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――さて。
お母さんが無事竜騎士たちを連れてきてくれればいいのだけれど、野生の竜が集まってくるという可能性もある。その場合は竜たちに館を襲撃してもらい、混乱に乗じて侵入しユユ姫を救出するしかないのだが、果たして私にできるだろうか。
なにせ私はプチ引きこもりのオタク女子。運動能力は中の下程度だ。しかも今は脚を負傷し歩行も辛い状況で、本来こっちが助けてほしいくらいなのだ。
私にヒーロー能力を期待しないでほしい。私が最強になれるのはゲーム画面の中だけだ。
でもまったく何もしないで、ただ応援が到着するのを待つだけというのも芸がない。こうしている間にもユユ姫がどうなっているのか、もちろん気になる。アスラル卿は何を目当てにユユ姫を拉致したのだろう。
誘拐して強引に結婚を、なんて無茶が通るはずもないし。それに彼はユユ姫に執着しているというより、ユユ姫の持つ財産や領主としての権限、ひいてはシャール地方の産業を手に入れたいと思っているようだった。そのための手っ取り早い方法が結婚だっただけで、他に方法があるなら何でもいいのではなかろうか。
他の方法、と考えて嫌な想像をしてしまった。いやでも、アスラル卿のことはよく知らないけど、ユユ姫に万一のことがあったとしても彼に相続権が発生するとは思えない。領主の地位は他の王族か、あるいはふさわしいと認められた人物に移譲されるだろう。ユユ姫との確執を知られている以上アスラル卿が選ばれるはずがない。それを無理に立候補したって、疑われるだけだ。
あまり頭のよさそうな人だとは思わなかったが、いくらなんでもそのくらいは考えているだろう。邪魔なユユ姫を殺してしまえ、なんて単純な発想にはいたらない……と、思いたい。
全部私の勘違いで、ユユ姫はここに遊びにきただけ、なんて可能性もあるのかな。さっきのようすを見るかぎり絶対違うと思うのだが。
私はしばらく考えて、もう一度館へ近づくことにした。今度は人目を避けるのではなく、堂々と歩いていく。向かう先は表の玄関だ。
ここにどれだけの人がいるのか、どんなようすなのか、少しでも調べておきたい。それにはこそこそのぞくより、正面から入る方がいい。私が誘拐犯だったとして、アジトに誰か人が訪ねてきたらどうするだろう? そりゃあ知らん顔して普通に応対する。奥に人を隠しているなんて気づかせない。あわてて追い払ったりしたら無駄に疑われるだけだから、全力で丁寧に応対し、そのまま問題なくお帰り願うだろう。
私は痛い脚を引きずり、ことさらによろよろと玄関にたどりついた。拳で遠慮なく扉を叩く。
「ごめんください。すみません、誰かいませんか。ごめんください」
表には馬もいたし馬車もあった。中に人がいるのは明らかだ。私は声を張り上げて人を呼んだ。
少し長く待たされて、ようやく扉が開いた。中から中年の男が鋭い目つきで顔をのぞかせる。一体誰がきたのかと警戒しているのだろう。もちろん私は何も気づいていないふりで、安堵の笑顔を浮かべてみせた。
「ああ、よかった、人がいて。突然お邪魔してすみません、私崖から落ちてずっと山の中をさまよってて、やっとこちらのお宅を発見したんです。本当にいきなり不躾で申しわけないんですけど、どうか助けてください。怪我をして、歩くのも辛いんです」
「…………」
細く開いていた扉をもう少し開けて、男は姿を現した。私をじろじろと上から下まで眺める。
ええ、どうぞ、しっかり見てください。崖から落ちたのも怪我したのも本当だ。左脚は腫れているし、あちこちの傷に血もにじんでいる。全身泥だらけでボロボロなこの姿は、誰がどう見ても遭難者だろう。
「お願いします……助けて……」
私はふらつき、男にすがりついた。仕方なさそうに男は私を支えた。
「ひどい有様だな。崖から落ちたって、なんだってまた」
「足を、滑らせてしまって」
「まあ、とにかく入んなさい。ここじゃ大した手当もしてやれんが、家まで送ってやるよ。ふもとの街の子かね」
「いえ……わけあって上でお世話になってます。あの、できたらスーリヤ・メイナ・アジエルって人のところに連絡していただきたいんですけど」
ここでイリスやトトー君の名前は出さない方がいいだろう。竜騎士隊長に知らせてくれだなんて言ったら、彼らを警戒させてしまう。ましてハルト様なんて問題外。私の知り合いでいちばん無難な人といえば、スーリヤ先生くらいしかいない。
