7
気絶というものを経験したのは、これが人生で二度目だ。一度目は言わずもがな溺死しかけてこの世界へ流れ着いた時のこと。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。私はふと意識を取り戻した。しばらくは状況が理解できずにぼーっとなる。
でもすぐにすべてを思い出した。全身が痛かった。私は転がったままうめく。いたい、けど生きている。今回も命は助かったらしい。私やっぱり運がいい。
身体の下の感触は柔らかかった。草や木の葉がたくさん敷き詰められている。これがクッションになってくれたのだろうか。落ちる途中であちこちの枝にぶつかったから、そのおかげもあったのかもしれない。
己の運のよさにほっと息をつく。でもまだ安心はできない。どこかに深刻な大怪我を負っているかもしれない。私は痛みに耐えて少しずつ身体を動かした。
腕は、動く。二本とも問題なさそうだ。手にはひっかき傷ができていたが、出血を気にするほど深いものはない。
下に手をついて、ゆっくりと上体を起こす。背中や腰も一応大丈夫らしい。打ち付けた痛みはあるものの、身体を支えられない状態ではない。背骨や腰骨を折っていたら一生に関わる大問題だったので、これにもほっとした。
地面にへたり込んだ体勢のまま、最後に脚を確認する。肌が露出している部分が多いため、手以上に傷だらけだった。でもこちらも軽傷ばかりだ。しばらくはみっともないことになるが、生命の危機や後遺症を思えばこんなものなんでもない。
よかった――と安心しかけた時、嫌な汗が流れた。今、ずきりと痛んだ。ちょっとぶつけたとかひっかいたとか、そんな程度では済まない深い痛みが走った。
痛む部分をもう一度確認する。左脚の、膝から脛にかけてだ。見た目は大きな怪我などなさそうだがこの痛みは内部だ。まさか、骨をやられたか。
そっと膝を立てようとして、激しい痛みに断念した。やばい。これかなりまずい状況だ。
動揺をなんとか鎮めようと、私は痛む部分をさすった。骨なのか、筋なのか、それとも打撲なのか。見たところ脚がゆがんだりずれたりしているようすはないから、骨がボッキリいっているってことはないんじゃないのかな。でもわからない。骨折の経験なんてないから、これがどういう状態かなんて判断のしようもない。
まいったな……せめて腕だったら歩くのにはさほど支障がなかったろうに。脚がやられたとなると、この場から動くのも一苦労だ。
そこまで考えて、そういえばここはどこなのだろうと思い至った。崖から転がり落ちて、その真下にいるのだろうか。人の通る道からは離れているだろうか。
ここでようやく私は周囲に目を向けた。うっそうと木々の生い茂る藪の中――という想像はものの見事に裏切られる。そこは、洞窟の中だった。
洞窟というほどではないかもしれない。奥行きは多分二十メートルもない。大きく口を開けた出口がすぐ近くに見えている。しかしこんな場所、落ちたはずみで転がり込むとは思えなかった。誰かに運ばれたのでなければありえない状況だ。
もしやすでに人に発見されて、とりあえずここへ連れてこられたのだろうか。見れば身体の下にある草や木の葉は、自然に堆積したものには見えなかった。人為的に集めて作られた、大きな寝床に見えた。
助かったのかな。それとも、さっきの連中がわざわざ探しにきて私を見つけたのだろうか。いや、だとしたらこんな寝床なんて用意してくれないだろう。多分違う。と思いたい。
考える私の背後で気配がした。だれかいる。今さらながらに気付いて振り返る。そこにいた影は三つだった。ただし、人ではなかった。
「…………」
ふりむいた体勢のまま、私は固まってしまった。つぶらな瞳が三組、計六つ、じっと私を見つめている。それだけを見れば可愛い。でも言っちゃ悪いが全身のフォルムが可愛くない。
トカゲだった。立派な爬虫類だった。しかもでかい。柴犬くらいはある。
トカゲたちは興味津々といったようすで、すぐ近くから私をガン見していた。
え、もしかして、これ寝床というか、トカゲの巣ですか。たしかに私一人を寝かすにしては大きくきれいな円型だけど。外には卵の欠片らしきものも転がっていたりするけれど。
