2
カダというのは山脈全体を表す名前で、宮殿がある山はエンエンナというらしい。「神の庭」という意味であると、説明される前に理解した。自動翻訳機能頑張っている。
宮殿は山の中腹あたりに造られていて、複数の建物で構成されている。おおむね三つのエリアに分かれ、上から順に「一の宮」「二の宮」「三の宮」と呼ばれていた。王とその家族が暮らす一の宮、政務や行事の中心となる二の宮、そして普段使われない離宮やその他の王族の住まいがあるのが三の宮である。
……富士山を思い出すな。小学生の頃、家族で登ったっけ。
私がお世話になるユユ姫の住まいは三の宮にあった。
山の一部を切り開いて建てられた館は、こぢんまりと可愛らしかった。山の中なのにきれいに庭園が造られ、とりどりの花が咲いている。こんな場所だから雑草がはびこりやすいだろうし虫も多いだろう。維持管理が大変そうだ。お世話になるお礼に草むしりでもしようかな。
「狭くてごめんなさいね、ここでいいかしら」
私のために用意された部屋は、なるほど狭かった。六畳間ほどもないだろう。ベッドひとつで部屋の半分を占めている。だが館の規模を考えれば、こんなもんだろうと納得できる。王族のお姫様が暮らす割に、この館は小さく部屋数も少ない。
今の私にはこれで十分だった。持ち物は何一つないのだから、寝起きするスペースさえあればいい。ベッドの他には小さな机と椅子がワンセット。ビジネスホテルくらいの規模だ。
何より日当たりがよかった。大きく造られた窓から庭の花がよく見える。入口の扉を開ければ風通しもよくなり、かなり居心地のよい部屋である。可愛らしい小花模様の壁紙も気に入った。
「ご面倒をおかけして申しわけありません。しばらくごやっかいになります」
私はユユ姫に深々と頭を下げた。彼女のそばには、三十歳くらいのきりりとした女性が付きしたがっている。この館に勤めるメイドたちのチーフ、ヘンナさんだ。
「何か必要なものはあるかしら? 遠慮なく言ってね」
ハルト様から私を任されたユユ姫は、ここまでのところ友好的で親切な態度である。願わくばずっとそうであってもらいたいものだ。
「ありがとうございます。あの、ずうずうしくて申しわけないんですけど、なんでもいいので着替えがほしいです……特に下着の」
贅沢を言うつもりはない。たとえもっとひどい待遇だったとしても、いっさい文句を言う気はなかった。ただし着替えだけはほしい。これは切実な問題だ。毎晩パンツを洗ってノーパンで寝て、翌朝乾ききっていなくても我慢して履くという生活はちょっとかなしい。パンツの耐久性にも不安がある。
「まあ、そうね。すぐに用意させましょう。わたくしの子供の頃の服がまだあったかしら?」
ユユ姫はヘンナさんに聞く。
「はい、何着か残してございます。そちらをご用意いたしますか?」
「ええ、とりあえずはそれで間に合わせましょう。でも彼女に合わせて、ちゃんと新しい服を仕立ててあげたいから、その手配もね」
「かしこまりました」
「いえ、そこまでしていただかなくても」
私は少し悩んだ。お姫様の服を借りるのと、新しく自分用に作ってもらうのと、どちらがいいのだろう。お姫様ドレスなんて高価なものだろうし、さりとてわざわざ新調してもらうのもなあ。
「ええと……いらなくなった古着をどこかでもらうとか、できませんか?」
「どうしてわざわざ古着なの?」
ユユ姫は怪訝そうに首をかしげた。
「そんなことをしなくても、ちゃんとあなたに合った服を作りましょう? 遠慮しなくていいと言ったでしょう。ハルト様から任されたのですから、あなたのことはわたくしがきちんと責任を持つわ」
「……すみません」
そうか。そういう問題があった。私がみすぼらしい格好をしていたら、ユユ姫の扱いに問題があるとみなされるのだ。それは申しわけない。
私はユユ姫の提案を全面的に受け入れることにした。
その後は館の案内と説明を受け、念願のお風呂もばっちり確認した。いつでも好きに使っていいと言われ、内心ハレルヤコーラスである。
