9
崩落した床と共に地下に埋もれ、それでもまだ意識を保っているなんて嫌な話だ。
どうせならひとおもいに楽に死にたかった。がれきに埋もれて身動きもとれず、苦痛と恐怖に最後まで苛まれるなんて最悪だ。
私の上には崩れた床の残骸がのしかかっていた。かろうじて呼吸はできるがものすごく重い。腕も脚も挟まれて動かせない。元々怪我していた左脚なんて、もう感覚もなかった。どんな状態になっているのか、想像すると怖いので考えないことにする。
生まれて十六年と九か月、事故に遇うことも大病を患うこともなく元気に暮らしてこられたのに、ここ最近ときたら船は沈むわ溺れかけるわ崖から落ちるわ火事に遇うわ――そして最後がこれか。
まったく、私は前世でどんな悪事を働いたというのだろう。こうもひどい目に遇い続けなくてもいいではないか。
日本で孤独ないじめられっ子していた頃がなつかしい。まだそれほど時間が過ぎてもいないのに、ずいぶんと昔のことのような気がする。あの頃は平和だった。生命の危機に脅かされることなんて、いっさいなかった。両親が頑張って働いて養ってくれ、家事は祖母と姉がしてくれた。人ごみに出かけるのは苦手で、どうしても出たい時には弟についてきてもらった。思えば私は家族全員から守られ、甘えまくって生きてきた。
平和だったなあ。クラスで浮いているくらい、全然問題なかったなあ。いじめといったって身の危険を覚えるほどのことはされなかった。とても穏やかな毎日だった。今のこの状況に比べれば。
生き埋めになった人間って、どのくらい生きているのだろう。震災の報道では何十時間も過ぎてから救出された人の話を聞いたが、死ぬまで何十時間もかかるなんて嫌だなあ。
煙が流れ込んできて、私はむせた。そうか、上は燃えているんだった。それなら何十時間もかかるってことはないのかな。でも生きたまま焼け死ぬのも怖い話だ。まだ窒息死の方がましだろうか。
頭の上でがれきが音を立てた。また崩れるのだろうか。ああ、神様、どうかもうこれ以上痛いのも苦しいのも勘弁してください。
音が大きくなる。崩落の音とは何かが違う気がして、ふと私は耳を澄ませた。
崩れているんじゃない。これは、誰かががれきを動かしている音だ。
そう気づいた時、上体にのしかかっていた重みが不意に消えた。光が差し込んでくる。私は自由になった頭を動かし、すぐ近くに赤い髪があることを知った。
「生きてるな。もうちょっと辛抱しろ」
トトー君は短く言って、さらに私の上のがれきを取り除いていく。明るさが増すごとに、私を圧迫する重みも消えていった。
あらかたのがれきをのけてしまうと、トトー君は私を抱え起こした。助けにきてくれたんだ――私、助かったんだ。
ほっとするというか、にわかには信じがたい気分だ。これは本当に現実? まさかもう死にかけて幻覚を見ているとかじゃないよね?