なんで私、トカゲの巣にいるの。
いや、それより君たち。何を思って私をそんなに見つめてくるのか。まさか捕食する気じゃないよね? トカゲって何食べるんだっけ。飼ったことないからわからない。ガラパゴスオオトカゲはサボテンを食べるとか聞いたような。でもこの子たち、イグアナよりもうちょっと凶暴っぽいビジュアルなんだけど。地面にべちゃっと腹ばいになったような体格ではなく、もっと脚が長くて四足でしっかり立っている。おでこの辺りには小さな角も生えていた。
どうしよう。いくら柴犬サイズでも野生生物×3を相手に勝てるとは思えない。
冷や汗を流しながら、へたり込んだままじりじりと後ずさりし始めた時、洞窟の入り口に大きな影が現れた。反射的に振り向いた私は、今度こそ絶句してしまった。
見上げるほどの巨体。馬よりも、飛竜よりも大きく、灰色の硬そうな皮に覆われている。額に生えた二本の角は大きく太く、襟のような突起が首を巻いている。
トカゲっていうか……これ、恐竜だよね。なんてったっけ。そうだ、トリケラトプス。あれに似ている。
トリケラトプスは草食だよね。ティラノサウルスの餌にされていたんだよね。だから人間を食べたりしないよね。
なんて考えは現実逃避だ。そう、わかっていた。悟ってしまった。後ろの柴犬サイズなトカゲたちは、この恐竜の子供なんだ。巣に子供がいて、そこにお母さんが帰ってきたんだ。
つまり、私は子供たちに与えるため運ばれた餌ですか。
いやいやいやいやいや! 爬虫類でしょ!? なんで子育てやってんの!? 卵産みっぱなしで放置がデフォじゃないのか!? 子育てする爬虫類もいるのか!?
助かったと思ったのは間違いだった。崖から落ちて命を落とすより、もっとひどい死に方をするかもしれない。私はこのチビドラゴンたちに生きながら食われるのか。
……ん? ドラゴン……?
お母さん恐竜が入ってくる。私は生きた心地もしない。思わずぎゅっと目をつぶってしまったら、何かが落ちてきた。頭や肩に軽い衝撃を受ける。
「え……?」
目を開ければ、周囲に植物の蔓が散らばっていた。スモモくらいの大きさの、紫色の実をたくさんつけている。それを見るなりチビたちが一斉に飛びついて食べ始めた。
……ああ、なるほど。この子たちのご飯か。
あれ、じゃあ私は? 私も餌扱い……では、ないのか? このようすだと、この子たちも草食みたいな。
と、いうか。
「…………」
いや、そんな場合じゃないのはわかっている。それより今は逃げることを考えなければ。もちろん危機感を失ったわけではない。ないのだけれど。
「……かっ」
かわいい。
前脚で実を押さえて一生懸命はぐはぐしている姿が、やけに可愛らしい。ちょっとぶきっちょな感じがまた……食べ終えた時のすごく満足そうな顔とか。
いやいやいや、萌えてる場合じゃないんだけど!
彼らが木の実に気を取られている間に、なんとか逃げ出さなければ。
極力物音を立てないように、そろそろと巣から脱出を試みた。しかしチビたちはご飯に夢中でも、お母さんの目は盗めなかった。ぬっと顔が迫ってくる。身をすくめる私を、お母さんは鼻先で巣へ押し戻した。
……ああ、やはり逃がしてはくれないか。
これはアレだろうか。生きたままの餌を与えて狩りの練習をさせようという、動物番組で見た状況なのだろうか。
可愛らしく木の実をパクついているこのチビどもが、次には私を引き裂くのだろうか。
どうしようと必死に頭を働かせていたら、またお母さんが顔を近寄せた。ひっとのけぞる私に、さらに顔を寄せる。見ればその口元に実のついた蔓をくわえていた。私に突きつけるようにずいずいと迫ってくるのは……。
「え……」
ぽとりと、膝の上に蔓が落とされる。お母さんがじっと私を見つめている。
……た、食べろってこと……?
「…………」
「…………」
両者無言で見つめ合い。
って、まさか私も子供扱い!?
――どうやら、私は餌ではなくチビの仲間だったらしい。なぜそんな認識になるのかわからない。わからないけど、とりあえずよかった。命の危険はないんだよね? 大丈夫なんだよね?
