明日天気になったなら
白く薄い花びらを幾重にも重ねたようなドレスに、淡いとりどりの色で花やリボンが飾られている。髪にも花が飾られた。結うには短すぎるので飾りでごまかしてしまえという理由は言わぬが花だ。ドレスと調和してなかなか悪くない。
「ああ、きれいにできたこと」
「よくお似合いですよ」
「ティトシェ様、可愛いですーっ」
身支度を手伝ってくれたレイダさんとミセナさん、そして女官長が誉めてくれた。ちょっと照れくさいけれど、鏡の中の私は我ながら可愛いかも。いやまあ、かなり盛った結果ですけどね。たまにはうぬぼれてもいいじゃない。どうせ今日の主役には遠くおよばないんだから。
エナ=オラーナの町にある大神殿の一室を借りて、メイクから着付けまで済ませた私は、やれやれとひと息ついた。軽やかな印象のドレスだけれど、着付けはなかなか大変だった。下着から特別なものをつける必要があったし、全体にたっぷりと布が使われているためひとりでは着られない。特に裾は床掃除をするくらいに長く、これで一の宮から降りてくるのは大変すぎるので、会場で着付けをすることにしたのだ。着る方も着せる方も大変だった。でも楽しい準備なので、みんなの顔は明るい。
今日は待ちに待ったハルト様とユユ姫の結婚式。ロウシェンの人々がようやく迎えた晴れの日だ。
本当ならとっくに済ませているはずだった。戦で延期になっていたものの、ハルト様が戻ってきてすぐに式の準備が再開されたのだ。もうほとんど秒読み段階に入っていたのに、私が誘拐されたためまたも延期になってしまったのだった。
新婦側からの強い要望があったからだ。
「ティトが帰ってくるまで式はできません。わたくしが想いをかなえられたのは、あの子のおかげです。なのにティトがいないまま、こんな状況のままで嫁ぐなどできません。どうか、ティトが戻ってくるまで待たせてください」
そう言って周囲の説得に抵抗したユユ姫に、そのうちハルト様まで同調して、結局みんなをあきらめさせたのだそうだ。いやもう本当にすみません、ごめんなさい。ご迷惑おかけしました。でもユユ姫ありがとう。
各方面にどれだけ迷惑をかけたのか考えるとひたすら肩身が狭いが、ユユ姫の気持ちは涙が出るほどうれしかった。それにずっと楽しみにしていた式を、やはり見られないのは残念だ。こうして一緒に祝福できるようになってよかった。
――ただ、今度こそ決行だぞとなって、またひとつ新たな問題が持ち上がった。
「以前に言っていたわね? これからはわたくしのことを、お母様と呼ぶのよ」
これ以上ないドヤ顔でユユ姫は私に宣告した。
「ええー……それ、マジで言ってたの?」
「当たり前でしょう。ハルト様と正式に夫婦になれば、わたくしはあなたの義母、そう呼ぶ以外にどうするというのです」
「いや、普通に『お妃様』とか『妃殿下』とか」
結婚した人にいつまでも姫と呼ぶのはどうかと思うので、そのくらいは考えていた。しかしユユ姫は口をとがらせた。
「なぜあなたからそんな堅苦しい呼び方をされなければならないの。お母様と呼びなさい。それ以外は認めませんからね」
困ってしまって周りを見回すが、みんな苦笑半分呆れ半分でだまっている。助け船は出ないようだ。
「ハルト様のことも、これからはちゃんとお父様と呼ぶのよ。期待してらっしゃるのだから、呼んでさしあげなさい」
「うーん……」
「何を悩む必要があるの。名実共に親子になったのだから、そうするのが当然でしょう。礼儀でもあってよ。ちゃんとなさい!」
びしびしと叱られて、私は頭を上げられなかった。いやはや、これは将来厳しいママになりそうだ。別に悩んでいるわけではなく、単に気恥ずかしいだけなんですけどね。
今日の式に先立って、つい先日ハルト様は私を正式な養女にすると発表した。噂でもめていた時から考えていたことらしい。