夕方になって、ハルト様が訪れた。私もお呼ばれして、三人で晩ご飯をいただいた。
「ユユはな、私の従兄の娘なのだ。従兄夫婦は彼女が幼い頃に亡くなってしまい、以後私が親代わりとなって後見人をつとめてきた。我が子のようなものだ」
まだ若々しくてかっこいいくせに、すっかりお父さんなハルト様だ。ユユ姫を見るまなざしはあたたかく愛おしげである。でもユユ姫の表情に、どこか翳りがあるように感じたのが気になった。私の気のせいだといいのだけれど……うれしいだけではない、何か複雑な表情に思えた。
ハルト様は私のこともユユ姫に説明した。私が異世界から迷い込んだ人間だと知って、当然ながら彼女は驚いていた。
「まあ……龍に運ばれて……なんて、数奇なことでしょう。では、ご家族と離れ離れに……辛いわね」
自身が家族を亡くしているから、すぐにそちらへ思考が向くのだろうか。ユユ姫の言葉は、口先だけではない心のこもったものに思えた。真実そうであるならうれしいことだが、私の嫌なところで素直に信じられない。どうしても相手の腹をさぐってしまう。そんないやらしい性格を悟られないように、私は笑顔で答えた。
「いいことも悪いことも両方です。龍のおかげで命拾いしましたし、こうして拾っていただいて問題なく生きていられます。あの事故で亡くなった人もたくさんいるだろうなと思えば、私はとても恵まれています」
「そう……そうね。あなたが元気でここにあることを、神に感謝しましょう。わたくしにできることがあれば、なんでも協力するわ。遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます。ハルト様とユユ姫のご親切に、心から感謝します」
ユユ姫は、ハルト様に言われたから私に親切にしてくれているだけかもしれない。彼女の内心などわからない。そうだとしても、本当に感謝すべきだった。縁もゆかりもない赤の他人を居候させて、あれこれ面倒を見てくれるのだから。
今私がすべきことは、とにかく自立するための力を身につけることだ。一日も早く、人様のお世話になることなく自分で生きていけるようにならなくては。
私はあらためてハルト様にお願いして、いろいろ勉強させてもらうことになった。
山の朝は涼しい。
季節は夏に向かっているはずだが、リヴェロの離宮よりも標高の高い場所だからか、ロウシェンの三の宮はまだ長袖で生活し、朝晩はさらに重ね着が必要なほどだった。
私の朝は自室での朝食から始まる。
ユユ姫と一緒に食事をしたのは初日の晩だけだった。私の食事は毎回館のメイドさんが部屋へ届けてくれる。今朝のメニューは、パンが一個と野菜のスープである。
こっちの人の胃袋規格で朝から山盛りメニューだったらどうしようと危惧していた私は、いたって常識的な量が出されたことにまず安堵したものだ。初日に一緒に食事したから、私の必要摂取量を理解してもらえたのだろうか。
と、初めは喜んでいたのだが、ここ数日ちょっと疑問を抱き始めている。
私は硬いパンをちぎってスープに放りこんだ。ふやかせば、いい具合のパン粥が出来上がる。野菜も入っているから朝食としてまったく問題ない。私には十分満足なご飯なのだけれど、旅の間に見たハルト様たちの食欲魔人ぶりを思うと、この食事内容ははたして適量なのだろうかと首をかしげる。
男性陣ほどではなくても、ユユ姫もやっぱりよく食べた。女性でも私よりはるかにたくさん食べるのだ。そんな世界で、このつつましい日本人サイズな朝食。私に合わせてくれているだけならいいのだけれど、本当にそうなのだろうか。
なんとなく、日を追うごとに量が減り、内容もグレードダウンしているような気がするのだが。パンも最初はもっと柔らかいものが出ていたのだが。
おいしくいただいて満腹になると、私は自分で食器を厨房へ返却しに行った。置いていたら取りに行くと言ってもらえたけれど、お姫様ではないのだから食器ぐらい自分で運ぶ。メイドさんたちの仕事を増やすのも申しわけない。
「ごちそうさまでした」
