、宮殿全体を指すらしい。
「はい」
「一の宮の女官か? 見覚えのない顔だが」
一の宮の職員さんの間ではすっかり知れ渡ってしまった私も、一歩外へ出れば知らない人だらけ。今のところ知り合いなんて、両手で数えるほどもいない。
「女官じゃないですけど、一の宮でお世話になっています」
「世話に……?」
騎士はいぶかしげに眉を寄せる。私はそんなに怪しいだろうか。こちらの人々には、十代前半の子供に見えるらしいのに。
「二の宮に用があるわけじゃないんです。ただ下へおりたいだけで、他に道があるなら教えていただきたいんですけど」
「他の道はない。下へ行く時は二の宮を通るしかないが、通行許可は持っていないのか?」
「ないです」
「それなら通すわけにはいかない。出直して、女官長に許可をもらってこい」
えー……めんどくさいなあ。
一度下りてきた場所を、また往復するのが億劫だった。こういう時、平地と違って不便である。それに女官長も、一応面識はあるものの本当に「いちおう」レベルだ。知り合いとも言えない間柄なのに、お願いごとしにいくのってなんだか気おくれしてしまう。
でも仕方がない。決まりは決まりだ、許可をもらってこなかった私が悪い。
私はあきらめて引き返そうとした。すると、別の方向から声がかけられた。
「おや、そこにいるのは、たしかティトシェ……とかいうお嬢さんではなかったかね?」
私と騎士が同時に振り返る。立派な身なりをした、全然知らない男の人がいた。
大人の年齢って、判断しづらいことが多い。それほどおじさんでもないだろうけれど、若いというにはちょっとどうかな、という微妙な年頃に見えた。
年齢はともかく、騎士でもない偉そうな身なりの人に親しげに声をかけられる理由が思い当たらず、私は困惑した。
男性はにこにこしながらこちらへ近づいてきた。
「おお、怪我をしたと聞いていたが、すっかりよくなったようだな。元気そうで何よりだ」
「……ありがとうございます」
いくら見ても誰だかわからない。向こうは私のことをしっかり認識しているようだから、どこかで顔を合わせたことがあるのかもしれないが、記憶には残っていなかった。
多分、ハルト様やイリスたちと一緒にいた時に見かけられた程度なのだろう。
とまどう私たちにかまわず、男性はさらに話しかけてきた。
「何か問題でも起きているのかね? ここで何をしている?」
「いえ、問題というほどでは。通行許可をもらってくるのを忘れたので、一の宮へ引き返そうとしていたところです」
「通行許可……二の宮に用事かい」
「いえ、三の宮まで下りたいだけです。でも通り抜けるだけでも許可がないとだめですし」
「それなら、私が連れていってあげよう。私と一緒なら通行許可など必要ない」
男性は優しい口調で親切を申し出てくれる。けれど私は喜ぶ気になれなかった。
男に偏見を抱いているという自覚はある。私が思うほど、世の男性は悪ではないはずだ。こちらへ来てから何人もの男性に助けられ親切にされてきたし、もうちょっと平等な目で見るべきではないかと最近思い始めてきたところだが……それでも今目の前に立つ人物には、嫌な印象しか感じなかった。
笑顔を浮かべてはいても、本当に優しい気持ちからのものではないと伝わってくる。何かの思惑を隠して上っ面だけの笑顔で近づいてくる人間。そういったものに、私は敏感なのだ。
もし、それが私の勘違いで、本当にただ親切なだけの人だったとしても。
それでもこの申し出に乗るのは間違いなんじゃないかと思った。規則とは、そう簡単に無視していいものではないだろう。必要だから定められたのだ。学校の校則だって、中にはわけのわからないものもあるけれど、下校時間とかバイク通学禁止とか、ちゃんと生徒や近隣住民のことを考えて決められていた。それを破るのは、人に迷惑をかけてもかまわないという理屈だ。
それに、向こうは私のことを知っていても、私は向こうを知らない。知らない人に話しかけられて一緒に行こうと言われても、普通うなずけないだろう。そんなことくらい、大人ならわかっているはずだ。それをおかまいなしに連れて行こうとするなんて、良識的な行動とは思えない。