名前を聞いて、男は記憶をたぐる顔をした。
「スーリヤ……アジエルっていうと、財務卿のクラル・リク・アジエル様かね」
「さ、さあ……私が知ってるのはスーリヤ先生だけなんで……」
「そりゃあ、クラル様の奥方だろう。大変な才女だと聞いている」
そうなのか。スーリヤ先生が才女なのは知っているが、既婚者で旦那が財務卿とまでは知らなかった。はたして無難な人選だったのだろうか。
でもイリスやハルト様よりはましなはずだし。他に知り合いなんていないし。
毎日会っていても、私はスーリヤ先生のことを何も知らないのだと今さらに気づいた。個人的なことなんて一切聞かなかった。授業には関係のないことだからと思い、特に聞く必要性を感じてもいなかったけれど、そういうところが人と関わりを持たないと言われる所以なのかな。
あの子だったらきっと、雑談もまじえて色々と聞きだしていたことだろう。
「はい、私はスーリヤ先生の生徒です。しばらく寝込んでて授業ができなくて、やっと元気になったからご挨拶に行こうとしたのに……ひっく」
ともあれ、今は保護を訴える子供に徹さねば。泣き真似をすれば、男はうるさそうに私をうながした。
「ああ、わかったわかった。連絡してやるから泣かんでよろしい。とにかく、中へ入りなさい」
「ひくっ……あ、ありがとうございます……っ」
男に連れられて、私はまんまと館への進入を果たす。数人の男がいぶかしげに姿を現した。
「どうしたんだ、その娘は」
「崖から落ちたとかで、助けを求めてきたんだ」
男たちがこっそりと視線を交わし合う。意味ありげなその態度は、うしろめたいことを隠している証拠だ。もちろん、怪我だらけの遭難者はそんなことに気づく余裕なんてない。私は何もわかっていないふりで、脚を引きずり痛そうによろよろと歩いた。いや本当に痛いけど。
二、三……四人か。これにアスラル卿を加えて五人。他にもいるのだろうか。
彼らは私を玄関近くの部屋に連れて行った。椅子に座らされ、演技ではなく私はほっと一息つく。薬を取るために出ていったはずの男は、戻った時別の男を連れていた。
「ほお……これはこれは」
驚きと、嫌な笑顔を浮かべて私の前に立つ人物。私は彼以上に驚いて見せた。
「アスラル卿!? どうして……え、ここってアスラル卿のお屋敷だったんですか」
まあ、こういう可能性も考えていなかったわけではない。できれば彼には気づかれないですませたかったが、それは無理な相談だろう。ただ、彼が私の前に姿を現すかどうかは五分五分だった。隠れたまま知らん顔でやりすごすかと思ったのだが……どうやら、外れたようだ。
アスラル卿は意地の悪い目つきで私を眺めまわした。
「逃したと聞いていたが、よもやそちらから来てくれるとはな」
「え……?」
思いがけない言葉に私は素で目を丸くする。
「誘い出すまでもなく一人で出てきて、一度は逃げたのにのこのことまた姿を現すとは……まったく、実に愉快だ。なんて好都合なんだろうな、ええ?」
「…………」
アスラル卿の嘲る言葉を私は反芻する。意味は明らかだった。
「……あの連中は、あなたが差し向けたってこと? あなたが私をさらおうとしていたの? どうして」
演技ではなく本気で驚いた。ユユ姫を拉致したことはまだわかる。でもなぜ私までさらおうとしたのか。
私を孤児と馬鹿にしていた彼だ。私なんか誘拐したところで何のメリットもないと承知しているだろうに。
アスラル卿は乱暴に私のあごをつかんだ。痛いほどの力がこめられる。
「己の無礼をもう忘れたか? この私にどんなことを言った。ええ? きさまをあのまま許してやるとでも思っていたか」
「……仕返し目的? なにそれ、いい歳した社会的身分もある人が、そんなことのために人ひとり誘拐しようとしたの?」
「だまれ!」
アスラル卿の手にさらに力が増した。あごをにぎりつぶさんばかりの力に私は歯を食いしばった。騎士じゃなくても、やっぱり男の力は強い。
「生意気な小娘が。その口が身の破滅を招くと、後悔するのだな」
アスラル卿は私を突き飛ばす。半ば吊り上げられていた私は、椅子に倒れ込んだ。
「いつもそばにくっついていた飛竜隊長もいない。ここで他人の威を借りることはできんぞ。きさまはただの無力な子供だ、はっ」
その子供相手に勝ち誇る大人もたいがいみっともないと思うんだがな。