声をかけて食器を戻せば、ちらりと視線が向けられる。とりたてて何も言われないしされないが、メイドさんたちの反応はおおむね冷淡だった。私に関心がないのか、それとも嫌われているのか。まあ、想定内の反応である。こんな状況、日本にいた時から慣れっこだったので、私は気にせず部屋へ戻った。
赤の他人が押しかけて、ただ飯食いの居候しているのだ。その上にこにこと好意的に受け入れろなんて厚かましい要求だろう。
迷惑がられるのは当然だ。それでも何も言わず普通に生活させてくれているのだから、私はやはり感謝しなければならない。
意図的に食事内容を落とされているのだとしても、文句など言えない。
というか、それでちょうど適量なのだからむしろありがたい。
こっちの人ならもしかして飢えているところかもしれないが、おかげさまで私は毎日元気に暮らしていた。
午前中は勉強の時間である。
ハルト様が手配してくれた教師がやってきて、私に文字やこの世界のあれこれを教えてくれる。私はそれはもう懸命に勉強した。高校受験の時よりも頑張っている。あの頃このくらい頑張れば、もっと上の学校を狙えただろう。別に何かを目指していたわけではなかったので、そこそこに頑張ってそこそこの進学校に入った。勉強という行為に、これほどの意義を見出したことはなかった。
こちらには漫画もゲームもネット環境もない。私にできることは勉強だけ、そして今何よりしたいことも勉強だ。
一日も早く人に迷惑をかけず生活できるようになるため、私はひたすら勉強に励んだ。
先生は午前だけで帰り、午後は自習である。習ったことを復習して徹底的に頭に叩き込む。日本で学生していたことにも感謝した。私は勉強の要領というものを知っている。これは結構大きなことだ。
パンとスープにお惣菜一品という昼食を終えた後、私は復習を兼ねてノート整理をしていた。
机に向かって一心不乱にノートをまとめていると、窓の方で音がした。顔を上げて見れば、外にイリスが立っていた。
「やあ、ご機嫌いかが、お嬢さん」
今日もかっこいいイケメン全開な笑顔だ。中身を知らなければ完全無欠の騎士様である。
「なんでいつもそっちからなの」
私はペンを置いて立ち上がった。
イリスは毎日ようすを見に来てくれる。ハルト様に言われているのだろうが、知り合いと会えるのは私もうれしい。しかし彼は、ほとんどまともに玄関を使わない。
「いやあ、どうも敷居が高くってねえ」
「そんなわけないでしょ。メイドさんたちに大人気じゃない」
この館に勤める女性は、みんな若い。最年長のヘンナさんでもアラサーだ。
イリスはメイドさんたちから熱い視線を送られていた。多分、適当で大雑把な中身をみんな知らないのだろう。
「はは……ずいぶん熱心に何してたの」
イリスは答えをごまかして私の机を見た。
「もちろん勉強よ。今朝習ったことの復習」
「真面目だなあ。それ、ちょっと見せてもらってもいい?」
イリスが見たがるので、私はノートを渡した。
しばらく真剣な顔で目を通したイリスは、うーんとうなる。
「読めない」
「当たり前」
ノートは全部日本語で書いてある。彼に読めるわけがない。
「ずいぶん複雑な文字だな……でも読めないけど、きれいにまとめてあるのはなんとなくわかるよ。ティトは勉強が上手なんじゃない?」
「どうかな。成績は悪くなかったけど」
萌えにいそしみつつも勉強だってちゃんとやっていたから、私の成績はよかった。多分要領はいい方なのだと思う。いつだったかクラスメイトに、ノートのまとめ方が上手いとほめられたこともあった。
「まあ、頑張るのはいいことだけどさ、一日中閉じこもって勉強ばかりってのは不健康じゃないか? 子供には外で遊ぶことも必要だよ」
「ふふ……それわざとケンカ売ってる?」
「いえ、つまり健康のために運動も必要かと」
私が微笑むと、イリスは背筋を伸ばした。実年齢を知っているくせに小学生扱いするんじゃない。
「ちゃんと健康よ。もともと私はインドア派であまり出歩かない方だったし」