実感がわかない。でも助けが来たのなら頑張らなければ。ちゃんと自分で立ってこの場から逃げないと。そう思うのに身体は言うことをきかない。もう痛いんだかどうなんだかわからない。
トトー君は私に動けとは言わなかった。最初からそんなこと期待していなかったようで、肩に担ぎ上げる。そうして、驚くほどの身軽さと力強さでもってがれきを蹴り、上にあがっていく。あっという間に一階の床に到着した。
上はどこもかしこも火の海だった。もう逃げ道なんてどこにもない。どうしよう、これじゃあトトー君を道連れにしてしまう。私は絶望感に打ちのめされたが、トトー君は違った。迷わずまっすぐに、まだ無事な窓へと向かう。
――でも、そっちは。
私の記憶違いでなければ、館の裏手方面だ。窓からは出られない。外は断崖絶壁だ。トトー君はそれに気づいていないのだろうか。
トトー君は窓に駆け寄り、大きく開け放った。空を見上げ、普段ののんびりした口調が嘘のように鋭く声を張り上げた。
「イリス! こっちだ!」
ばさりと、羽音が響いた。
銀緑色の飛竜が視界に飛び込んでくる。背からイリスが腕を伸ばした。
「ティト!」
トトー君が私を肩から下ろし、あろうことか放り投げる。馬鹿力に感心するべきか荒っぽさに文句を言うべきか――もちろん現実にはそんな余裕もなく、私は空中でただ息を詰める。直後に、どさりとイリスの腕の中に落っこちた。
しっかりと抱きしめられる。
「ティト……よかった……!」
窓枠を蹴ってトトー君も飛び移ってきた。彼の体重が加わった途端、イシュちゃんが目に見えて苦しそうになった。せわしなく翼をはばたかせ、必死に空中で姿勢を維持している。
「イシュ、ちょっとだけ頑張ってくれよ」
イリスが励まして手綱を操った。イシュちゃんは燃える館から離れ、煙を避けて飛ぶ。館の表側へ向かうと、地上から歓声が聞こえた。
うわあ……本当にたくさんいる。飛竜も地竜も。館の前が竜と騎士たちであふれていた。
その中に、一頭だけ鞍をつけていない裸の地竜がいた。お母さんだ。周りに人を寄せ付けず、お母さんはこちらをじっと見上げている。
イシュちゃんが庭の上までやってくると、着地を待たずにトトー君が飛び下りた。まだかなりの高さがあったのに、平然と地面に降り立つ。楽になったイシュちゃんがホバリングをし、地上の騎士たちがあわてて場所を開けた。
空いたところにイシュちゃんが降りる。イリスが私を抱いて静かにイシュちゃんから降りた。
竜騎士たちがわっと寄ってくる――と思ったのもつかの間、後ろから順番に飛びのいて道を開けていく。驚く人間たちの間を通り抜け、お母さんがやってきた。
「お母さん……」
私はかろうじて動かせる腕を伸ばした。お母さんが、そっと鼻先をふれさせた。
「ありがとう……ちゃんと、連れてきてくれたんだね。本当にありがとう……でもこんなに早く、どうやって集めたの」
お母さんはもちろんしゃべらない。答えてくれたのはイリスだった。
「この地竜が吠えて、近くにいた竜たちを呼んだんだよ。竜がいっせいに騒ぎ出してどこかへ行きたがるからとりあえず飛ばせてみれば、地竜が尋常でない声で吠えてたんだ。あんな啼き声、初めて聞いたよ」
……なるほど、文字通り「呼んだ」のか。
私はお母さんの顔をなでた。
「ありがとうね、何度も助けてくれて……お母さんのおかげで、私また生き延びられたよ……」
お母さんは最後に一度、私の手に頬ずりをして、身体の向きを変えた。悠然と立ち去っていく巨体を騎士たちがあぜんと見送っていた。
地竜隊長たるトトー君も、さすがに驚いていた。
「野生の竜が人の子を助けるなんて、まるで祖王の伝説だな……」
イリスもうなずいた。
「ああ、驚いたな。ところで『お母さん』って?」
後半は私に向かって聞く。
「お母さん竜なの。巣に子供がいるのよ。ちっちゃいのが三匹。すごく可愛かった」
みんなお母さんを待っているだろうな。ずいぶん長く借りちゃってごめんね。
「子供がいたのか? よくそれで……」
イリスが妙に驚くから、私は彼の端正な顔を見上げた。
「なに」
「卵を産んでから子供が親離れするまでの期間、竜はものすごくどう猛になるんだ。下手に子供に近づいたら殺される」
ああなるほど、母の愛だな。