私はかたわらの騎士を見上げた。彼は苦い顔をしていた。やはり、いい状況ではないのだ。
男性は騎士に視線を移し、横柄に言った。
「この子は公王様が保護しておられる娘だ。怪しい者ではない。このまま通らせるが、かまわんな?」
いや、かまうだろう。そこはかまってほしい。
ハルト様の名前を出して規則破りを強制するなんて、いちばんやっちゃいけないことだろう。しかもこの状況、私がわがままを押し通したことになるではないか。やめてくれ。
「ご親切にありがとうございます。でも規則は守るべきですので、私出直してきます」
騎士が答えるより先に私は言い、素早く踵を返した。ごちゃごちゃ言い合うより、さっさと逃げ出すのが得策だ。相手に反論の隙を与えず立ち去ろうとしたのだが、向こうもなかなかにしつこかった。歩き出した私の腕をつかみ、強引に引き留めた。
「私と一緒なら大丈夫だと言っただろう。いいから、来なさい」
素肌に直接ふれられるのが気持ち悪い。伝わってくる手の平の温度に鳥肌が立つ。逃がすまいとするかのような強い力に恐怖心も覚える。いやだ。こんなやつと行きたくない。
「お待ちを」
騎士が声を上げた。邪魔をされて、私をつかむ男がむっとにらむ。
「許可のない者を通すわけにはまいりません。公王陛下の庇護下にあるとしても、彼女自身の身分や職権とは別の話です」
「だから、私が代わりに保障すると言っているのだ。騎士ふぜいが偉そうに口を挟むな。何様のつもりだ」
言い返す言葉を聞くなり、私はつかまれた腕を振り払おうとした。もう遠慮なんかしない。こいつの身分がどれだけ高いのか知らないが、こんなことを言って他者を見下すやつがいい人のわけない。
私の抵抗に、男はまた不愉快そうな顔をした。力を増した手が痛いほどに肌に食い込んでくる。見かねて騎士が止めに入った。
「嫌がっております。どうか、その手を放してやってください」
「無礼な! 私を狼藉者扱いするか!」
「そういうわけでは……」
「なんの騒ぎだ」
突然、大きな声が響いた。おなかに響く低音だ。私たち全員がはっとその声の主を振り返った。
奔放に広がった金色の髪が、朝の光に輝いていた。声も大きいが身体もでかい。身長二百センチに届く巨漢が、大股に歩いてきた。
「団長!」
騎士が安堵の声を上げた。見知った姿に、私もほっとした。
一人、私の腕をつかむ男だけが、竜騎士団長の登場にたじろぐようすだった。
アルタは私たちのもとへやってきて、三人をぐるりと見回した。いつものふざけた陽気な表情ではなかった。真面目な顔をしていると、身体の大きさも手伝ってかなりの迫力である。普段が昼寝中のライオンなら、今は油断なく周囲を警戒する臨戦態勢のライオンだ。
「いかがなさいましたかな、オックス卿。彼女が粗相でも?」
「い、いや、そうではない」
聞かれて、男が私から手を放した。アルタは一見飄々とした態度だが、飴色の瞳には鋭い光が宿っていた。オックス卿と呼ばれた男もそれを見てとり、気まずげに視線をそらして舌打ちする。
「通行許可を持っていないというから、私が連れていってやろうとしただけだ。ただの親切ではないか。なんだってこんなに騒がれねばならん」
「それは失礼をいたしました。警備の関係上こやつも素通りさせるというわけにはいかんのですよ。それに、お聞き及びかもしれませんが、この娘はつい先だってかどわかしに遇ったばかりでしてな。知らない相手が怖いのです。まあ、あまり尖らず、大目に見てやっていただけますかな」
アルタはさり気なく私を引き寄せ、オックス卿から距離を取らせる。
「許可なら俺が出しておきましょう。貴殿にわざわざ違反させるようなご迷惑はおかけしません」
「違反だと」
「さようでしょう? 貴殿に許可を出せる権限がおありでしたかな?」
「…………」
オックス卿はいまいましげにアルタをにらんでいたが、そのままぷいと歩き出した。
「平民あがりが、大きな顔を」
負け惜しみの捨て台詞は、つぶやきというには少々声が大きくて、誰の耳にもしっかり届いた。
騎士がけわしい顔でオックス卿の背中を見送っている。その肩をアルタはぽんぽんと叩いた。