お母さんはまだ私を見つめている。食べないからだろうか。この実って人間にも食べられるのかな。手に取って匂いをかいでみる。ほんのり甘酸っぱい香りがした。
少しだけ歯を立ててみれば、皮は柔らかかった。甘い果汁が流れ出す。おいしかった。皮が少し渋いが食べられないこともない。問題は毒がないかどうかだけれど――ままよとかぶりつく。
私が食べ始めたことで満足したのか、お母さんが動いた。寝床に寄り添って四肢を折り、地面に腹ばいになる。こんもりと小山のような身体に守られて、チビたちと私は実を食べる。ほのぼのと、安らかな時間が流れた。
……って、なごんでいる場合じゃないんだけど。
でもこの空間、なんか癒される。実を食べ終えたチビたちがじゃれ合いを始め、ころころと周囲を転がり始めた。やがて彼らは私にまとわりついてきて、身体をよじ登ろうとしたり前脚をかけて立ち上がったりといたずらを始めた。一匹が膝に乗り上げてきて痛い場所を踏んだから、私は悲鳴を上げてしまった。
「痛いイタイいたい、そこ踏まないで」
そうしたら、お母さんがやめなさいと言うように鼻先で押して私の膝から落とした。落とされた子はまたころころと他の子と遊ぶ。
脚をさする私に、お母さんが心配そうに(?)顔を寄せた。なんとなく大丈夫かって聞かれている気がする。
「……うん、だいじょうぶ。痛いけど、まあなんとか」
答えてみると、お母さんは元の姿勢に戻った。太いしっぽにチビすけがじゃれついていた。
私はおもいきって、お母さんのおなかにもたれてみた。お母さんは動かない。じっと私やチビたちの好きにさせている。満腹になって遊んで疲れたのか、やがてチビたちがお母さんと私にくっついて眠り始めた。お母さんもまったりと目を閉じていた。
なんて……心癒される暖かな空間だろうか。モフモフ要素のない爬虫類系一家が、こんなにアットホームだとは思わなかった。
幸せだ。もういい。私、このままここで竜として生きていく――
――と、いうわけにもいかないので。
しばらくして、私はそろそろと動き始めた。お母さんの身体に手をついて、ゆっくり立ち上がってみる。脚の痛みはまだある。でもさっきよりはましになった気がする。立てないことはない。少しの間なら歩くこともできそうだ。
お母さんが首だけ動かして私を見ていた。私は顔の方へ行って、そっと語りかけた。
「あのね、私、帰りたいんだけど。お城……人間がたくさん住んでる場所に、連れてってもらえないかな。わかる? 人間が作った建物……巣のある所」
動物相手にそんなことを言ったって理解できるはずがない。そう思いつつも、私はひとつの可能性にかけていた。
さっきは混乱しておびえるばかりだったが、落ち着いて考えてみればこの恐竜の正体はすぐにわかった。きっと地竜だ。これが地竜なんだ。
竜の種類は二つだと聞いている。翼を持った飛竜と、翼のない地竜。それ以外に竜と呼ぶべき巨大な爬虫類がいるのなら、イリスが教えてくれていたはずだ。何も聞いていないから、目の前のこの生き物は地竜なのだと考えて間違いないだろう。
飛竜とはずいぶん違う姿だけど。なんとなく、単純に飛竜から翼を取っただけの姿をイメージしていた。まさかファンタジーではなく白亜紀でくるとは思わなかった。
地竜騎士はこれに騎乗して戦うのか。この巨体が突進してくるところを想像したら、たしかに背筋が凍る光景だった。戦う以前に踏みつぶされそうだ。
でも、私には龍の加護がある。
飛竜にはなつかれた。ひょっとすると崖を落ちる直前に襲いかかってきた飛竜も、私の声を聞いて助けに来てくれたのかもしれなかった。かなり荒っぽくて私もいっしょくたに被害を受けてしまったが、直接攻撃を受けていたのは誘拐犯たちだけだ。私はそばにいたから巻き込まれただけだった。
私が助けてと願い、それに竜が応えてくれたのなら――この地竜にも、願いは通じないだろうか。
私はお母さんの目を見つめた。
「お願い、私を連れて行って。ここまで運んでくれたのはお母さんでしょう? もう一度、人のいる場所まで連れて行って」
竜に人の言葉なんてわからないだろう。でも心は通じるかもしれない。
いっしょうけんめい気持ちを込めて語りかける私を、お母さんはじっと見つめていた。何を考えているのか、爬虫類の顔からは読み取れない。でもお母さんはちゃんと反応を返してくれた。立ち上がり、洞窟の入り口に頭を向ける。
内心やったと叫びながら私はお母さんについていこうとし、脚の痛みに顔をしかめた。そうだった、この脚で歩き続けるのは相当な苦行だ。
するとまたお母さんが脚を折って下に伏せた。これは乗れってことだよね? 単に寝返りを打っただけでしたってオチじゃないよね?