「子育て中の竜があんなに従順に従うなんて、考えられないよ。それも龍の加護なのかな」
「かもね……でも」
疲れて私は目を閉じた。イリスの肩に頭をあずける。
「竜が、優しい生き物だからよ」
助かって、ほっとして、ますます私の身体から力が抜けていく。今頃になって意識を失いそうだった。でももう、そのまま死ぬおそれはないから安心して気絶できる――と、思った時、必死の声に呼ばれてまた私は目を開けた。
「ティト! ティト……っ!」
ユユ姫が叫んでいた。竜騎士に支えられ、それすらもどかしげにこちらへやってくる。あらためて見ると、ひどいありさまだった。ドレスは乱れて汚れだらけ、美しいプラチナブロンドもくしゃくしゃになっている。顔も涙と汚れで美貌がだいなしだった。
「ユユ姫が、しらせてくれたんだよ」
イリスが私の耳元にそっとささやいた。
「何が起こっているのかわからずにいた僕らのもとへ、ユユ姫が必死に這ってしらせに来たんだ。中に君がいる、助けてくれって」
……そうか。だからあんなに汚れているんだ。よく見れば、こちらへ伸ばした腕にはたくさんの擦り傷ができていた。
お姫様があんなになって、私のことを知らせに行ってくれたのか。
ユユ姫が私たちのもとへたどりつく。私の顔に手をふれて、そのまま彼女はイリスの足元に崩れ落ちた。介添えの騎士があわてて抱き起そうとしたが、イリスはそれを止め私を抱いたまま膝をついた。
ユユ姫が私に抱きついてくる。
「う……ああ、あああぁっ」
声を上げて泣きじゃくる彼女を、私はだまって見つめていた。
何も言う気がないんじゃなく、何をどう言ったらいいのかわからなかったから。
いや、まずお礼を言うべきだよね。しらせてくれてありがとうって。でもなぜだろう、言葉が出てこない。
彼女は私を見捨てなかった。私のために、なりふり構わず必死で助けを呼びに行ってくれた。泥だらけになって、傷だらけになって。
その事実が胸をいっぱいにして、私から言葉をうばってしまう。
……あの時、もしかしてあの子も助けを呼びに行こうとしたのだろうか。
「う……っ、だ、だいじょっ……なの」
泣きながら問われて、私はだまってうなずいた。またユユ姫の目からほろほろと涙がこぼれる。ぐしゃぐしゃのひどい顔なのに、とてもきれいに思えた。
そこへまた竜の羽音が聞こえてきた。一頭の飛竜が近くに降り立つ。その背から飛び降りた人が叫んだ。
「ユユ!」
ハルト様が駆け寄ってくる。
とたん、ユユ姫はくるりと向きを変えて彼に腕を伸ばした。
「ハルト様!」
……いや、いいんだけどね。
私の目の前で、ふたりはしっかりと抱きしめあった。ハルト様は何度もユユ姫の髪を撫でて無事を確かめていた。
「ハルト様……っ」
もう私のことなんて忘れたように、ユユ姫はハルト様にすがりついて泣いている。いや、いいですよ? 気持ちはよくわかる。私はこうして無事助かったんだし、もう気にしてくれなくていいですけどね。
でもどっと脱力感が押し寄せた。
ああ、気が遠くなっていく。でももうひとつ。あとひとつだけ、片づけておかねばならないことが。
「……イリス」
痛みと疲労とその他諸々に耐えながら、私は口を開いた。
「なんだ?」
「どこか、この近くに、泥だらけになったアスラル卿がいるはずだから。家来を四人ばかり引きつれて、逃げてるから。見つけて、つかまえて。絶対に逃がさないで……逃がしたら、泣いて謝るまでいびり倒す」
「――聞いたな、お前ら」
イリスが真剣な顔で周囲の騎士たちに命じた。
「行け! 何がなんでも見つけ出せ!」
「はいっ!!」
騎士たちが我先にと駆け出した。竜に飛び乗って空へ舞い上がり、または山道を駆けていく。
あわただしい物音を遠くに聞きながら、私は今度こそ全身の力を抜き、心置きなく人生三度目の気絶に突入したのだった。
私の言ったとおり、アスラル卿は泥だらけで山の中を逃げているところを発見され、騎士たちに逮捕された。
あの秘密の通路、火事であっさり崩れ落ちるあたり、手抜きの突貫工事で造られたに違いないと思ったのだ。いっそあいつも埋まってしまえばよかったのに。
偽名を使い何重にもダミーを利用して、アスラル卿はあの館を手に入れていた。最初から悪事に使うつもりだったのだろう。