私はとりあえず、おびえたふりをすることにした。今回はあまり刺激しない方がいい。あの時とは状況がまったく違う。
絶対的優位に立つアスラル卿は、愉悦にゆがんだ笑みで私を見下ろしている。
「まあ、まずは役に立ってもらおうか。あの強情な姫君は、ちょっとやそっと脅したくらいでは言うことを聞いてくれないからな。きさまから説得してもらおう」
控えていた部下にあごをしゃくって指示を出す。命じられた部下は私の腕をつかんで立ち上がらせた。脚も痛いが掴まれた腕も痛い。そんなに力一杯にぎらなくても、女の子がこの状況、この怪我で逃げられるわけないのに。
部屋から連れ出され、二階へ向かう。どうやらユユ姫のもとへ連れていかれるらしい。
……どうも、予想外の展開になったな。
てっきり狙われているのはユユ姫だけだと思っていたから、私はさっさと追い返されるだろうと踏んでいたのに。まさか私まで拉致されるとは思わなかった。
さて、この状況はいいのか悪いのか。
いや、いい方に考えておこう。少なくともユユ姫の状態を確認することができるのだから。さがす手間も省けた。
きっとお母さんが仲間を連れて帰ってきてくれる。大丈夫、きっと助かるから。
私は自分に言い聞かせる。ここで不安に負けてパニックに陥ったらおしまいだ。冷静さだけは保たないと。
足元がおぼつかない私を、アスラル卿たちは引きずるようにして二階の奥の部屋へ連れて行った。そこには案の定、ユユ姫の姿があった。
「ティト?」
私を見た彼女は座っていた椅子から立ち上がろうとし、ふらついてまた腰を落とした。私を部下に押さえさせたまま、アスラル卿が進み出た。
「お一人ではさみしいかと思い、連れてきて差し上げましたよ。これで姫も、少しは素直になってくださるでしょう?」
「その姿は……い、一体その子に何をしたのです!」
「誤解なさらないでいただきたい。これは我々とはまったく関係がありません。勝手に崖から落ちたのですよ」
「崖から……? どうして、そんなことに。関係がないだなんて、そんな言い分が信じられますか!」
「信じる信じないはご勝手に。私は事実を申し上げているまで」
ふたりが言い合っている間に、私はユユ姫を観察していた。見たところ怪我もなさそうだ。朝見かけた時と同じ、きちんとした姿のままである。ひどい目には遇っていないらしいと、ひとまず安堵する。
にらみつけるユユ姫に、アスラル卿はかたわらの机から一枚の紙を取り上げた。
「さあ、お願いしたとおり、こちらに署名を。何も難しいことではないでしょう? ただ名前を書いていただければ、二人そろって帰してさしあげますよ」
「……だれがそんな言葉を信じるというのですか。このような真似をしておきながら、わたくしをただ帰すだなんてありえないでしょう。よくも白々しく言えるものです」
ユユ姫が厳しい口調で言い返すと、アスラル卿はわざとらしく嘆いて見せた。
「困りましたねえ。姫が素直になってくださらないと、この娘を痛めつけねばなりません。子供にむごい真似はしたくないのですが」
「は、恥知らず!」
蒼白になるユユ姫を、アスラル卿はせせら笑って眺めている。部下の男が私を床に押さえつけた。目の前に嫌な光を放つものが突き付けられる。
……まったく、一日に二度も刃物で脅されるなんて。
私は乱れそうな呼吸を必死に抑え、乾いた唇を舐めた。
「ユユ姫、言うこと聞いちゃだめですよ。言われるままに書いたら、そこで終わりです。二人とも殺されます」
直後に頭に衝撃が来る。重みに逆らえず床に落ちた頭を、そのままアスラル卿は踏みにじる。
「生意気な小娘が。きさまは黙っていろ」
「やめて! やめなさい!」
ユユ姫の悲鳴がする。大丈夫かな。お姫様にこの状況は耐え難いだろう。いや私だって耐えたくないけれど、言いなりになれば終わりというのだけはわかっていた。彼らは目的を果たすまではユユ姫を殺せないだろう。今はとにかく時間稼ぎをしなくては。お母さんが戻ってくるまで、応援が駆けつけるまで。
おねがい、お母さん。どうか竜騎士たちを連れてきて。
「さあ、姫。指の一本でも落としてみせねばわかりませんか? あなたもこんな孤児がどうなろうとかまわないとお考えですかな」
無理やり引っ張られ、押さえつけられた手に金属の冷たさがふれる。……指を切り落とされたらどれだけ痛いかな。二度と元には戻らない、一生そのままだ。でも死ぬよりはずっとまし……だよね?