私は考えて、尻尾からよじ登ることにした。伏せの体勢になっても、お母さんの背中は私の頭ほどの高さがある。この脚で飛び乗ることはとても無理だ。失礼してお尻の方から登らせてもらう。
私がどうにか背中にたどりつき、ちゃんと座るとお母さんは立ち上がった。目を覚ましたチビたちが足元から不思議そうに見上げていた。ごめんね、少しだけお母さんを借りるよ。
私を乗せてお母さんは洞窟を出る。周囲は木と草と山肌ばかりの風景だ。見回しても宮殿はおろか、どんな建物も見えなかった。ここは山のどの辺りなのだろう。どっちが元来た方角なのか、私にはまったくわからない。完全にお母さんにお任せだ。お母さんはのしのしとどこかへ向かって進んでいく。
木の枝にぶつからないよう注意して、時折頭を下げながら私は考えた。龍って一体何なんだろう。人間にとってはちょっと不思議な、でも野生動物の一種だ。神様とあがめる国もあるという話だったが、アレが人に何かしてくれるとは思えない。気の向くままに世界を渡って事故を起こすような奴だ。
でも竜たちにとっては、本当に神様なのかもしれなかった。
野生動物は、同じ種類であっても他の個体はみんなライバルだ。縄張り争いや雌争いなどをして闘っている。群れの仲間であっても時には闘う相手となる。人間のように初対面の見知らぬ相手でも助けるなんて真似、普通動物はしない。
竜たちにとって龍が特別な存在だから、私を助けてくれるのではないだろうか。
龍の加護――その恩恵を感じることはあっても、具体的に自分に特殊な要素が備わった感覚はない。私自身には何が変わったのかわからない。でも竜は反応する。私を特別扱いしてくれる。彼らにだけわかる、神様の痕跡があるのだろうか。
君なら竜を狩れる、とカーメル公は言った。普通の人には難しい狩りを、私は簡単に行えるだろうと。
でもそんなこと、したいと思わない。竜は私に優しい。だから私だって竜に優しくありたい。
優しくしてくれたのは竜だけではなかったと思い出す。ここまで、いろんな人の善意に助けられてきた。それをただの義務感だとか他者へのアピールだなんてひねくれた捉え方をせず、ただ素直に彼らの優しさなのだと思えないか。
私に優しくしてくれた人達に、私は優しさを返していただろうか。
迷惑をかけないように、早く自立できるようにとそればかり考えてきたけれど、それは優しさとは違う気がした。
お母さんの背に揺られて山の中をどれくらい進んだだろうか。
三十分以上は歩いたと思った頃、ようやく木々の間に人工の建物が見えてきた。
崖を見下ろす位置に建つ、二階建ての館だ。宮殿の一部ではないようだ。周囲に他の建物はない。
さすがに宮殿まで連れて行ってというお願いは伝わらなかったか。でもちゃんと人のいる場所まで来てくれた。ここで城へ連絡してもらえるようお願いすればいい。崖から落ちてぼろぼろな私の姿を見れば、不審には思っても連絡くらいしてくれるだろう。もし拒否されたとしても、それなら宮殿に戻る道を教えてもらい、お母さんにもう少し協力してもらおう。
私はほっとして、近づいてくる館を眺めた。
なんというか、絶景建築だな。窓の外は断崖絶壁って、眺めがいいとか思えない。私だったら足元が気になって落ち着いて暮らせない。
誰が住んでいるのだろう。立派な造りからして一般庶民の家ではないと思う。貴族か、それともお金持ちの家なのか。
崖と反対側はちゃんと整地されていて、馬車でも乗り込めるようになっているのがわかった。でもお母さんに道なんて関係ないので、直線コースで森を突っ切っていく。玄関に回ろうだなんて人間の発想だ。お母さんはただ建物のある場所まで行けばいいと、館の横手目指して進んでいく。
かなり近づいて、もうじき藪を抜けるというところまで来た時、窓越しに館の中で動く人の姿が見えた。よかった、無人の空き家ではなかった。
と、安堵した次の瞬間、私は目をこらした。見覚えのある見事なプラチナブロンド――あれは、ユユ姫ではないだろうか。
私の視力は左右とも1.2。近視とまではいかなくても、あまり良くはない。まだ五十メートルはありそうなこの距離で、顔立ちなど細部はわからない。でも背格好や髪の長さなど、大体の特徴は見てとれる。
