君に敬意と友愛を
「別れましょう」
唐突に告げられた言葉の意味が理解できず、イリスは目をまたたいた。
「え……別れるって、今会ったばかりじゃないか」
困惑をそのまま伝えると、相手は目を吊り上げた。
「そうじゃないわよ! 私たち、もう別れましょうって言ってるの! わかる!?」
「……ええと」
いつものくせで頭をかく。まだ状況が飲み込めないのだが、相手の怒りが増大したらしいことはわかった。
「あなたね……もしかして、私たちがつきあってるってこと、忘れてる?」
「……ああ、それか」
ようやく意味を理解し、納得する。納得して、首をひねった。
「え、別れるの?」
「そうよ!」
地団太を踏みそうなようすで目の前の娘は憤る。どうして彼女がそんなに怒っているのかがまたわからなかった。自分は何か悪いことでもしただろうか。
心当たりがない。なにしろ顔を合わせるなり別れようと切りだされたのだ。いいことも悪いこともする暇がない。
「なんでって、聞いてもいいかな」
また怒られるだろうかと思いつつ訊ねると、意外にも相手の勢いが少し落ち着いた。とはいえ、瞳にきつい怒りを浮かべたままこちらをにらむのはやめない。
「今さらそれを聞くの? 私たち、とうに破綻していたでしょう」
「破綻って」
まるで夫婦みたいだなと思う。
「あなたと私が会うの、何日ぶり?」
「……ええと」
指を折って数えてみる。はて、何日ぶりだったろうか。前に会ったのは、いつだったか……。
「十日よ! 十日前も今日も、私の方から連絡してようやくよ! あなたの方から会いたがることなんて、全然なかったでしょう!」
「あー……悪かったよ、いろいろ忙しくて」
自分の恋人であるはずの娘は、ふんと冷たく鼻を鳴らした。
「そうね、さぞ忙しかったでしょうね。新しい女のところへ通うのに」
「はっ?」
新しい女? なんだそれは。誰のことだ。
「ちょっ、何の話だよ」
「私が知らないとでも思ってるの? 馬鹿じゃない? ちょっと聞いて回ればすぐにわかったわよ。隠しもせずに堂々と会いに行ってるんだもの、あなたの部下たちはみんな知ってたわ」
「あいつらが何を言ったってんだ。僕が一体誰に会いに……って」
言い返しかけて、はたと気が付いた。最近よく会う女。そういう存在に、心当たりがなくもなかった。
女というか、女の子だが。
「もしかして、ティトのことか?」
「名前なんか知らないわよ。でもずいぶんご執心みたいね? 毎日通ってるんですって? 私には一度も自分から会いに来たことなんてないくせに」
「待てよ。あの子はそういうんじゃ……そりゃ、たしかに毎日会ってたけどさ、なんていうか、色々心配で放っておけなかったんだよ。ちょっと事情のある子だし。それにこないだの事件で怪我して、まだ容体がよくないんだ」
「まああ、そう。それはさぞ心配でしょうねえ。私が七日熱で寝込んでいてもお見舞いすら寄越さなかったけど」
「え、寝込んでたのか? いつ?」
言った途端平手打ちが飛んできた。
まがりなりにも騎士隊長の身であるから、女の平手くらいよけるのはわけもない。しかしここはあえて受けた。多分、その方がいいだろうと本能で判断した。
左の頬が、ジンとしびれた。なかなかにいい一撃だった。
「この最低男! 見た目だけの中身ろくでなし! あんたなんか竜から落ちて死んでしまえばいいのよ!」
捨て台詞を吐いて背を向けた彼女は、そのまま肩をいからせて立ち去った。イリスは頬をさすって息をついた。なんともいえない脱力感を覚えた。どうやら、自分はまた――
「ふられたなあ」
背後から声がした。両肩に重みがかかる。振り返らないまま、イリスはさらに深くため息をついた。
「うれしそうに言うなよ、アルタ。いつから見てたんだ」
どこからわいて出たのか、上官が背中に貼りついていた。アルタは肩に腕を回し、後ろから顔をのぞき込んできた。
「最初っからだよーん。イリス君、通算十三回目のふられ記録更新おめでとう」