「以前は、養女にすることでいらぬもめごとを生みかねないというそなたの考えを認めた。だが状況が変わった。今はそなたに身分がないことの方が問題の種となっている。平民だから攻撃してもよいと考える者がいるのだ。けしてよくはないのだが、残念ながら身分でしか人を見ることができぬ者もいる。そうした連中を黙らせ、手出しさせぬようにするためには、そなたに身分が必要なのだ」
個人的に話すのではなく謁見室に呼び出され、宰相や役人たちの見守る前で正式な通達としてハルト様は私に告げた。
「でも、名前だけ王族になったところでそういう人たちが納得するとも思えません。かえって反感を煽るだけだと思います」
「よいではないか。よしんばそれで行動に出たならば、こちらも遠慮なくやり返せる。むしろ誰かそういう者が現れてくれるとよいな。調子に乗りすぎるとどうなるか、皆に知らしめるよき機会となろう」
誰か釣られて出てきたら喜んでスケープゴートにしようということですか。この人誰。私の知ってるお父様じゃない。
「腹の中でどう思おうと、それは個人の勝手だ。人それぞれに価値観がある。だが表にあらわしてよい考えと、そうでない考えというものがある。言わずとも、まともな頭を持った者ならば自ら口を戒めよう。自制がきかぬ、あるいは区別すらつけられぬ愚か者は相応の罰を受ける。罰されたくなければ悪意で人を陥れようなどとせねばよいだけだ。いたって当たり前の話であろう」
穏やかな威厳をたたえてハルト様は言う。普段は優柔不断に思えるくらい優しくて強く出ることのない人だけれど、必要な時には見せしめもためらわない。問題を収め敵意の芽を摘むため、厳しい姿勢を見せつけもする。王にはそうした強さが必要で、ハルト様はちゃんと持っているのだった。
与えられるのは肩書だけで、継承権も領地もない。あくまでも名前だけの王女ということで、周りのお偉方も了承したらしかった。私の待遇はこれまでと特に変わらないけれど、今後私に危害を加えた者は王家に対する反逆の罪に問われることになる。抑止効果は十分に期待できそうだ。
もっとも、すでに私に対する風当たりは緩み、以前ほど敵意に晒される状況ではなくなっていた。エランドでの騒動の後、まったく逆の噂が持ち上がっていたのだ。
今私は巷で、龍を呼び出し戦を鎮めた救世主、聖女と呼ばれているらしい。それはそれでありえない。誰が聖女だ。たしかに龍が現れたのは私のためだったし、戦を止めようともしたけれど、だからって聖女はないだろう。いや、漫画やゲームに出てくる聖女は意外と性格悪かったりするから間違ってはいないのかもしれないが。でも勘弁してほしい。いたたまれないにもほどがある。
そこまで話が盛られまくったのには、当然裏がある。
「噂には噂で対抗すればよろしい。事実無根の中傷と違い、こちらは実際にあったできごとをそのまま話しているだけですからな。少々表現には凝りましたが。わが国だけでなくリヴェロやアルギリにも多くの証人がおります。奇跡の体験を黙っていられる者はおりません。皆こぞって語ってくれましょう。以前の噂よりもはるかに信憑性のある話として、人々の関心をさらうこと間違いなしです」
聖女説を広めた張本人は、しれっとした顔でそう言ってくれた。参謀室の暗躍のおかげで、一度地に落ちた私の評判は現在うなぎ登り、ぶっちぎり新記録更新中である。まあ、それで丸くおさまって内乱の危機もなくなるなら、いいよ。私の羞恥心が犠牲になるくらい大した問題じゃないよね。くそう。
かくして、お世話になったおばあちゃんたちにまた遊びに来ることを約束し、私はエンエンナ宮に帰った。元通りの穏やかな日々が戻ってくる。エランドと関連諸国に対してはまだ事後処理が始まったばかり、全部これからだけど。
ディオンとデュペック候を失い、その他の有力者にも多くの戦死者を出したエランドは、現在自治すら難しい状況だ。シーリースから復興と統治のための軍が派遣されている。半分は他の国が手出ししてこないよう牽制するためでもある。キサルスとセルシナに対してはシーリース三国から厳しい追求がされ、本気で対立するつもりなら受けて立つぞと脅したところ、あれこれ言い訳を並べて下手に出てきたそうだ。けんかをしたり仲よくしたり、こちらの世界でも国同士のお付き合いは大変だ。
