6
久しぶりに袖を通した制服は、きれいに洗い直されアイロンもかけられて、すっかり元どおりになっていた。
なんだかんだいって、ここのメイドさんたちは真面目だ。いじめなんて本当は慣れていないんじゃないだろうか。これが古典的少女漫画なら、この制服は二度と着られないほどボロボロにされているところである。
鏡で身なりをチェックし、髪も乱れていないのを確認して、私は部屋を出た。風邪でダウンしてから実に六日目のことだった。
ユユ姫の部屋を目指すつもりだった。ところが玄関あたりがざわめいている。のぞいてみると、ユユ姫がどこかへ出かけるところだった。
「あら……」
声をかけるより先に向こうが気付いた。一瞬、私達の間に気まずい空気が流れた。顔を合わせるのはあれ以来だ。ユユ姫は、どんな顔をしていいのか迷うようすだった。
私は近づいていって挨拶した。
「おはようございます」
「ええ、おはよう。もう具合はいいの?」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
私は頭を下げた。
「先日は失礼な物言いをして申しわけありませんでした」
風邪が治ったら、まず何を置いてもユユ姫に謝らなければと思っていた。本当はすぐにでも謝りに行くべきだったのに、熱が下がるまで起き出すことを禁じられていたし、感染してもいけないと思っていたらこんなに間が空いてしまった。ものすごく今さら感が拭えないが、それでもやらなければならないことだ。
気まずいとか相手の反応が怖いとか、後ろ向きになって逃げ出したがる気持ちをねじ伏せて、私は言った。
「ユユ姫やみなさんに不愉快な思いをさせたことを、お詫びします」
自分から言い出すのは勇気のいる行為だ。相手がどんな反応を返してくるかと思うと、気持ちが萎縮する。でもこれが私の責任だ。私が彼女を傷つけた。だから謝らなければならない。気まずさをこらえるのは当然、どんな反応だろうと受け止めなければならない。
「…………」
ユユ姫は、あまりいい表情はしなかった。私から目をそらして機嫌が悪そうに口ごもる。
「……別に……不愉快だったのはあなたの方でしょう。ずっと嫌がらせをされていたのだから」
「いえ……」
私は慎重に答えを返す。しゃべりすぎると、また失言をするかもしれない。本音を垂れ流すのは厳禁だ。
慣れているし、嫌われてもしょうがないから――なんて言うのは、やっぱり可愛げがないだろうな。
今はできるだけ殊勝にして、謝意だけを表さなければ。
ユユ姫はそわそわと身じろぎして、時折外を見る。門の前に馬車が待機しているのが見えた。
もう時間がないのかな。あるいは私との会話をさっさと打ち切りたいのかもしれない。言い出しにくいようなので、私から水を向けた。
「今日はお出かけですか」
「ええ。友人から誘われて」
友達か。いいな。
「晴れてよかったですね。いってらっしゃいませ」
私はもう一度頭を下げた。
ユユ姫はうなずいたが、すぐには出ていかずまだ何か口ごもっていた。
「……あなたは?」
「え?」
「その、今日はどうするの」
目をそらしたまま聞く。一応気をつかってくれているのかな。もう話もしたくないと無視されるのも覚悟していたから、まだ私と口を利いてくれることがありがたかった。形だけの会話でも、ないよりずっといい。
「少し、出かけてこようと思ってます。授業もないので、遠くまで行ってみようかと」
「そう……それでその格好なのね。でも身体は大丈夫なの。医師の話では過労が原因だって」
「五日間ひたすら休養してましたから、もう十分回復しました。ただの風邪でしたし。外を、見てみたいんです」
「そう……」
ユユ姫は一度だけ、何か言いたげに私を見た。けれど結局何も言わないまま、館を出ていった。