彼の悪事とは、言うまでもなくユユ姫の謀殺だった。
そもそもユユ姫が誘われて出かけたところから、彼の計画は始まっていた。ユユ姫を誘ったご友人とやらは、アスラル卿にちょっとばかり借金があり、それをチャラにする代わりにユユ姫を誘ってほしいと頼まれていたのだった。
ユユ姫に紹介したい別荘があるのだが、あまりよく思われていない自分が誘っても来てくれないだろう。代わりに売り込んでほしい、というような頼み方をして、まんまと協力をとりつけた。
ホイホイ頼みを聞き入れる方もどうかと思うが、借金といってもそれほど大きな額ではなく、ちょっとした頼みの代わりにチャラにしても不自然ではない程度だったので、怪しまなかったのだそうだ。
ところがその別荘地でユユ姫が行方不明になった。ヘンナさんが呼ばれて(当然これもアスラル卿の差し金だ)目を離したわずかな隙に消え、池のほとりにユユ姫の靴が片方落ちていた。彼女の脚が悪いことは誰もが承知していたので、誤って転落してしまったのかと必死に捜索していたらしい。実はアスラル卿の手の者に拉致され、別の場所へ移動中だったとも知らずに。
城で知らせを聞いたハルト様も、別荘へ駆けつけていたそうだ。
アスラル卿がユユ姫に署名させようとしていた書類は何だったのかというと、
「借金の証書よ。担保にわたくしが経営権を持つシャールの工房を指定してあったわ。日付は一年も前のね」
「……つまり、ユユ姫を殺して、契約者死亡につき返済不可能、指定どおり工房を譲り受けたいと申し出るつもりだったと」
「ええ」
「言っちゃ何ですが、立てた計画の割に小さい収穫ですね。アスラル卿はシャールの産業全体を狙っていると思いましたが」
これにはハルト様が答えてくれた。
「工房の規模は大きくはないが、売り上げは馬鹿にならぬぞ。他のどこにも作れぬ特殊な染料と織りの技法で、シーリースのみならず他の島からも注文が入る。なまじ生産量が少ないだけに価値が上がり、この程度の敷物一枚で家が建つほどの値がつく」
示されたのは二メートル四方ほどの小さな敷物だ。コタツの下に家一軒敷くわけか。それはすごい。
「なるほど、資金繰りに困ってるところだし、まずは優良な資金源を入手しようとしたわけですね」
「そういうことだな」
もちろん他の工房や店もあきらめたわけではなかっただろう。ユユ姫がいなくなれば、それらを乗っ取るのもやりやすくなる。
「でもかなり危ない橋ですよね。ユユ姫が亡くなって、誰も聞いたことのない借金の話を持ち出したりしたら、まず疑われるでしょうに。彼にとって、あまりに都合のよすぎる話ですから」
「決定的な証拠がなければ、なんとでも言い逃れできると思っていたらしいわ。馬鹿にした話よ。ハルト様にそんなごまかしが通じると思っているだなんて」
ユユ姫が許せないのは、自分が殺されかけたことよりもハルト様が見くびられたことの方らしい。ぷりぷり怒るお姫様に、王様は苦笑していた。
ふたりは私にあまり生々しい話を聞かせたくなかったようで、アスラル卿の処遇がどうなるのかはっきり教えてくれなかった。なので後でイリスから聞きだしておいた。
「そりゃあ、考えるまでもないね。ことが悪質すぎる。王族の姫を殺そうとしたのはもちろん、君のことも利用して殺そうとしたわけだから、まず死罪以外が言い渡されることはないと思うよ」
私はこの程度の話で怯えたりしないと思っているようで、イリスはあっけらかんと答えてくれた。まったく、とんでもない話である。
「なまぬるいわ」
「え?」
「死刑ですって? そんな安直な方法で私の恨みが晴らせるとでも? あいつには生きて罪を償わせるべきよ。どうせ叩けば余罪が山ほど出てくるだろうし、徹底的に調べ上げたのち、自分がどれほど悪いことをしたのか、とことん思い知らせてやるべきよ」
「……あー……いちおう、ハルト様には伝えておくよ」
なぜか目をそらしながら、イリスは約束してくれた。
事件の詳細は大体こんなところだったが、私がこれらの話を聞いたのはずっと後になってからである。
助けられた後、私は三日三晩高熱にうかされ意識が戻らなかった。