「大丈夫、うちの上官はその十倍はふられてるから」
「十倍もあるか! せいぜい三倍だっ」
わめく騎士団長を押しのける。ついでに周囲を見回すと、そこかしこの物陰でうごめく姿があった。
「お前ら、暇そうだな。後で揉んでやる。とりあえず訓練場五十周走ってろ」
のぞきの部下たちに命じると、ぶーぶー抗議の声が上がった。「えー、なんでだよー」「やつあたりだろそれ!」「またふられたからってこっちに当たるなよな」「自分が悪いくせにー」
イリスはにっこりと微笑んだ。
「そうか、そんなにうれしいか。じゃあ百周に増やしてやる。喜んで走れ」
「鬼ぃぃぃっ!!」
泣きながら駆けていく姿を見送って、イリスはもうひとつため息をこぼした。
「なに、落ち込むことはないぞ。また恋の機会はやってくるさ!」
アルタが無駄に明るく笑いながら背中を叩く。落ち込んでなんかいない、と思った。
そう、恋人にふられたというのに、まったく落ち込んではいなかった。
ああそういえば付き合ってたんだっけ、くらいな気分だった。考えてみると、けっこうひどい男だ。たしかに自分は、彼女に特別な感情は抱いていなかった。
付き合ってくれと言い出したのは向こうだった。知らない相手ではなかったし、嫌いでもなかった。他に付き合っている相手もいなければ付き合いたいと思う相手もおらず、断る理由がなかった。それで付き合うことにした。それだけだった。
恋をしていたわけではなかった。
だから今の状態は失恋とは言えない。なんとも言えない脱力感のようなものを覚えるが、悲しいとか寂しいといった感情はなかった。むしろ彼女の方が傷ついているのではないだろうか。ようやくそこに思い至り、悪いことをしたと反省した。
けっして、彼女をどうでもいいと思っていたわけではない。無視するつもりもなかったのだが、多分彼女にはそう感じられたのだろう。言い返せないほどに、振り返ってみれば自分の態度は淡泊にすぎた。
「進歩がないな……」
こうやってふられるのは、はじめての経験ではなかった。
付き合い出すきっかけはいつも相手の告白からで、そして別れを告げるのも相手の方だった。過去の恋人たちが口をそろえて言うことには、自分は友人として付き合うにはいいが、恋人としては落第なのだそうだ。
――私のこと、何もわかってくれてないでしょう。わかろうともしないわよね。
――あなたは私のことなんて、なんとも思ってないのよね。私一人で空回りして、悲しいのを通り越してむなしいわ。
――そんなに私に興味がないのなら、最初から付き合うなんて言わないでほしかったわよ。
ぶつけられた言葉を思い出せば、自分の態度を責めるものばかりだ。彼女たちは気持ちの温度差に耐えられず、そばを離れていった。
「お前はなあ、見た目は抜群だし、中身もけっして悪くはないんだがなあ。なんというか、恋というものをよくわかっとらんよなあ」
アルタがしみじみと言う。その言葉、そっくり返してやりたいと思ったが、反論できるほど自分も立派ではないので黙っておいた。
「そもそも、好きでもなんでもない相手と付き合うのがいかん。告白されたからって、そう簡単にうなずくな」
「好きだとは思ってたよ」
「普通に、友人としてだろ? 特別な女の子として見ていたわけじゃないだろう」
「付き合ってるうちに、特別になるかなって思ってたんだよ」
なにも想いを寄せ合い付き合い出す関係ばかりではないだろう。片方が惚れてそこから始まる関係だってたくさんあるはずだ。なのになぜ、自分の場合はうまくいかないのだろう。
「特別になろうという意識もないんだろうが。まがりなりにも恋人と呼ぶべき存在がいるのに、十日も連絡ひとつ寄越さずほったらかして、他の女の子の元へ通うなんて最低だぞ、お前」
「だから、ティトはそんなんじゃないってば。妹みたいな感じで……」
「そんな言い訳、彼女には通用せん。自分より他の女を大切にしたという時点でダメダメだ」
「…………」