「かまうな」
「……申しわけありません、俺のせいで」
彼はアルタに頭を下げる。
「謝らんでいい。お前は職務を果たしただけだろう。嬢ちゃんは俺が面倒見ておくから、持ち場へ戻れ」
「は……」
私はお礼とお詫びの意味を込めて頭を下げた。彼も私に会釈を返し、立ち去っていった。
アルタと二人、残される。
「あの、ありがとうございました」
何はさておき、まずこれだろう。私はアルタにお礼を言った。
五十センチ上から私を見下ろしたアルタは、途端にへらっと相好を崩した。
「可愛い格好してんなあ。新しい服か? よく似合ってるぞ」
「……どうも」
「それは嬢ちゃんの国の民族衣装か?」
「極々一部地域では、それに準じるかもしれませんね」
秋葉原とか、夏と冬のお台場とか。
「うーん、いいなあ。若さにあふれてるなあ。活動的ながら乙女な可愛らしさもあり、ちらちら見える肌にほんのりお色気も……感じんな」
蹴飛ばしてやろうか、このセクハラ親父。
珍しく真面目な顔して団長らしく威厳も見せて、ちょっとかっこいいと見直しかけたのに。やっぱりナシだ。駄ライオンだ。
「……この服は、こちらの人から見るとおかしいでしょうか」
「おかしくないぞ! すごく可愛いぞ! まあ、大人の女性にはちょっと着られんだろうが、嬢ちゃんにはよく似合ってる! うんうん、可愛いかわいい」
アルタはベタ誉めしてくれるが、ニュアンスは七五三の晴れ着姿な子供に向けるものと同等だ。ユユ姫たちもそうだった。みんなして可愛いと言ってくれたけれど、向けられる笑顔は微笑ましいものを見るまなざしだった。
……いいけどね。
私が今着ているのは、白いカラーとカフスのついた紺色のワンピースだ。胸元が大きくカットされ、背中もバックリ開いている。スカートはきわどいミニ丈。ただし中にパニエを装着。同じく紺色のニーソを履いて、いわゆる絶対領域というものを作り出している。
メイドさんのようにも見えるオタク臭ただよう服は、何をかくそうゲームキャラの衣装である。私の服を仕立てるにあたって、どんなのがいいかと希望を聞かれた時に、つい出来心でデザイン案の中に混ぜたものだった。
――いや、まさかこれが採用されるとは思わなかったんだよ! あくまでも冗談のつもりで!
しかしデザイン画を見たユユ姫がやけにこれを気に入ってしまい、私に似合いそうだからと決定されたのだった。いいけどね。こっちじゃコスプレしてるなんて誰にもわからないし。元々好きなキャラの服だから、私だって嫌なわけじゃないし。胸元が開いているといっても谷間が見えるほど深くはないしそもそも谷間がない。背中も半分くらいまでなので、エロくはないだろう。ただ、こっちの人ならとんでもなくはしたない格好だと拒絶するかと思ったのに、あっさり受け入れられたのが意外だった。
考えてみれば制服の時にも、スカート丈を問題視されることはなかった。女はみんなロングドレスで脚を隠すのかと思ったが、そうとも限らないらしい。
「で、おめかしして、どこへ行くのかな?」
アルタが小さい子を相手にするような口調で訊ねてきた。私の歳を聞くなり口説いたことは忘れたのだろうか。
「三の宮のユユ姫の館へ」
「ユユ姫に会いに行くのか」
しばらく一の宮に滞在していたユユ姫は、数日前自分の館へ帰って行った。ずっとハルト様のそばにいればいいのにと思うけれど、彼女にも領主の仕事があるから、いつまでも留守にはしていられないらしい。
私もそろそろ、あっちへ帰らないと。今日はその相談もしたい。
「んじゃあ、行くか」
アルタは私をうながして歩き出そうとした。
「許可は? かまわないんですか?」
「通行許可を出せるのは、女官長や侍従長だけじゃないんだぞ。俺は警備の総責任者だからな、城内の行き来に関してはハルト様に次ぐ権限を持っている。入れないのは女性用の個室だけだ」
ほほう、そこに踏み込まないだけの分別は持ち合わせていたか。
当たり前の顔をして入り、叩き出される光景が脳裡に浮かんだが、現実には起こらないようだ。
それならばと私は安心して、彼と一緒に二の宮へ入った。しかし少し歩いただけで問題に行き当たってしまった。