暴行も受けたし崩落にも巻き込まれた。何よりも崖から落ちた時点で大怪我をしていた。私の脚は実はかなりひどい状態だったらしく、無理をしすぎたせいであやうく使い物にならなくなるところだったと、後日医者から聞かされた。
せっかく風邪が治ったのに、またベッドから出られない生活に逆戻りだ。
もっとも最初の十日ほどは、そんなことを考える余裕もなかった。意識が戻っても発熱は続き、脚はもちろんあちこちが激しく痛んでそりゃもう辛かった。日本でならもっと高度な治療が受けられるのに、なんて考えてもよけいに辛いだけなので、ひたすら耐えて過ごす。でもみんなすごくよくしてくれた。常に人がそばにいて私の容体を見守ってくれていたし、医者も日に何度も来てくれた。おかげでどうにか私は回復していき、二十日が過ぎる頃には人と話ができるまでになっていた。
「まったく、あなたときたら無茶がすぎるのよ!」
その日念願のお風呂許可が下り、ようやくさっぱりした私の元へ訪れたユユ姫は、最初からなぜか怒っていた。
「何が平気、大丈夫よ。全然大丈夫でなかったではないの!」
「……はあ」
どうして怒られるのかわからずに、私はあいまいに返事をする。ユユ姫はむっとした顔で私をにらんだ。
「こんなにひどい怪我をしていたなら、なぜあの時言わなかったの? あなたがあまりに平然としているから、わたくしここまでひどいのだとは思わずにおぶさってしまったではないの!」
……ああ、あの時のことか。
「当たり前じゃないですか? あの場面では他に方法がなかったでしょう。あそこで脚が痛いとか言ってもしょうがないし、文句言って怪我が治るわけでもないですし」
「そうだけど、そうじゃなくて!」
お姫様はばんばんとサイドテーブルを叩く。水差し跳ねてます。こぼれますって。
何がいけなかったのだろう。私はすごく頑張った。我ながらよくやったと思っている。文句を言われる筋合いなんてないと思うのに、なぜこんなに怒られるのだろう。
「そりゃあわたくしでは頼りにならないでしょうけど! ずっとあなたに助けられてばかりで、何もできなかったけど! 言われても、どうにもできなかったでしょうけど……でも言ってほしかったわよ!」
「はあ……」
「大体あなたはね、いっつもそうなのよ! 意地悪されてもどうしても、全然知ったことじゃないって顔で平然として、何も言わなくて! わたくしに言うことなんてないのか、相手にならないと思われているのかって腹が立って、じゃあ勝手にしなさいよって思ったけど、でもあなたがとても大変な身の上だってこともわかってるし。故郷に帰れなくて家族とも会えなくて、見知らぬ土地で一人で必死に頑張ってるんだから、きっと心に余裕がないんだわ、思いやってあげなきゃいけないんだわって、そう思うけどでもやっぱり悔しくて素直になれなくてそんな自分に嫌気がさしてさんざん悩んでいたのに、なのにあなたったら信じられないほどあっさり謝ってくるし! なんなのよ、その潔さは! 腹を立てているわたくしが、ひどく狭量な人間に思えるではないの!」
「…………」
「あなたって一体何を考えているのか、さっぱりわからないわ。いつも淡々として人形みたいに物静かでおとなしいかと思えば、いきなり人を挑発してわざと自分を殴らせようとするし。あんな危険な場所にわざわざ飛び込んできて自分がぼろぼろになってもわたくしを助けようとするし。それでいて優しい顔なんて全然しない、励ましてくれるわけでもない。どういうつもりでそこまでしてくれるのか、わからない」
「……どういう、というほどでもないですけど」
責めたてられて、困惑しながら私は答える。
「単なる常識というか……お年寄りや妊婦さんには席を譲るものだし、目の前で人が死にそうだったら普通助けるでしょう」
「……つまり、わたくしに対して個人的な好意があるわけではない、ということね?」
「ないわけじゃないですよ」
「全然そう思えないわ」