「だろうな。見るからに日に当たってないってわかるよ。言っちゃ悪いが、ティトはあまり健康的に見えないぞ。動かないから食も細いんだろう。何も期限があるわけじゃないんだから、そんなに必死に勉強ばかりしなくてもいいだろう」
「したいからやってるの。早く一人前になりたいのよ」
「……やっぱり外に出るべきだな。よし、今から散歩だ!」
「ちょっ……」
いきなりイリスが腕を伸ばして、私の両脇をすくい上げた。そのままひょいと窓の外へ持ち出されてしまう。
「イリス!」
「せっかくいい季節なんだから、部屋の中だけで一日終わるなんてもったいないよ」
私を地面におろし、今度は手をつかんで引っ張る。私はため息をつきながら歩き出した。
「まだ途中だったのに……」
「あとでまたやればいいだろ。休憩も必要だよ」
イリスはにこにこしながら私の手を引いて歩く。途中で庭師さんやメイドさんとすれ違い、挨拶しながら外へ向かう。門にさしかかった時、入れ違いに入ってくる人と出くわした。
「これは、イリス隊長」
若い男性だった。
イリスと同年代か、少し上くらいだ。イリスのようなきれいな銀髪ではなく、灰色と表現すべき髪を一筋の乱れもなく整えている。色白でちょっと神経質そうな印象を与える、でも見栄えのする人だった。
イリスが快活なアウトドア青年であるのに対し、彼は見るからにインテリだ。上等そうな身なりをしていて、おしゃれな人なのだろうと私にもわかる。
私はこの人を知っていた。といっても、個人情報は何一つ知らない。この館へよく訪れるようで前にも見かけたので、顔だけ覚えていた。
「こんにちは、アスラル殿。またユユ姫にご機嫌うかがいですか?」
「ええ、いろいろとご相談すべきことがありますのでね。あなたの方は、相変わらずお盛んなようだ」
ちらりと、私に視線が向けられる。お世辞にも好意的とはいえない嫌な感じの目つきだったが、嫌味が向けられたのは私にではないだろう。
「そのような子供にまで手を出すとは、節操のない」
「子供だと思いながらそっちにしか考えが向かない方がどうかと思いますよ。普通の受け止め方はできないんですか」
「おや失礼、あなたのことですからてっきりそういう相手なのかと。まあ名を二つしか持たぬ、しかも孤児では相手にはなりませんか」
なかなかはっきりと敵意を表す人だな。
私は傍観に徹して二人のやりとりを聞いていた。
イリスは不愉快そうな顔をする。
「そういう言い方は感心しませんね。平民であることも、身寄りがないことも、それが何か悪いことですか。見下される理由にはならない。それにティトは、ハルト様とユユ姫の庇護下にある娘ですよ。無礼な態度は慎むべきでしょう」
「むろん、公王陛下や姫に対し含むところなどありません。むしろこのような厄介者を抱えて、お気の毒と思うばかりで」
「……アスラル殿」
イリスのまなざしが険しくなる。アスラルさんは大げさに身を引いてみせた。
「おお、怖い。イリス隊長のお怒りを買っては命がありませんね。ではこれにて失礼」
あからさまな嘲笑を投げかけて私達に背を向ける。お供と一緒に館へ入っていく彼を、イリスはずっとにらみつけていた。
姿が見えなくなると、大きく息を吐き出す。
「ごめん。嫌な思いをさせたな」
「いえ別に」
私は首を振った。私よりイリスの方がよほどこたえていそうだ。
「ああいう人は見ていて安心するから、何とも思わない」
「安心って、なんでだ?」
青の瞳が怪訝そうにこっちを向く。
「見るからに『自分は意地悪憎まれキャラだぞ』って主張してるタイプじゃない? 裏を勘ぐる必要がないから気楽だわ。あんなにストレートに悪意を向ける人、頭悪そうだし特に怖がる必要もないかと」
「……そうだな、ティトの方がずっと怖い」
気にしていないと安心させるつもりで言ったのに、イリスからはずいぶんと失礼な反応が返ってきた。
苦笑しながら、彼はまた歩き出す。山の中とはいえ、人が居住する場所はちゃんと整地されていて歩くのに苦労はしない。少し坂が多いという程度だ。イリスは私を見晴らしのいい場所へ連れて行った。
そこにはイシュちゃんが待機していた。