かつて日本が敗戦の焼け野原から復興したように、エランドの人たちにも頑張っていってほしい。それには外からの支援が不可欠で、私は公王たちに民の救済と支援をお願いした。そういうところから平和は始まるのだと思う。侵略されたから、被害を受けたからという恨みを持つだけでは何も変わらない。エランドの人たちも今は外の国に対して恨みや警戒心の方が強いだろうけれど、手を差し伸べられることで変わっていくだろう。互いに恨みを忘れ、よりよい未来をめざすことで平和が生み出せる。言うほど簡単なことではないし時間がかかるのも承知している。それでも一歩を踏み出さないと何も始まらない。長い道でも歩いた分だけ確実に前へ進めるのだから。故郷の歴史が、私にそれを教えてくれている。
私のお願いに真っ先にうなずいてくれたのは、カームさんだった。
「彼と約束しましたからね。残された民について、わたくしには責任があります。できるだけのことはしましょう」
エランドが祖王の末裔であることを公表し、いわれなき差別や偏見を払拭する。ディオンと交わした約束を、カームさんは守るつもりだと言う。ハルト様もうなずいてくれた。クラルス公はどうしても被害感情が先に立ってしまい、なぜ加害者であるエランドを助けなければならないのかと渋っていたが、長い目で見ればそれがアルギリのためにもなることだと説得され、最後にはうなずいてくれた。公平な見方をできる人だから、ちゃんと理解してくれたのだと思う。
カームさんとは帰ってくる前、エランドで少し話をする時間が取れた。以前のことを謝る私に、許すも許さないもない、これからも親しくしてほしいと言ってくれたのがうれしかった。もちろん友達以上の関係にはなれないし、彼もそれを前提として言ってくれたわけだが、ちょっとだけ女たらしの顔も見せるのが相変わらずだった。
「謎解き箱が君の手元に届くかどうかが賭だったのですが、うまくいってよかった」
「はい。なんだか意味ありげだったんで、私に開けろと言わせるよう仕向けました。これ、もらっちゃってもいいですか?」
リシャールの部屋に残されたままだった箱は、その後回収されて私の手元に戻ってきた。あの子にあげたものだから、もらうというより預かるだけのつもりだ。
「ええ、もちろんですよ。君のために用意したものですからね」
「ありがとうございます。この絵……あの時のですよね」
ふたに描かれた優しい風景が、なによりのメッセージだ。いつかリシャールに返せる日が来たとしても、この気持ちだけは私の中に残るだろう。
「わたくしの中にいちばん鮮明に残っている光景ですからね。あの時はそれほどにも思わなかったのに、時がすぎるほど不思議と思い出すようになって。絵を描く時、これしか思いつきませんでした」
白い繊手がともに絵をなぞる。ふたりで共通の思い出に盛り上がるのを、横でイリスが面白くなさそうに見ていた。今は我慢してね。カームさんのおかげで助かったんだから。
「このメッセージって、『千歳元気ですか? 心配です』であってます? 『元気でいることを願います』の方かなとも思ったんですけど」
「少し違いますね」
カームさんは微笑み、イリスに見せつけるよう私の耳元にささやいた。
「どこにいても君を想っています――が正解ですよ」
ささやきとはいえしっかりイリスにも聞こえる声で、顔がひきつっているのがわかる。きっと面白がっているのだろう美しい人に、私はため息をつきつつ笑うしかなかった。
エランド島のどこからもリシャールは発見されず、依然行方は知れないままだが、きっとどこかで元気にしている。あの子にとっていちばんよい場所へ送ったのだと龍が言ってくれたことを、私は信じる。いつか、穏やかな日々に民たちが笑顔で暮らせるようになったら、ひょっこり帰ってこないだろうか。その時を願い、この箱は私があずかっておくことにした。これはあの子ともつながる希望のしるしだ。そう信じる。