私はメイドさんたちと一緒に見送った。ユユ姫と付き添いのヘンナさんを乗せて、馬車が門を出ていく。メイドさんたちが館の中に戻っても、私はそのまま一人玄関口に残っていた。
言った――これで万事解決とは到底思えないけれど、とにかく言うべきことは言った。あれでよかっただろうか。ちゃんと謝れていただろうか。
ユユ姫の不機嫌そうな顔に、落ち込まなかったと言えば嘘になる。ああ、やはり許してもらえないかとうつむきそうになった。でも仕方がない。私があんな顔にさせてしまったのだから。
どうして嫌われたのか理解しているだけでも、今までよりはましかもしれない。そう考えることで少しだけ自分をなぐさめる。
私は気を取り直して歩き出した。ユユ姫に言ったとおり、今日は出かけるつもりだった。ここへ来てから初めての遠出だ。
私が知っているのは館の周辺のごく狭い範囲だけだ。知らない道を進むのは、どきどきする。
日本でもあまり行動範囲は広くなかった。私が自主的に遠出するといったら同人誌即売会くらいだ。遠くても毎回行先は同じだったので、地図を頼りに知らない街角を歩くなんてことはなかった。
初めてイベントに行った時よりもどきどきしながら歩く。目的地はふもとの街だ。
エンエンナ山は大半が宮殿の敷地ということになっているけれど、裾野からは市街地になっている。空から見ると、スカートの裾飾りみたいに斜面に街が広がっている。
ふもとまではちゃんと道が整備されていて、歩くのには苦労しなかった。馬車でも通れるくらい傾斜はゆるやかだ。そのかわり直線コースじゃないので距離がある。病み上がりには少しハードな道のりだ。
直線だったらそれほど遠くもなさそうなんだけどな。これ、徒歩で夕方までに行って帰れるのかな。
周りには同じように徒歩で行き来する人や、馬車や時にはアルパカに似た動物に乗って通る人もいた。宮殿と街との行き来は多いらしい。みんな健脚だ。山を下る人々も、私を追い越してどんどん先へ行ってしまう。
うーむ。勢い込んで出てきたものの、平成のプチ引きこもり女子高生には難易度高かったかな。
街へ行きたいと思ったのは、いずれ自分が暮らすことになる一般の人々の社会を下見しておきたかったからだ。スーリヤ先生の話の中だけでない、本物の風景を自分の目で見たかった。
言葉は通じるし文字も少しは読めるようになったから、まったく知らない異国の街でも見物くらいならできるはずだ。どんなふうに人々が暮らしているのか、働いているのかを見てきたい。あわよくば、そのまま働き口を見つけられたら――なんていうのは甘い期待だろうけど。でもそんな可能性も考えて、初めてのおでかけに挑んだのだった。
……しょっぱなからくじけそうになっているが。
まあ、ぼちぼち行こう。まだ時間は早いし、お昼くらいには着けるだろう。多分。
涼しい山の空気を味わいながら私はのんびり歩く。また一台、後ろから馬車がやってきた。幌付きの馬車が横に並んだ時、御者台から声をかけられた。
「お嬢ちゃん、どうしたね」
顔を上げて見れば、御者台に一人、荷台からも一人顔を出している。宮殿に配達でもしてきた帰りだろうか。四、五十代くらいのおじさんと、もう一人はまだ二十代らしい若い男性だ。
「一人でとぼとぼ歩いて。おつかいにでも行くのかい」
御者台のおじさんに言われて私は苦笑した。とぼとぼって、そんな風に見えるのか。
「いえ、街へ出かけるところです」
「その調子で歩いてたんじゃあ、山を下りるだけで日が暮れるぞ。乗ってきな」
おじさんは手綱を引いて馬車を停めてくれる。荷台からも手招きされて、私は彼らの厚意に甘えることにした。
「すみません、助かります」
田舎の人は親切だな。見知らぬ他人をわざわざ呼び止めて乗せてくれるなんて。
――と、私はのんきに考えていた。これが日本だったなら、知らない人の車になんて絶対に乗らなかったのに。のどかな山の風景と馬車というほほえましい乗り物に惑わされて、普段の警戒心をすっかり置き忘れてしまっていた。