「こんにちは、イシュちゃん」
私は挨拶して彼女の首に抱きついた。イシュちゃんは目を細めて私に顔をすり寄せた。
「すっかり仲良しだな」
「女同士だもんね」
「あれ、イシュが雌だって言ったかな。なんでわかったの」
「そういえば聞いてないかな。なんとなく、わかった」
「ふうん……それも龍の加護のおかげかな」
「さあ、どうだろ」
イリスは草の上に腰を下ろした。私はドレスを汚したくなかったので、伏せをしたイシュちゃんの背中に乗せてもらった。ユユ姫は貸すのではなくあげると言ってくれたけれど、気軽に汚せるような服ではない。
「さっきの人、イリスのこと隊長って呼んでたわね。何隊長?」
「んー? 飛竜隊長」
「飛竜部隊の隊長?」
「そう」
なんでもなさそうにイリスは答える。でもこれは、なかなか重要な情報だろう。
「ロウシェンの竜騎士団は、飛竜部隊と地竜部隊、それから普通の騎馬部隊の三つなのよね。つまりイリスは、三人の隊長の一人、幹部なんだ」
竜を抱えるロウシェンの騎士団は、通常の部隊も含めて竜騎士団と称するらしい。
それとは別に首都から離れた別の地方を守る騎士団もある。それぞれに団長がいるが、竜騎士団長のアルタは全軍を指揮する総司令官でもあるので、地方の騎士団も配下となるらしい。あのふざけたおっさんが軍部の最高幹部だ。
「ははあ、さっそく習ったか。その通りだよ」
イリスは笑う。まだ二十四歳、見た目はそれよりさらに下に見える、この人が軍の幹部か。私はこちらの軍の事情なんて知らないが、これは普通のことなのだろうか。
「どうりで偉い人っぽいわけよね……」
「いや、別に偉くはないけど」
「ねえ? ここで気になることがあるんだけど。もしかして、トトー君って……」
「ふふん、言ってごらん」
「……地竜隊長だったりする?」
イリスは手を叩いた。
「正解。さすが」
「えええー」
自分で言っておきながら、私は驚いてしまった。
「だってトトー君って十六歳でしょう? 私とタメよね。それで隊長ってアリなの?」
「んー、まあ普通じゃないのはたしかだな。あいつは天才だから」
「天才……」
あのぽやっとしたトトー君がか。本当に人は見かけによらない。
「そういえば、ティトはまだ地竜を見てなかったよね。連れてってやりたいけど……今日はやめといた方がいいかな。雲行きがあやしいな」
イリスは空をにらむ。朝は青空も見えていたのに、今はすっかり雲に覆われてしまっていた。
「降る?」
「うん。夕方までもたないな」
はっきりと断言した。漁師さんや山男が天候を読むことに長けていると聞くが、彼もその類だろうか。
「天気がよくなったら地竜隊の訓練所へ連れてってやるよ」
「うん」
私に異存はない。復習もまだ途中だ。今日は遠出しなくていい。
その後もう少し、私達はその場で話をした。
「名前が二つで平民って、どういうことなの」
アスラルさんの話でもうひとつ引っかかっていたことを、私は訊ねた。
「ああ、そこはまだ習ってないか……別に気にしなくていいけどね」
イリスは気遣わしげな顔をする。
「気にしてるんじゃなくて、意味がよくわからなかったから」
私が庶民なのは誰よりも私自身がよく知っていることだ。日本国民誰もが平民で、こっちの人みたいな階級意識はないからそういう意味では気にならない。
「このシーリースでは、王族は名を四つ持っていて、貴族は三つ、平民は二つなんだ」
「……カーメル・カーム・アズ・リヴェラス」
唯一知っている長ったらしい名前を、私は思い出して口にした。
「そう。カーメル公は王族だ。だから四つ。ハルト様だとハルト・フォリエ・ラクル・ロウシェン。ユユ姫はユユ・シエラ・リージェ・ロウシェンナ」
「覚えるの大変そう……ハルト様とユユ姫で最後が微妙に違うのね」
「そりゃあ、王族とはいえ傍流だから公王と同じ名は名乗れないさ」
一字違いで大違いか。
「イリスは?」
「……イリス・ファーレン・フェルナリス」
「貴族なんだ」
「まあね」
なるほど。大体わかった。私は佐野千歳、姓と名の二つしかないから平民というわけだ。