イリスは肩をすくめて歩き出した。訓練場の方へ向かえば、アルタもついてくる。
「ふられたのはもうどうしようもないが、後でちゃんと謝っとけよ」
「ああ、そのつもりだよ」
自分が悪いのはわかっている。傷ついたのは彼女の方だ。求められるものを返してはやれなかったが、せめて謝罪だけはしておこう。
「お前、兄弟がいたっけな」
連れ立って歩きながら、アルタが唐突に訊ねてきた。ああ、とうなずく。
「弟が三人いるよ」
「男ばかりの四人兄弟か……想像するだにむさくるしいな」
うなる彼には、三つ年上の姉がいる。彼とよく似た美人で、性格も豪快な二児の母だ。いつまでも独り身な弟に、いい加減結婚しろと蹴りを入れている姿を何度も見かけた。
「お兄ちゃん気質なんだよなあ、お前は」
苦笑気味にアルタはこちらを見下ろしてきた。
「チトセ嬢ちゃんのことも、放っておけないって思ってるんだろう」
少々難しい異世界の少女の名前を、アルタは正確に発音する。本人の前でちゃんと呼んでやれば好感度も上がるだろうが、教えてやるのは癪なので黙っておく。イリスもひそかに練習してみるのだが、どうしてもうまく発音できないのだ。
「放っておいたらいくらでも一人で沈み込むからね。他人とどう関わっていけばいいのか、よくわかっていないみたいだし」
「だからってお前が世話をしなきゃいかん理由はないはずだがな」
「それは……でもあの子を見つけたのは僕だし。知り合った以上、知らん顔して放置するのもどうかと思うし」
「その気遣いを、なぜ恋人に向けられんのかねえ」
「…………」
呆れられて、イリスは口を閉ざした。反論できない。
結局、理屈ではないのだ。どれだけ相手に関心があるのか、それだけだ。
恋人であるはずの彼女には、十日も連絡を忘れるほど執着がなかった。会わない日々が続いても気にならなかった。
それに対し、千歳のことは純粋に気になる。義務感や同情心なんて口実だ。毎日でも顔を見たいと思うし、会わない時でも今どうしているだろうかとふと思い出す。彼女に対する気持ちとは明らかに違った。
どれだけ責められても言い訳のしようがない。
付き合い出しても特別な感情は芽生えず、相手に関心を抱けなかった時点で見切りをつけるべきだったのだ。そこでちゃんと謝って、自分から別れを切り出すべきだった。それはそれで彼女を傷つけただろうが、こんな形で別れるよりはよほどましだったろう。いい加減な態度を続けたことで、彼女の傷を深くしてしまった。
「なあイリス、いっそのことチトセ嬢ちゃんと付き合ったらどうだ? そうしたらうまくいきそうな気がするぞ」
「……はあ?」
思いがけない提案に眉をひそめ、イリスは上官を見上げた。いつものふざけた発言かと思ったのだが、アルタは妙に真面目な顔をしていた。
「お前、人当たりはいいし面倒見もいいが、誰かに特別な関心を抱くことはめったにないよな。特に女には。そのお前があれだけ気にかける相手だ、チトセ嬢ちゃんはよっぽど特別な相手なんじゃないのか」
「特別……」
言われた言葉をくりかえし、考える。
「……特別と言えば特別かもしれないけど……そういうんじゃないよ。大体まだ子供だろ。女として見る気にはなれないよ」
「十六なら立派にお年頃だぞ」
「年齢だけの問題じゃないだろ。アルタ、ティトを見て本当にそう思うのか? 見た目の話じゃないぞ。精神的に、あの子は歳よりずっと幼い。見た目どおりの小さい子だと思っていいくらいだ」
人との関わり方がわからず自分の殻にこもりがちな少女を思う。時折大人を驚かせるほどの賢さやしたたかさを見せるが、普段の彼女は人見知りで内向的な子供だった。多分、故郷では家族に大切に甘やかされていたのだろう。周りから手を差し伸べられるのを待つばかりで、自分から動くことがほとんどない。
あの子には恋愛以前に、まず外の世界へ踏み出すことが必要だ。
「俺から見れば、お前もまだまだ子供だぞ」
「そりゃ、三十路のおっさんに比べりゃね」