「好意とは別の次元の問題なので。生死にかかわる場面で好きだの嫌いだの言ってられません。でもユユ姫にはいつも感謝してますよ。私を面倒見てくれてとても助かってましたし、それに今回だってイリスたちを呼びに行ってくれたじゃないですか。あの状況なんだから、もうしょうがないってあきらめて見捨てられても当然だったのに、歩くのもままならないユユ姫が一人で必死に騎士たちのところまでたどりついて助けを求めてくれました。おかげで私、こうして生きてます。何もできないってさっきおっしゃいましたけど、十分してくださったじゃないですか。私もユユ姫に助けられました。感謝しています。……こういう言い方だと冷たく聞こえるのかな。ええと、つまり、ユユ姫のことは好きですよ。助けられたからってだけじゃなく、美人だし優しいしまだ十八なのに領主のお仕事頑張ってて偉いなって尊敬もするし。毅然としててかっこいいのに時々脆そうなところが萌えるというか、私が男だったらこれ、恋に落ちてますよね、多分」
「…………」
さんざん文句を言っていたユユ姫が、急に押し黙った。白い頬がみるみるピンクに染まっていく。それがとても可愛らしくて、そしてやけに色っぽかった。美人はいいなあと思って見ていたら、
「……嫌になるわ」
ぼそりと、低い声が落とされる。
「あなたのそういうところが、すごく嫌」
「……すみません」
私はうつむいた。やっぱり、私の言葉は人を不快にさせてしまうのか。思うままを言ったつもりなのに、それでだめってことは、そもそも私の性格が悪いからいけないのだと……。
「冷たいくらいに現実だけを突き付けて人を落ち込ませておきながら、最後でそんな口説き文句を言うのだから! たちが悪いわ!」
「……は?」
思わず顔を上げると、ユユ姫はぷいと横を向いてしまう。耳まで赤い、このようすはもしかして、怒っているのではなく照れているのだろうか。
……口説き文句って、どういうこと。彼女にはそんな風に聞こえたのだろうか。私にそんな器用さはないのだけれど。
横を向いたままユユ姫は言う。
「なんとなくわかってきたわよ。あなたはとにかく、冷静すぎるのよ。いつも、どんな時にも。自分の感情を見せないから、そっけない冷たい態度に思えるのよ。もっと子供らしくしなさいよね、小さいくせに!」
「……ユユ姫、私十六」
「わたくしより小さいのは事実でしょう。年も身長もついでに胸も!」
――んなっ。ちょっ、ついでになんつーことを!
視線を戻したユユ姫は、ふんと胸をそらして見せた。くそう、自分が立派なのを持っているからって……!
「まずはそのしゃべり方をやめてちょうだい。敬語で話されるとよけいに冷たく聞こえるのよ。わたくしには普通でいいわ」
「でも年上だしお姫様だし家主だし……」
「わたくしがいいと言っているのだからいいの!」
「…………」
何かもう、逆らう気力も失せて、私はだまってうなずいた。
ユユ姫って、こういう人だったのか。大人っぽくて優雅でさすがお姫様って思っていたのに、むきになってきゃんきゃん言っている姿は、ごく普通の女の子と変わらない。抱いていたイメージがどんどん崩れていく。
……普通の女の子、なんだよね。お姫様だろうと何だろうと、同じ人間で、まだ十八歳なんだから。
私は勝手にイメージを作って決めつけて、彼女個人を理解しようとしていなかったのだ。お姫様というキャラ扱いして、一人の人間として向き合っていなかった。
もっと話をしてお互いを理解しなさいと、ハルト様が言ったのはこういうことだったんだ。
――友達というのは、そこから始めるものなのかもしれない。相手をちゃんと見て、自分を見せて、同じ場所に立って、お互いを知るところから始めていくのだろう。
これまで私は、周りの人を離れた場所から眺めるばかりだった。自分はあそこへは入れないと思って、本当は私の方が入って行こうとしていなかった。憧れだけで終わらせて、本気で人とかかわろうとしていなかった。
もっと早く気付いていたなら、私は友達もちゃんと作れていたのだろう。もしかしたらあの子とも、仲良くなっていたのかもしれなかった。
今さら気づいても過去には戻れない。日本での私は友達を作れない寂しい心根の人間だった。もう二度と帰れないあの国の人々にとって、私は親しみを持てないとっつきにくい奴だったという印象のままで、そしてじきに忘れられていくのだろう。
でも、私はまだ生きている。この地で、先へ進んでいく。
私が望み、努力をすれば、ここで違う人間関係を作っていけるだろう。
まだ怒った顔をしているユユ姫を見ながら、あかるい明日を予想して、私の胸がときめいた。