私は目を閉じる。襲いくる苦痛と恐怖にそなえ、奥歯をかみしめる。
「やめて! 書くから! 言うとおりにするからやめて!」
ユユ姫が絶叫する。私は思わずまた目を開けてしまった。
「だめだって――」
言いかけて、頭を蹴られる。私は吹っ飛ばされて床を転がった。
「ティト!!」
ユユ姫の声が遠くなった。まずい、意識を飛ばしている場合じゃない。しっかりしないと。
でも身体が言うことを聞かない。痛いのは頭なのか脚なのか、もうよくわからない。
ユユ姫、お願いだから冷静に判断して。たとえ私が死んだって、彼らの要求をのまない限りあなたは殺されないんだから。
「たいへん結構なお返事ですよ、姫。最初からそう言ってくだされば、この娘も痛い思いをすることはなかったのに」
「……わたくしをどうしようとかまわないわ。わたくしはシャールの領主、ロウシェン王族の一員ですもの、このようなことも己のさだめと受け入れます。でもその子は関係ないでしょう! その子はロウシェンの生まれですらないのよ! 巻き込まなくてもいいでしょう。あなたの要求をのむ代わりに、その子は解放なさい。その確約がなければ殺されても言いなりにはなれないわ!」
「ええ、いいでしょう。私もこんな子供になど、何の用もない。どこかに放逐し、二度とロウシェンには戻れぬようにしてやりますよ」
嘘うそ、大嘘だ。ユユ姫、こんな白々しい言葉に乗せられないで。
生き証人を残すわけがない。あの紙に書かれた内容がどんなものかは知らないが、こんな手段でことを運んだと人に知られるわけにはいかないだろう。絶対に二人ともこの場で殺される。
私がなんとか起き上がろうともがいた時、あわただしい足音が近づいてきて乱暴に扉が開かれた。
「旦那様! 竜騎士が――表に竜騎士が集まっております!」
「な……っ」
アスラル卿が絶句する。反対に私の意識はばっちり覚醒した。
視界に、今しも署名をしようとしていたユユ姫の姿が映る。彼女も驚いて飛び込んできた男を見ていた。
「竜騎士……な、なぜ。一体、誰が」
「一人や二人ではありません! 何十人も――先頭にいるのは飛竜隊長と地竜隊長です!」
――やった!!
すごい、お母さん! ちゃんと竜騎士を連れてきてくれたんだ! 私がお願いした通りたくさん、それもこんなに早く!
しかもイリスとトトー君まで来ている!
「そんな、馬鹿な……なぜここへ。この館が目を付けられるわけが……」
「私がここにいるのに、その可能性に思いつかないなんて、やっぱりお馬鹿ですね」
私はここぞとはったりを口にした。床に転がったままというのがしまらないが、彼らが冷静に判断する暇を与えてはいけない。もっと動揺させないと。
「私が本当に山に迷って偶然ここへ辿り着いたと思ってたんですか? 何の手も打たないまま、単身無謀に飛び込んできたとでも? そんなわけないでしょう」
半分以上嘘だけど、この状況だ。堂々と言ってやれば彼らは信じるだろう。
案の定アスラル卿は目を血走らせて私の胸ぐらをつかみ上げた。
「きさま……きさまのしわざか!」
「もう遅いですよ。今さら何をどうしたところで、あなたに逃げ道はありません。悪あがきをせずにおとなしく投降するのが、いちばんましな選択でしょうね。それとも、竜騎士たちを相手に戦ってみますか?」
「く……っ、この!」
力任せに床にたたきつけられた。また意識が飛びかけたが、これ以上私を相手にじゃれている暇はなく、彼はあわただしく部下たちに言いつけた。
「竜騎士どもは表か? 中へはまだ通しておらんのだな!?」
「は、はい。しかし中をあらためさせよと言ってきており……」
「放っておけ! 地下から逃げるぞ! 顔さえ見せねば、この館から私を突き止めることなどできるはずがない!」
「はっ……その、この娘たちはどうしますか」
アスラル卿は舌打ちをして、私とユユ姫を見た。
「……地下までは連れて行く。ここに置いてはいけん」
「かしこまりました」
返事をした部下が私を拾い担ぎ上げる。ユユ姫も他の部下に問答無用で担がれていた。