日々はあわただしくすぎていく。いろんなことが元に戻る中、変わっていくものもある。新しい道へ踏み出す人もいた。
一の宮へ帰ってから少しして、メイが訪ねてきた。一度顔合わせはしていたがゆっくり再会を喜ぶ時間はなかったので、私はよろこんで彼女を迎えた。けれどメイは、ただ遊びに来たわけではなかった。
「今日はチィにお願いがあって来たんだ。しばらく、リアをあずかってほしい」
そう切り出したメイは、私が知らない間に決定したことを教えてくれた。
「エランドへ行く。これから三年間、復興支援に働くことになったんだ。でもリアは連れて行けない。竜は寒さにも強いけど、さすがにエランドの冬は厳しすぎる。それにあたしは竜騎士として行くのではなく、ただの労働力として派遣されるんだ。帯剣は許されたけど、竜は置いていけと命じられた」
「どういうことなの」
動揺する私にメイは静かな顔で説明した。
「あたしへの処分について、覚えてる? チィがかけあってくれた結果、処分保留の上で無期限の謹慎、てことになったよね」
「……うん」
「保留は後回しにするって意味だ。お咎めなしにするってことじゃない。後回しにされていた処分が、今回ようやく下されたんだよ。これが、あたしへの罰なんだ」
「…………」
言葉が出てこない。言われてみればそのとおりなのだけれど、私はもう終わったことだと思い込んでいた。メイは赦されたのだと、勝手に安心してしまっていた。
そうではなかったのだ。しばらく謹慎して、それで赦されることではなかったのだ。
「三年、竜騎士の身分を返上して働いてこいと言われた。現地ではいちばん下っ端の作業員てことになる。まあ懲役みたいなものだな」
「……そんな」
にじんだ私の涙に、メイは明るく笑った。
「泣くことじゃないよ。すごい温情措置なんだぞ。本来なら身分剥奪の上、もっと厳しい罰が与えられていたところなんだからな。三年頑張ればまた隊に戻れる。そうしたら、今度はちゃんと騎士として働かせてもらえるんだ。イリス様や副長――じゃない、隊長にもしっかり働いてこいって言われたよ。ほかにも、こっそり餞別くれるやつがいたりして、かならず帰ってこいって言ってくれた。たった三年だ。三年間精一杯働いて、チィが気にしてたエランドの復興に少しでも貢献して、胸を張って帰ってくるよ。だから、待ってて」
私はうなずいた。きっと過酷な三年間になる。でもメイなら耐えられる。信じて待つことを約束した。三年後、メイが帰ってくる時には真っ先に出迎える。おかえりなさいって言ってあげるんだ。そう誓う私に、メイもうれしそうにうなずいてくれた。
「あたしは大丈夫。ただ、置いていくリアのことだけが心配なんだ。もちろん隊で面倒を見てくれるけど、基本竜は主人の言うことしか聞かない。訓練なんてできないし、世話もどこまでできるか……あたしがいないことで苛ついて他の竜とけんかするかもしれないし、あたしを追いかけて飛び出してしまうかもしれない。だけど逃げられないよう閉じ込めたんじゃ、あまりに可哀相すぎるし病気になりそうだ。だからチィに頼みたい。リアをあずかってほしいんだ。世話は大変だろうから隊から人を派遣する。イリス様もそう言ってる。チィはリアが不安がらないように、かならずあたしは帰ってくるって言い聞かせて、待たせてほしいんだ」
イリスも了承しているということは、おそらくハルト様にも話が通っているのだろう。それなら、私に否やはない。メイが帰ってくるまで私がリアちゃんをあずかると、しっかり約束した。お世話だってするぞ。動物との信頼関係は、大切に世話してあげることで生まれるって聞いたもの。竜だって一緒のはずだ。単に龍の加護で言うことを聞かせられるというだけでなく、仲間として一緒にメイを待つのだ。
