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ゆらり、ゆらゆら。
ふわり、ふわふわ。
心地よい波に揺られ、安らぎに包まれる。生まれる前の海を思わせる、幸せな波だった。
ここはどこだろう。私はどうしていたのだっけか。
たくさんの景色や人の姿が現れては消えていく。
生まれ育ったのは人の多い街だった。家族がいた。両親と祖母、姉に弟。残念ながら友達はいなかった。学校での風景は、いつもどこか周りから浮いて、なじめずにいたものばかりだった。
できるだけおとなしく、普通にしていたつもりだったんだけどな。それでも他の子とは何かがちがって、変なやつと思われていたようだ。中には私を嫌って意地悪をしてくる子もいた。特に男子にはろくな思い出がない。なつかしい大切な記憶は家族とのものばかりで、学校での思い出は苦く寂しいものばかりだった。
最後に見たのは大きな船。学年全員で乗っていた。修学旅行の目的地に、着く直前のことだった。
皮肉なほどに晴れ渡った空と、そむけられた顔。沈みゆく船と、白い大きな生き物。淡い虹をまとった不思議な存在が私を抱え込む。流れ込んでくる意識と記憶は誰のもの? 見えるのはどこの景色だろう。
自然なままの空と海と大地が広がる。どこまでも美しく、生命の息吹にあふれている。鳥は群れをなして飛び、魚は気ままに水を泳ぎ、力強い脚で獣が走る。そびえる山の万年雪、深い湖に映る森、輝く波間に浮かぶ島、延々と広がる緑の大地――
うつくしい世界。いとしき世界。
個が薄れ、大気に融けていく。このうえない快感に、私は思う。これが楽園、天国というものだろうかと。
死後の世界を夢見ているのなら、死はなにもこわくない。幸福への入り口だ。
新しい世界で、私はあたらしい命を得られるのだろうか……。
ぴたぴたと、何かが頬を打つ。痛いほどに強くはなく、でも無視できない程度の力で。
「おい、聞こえるか? しっかりしろ」
人の声もした。男の人の声だ。あれ? 私死んだんじゃなかったっけ? もしかして助かった? 奇跡的に救助されたのか。
徐々に感覚がはっきりしてくる。私は仰向けに寝ている。それを起こそうと、誰かが声をかけながら頬を叩いているのだ。
下半身に水の冷たさを感じた。でも水面に浮いているという状態ではないようだ。身体はしっかりとしたもので支えられている。この感じだと、ボートとかではなく地面なんじゃないだろうか。
あー……なんとなく、わかってきた。下半身を濡らす水は規則的に上がったり引いたりしている。それって波だ。多分、ここは波打ち際だ。
「やっぱり死んでるのかな」
さっきとは別の声がした。これも男だけど、大人の声には聞こえない。
「生きてるよ。あっさりあきらめるなよ」
「だって、ものすごく顔色悪いから」
「そりゃあこの状態で活き活きツヤツヤしてたら逆に怖いだろう」
まったくだ。誰だか知らない人に私は深く共感した。と、同時に呼吸ができることに気づいて大きく息を吸い込む。それがかえってまずかったのか、たちまち咳き込んだ。
「あ」
「気がついたか!」
うれしそうな声と共に、上体を浮かされる。背中をさすってくれる手があたたかい。ありがとう、海上保安庁の人、それとも自衛隊? はたまた通りすがりの発見者か。
ひとしきりゲホゲホやってどうにか落ち着くと、私は全身を鉛にする倦怠感に耐えて目を開いた。濡れた制服と砂浜が見える。打ち寄せる波も。ああ、生きている。
なんて運の強い。みじめでむなしい人生だと思ったら、どっこい逆転人生だったか。
まあ、よかった。死にたかったわけじゃないもんな。これで家族も悲しませずに済む。
「大丈夫か?」
私を支えてくれている人がのぞき込んできた。まだ若い男の人――これはまた、なんて美形さんなんだろうか。
ハリウッドスターもかくやというイケメンぶりだ。どっちかというと女顔、でもなよなよした印象はない。鮮やかな青の瞳と流れる銀髪がかっこいい。背後に見える青空のなんと似合うことか。
正直、イケメンは嫌いだ。自分がもてることを自覚しているから、女を馬鹿にする傾向がある。美人ならまだいいけれど、私みたいな子は二十点とかいや十五点だとか言われて男同士で笑い合っている。クラスにもいたな、そんな奴。とにかく自分に自信があって、なびかない女がいてもひがんでいるだけだとか都合のいい解釈をする。ただでさえ男は苦手なのに性格も悪いんじゃ、好きになれるわけがない。
ただ、今目の前にいるイケメンは、私が目を覚ましたことに安堵する表情を浮かべていた。うん、印象は悪くない。性格がどんな奴かは知らないが、今この時点では普通に人命救助を優先してくれているようだ。ありがたい。
「へえ、黒い瞳か。珍しいね」
どこか気だるげな声がして、もう一人のぞき込んできた。思っていた通りまだ子供だ。私と同年代くらい。赤い髪と明るい茶色の瞳。こういうの、榛色って言うんだったかな。でも光の加減で緑がかっても見える。不思議な色だ。
この子もイケメンの部類だな。銀髪さんほどじゃないけれど、けっこう可愛い顔をしている。ぼやんとした表情じゃなくもっとにっこり笑っていれば、アイドルになれるだろう。いや外人さんだからハリウッド?