あれは、たしかにユユ姫だった。
今日は友達に誘われてのおでかけだったはず。ではここがその友人の家? ……それにしては、ようすがおかしい。
大きく造られた窓のおかげで中のようすはよく見えた。ユユ姫は何人もの男に囲まれて、無理やり引きずられているように思えた。ふらついて倒れそうになる。腕をつかんでいた男がそれを引いて、肩に担ぎ上げた。
「お母さん、止まって」
私の言葉をお母さんは正確に理解してくれた。歩みが止まり、なんなのと顔が振り返る。
私はじっと館を見ていた。
ユユ姫が担がれたままどこかへ連れていかれる。友達同士のふざけ合いには見えなかった。そういえばヘンナさんはどこにいるのか。ユユ姫に付き添っていたはずの彼女の姿がない。
私はお母さんの背中から降りた。意図を察してくれたお母さんが脚を折ってくれたおかげで、どうにか地面へ滑り下りて立つ。脚に痛みが走ったが、歩けないこともない。私はお母さんに頼んだ。
「ちょっとようすを見てくるから。ここで待ってて。お願いね」
このままお母さんで進んだら目立ちすぎる。館の中の人々にすぐに気づかれてしまうだろう。
私は一人で館に近づいていった。途中で振り返れば、頼んだとおりお母さんは動かずにじっと私を見ていた。こうして見ると、周囲の景色にあの巨体も違和感なく溶け込んでいる。保護色というものだろう。じっとしていれば、そこにいるとあまり気づかない。さすが野生動物だ。
安心して私は意識を前方へ集中させた。
周囲に人気がないのをたしかめて、藪から抜け出し館の壁まで一気に走る。これはちょっと、いやかなり脚が痛かった。でも我慢だ。これだけ動けるんだから多分骨は大丈夫だろう。
壁に張りつき、開いている窓を見つけてそちらへ行く。そっとのぞき込んだが誰もいない――と思った時、階段から人が下りてきてあわてて頭を引っ込めた。
足音が近づいてくる。一人ではない。何人分かの足音が、息をひそめる私の頭上を通過していく。
完全に通り過ぎた頃合いを見計らって、私はまたそっとのぞき込んだ。廊下の奥に、歩いていく男たちの背中が見えた。
ユユ姫の姿はなかった。
私はまた館から離れ、藪の中へ戻った。急いでお母さんの待つ場所へ行く。
――どうしよう。
私は忙しく頭を働かせた。この状況にどう対処すればいいのか。何をするのがいちばんいいのだろうか。
「……お母さん」
私が呼ぶと、お母さんはなあにと顔を寄せてくれた。
「人を――いいえ、竜を呼んできて。野生の竜じゃなくて、人に飼われている竜。この山の上の方にいるから。できるだけたくさん、人を乗せた竜を連れてきて」
竜騎士が来てくれれば。もし竜だけを呼んだとしても、きっと人が追いかけてくる。そうやって、ここにたくさん人が集まれば。
「お願い、急いで連れてきて!」
お母さんがのそりと動き出す。私をその場に残して歩いていく。ちゃんと理解してくれただろうか。不安がないとは言えなかったが、きっと大丈夫と思うことにする。だってお母さんは私を助けてくれた。頼みを聞いてここまで連れてきてくれた。今度も、意図は伝わったはずと信じる。
人に馴れていない野生動物に人の住処へ行けだなんて、無茶なお願いをしている。いくら強い地竜でも嫌がるだろう。もしかしたら、やはり城へは行かないかもしれない。でも連れてきたのが野生の竜だったとしても、その時はいっそドラゴンアタック計画にシフトしてしまえと開き直る。
お母さんを見送り、私は今自分にできることを考えた。応援が到着するまでにも、でき限りのことはしておかねば。
ユユ姫が自分の意志でこの館へ来たとは、もう思っていなかった。彼女はきっと誘拐されたのだ。あるいは、ここがどういう場所か知らずに誘い込まれたか。
さっき、館をのぞいた時に見かけた姿。
洒落た上等な衣装に身を包んだ、若そうな男だ。
見たのは後ろ姿だけだったけれど、間違いない。私はあの人を知っている。つい最近にも、あの背中を見たばかりだった。
アスラル卿――ユユ姫の友達とは、絶対に言えない人物だった。