私の約束に安心した顔になって、メイは北へ向かう船に乗り込んでいった。
その船には他にも知り合いが乗り込んだ。別れを惜しみ、港にまで追いかけてきた人もいた。
「先生、やっぱりあたしも一緒に行きます。連れてって」
泣きべそをかきながら子供みたいにぐずるエリーシャさんに、チャリス先生は優しく諭していた。
「エリーシャ、君にはお母さんやトトーがいるだろう? 友達もたくさんいる。彼らを置いていくのかい? それに、新しくできた施療院を任せると言っただろう。私がいなくなった後をしっかり引き受けてくれる人がいないと、困ってしまうよ。君なら安心できると思って任せたんだ、頼むよ」
エランドにはまともな医療技術がないと人づてに聞いたチャリス先生は、みずから派遣団に志願した。病や怪我に苦しむ人々を救うことが使命と定める先生は、エランドこそが己の働く場所だと悟ったらしい。奥さんと別れろくに身寄りもないのをいいことに、さっさと身の回りを整理してしまった。町の患者たちは新設された施療院に任せ、新天地をめざす。
本当はその施療院の院長になってもらう予定だったのに、突然の申し出でみんな驚いたし引き止めようともした。でも先生の決意は固く、より必要とされている地へ向かうことを止められなかった。このようすだと、たぶんもう帰ってこないだろうな。
まあ施療院には持ち回りで医者が派遣されることになっている。エリーシャさんも手伝いに行くし、実は私も監察官としてひそかに任命されている。貧民相手だからといい加減なことをする医者がいたら厳しく罰してやるのだ。公平でゆきとどいた医療は、国民生活の安定に大いに貢献する。ひいては国の発展につながる――と、ハルト様に提案した手前もあるので、初めてのお役目に全力で臨むつもりだ。
先生に説得されながらもまだ泣き続けるエリーシャさんに、横で見ていたデイルがしびれをきらして口を挟んだ。
「先生、先生ってお前、俺にも何か少しは言うことないのかよ」
たちまち元気を取り戻したエリーシャさんは、きっとなって言い返した。
「あんたはすぐに帰ってくるでしょうが! 自分の商売のために行くだけじゃない、知ったこっちゃないわよ!」
「んな……っ、三ヶ月は帰って来ないんだぞ!? その間の無事とか祈る気ねーのかよっ」
「航路の安全はもちろん祈ってるわ。先生のために!」
「ちょっとは俺のためにも祈れよおぉ!」
「こらこら、ふたりとも」
これだけ元気があれば大丈夫だよね。私は一緒に見送りに来ていたトトー君と笑い合った。デイルに関しては、なんとなく心配無用って思っている。何があってもしぶとく帰ってきそうだ。
私からエランドの人々の暮らしぶりを聞いたデイルは、そこに商機を感じたらしい。派遣団に便乗して下見に行くと決め、手配もすませてしまった。話をした次の日にはもう決定を告げられ、行動の早さに驚かされたものだ。
「商売ってのは先を読む力と、ここぞと思った時の迅速さが必要なんだよ。いいか? 今まで外とろくに付き合いがなかったってことはだ、エランドの特産物はほとんどよそへ流れてねえ新しいものばかりだ。こいつはでかいぞ。他に先を越されないうちに専売権を確保するんだ。見てろよ、俺は親父以上の成功をして世界に名を轟かせる大富豪になってやるからな」
アカリヤのシロップや海産物の燻製が、今後市場で価値を認められるだろうとデイルは言う。他にもエランドには独自の技術や産物がありそうで、たしかに新規開拓分野としての可能性にあふれている。しかしこんな山師みたいなことを言ってて大丈夫なんだろうかとも思う。
「エランド産の品をよそで買ってもらえるかという問題があるわよ。それで今までエランドの人たちは苦労してきたんだから。偏見や差別の問題は十年や二十年では済まない、すごく長い時間がかかるわよ」
「そのくらい考えてるよ。まあ見てな、俺には俺のやり方がある。商売に不慣れで伝も持ってねえエランド人たちの代わりに、うまく売りさばいてやるよ」