私の身長は百五十四センチ。アルタは二百センチ強。加えて男女の違いもあり、二人の歩幅は大きく違う。アルタは私に合わせてゆっくり歩いてくれているようだが、あまりにペースが違うので歩きにくそうだ。私も早足を続けて疲れてきた。
「うーむ、女の子は大人しいなあ。姉上のとこの坊主達は、つかまえとくのが難しいくらい走り回ってたもんだが」
何かを思い出す顔でアルタが言う。比較されているらしい甥っ子って、何歳なんだろう。
「よし、ちょっと失礼するぞ」
目の前で彼が身をかがめたかと思うと、脚に太い腕が回され、荷物のように持ち上げられた。
アルタはひょいと私を抱き上げ、広い肩に座らせた。肩車――いや、肩抱っこ? いきなり視点が地上二メートルを超し、私はあわてて彼の頭にしがみついた。たかが二メートルと思うなかれ。意外に怖い。
「うん、これなら大丈夫」
アルタは一人満足してまた歩き出す。こっちは全然大丈夫じゃない。高いところは嫌いだ。でも下手に暴れて落ちたら痛そうなので、そのまま肩の上でおとなしく運ばれた。
すれ違う人々がぎょっとした顔で注目していく。恥ずかしい。ちょっとした羞恥プレイだ。
「あの……」
「うん?」
文句を言いかけてとどまる。下ろしてもらったら、また歩幅の違いに苦労することになる。多分はた目には子供が抱っこされているようにしか見えないのだろうから、あまり意識しないようにしよう。
抗議はやめて、少し気になっていたことを訊ねた。
「さっきの人……オックス卿って、どういう人なんですか」
「貴族だな」
「それはわかりましたけど」
アルタの説明は端的すぎる。
「役人の一人だ。それほど位は高くないが、低くもない。家格も同様。つまりは、きれいに真ん中あたりの人間だ」
「……出世はできそうですか?」
「本人の頑張り次第だな。能力があれば出世するさ」
「どこの部署にお勤めか知りませんけど、こんな時間に通りすがりの女の子に親切申し出るほど暇なんですかね」
アルタはがっはっはと豪快に笑った。
「きっついなー、嬢ちゃん。まあ、あの手の人間は適当にあしらっとけ。いい顔見せると調子に乗ってまとわりついてくるが、あまりつれなくして恨みを買っても面倒だからな。嬢ちゃんなら賢く立ち回れるだろう? さっきみたいに強引な行動に出られたら、その時は遠慮せずに助けを呼んでいい。人目について困るのは相手の方だからな」
「私がハルト様の保護を受けているって、もう城中に知れ渡ってるんでしょうか」
「それなりに有名だな。先日の事件で一気に人の知るところとなった。嬢ちゃんの顔まで知ってるやつは少数だが、あいつは多分ハルト様が嬢ちゃんを連れて帰還なさった時にでも見かけたんだろう」
私はため息をついた。いつかこういう問題に出くわすんじゃないかと思っていたが、予想以上に早かった。
「私に取り入って、何か利益を得ようとでも考えたんでしょうか……いくらハルト様の保護を受けてるといっても、私には財産も権限も何もないのに」
「嬢ちゃんと親しくしておけば、損はないと思ったんだろう。間違いではないな。ハルト様に近づく手っ取り早い手段だ」
「あんな出会い方で、あんな方法で、親しくなれると思う思考回路がわかりません」
アルタはまた笑った。
「あいつの失敗は、嬢ちゃんが人見知りの男嫌いってことを知らなかったところだな。事前の調査不足だ」
アルタはそこのところをよく承知しているわけか。それなのにおかまいなしに私に近づいてきて、セクハラまがいのことを言ったりこうやって抱き上げたりする。あまり遠慮する気はないようだ。
口先だけは軽薄な女たらしのようにふるまうアルタだが、いやらしさは全然感じない。多分彼は、私を女の数には入れていないだろう。なんとなくそれがわかるので、私も口で言い返すほど彼のことが嫌いではなかった。陽気に話しかけてくれるのはうれしいとも思う。時々ウザいけど。
「しかし、今後ああいう手合いは増えると思うぞ。ハルト様の養女になるなら覚悟しておくんだな」
軽い口調で言われた警告に、私はまたため息をもらした。
「それ、知ってるんですか」