荷台には樽や木箱が積まれていた。その隙間に私は乗り込む。荷台の男性は私の制服を珍しそうに眺めた。
「変わった服着てんなあ。その瞳の色や顔立ちも、シーリースじゃあんまり見かけねえな。どこの島の出身だい?」
「日本です」
「ニホン? はて、聞いたことがねえな……どの辺りだい」
「うんと東の果てです」
私は堂々と答えた。日本が極東の島国なのは本当だ。この世界の地図には載っていないだけで。
本当のことなんていちいち説明していられないし、言ったところでまともに信じてもらえるとも思えない。
相手はふーんと相槌を打ち、それ以上はつっこんでこなかった。こっちでは遠い外国のことなんて一般の人はあまり知らないだろう。テレビもインターネットもない世界だ。遠い国だと言われれば、そうなのかと納得するだろう。
景色を眺めたかったので、私は荷台の奥へは行かず入口付近に座っていた。あちこちで花が咲いている。人の手がかけられていない自然の植物園だ。日本ではそれなりに都会暮らしだったから、自然がいっぱいの風景は目に楽しい。
ふと、空を飛ぶ影に気付いた。竜だ。鱗の色がわかるほど近くを飛んでいる。背に人は乗っていなかった。
「へえ、珍しい。野生の竜がこんな人里近くに来るなんて」
いつの間にか近くへ来ていた男性が言った。
「めずらしいことなんですか?」
「ああ。竜は普通、人には近寄らねえんだ。もっと人里離れた場所に棲息してる。鞍も首輪もつけてねえから、騎士さんの竜じゃなく野生だろ。それがこんな近くで見られるなんて滅多にねえことだな」
「へえ……」
暗緑色の竜は、晴れた空を気持ちよさそうに悠々と飛んでいる。見ていて少しうらやましかった。私にも翼があれば、どこへでもひとっ飛びで行けるのに。
ただのお散歩ではなく餌でも探しているのか、竜は近くをぐるぐると回っていた。なんとなく眺めていた私は、ふとあることに気付いた。
「あの、どこへ向かってるんですか? 街への道はあっちですよね?」
分かれ道を通り過ぎていた。街へ向かう人々はもう一方の道を進んでいく。私達の乗る馬車は彼らとどんどん離れていく。
「こっちからも行けるんだよ。俺たちの用事がこっちの方にあるんでね」
「……そうですか」
帰ってきた返事は明快だったが、私は嫌な予感に襲われた。ここでようやく、日本で培った警戒心を思い出した。
「じゃあ、私ここで降ります。あっちの道から行きたいんで」
「まだまだ遠いよ。乗ってきなよ。どうせ着く場所は一緒だって」
一緒ならなぜ違う道を行くのだろう。途中で通過する場所に用事があるのかもしれないが、人通りのない風景に不安が加速していく。
「いえ、ここまでで充分です。どうもありがとうございました」
言って私はさっさと馬車を降りようとした。速度はゆっくりだから、止まっていなくても飛び下りられる。
しかし、腕をつかんで引きとめられた。
「乗ってろって言ってんだろ。おとなしくしてねえと、痛い思いすることになるぜ」
がらりと口調を変えた声と同時に、顔の前に嫌なものが突き付けられる。ナイフだった。男は私を脅して荷台の奥に引きずり込んだ。
「……何か勘違いしてない? 私はこっちじゃ天涯孤独の文無し人間よ。身代金なんて一滴たりとも搾り取れないわよ」
「そうかい? まあそんなこたあどうでもいいさ」
一応言ってみるも、あっさり聞き流される。背中に嫌な汗が流れた。
まずい。これってやっぱり、変質者の類だろうか。日本でよく見たニュースを思い出してしまう。このままだと私はとんでもない目に遇って最悪殺されてしまうかもしれない。
ああ、なんでこんな馬鹿やらかしたんだろう。知らない人について行くなって、そんなの幼稚園児に言うことなのに。こいつらも朝っぱらから女子高生拉致ってるんじゃない!