平民なのはそのとおりだが、こっちの流儀に従ってつけられた名前ではない。元の世界では名前を三つも四つも持っている平民だっていたし、イギリス貴族なんてフルネームは四つどころじゃないと聞いたぞ。
あのイヤミキャラに教えてやったらどんな反応するんだろうな。
「じゃあトトー君は?」
「トーヴィル・トッド・トーラス」
「何そのコンボ。どんだけトが好き」
「言わないでやってくれよ? 名前のこと結構気にしてるんだから」
「トトーって愛称だったのね」
「愛称っていうか、あだ名だな。みんなそう呼ぶから、新入りなんて本名知らないんじゃないかな」
私たちは笑い合う。無理やり連れ出されたけれど、楽しい時間だった。イリスには感謝すべきだろう。ろくに知り合いもなく、ユユ姫の館ではそこはかとなく居心地の悪い冷淡な扱いを受けて、一人部屋にこもって勉強するしかない毎日だ。それでかまわないと思っているし、一人立ちのため努力は惜しまないが、こうして人と楽しく話せるのは素直にうれしい。思えば、日本でも家族以外にこんなによく話す相手なんていなかった。
そろそろ私の性格が悪いことはわかってきただろうに、イリスの態度は変わらない。いつも親切にしてくれる。まだ少し、本当はどう思われているのかと疑う気持ちも残っているけれど、多分彼はいい人なのだろう。私をどう思っているにせよ、気づかって親切にしてくれる、いい人だ。
イリスは雨が降り出す前に、私を館まで送り届けてくれた。
「おお、戻ったか」
玄関先で留守中に来ていたハルト様と出くわした。向こうは今から帰るところらしい。
「いらしてたんですか。すみません、留守にして」
「いや、少し顔を見に寄っただけだ。元気そうで何よりだ」
「はい、おかげさまで、大変よくしていただいています」
やはり王様は忙しいらしく、ハルト様に会えたのは数日ぶりだった。しかももう帰るところだ。残念だが、忙しい中顔を出してくれたことに感謝する。まあ、ユユ姫に会いに来たのかもしれないけれど。
ハルト様の後ろでユユ姫も残念そうにしていた。
「あわただしくてすまぬな。チトセのこと、頼んだぞ」
「はい。どうぞお気をつけて」
一緒に帰るハルト様とイリスを、私達はそろって見送った。
「チトセ、何か入用なものはあるか? せっかく直接会えたのだ、ほしいものがあれば言いなさい」
思い出したようにハルト様が言ってくれたので、私はお言葉に甘えてお願いすることにした。
「ノートが欲しいです。前にいただいたのがそろそろ終わりそうなので」
「……どんな勢いで勉強しているのだ。熱心なのはよいが、身体をこわすほどに根を詰めるのではないぞ」
「別にそんなことはしていません。普通に頑張っているだけです」
「そうか……まあ、わかった。後で届けさせよう」
そう言ってハルト様は帰って行った。
頼んだものはびっくりするくらい早くに届いた。新品のノートが五冊と、おまけに新しいペンも添えられていた。こちらは予備として置いておこう。さらにブラシや鏡といった身だしなみアイテムまで一緒に届けられたのはどう解釈すべきなのだろう。なるべく気をつけていたけれど、見苦しい頭になっていたのだろうか。男にこういう形で指摘されるのはずいぶんと恥ずかしいな。
私をそれらを、ユユ姫からもらった櫛と一緒に引き出しに収めた。
その日の夕食は雑穀のお粥だった。
パン続きでご飯が恋しくなっていた私には、実にタイムリーなうれしいメニューだった。
しかしやはりグレードダウンしているような。
昨日までは、パンとスープに一応メインディッシュのお皿もあった。それが今日はお粥一品。
私はこれでいいけれど、こっちの人だったら空腹で眠れないレベルなのではなかろうか。
さて、これはどう解釈すべきか。
――まあ、いいか。
私は考えるのをやめてお粥を口にした。おいしかった。なつかしい食感だった。
どういう思惑であろうと、とりあえず私の生活に支障はない。
寝る前に復習も済ませ、お風呂に入り、雨音を聞きながら、私は満足して眠りについた。