……ん? 外人さん……?
「どこか痛いとこはない?」
銀髪さんが優しく問いかけてくる。痛いとこ……痛みはないです、はい。
でも何か違和感が。
「ちゃんと聞こえてるかな。君の名前は?」
ああ、すみません。私ずっとぼうっとしてろくに反応していませんね。
大丈夫、意識はかなりはっきりしてきた。咳もおさまった。しゃべれるだろう。
私はゆっくり答えた。
「佐野、千歳です」
「ああ、よかった。意識はしっかりしてるね。ええと、サノティ、トシェ?」
なんか変な発音された。
「さの、ちとせ」
「サノ、ティトシェ」
「ちとせ」
「ティッ……ト、スェ?」
だめだこりゃ。
まあ外人さんに日本語発音は難しいよね。チが言えないことはわかった。セも難しいんだろうか。
でもこれだけ流暢に日本語しゃべっているくせに、なんでそこだけ発音できないんだとつっこみたい。
と、いうかですね……これ、日本語?
意味が普通に理解できるから日本語かと思っていたが、なんか違う。違和感がある。耳に入ってくる音は違う言語だと認識している。しているのに、意味はちゃんとわかる。口調もわかる。どういうことだ。
「あの……私の言葉、わかりますか」
私は問い返した。うん、と銀髪さんはうなずく。
「言葉が通じるみたいで安心したよ。この辺りの国じゃあまり見かけない姿だけど、どこの子かな」
「どこ……」
私はようやく頭を動かして、周囲を見回した。青い空と白い砂浜、引いては打ち寄せる紺碧の波。浜のすぐ近くに迫った断崖絶壁。頭に緑を美しく茂らせ、巣があるのか海鳥がたくさん飛んでいる。
なんて素敵な自然風景。いったいどこなんだろう。私はどこに流れ着いたんだ。
私のそばには二人の男性。同い年くらいの男の子と、もうちょっと年上らしい人。どちらも外人さんだ。欧米人とも見えるし、ひょっとしたらアジア寄りかもしれない。顔立ちだけではどこの人かわからない。
身なりはそう奇天烈じゃないけれど、日本の街中を歩けば確実に注目されるだろうなって程度には変わっていた。基本的なところは一緒だが、カジュアルシャツとデニムじゃない。もっとこう……なんていうか、サバイバル的な? いや迷彩服じゃないけれど。かっちりした丈夫そうなズボンに皮のブーツを履いて、手にも指なしの皮手袋。上半身にはおしゃれのためじゃなさそうなベスト。二人とも腰に太いベルトをしていて、そこに……そこに装着されているのは、アレですか。ファンタジー的な、ゲームや漫画でおなじみの、剣ですか。
前言撤回。これやっぱり奇天烈。
イベント会場でなら誰のコス?って好意的に注目されるが、そのまま会場外に出ちゃいけない格好だ。叱られる。下手したら職務質問されるかも。
でもですね。これ、ただのコスプレとは思えない現実味があるんですよ。服も剣も、なんかすごくリアルで身になじんでいるというか、仕立ても普通にしっかり丈夫そうで。
この人たち、何者?
ていうか、ここは本当にどこなんだ。
私の頭にあるひとつの可能性が浮かんできた。漫画もゲームも好きでイベント通いして同人誌を買いあさる立派なオタクとしては、真っ先に浮かんでくるありがち設定だ。
いやでもそんな、いくらなんでも。
虚構の世界では魔法も超能力も人外生物もなんでもアリですが、現実と混同なんてしませんよ? 私は常識派の現実主義者なつもりだ。
うん、まさかね。ちょっと遭難して、見知らぬ場所に流れ着いて、目が覚めたらコスプレ男子がいたからって、ここは異世界だなんて単純に考えたりしない。そう、これはきっとただのコスプレだ。そうじゃなきゃ通報ものだろうこの二人。
いたって常識的な結論にたどり着いて自分を納得させようとしていたのに。
私は見てしまった。これまでの十六年間で築いた常識を、根底から覆す存在を。
ここは海辺。大海原が眼前に広がっている。だから船があるのは当たり前。不思議でもなんでもない。
それが、海に浮いてさえいるならば。
大空を悠々と飛ぶ帆船なんて、私は知らない――