「お前たちは火をかけていけ。やつらが後を追ってこれぬようにな」
「はい」
残りの部下に命じて、アスラル卿は足早に部屋を飛び出す。私達も荷物状態でその後に続いた。
このようすだと、地下からどこかへ抜ける秘密の通路があるんだな。でも私たちは地下までと言われた。そこに置いていくという意味だろうか。
……地下に残されて、上に火をかけられたらどうなるんだろう。
たとえ焼死はまぬがれても、酸欠でやられそうだ。
なすすべもなく私とユユ姫は地下へ連れていかれた。物置らしい部屋の奥に、お約束な隠し扉があった。私たちを物置に転がして、彼らは追いついてきた仲間とともにその扉をくぐる。
最後にアスラル卿がこちらを振り返った。
「いまいましい小娘め。せいぜいそこで、死の恐怖におびえるがいい。もがき苦しんで死んでいけ!」
捨て台詞を残して扉を閉じる。直後に鍵の閉まる音。私達が脱出できないように退路を断ったか。
「ティ……ティト」
ユユ姫が床を這ってこちらへ近づいてくる。私は身体に力を入れて起き上がった。
「……っと」
少しふらついたが、どうにか立ち上がる。まずは一応、扉を確認した。まあ開かないよな。仕方ない。
「ティト、あなた、大丈夫なの」
「平気です」
全然平気じゃなかったが、即答でしらを切った。今ここで痛いのどうのと言っている余裕はない。
「ユユ姫、逃げましょう。今ならまだ火は回りきっていないはず。急げばどこかから外へ出られます」
「あ……」
ユユ姫が目に見えて震える。彼女は立ち上がらなかった。
何かをあきらめた、あるいは決意した目で私に言う。
「一人でお行きなさい。わたくしと一緒では逃げられないわ」
「ユユ姫」
「……わたくしは、脚が悪いの。生まれつきとても力が弱くて、走ったりできない。ゆっくり歩くのが精いっぱいで、長く立ってもいられないの」
「…………」
私に驚きはなかった。ああやはり、という気持ちだけだった。
これまで彼女を見てきて、うすうす感じていたことだ。ユユ姫は大抵いつも座っていた。人を迎える時でも座ったままだった。歩く時は不自然なまでにゆっくりで、すぐにふらついたり――そう、私が殴られそうになった時には、椅子から立ち上がろうとして崩れ落ちていたではないか。
彼女は脚が悪いのだろうと、とうに予想していた。
だからアスラル卿は、ただ放り出すだけで縛りもせずに行ったのだ。怪我だらけの私と脚の悪いユユ姫では、とうてい逃げられまいと思って。
「……怪我は、してないんですよね?」
確認する私にユユ姫は首を振った。
「ええ。でもそんなの、意味ないわ。わたくしの脚では……」
「怪我がないんなら立ってください。怪我してても立ってください。しゃべる元気があるなら歩いてください」
彼女の言葉をさえぎって言った私に、ユユ姫は目を丸くする。我ながらずいぶんと冷たい響きの声だった。でも今は細かいところに気を配っている余裕はない。言い方が悪いとか口調がきついとか、そんなの生き延びてからの話だ。
「あんな奴の思いどおりにここで焼け死んでいいんですか。力が弱い? だから何ですか。弱くても動くんでしょう。意地でも歩く、逃げてやるって思わないんですか。歩けなくなったら這えばいいでしょう。みっともないから嫌ですか? ここで何の抵抗もしないまま死んでいく方がよっぽどみっともないと思いますけどね」
「…………」
「こんな目に遇わされて、あいつは逃げたのに、それを見逃してこのまま死ぬのを待つんですか。私はそんなの、絶対に嫌ですよ。あいつには地獄を見せてやらないと気が済みません。ひとりでは歩けないなら私を杖がわりにすればいいでしょう。こんな言い合いをしている時間も惜しいです。さっさと立ってください」
ユユ姫に手を差し出す。束の間、呆けた顔でその手を見つめていたユユ姫は、自らの手を重ね立ち上がった。ちゃんと、しっかり立っていた。
「……逃げられると、思う?」
「思う思わないじゃありません。逃げるんです。行きますよ」