不本意な言葉に憎まれ口で返せば、特大の拳が飛んできた。むろん今度はちゃんとよけた。
二十四で子供扱いされたくはない。
「子供だと馬鹿にしてると痛い目みるぞ」
「馬鹿にする気はないよ。ただ、今のティトにそういう気にはなれないし、向こうはもっとお断りだろうよ。どうやら男嫌いみたいだからね」
「そんなもん、恋をすれば関係なくなるさ」
「恋ね……」
それはどんな気持ちなのだろう。話にはよく聞くありふれた言葉を、自らの経験として感じることができなかった。
女の子は好きだ。可愛いし男にはない華やかさがあって見ていて心が弾む。だが誰か一人に向ける特別な想いというものが、なかなか生まれてこなかった。誰もを同じように可愛いと思い、同じくらいに好きで、それはたとえば花や小動物を愛でる感覚に近い。異性への思慕ではなかった。
千歳だけでなく、自分も未熟な人間なのかもしれない。それとも、運命の出会いとやらがまだ訪れないだけなのだろうか。
いつか自分が恋をするとしたら、その相手はどんな女性なのだろうと、イリスは空に見えない面影をさがした。
部下たちに訓練をつけてやった後、イリスは一の宮へ上がった。屍のごとく転がった連中からは恨み言で送り出されたが、別に八つ当たりをしたわけではない。隊長としての責務を果たしただけだ。
先に主君の元へ顔を出せば、彼もこれから千歳のようすを見に行くところだと言うので同行した。イリスと同じくらい、あるいはそれ以上にハルトも千歳のことを気にかけている。千歳の怪我の原因が彼の大切な姫君のためだったというのもあるだろうが、それだけではない千歳自身に対する慈愛も感じられた。
もともと心優しい人物だが、どうも千歳には親心に近いものを抱いているようだ。その認識が間違いではなかったと、イリスはすぐに知ることとなった。
千歳を養女に迎えたいと、ハルトは切り出した。横で聞いていて、さすがに少し驚いた。思い切った決断をしたものだ。しかし必然の流れなのかもしれなかった。家族から引き離され異境で不安を抱えている子供と、妻子を失い孤独を抱えていた男。互いにぬくもりと安らぎを求めて寄り添い合うのは自然ななりゆきに思えた。
――とはいえ、千歳は喜んで話に乗ったりはしなかった。
むしろひどく困惑するようすだった。ハルトには出会った当初からなついていたし、彼女がいちばん懸念している生活の心配もなくなる。なにが問題なのだろうと首をひねったが、千歳はイリスに相談してこなかった。
一度すがるような目を向けられたが、すぐにそらされた。あいかわらず、人の助けを求めない。すべて自分ひとりで解決しようとする。頼ってくれないのを寂しく思った。
「ものすごく悩んでるな。そんなに難しいか?」
待っていても相談してはくれないだろうから、こちらから訊ねた。
「だって……」
「ハルト様が嫌いってわけじゃないよな」
千歳は首を振って否定した。そうだろう、男嫌いで人間不信でもある彼女が、ハルトにだけは最初から心を開いていた。それがあの主君の特性だ。彼に警戒心を抱き続ける方がむずかしい。
「嫌だから悩んでるんじゃない」
「じゃ、何が問題だ?」
「……王様だし」
端的な答えに、うーんとイリスはうなった。
「ハルト様の立場を気にしてるのか? それとも自分の方?」
「……両方」
こういうところが、千歳は賢い。普通公王から養女に迎えたいなどと言われれば、大喜びして話に乗りそうなものだ。滅多にない幸運と受け取るだろう。
だが、現実はけしていいことばかりではない。物事には必ずいい面と悪い面がある。千歳のような身寄りもないこの国の生まれですらない娘が突然公王の養女に迎えられれば、いろいろと不愉快な出来事も起こるだろう。彼女だけでなく、ハルトも口さがない噂にさらされる。そのことを、千歳はちゃんとわかっていた。
冷静で賢明な娘だ。うわべだけの損得に惑わされない。それは彼女の美徳であるが、欠点でもあった。あれこれ考えすぎて動くのをおそれている。障害を乗り越える強さを、千歳には持ってほしい。尻込みしてばかりでは何も手に入らない。