なんとかして逃げ出さなければ。でも男にしっかり腕をつかまれて刃物を突きつけられているこの状態では、どうしようもない。大声を出しても聞いてくれるのは山の小鳥と小動物くらいだ。周囲から人気はすっかり消えている。
どうしよう。どうすればいい? しばらくおとなしくして、相手の隙を待つか。でもそれで逃げられる? 窮地に追い込まれるだけではないのか。
誰か、通りがからないだろうか。何かこいつらの気をそらすことが起きないだろうか。
はかない期待だ。そんなものに頼るよりも、自分で行動を起こした方がまだましかもしれない。
いちかばちか、私は大声を出した。たとえ聞いてくれる人がいなくても、こいつらをひるませることができないかと考えて。
「助けて! 誘拐! 人さらい! 誰か助け――」
ごつい手が口をふさぐ。
「静かにしていろ! 騒ぐと本当にぐさりとやるぞ!」
かまわず私は暴れた。背後に密着する身体に、おもいきり肘鉄を打ち込んでやる。狙ったほどには決まらなかったが、男の拘束が少しだけゆるんだ。突き飛ばして逃げようとした、その時だ。
「うわぁっ」
外から男の悲鳴が聞こえてきた。
御者台の男だ。何があったのか、すぐには理解できない。ただ悲鳴と同時に大きな羽音が聞こえた。
「なんで――わあぁっ、来るなっ!」
馬車が揺れる。馬がいななく。私を脅していた男も何事かと外に顔を出した。
「おい一体――げえっ!?」
今が逃げるチャンスだ。そう思うものの、あまりに揺れが激しくて身動きもままならない。私は馬車のへりにつかまって身を支えた。男は私を忘れて外を見ている。
「なんで竜が襲ってくるんだよ!」
――竜?
また羽音がする。さっきの飛竜だろうか。この馬車は竜に襲われているのか。
え、それってどうなるの。私大丈夫? 誘拐犯たちからは逃げられても、竜に食べられないか。
いやいや、飛竜ってたしか草食だったはずだ。イリスが言っていた。野生の竜は木の葉や果物を食べているって。
でもカーメル公も言っていたな。野生の竜は気が荒いって。下手すると殺されるって。
大丈夫かそうでないのか、どっちだ!?
馬車が加速する。竜から逃げようと全速力で走り出したのだ。こうなっては飛び下りることもできない。私は揺れから身を守ることしかできない。
不意に、頭上で不吉な音が響いた。幌の布を突き破って、鋭い爪が顔を出す。
「わ、ああああぁっ!!」
男の悲鳴と幌が引き千切られる音が重なる。空が見えた。すぐ近くに幌の残骸をつかんだ竜がいた。
こ、これは怖い……。
恐竜映画を思い出してしまった。人が次々襲われて食い殺されていく、パニック映画だ。今まさにその状況が私の身に起きている。
竜が残骸を放してまた突進してきた。体当たりをくらって馬車が大きくかしいだ。馬がひどく興奮していなないている。もうめちゃくちゃだ。私は必死につかまって――いたつもりが、気が付くと馬車の外に放り出されていた。
「いっ……たぁ……」
痛みに耐えて身を起こせば、横転した馬車が目に入った。下敷きにならずに済んだことを知って、ほっとするより冷や汗が出た。あぶない、あやうく最速で人生終えるところだった。
竜はまだ馬車を蹴り蹴りしていた。さっきの男が這いだしてきて、なんとか逃げようとする。その視線がこちらを向いた。
私は飛び起きて、元来た方向へと駆け出した。竜と誘拐犯、両方から逃げ出した。
「待てこの――」
男の声が追いかけてくる。まっすぐ走っていたのでは逃げ切れない。でも横はどちらも傾斜のきつい斜面だ。特に下は崖になっている。なんとか、人のいるところまで逃げられないか。
必死に走ったけれど、やはり男の足にはかなわなかった。後ろから腕をつかまれ乱暴に引きずられる。
「逃げるな、この餓鬼」
「いやっ! 誰かっ、だれか助けて!」
「うるせえ! いい加減に――ぎゃああっ」
風圧が私たちを襲う。目の前に竜の鱗があった。
男が蹴られて吹っ飛んだ。私もよろめいた。衝撃と目の前の光景から受けるショックで足元がさまよう。ずるりと靴底が滑った。
「あっ――」
気が付いた時には遅かった。伸ばした手はどこにも届かない。身体が落ちていく。
木の枝が身体中に当たった。音を立てて折りながら、私は崖を落ちていく。もう悲鳴も上げられなかった。両腕で顔をかばうのが精いっぱいで、何もできない。
この崖って高さ何メートルなんだろう。死なずに済むのかな。
なすすべもなく斜面を転げ落ちながら、どこかで冷静にそんなことを考えた。