私はユユ姫の手を肩に導き、歩き出した。私とユユ姫の身長差は十センチくらい。今の状況にちょうどいいだろう。
物置を出て下りてきた階段を昇る。もう辺りにうっすらと煙が漂っていた。
「ユユ姫、服で口元を押さえて、できるだけ煙を吸い込まないようにしてください」
「……ええ」
焦る気持ちを抑えてゆっくり歩く。急げばユユ姫はついてこられない。
一階へ上がると煙は爆発的に増えた。そうだよな、煙は高いところへ向かうんだから、地下にも流れ込んでいたということは、上は相当な状況だということだ。
玄関方面へは行けそうにない。猛煙と炎に包まれている。この火の回りの速さ、きっと油でも撒いたのだろう。
竜騎士たちが飛び込んでくる気配はなかった。竜につられてここまで来たのだろうが、ここで何が起こっているのかまではわからないはずだ。突然燃え上がった館が怪しいと思っても、わざわざ危険を冒して中をたしかめようとはしないだろう。
私たちはどうあっても自力で外まで、あるいは彼らの手が届くところにまでたどり着かねばならない。
玄関と反対側へ目を向ける。そちらはまだ火の海というほどの状況ではない。炎の間に通り抜けられそうな空間が残っている。普段なら恐ろしくて脚がすくみそうな光景だけれど、今は迷わず強行突破を選択だ。
でも、あの中をゆっくり歩いたんじゃ、さすがに焼け死ぬよな。一気に駆け抜けたらやけどくらいで済むだろうけれど、ゆっくり行ったら服や髪に火が燃え移る。
「ティト……」
ユユ姫が震える声で呼ぶ。私は彼女の前に、背中を向けて膝をついた。
「ユユ姫、乗ってください」
「え?」
「あそこを一気に駆け抜けます。背負いますから乗ってください」
「む、無理よ!」
ユユ姫が声を高めた。
「私を背負っては走れないでしょう。あなた一人で行きなさい」
「ユユ姫は細いから大丈夫ですよ。何十メートルも走るわけじゃないんです。あの、ほんの一角だけ抜ければいい。なんとか頑張りますから」
「でも……っ」
「ほら、向こうに窓が見えるでしょう。あそこさえ抜ければ、もうすぐ外に出られるんですよ。外には騎士たちがいます。助けてくれます。あの数メートルだけ頑張ればいいんですから、死ぬ気で根性出しますよ。いいから早く乗ってください。ぐずぐずしてると逃げられなくなります」
「…………」
ユユ姫が、おそるおそる私に手をかける。遠慮がちに乗ってくる身体を背負い、私はよいしょと立ち上がった。
……立っただけで死にそうだ。
身体中どこもかしこも痛いけれど、やはり脚がいちばん痛い。自分の体重を支えるだけでも辛いのに、もう一人分上乗せされて倒れそうになった。
でも歯を食いしばって耐える。必死に足を踏ん張り、ユユ姫に言う。
「落ちないよう、しっかりしがみついててくださいね。私の力だけじゃ支えられませんから」
「え、ええ」
細くても人ひとり背負って歩くには私の力は足りない。脚も痛い。こんな状態で長くはいられない。瞬間芸的な勝負だ。
「――行きますよ!」
私は床を蹴って駆け出した。
炎と煙の中を全力で駆け抜ける。熱い。煙が目にしみる。息が苦しい。脚が痛いってば!
炎を抜けてやったと思った瞬間、足がもつれた。私はユユ姫を背負ったまま床にスライディングする。でもそこはもう、炎のない場所だった。
「ティ、ティト、大丈夫っ!?」
「はい……」
ふたりして身を起こす。すぐ近くに、外へと通じる窓があった。
「ほら、ユユ姫、あそこから……」
彼女を立たせ、窓へ向かおうとしたその時。
足元で、メキメキと恐ろしい音が響いた。
「……っ」
床に無数の亀裂が走っていた。見る間にも範囲を広げていく。
全身が鳥肌立つ。頭が白くなる。
私は夢中でユユ姫を突き飛ばした。
「ティト!!」
ユユ姫の恐怖に染まった顔が一瞬見えた。
――ああ、あの時と同じだ。
落ちていく私と、それを見る恐怖に満ちた顔。
そっくり同じ光景が、世界を越えて再現される。
そうか……やっぱり私は、こうやって死ぬ運命なのかな。
あの時と同じように、笑いがこみ上げた。