「そう難しく考えなくてもいいと思うけどな。正直にはっきり言えば、そりゃあ誰にも何も言われずには済まないだろう。中には嫌なことを言ってくる奴もいると思うよ。でも毅然とはねつけていればいい。何も問題はないんだと、行動で示すんだ」
悩み、決断しかねている少女を励ましてやる。
「あんまり考えすぎるな。こういう問題は、下手に悩み出すと抜け出せなくなるぞ。どんな道を選んだって、何ひとつ問題のない人生なんてないんだ。どこかで転んだり壁にぶつかったりする。それを乗り越えていくもんだろ。歩き出す前に悩んだってしかたがない」
物事にこだわらないイリスと違って考えすぎるほどに考える少女は、すぐには結論を出さなかった。だが何を思ったのか、こんなことを言いだした。
「私もハルト様の役に立ちたい。騎士にはなれないけど、何か私にできることを見つけたい。だから勉強したい」
それもいいかと、思った。誰かのために頑張りたいという気持ちを持てたのは、きっと素晴らしい進歩だ。これまで自分の狭い世界の中だけで完結していた彼女が、外へ踏み出そうとしているのだ。応援してやりたいと思った。
もちろん、怪我が治ってからだと釘を刺すことは忘れなかった。悔しそうな表情から察するに、勉強道具を取り返そうという画策もあったらしい。まったく油断のならない娘だ。
放っておけない幼さを感じさせるかと思えば、大のおとなを策に嵌める腹黒さを見せ、時には騎士である自分を驚愕させるほど大胆に、勇敢にもなる。それでいて自身の安全にはろくに頓着せず、あっさり命を投げ出してしまいかねない危うさもある。おかしな娘だ。行動がめちゃくちゃで、目が離せない。
アルタの言うような対象として見る気にはなれないが、千歳のことは大事に見守ってやりたいと思った。ハルトが父親を引き受けるなら、自分は兄になろう。
――そう思っていたら、不意に千歳はイリス自身に向けて言葉を繰り出してきた。これまでの出来事に感謝と謝罪を告げ、さらに言う。
「できれば……友達に、なってくれたら……うれしい、です」
きっと、精一杯の勇気を振り絞ったのだろう。頬を染めてうつむき、最後の方は消え入りそうな小さな声だった。自分から他人とかかわろうと、絆を作ろうと頑張る姿に感動を覚えると同時に、あまりの可愛らしさに胸が大きく音を立てた。
口が達者で生意気なこともよく言い、斜に構えていた少女が、頼りなげな風情で恥ずかしそうにうつむいて情を求めるなんて――普段との落差が激しすぎてこちらが動揺してしまう。これはまずい。たちが悪い。動悸がおさまらない。
彼女から目をそらして、懸命に心を落ち着けた。まったく、可愛い女の子にこんな不意打ちをくらって動揺せずにいられる男がいるだろうか。女として見る気はないと宣言したのに、いきなりあやしくなってしまった。自分は今、たしかにときめいている。
しかし、落ち着かねば。相手は子供だ。恋愛以前の段階で頑張っている幼い子供なのだ。そんなのを相手に妙な気持ちを抱くなんて、大人として間違っている。ここは冷静にならなくては。
今自分がしてやるべきなのは、年長者として彼女に助言を与えることだ。そして差し出された手を、しっかりと握ってやることだ。
彼女が望みさえすれば、友情も愛情も手に入る。可能性は無限に広がっている。そのことを、言えるかぎりの言葉で伝えてやった。そして忠誠の誓いを小さな手に落とす。一生懸命頑張った彼女の勇気を讃えて、最大限の敬意を捧げた。
友情をこめて。
そのつもりだが、もしかすると違うものも混じってしまったかもしれない。
だがそれはまだ、はっきりさせなくていいことだ。今はまだ、友人でいい。彼女も自分も、急がずゆっくり関係を築いていけばいい。
いとおしい想いが胸に満たされるのを感じながら、イリスはもう一度、敬愛のくちづけを小さな友人に贈った。
***** 終 *****