自信満々に言いきるデイルに一抹どころでない不安が残ったが、意外にもトトー君からフォローが入った。
「たぶん大丈夫だよ……デイルは馬鹿だけど、商売に関しては勘がいいから……難しく考えるより本能で動いた方がいい結果を出すって、ベイリーおじさんも言ってる」
「馬鹿は余計だ!」
デイルのわめきに背を向けて、飄々と肩をすくめる。いつの間にかその肩も目線も、ずいぶん高くなっていた。トトー君は成長期に入ったようで、短期間の間に五センチ以上伸びていた。じきにイリスを追い越しそうだ。そのうちアルタにも追いついたりして。
「とびっきりの土産を持って帰ってやるからなー! そしたら結婚してくれエリーシャ!」
「するか馬鹿! 土産より成果持って帰りなさい! 先生のこと頼んだわよ!」
派手に見送られて船は北へと旅立っていった。デイルの成功を私も祈った。エランドに新しい可能性がもたらされれば、それは復興の大きな助けとなるだろう。日本が経済大国への道を歩んだように、エランドも飢えにおびやかされない豊かな暮らしを手に入れてほしい。
ディオンとデュペック候が夢見た時代を、違う形で作り上げていこう。
「そろそろ時間ですね」
うながされて、私は控室を出た。裾を引きずらないよう持ち上げる。布が多いからとわし掴みにするのは見苦しいので、あくまでも上品にそっとつまみ上げる。持ち上げすぎて足首が見えてもいけない。こまごまと注意されるのがめんどくさい。やっぱりスカートは短い方がいい。子供っぽいと言われようとどうしようと、当分はミニで押し通すぞ。
後ろをミセナさんに手伝ってもらいながら進んで行くと、ともに列席する友人達が待っていた。
「きゃあ、皆さま素敵」
私の後ろで、ミセナさんが黄色い歓声を上げた。
晴れの日の一級礼装に身を包んだ騎士たちは、とても凛々しくきらびやかだった。みんなかっこいい。アルタも真面目な顔さえしていれば、誰もが見とれる美丈夫だ。
「おお、お姫様の登場だ」
私を見るなりにかっと笑み崩れるから、どうしても二枚目半くらいになってしまうのだけれど。でもこういうアルタの方がいいとも思う。
「少し大人っぽく見えるな。よく似合っている」
紳士ぶりを発揮して、ザックスさんはそつなく私を誉めてくれた。普段派手さのない人だけれど、礼装はいちばん似合っている。きちんとした格好をするのが誰よりもハマる人だ。さらりと着こなす姿がいかにも大人という感じでいい。ちなみに独身彼女なしという話だ。今日の彼を見て希望者が続出するんじゃないのかな。
「うんうん、可愛いかわいい」
すっかり親父化しているアルタは大人とかいう次元を通り越している。
まだ三十代なかばなのにねえ。このオヤジくささがなければもっといいのにねえ。
「龍みたいだね……ティトにふさわしくて、いいね」
トトー君は全体の色合いを見てそう言った。
「うん、私も龍を考えたわ。おかしくない?」
「ないよ……きれいだと思う」
ドレスが、だよね? いつになく柔らかい笑顔でまっすぐに言われて照れてしまう。そう言うトトー君もかっこよかった。ただまあ、若いからザックスさんのような板についた感じはないし、アルタのような風格もない。アイドルのステージ衣装を連想してしまうけれども、同年代の女の子にはいちばん魅力的に見えると思う。最近急に背が伸びたため礼装も新しく作り直す必要があったとかで、トトー君自身は出費にため息をついていた。
「礼装ってそんなに高いの? 地竜隊長のお給料は悪くないんでしょ?」
「ずっと着られるならいいんだけど……たぶん、じきにきつくなると思うから。これ一回かぎりかと思うと、もったいなくて」
貴族ではあってもお金に苦労してきたトトー君は、物を大切にする。まだまだ背が伸びそうな中、せっかく新調しても一度袖を通しただけで終わってしまいそうなのが惜しいのだとか。うん、その気持ちはよくわかる。大事なことだよね。