「ハルト様から聞いた」
「まだお返事はしてないんですが」
「断るつもりなのか?」
きょとんと目を丸くしてアルタは私を見上げた。手すり代わりの頭を動かされては怖いので、私は無理やり前に向き直らせた。
「いろいろ考えてます。でも断った方がいいんじゃないかと思います」
「……それは切ないなあ。ハルト様が聞かれたら落ち込まれるぞ」
そう言われると、私だって落ち込む。ハルト様のことが嫌なわけじゃない。むしろ大好きだ。私の親代わりになると言ってくれたのが、泣けるほどにうれしかった。
だからこそ、私は最善の判断をしなければいけない。
「ハルト様のためにも、その方がいいと思うんです。オックス卿みたいな人がたくさんいるのなら、私の存在はよくない影響を与えます。当初の予定どおり、自立を目指すのがいちばんだと思います」
「嬢ちゃんは身寄りもないし、知り合いだってろくにいないだろう。一人でここを出ていくのは不安じゃないのか?」
不安だ。大いに不安だとも。
ここでずっとハルト様の庇護を受けて、ぬくぬくと甘えていられるのなら、そんなに楽な生き方はない。仕事が生き甲斐の人ならともかく、生活のために働いている人たちは、誰かに養ってもらう楽な生き方に憧れるだろう。
でも、そんなの正しくない。自分で何も責任を負わず努力もしなければ、きっと何か大切なものを失う。そして楽をした分、どこかで痛い思いをすることになるだろう。
日本の法律でも、私はもう義務教育の年齢を過ぎている。生活がかかっているなら、ちゃんと働いて自分で自分を養わなければいけない。
「身寄りはともかく、知り合いは増やせます。それと、ハルト様と縁を切ろうと思ってるわけじゃないんです。ハルト様の役に立てるような仕事に就きたいです。今の能力だとまだ無理っぽいですが……」
読み書きも不十分な現状では、あまり偉そうなことは言えない。なんだかんだ言って、もうしばらくはユユ姫のところでお世話になるしかないだろう。
「それは、役人になりたいという意味か?」
「まだ具体的には何も。役人になるには、もっと能力が必要でしょう。私でも目指せるのなら、頑張って勉強しますけど」
「ふーむ……」
見通しの立たない漠然とした私の話を、アルタは馬鹿にすることなく聞いてくれた。頭から否定するのでもなく、全面的に肯定するのでもなく、一つの意見として吟味しているようだ。真面目な横顔は、やっぱりかっこいい。おちゃらけた顔と、どっちが本当の彼なのだろう。
「まあ、それもひとつの選択だな。しかし、ハルト様のお気持ちはよく考慮してさしあげてくれよ? あの方は、本当に嬢ちゃんの親になる気でいらっしゃる」
「……はい」
その気持ちは、本当にうれしい限りなのだけど。
「それに、ハルト様の役に立ちたいと言うなら、近々その機会はあるがな」
「え?」
耳寄りな情報に、私は俄然食いついた。アルタの顔をのぞき込む。ライオンがにっと不敵な笑みを浮かべた。
「もうじき三国の定例会談が行われる。今回はロウシェンが会場だ。アルギリとリヴェロの公王様たちがいらっしゃるぞ」
「…………」
聞いたとたん、私の熱がすっと下がった。アルタは気付かず、陽気に続けてくれた。
「嬢ちゃんはリヴェロ公と仲がいいんだってな? お見舞いももらってたもんな。接待役は嬢ちゃんで決まりだ、よろしくな!」
……ちょっと待て。今何言った。
接待? 私が? あの男を?
――冗談じゃない。
思わず私の手に力がこもった。手の下から「あ、あれ? 嬢ちゃん? いて、いてて。おいおい、髪の毛つかまんでくれ。うちの親父はハゲなんだ、将来を心配してるんだから、変な刺激を与えんでくれ。聞いてるか? マジ痛いんですけど。お願いむしらないで!」とか声が聞こえたが、無視してやった。
ライオンのたてがみの存続よりも、もっと深刻な問題があることに気付いたのだ。
そうだった。やつが来るのだった。
ここしばらくのごたごたで、ほとんど忘れかけていた。私が復讐を誓った、ひそかに宿敵とみなしている存在のことを。
カーメル・カーム・アズ・リヴェラス。
あのお色気魔人の真正セクハラ男が、もうじきやってくる――