「リサイクル――誰かに安く譲って使ってもらうとかは?」
「……地竜隊はみんなでかいから、着られるやつがいないよ……」
私たちの視線はちらりとイリスへ向けられる。飛竜隊ならサイズの合いそうな人がごろごろしている。需要があるんじゃないのかな。
「ねえ、イリス?」
「えっ? あ、ああ――ええと、なんだっけ」
何をぼんやりしていたのかイリスは話を聞いていなかったようで、声をかけるとあわてて聞き返してきた。
「どうしたの?」
「い、いや? 別に、なにも」
あからさまに挙動不審で笑ってごまかしている。何を考えていたんだろう。頬が少し赤いぞ。アルタやザックスさんがにやにやしているのも気になる。
「飛竜隊に、トトー君と同じくらいのサイズで、礼装を安く手に入れたがってる人はいないかしらって話なんだけど」
「あ、ああ、それなら、いると思うよ。裕福な家の出じゃなけりゃ、たいていみんなぴーぴー言ってるからな。滅多に着ない礼装なんてなかなか作れず、借りて済ませることも多い」
「……あとで紹介してよ」
「借りるくらいならユーズドでもかまわないわけよね? お互いお得ないい話だわ。ぜひ紹介してあげて」
「はいはい……やけに気が合ってるな」
なんだろう、少しむくれたようなこの顔は。
「気にしないで……ただの貧乏性さ」
「もったいないの精神は大切よね」
「だからどうしてそう息ぴったりなんだよ」
いじけて文句を言うイリスに、私とトトー君はこっそり笑う。彼をいじるのが私たちの共通の楽しみなのだ。
「皆様、お式が始まります。どうぞお進みください」
神官が呼びに来て私たちを誘導した。私は親族の席へつき、イリスは部下として下座へ向かった。今日くらい親族側でもいいんじゃないのと思うのに、あくまでも一人の竜騎士としてありたいそうだ。周りに軽く挨拶して離れていく。居並ぶ女性たちの視線を大いに集めながら。
銀の髪をきれいに整えて、すらりとした身体に礼装をまとったイリスは、もうひたすらかっこいいのひと言に尽きた。乙女ゲームの王子様キャラを地でいっている。凛々しく美しい、私の騎士。正直ちょっと見とれたのはここだけの話だ。どう? 私の恋人は素敵でしょ――って、自慢する気はないけどね。
あんまりきらきらされていると隣に並びにくいし、お嬢様たちの嫉妬も怖い。もうちょっと地味でもいいんだけど、それは言っても始まらない。あれで中身は大雑把な脳筋なんだって、知ればお嬢様たちの反応も変わるだろう。あんまり私への風当たりが強くなるなら、それとなく知れ渡るよう策を考えよう。
大神官が現れ、式の開始を告げる。楽士たちが音楽を奏で始め、新郎新婦が入場してきた。
この日、誰よりも美しく、誰よりも輝いているふたり。
王の威厳をまとい、あれが我らの主君と人々を誇らしい気持ちにさせてくれるハルト様と、その隣で幸福に輝くユユ姫。春の女神のような姿に、自然とため息がもれる。長い間の想いをかなえ、冬を乗り越えて花開かせた彼女は、まさに三国一の花嫁だった。
貴賓席ではクラルス公が失恋に耐えているけれど、ごめんなさい。ずっと慕っていた人と結ばれるのが、ユユ姫にとっていちばん幸せなの。以前より少し顔色がよくなって肉付きもよくなってきたクラルス公は、十分に貴公子的な魅力を持っている。いつかきっと、彼の真面目で努力家なところを愛し支えてくれる人が現れるだろう。
もうひとりの公王はレースのベールで顔を隠していた。なんでも結婚式やそれに準じる席に出る時は、顔を隠すことにしているのだとか。花嫁が心変わりしてしまうといけないものね。ユユ姫にかぎっては絶対にありえないけれど、主役より目立ってはいけないというマナーにのっとって、カームさんは式の間中顔を隠す。あそこまで美しいといいことばかりじゃないね。凡人には理解できない苦労だが、美人は美人で大変だ。
厳粛な式が進み、やがて夫婦の宣告を受けたふたりが外へ向かう。正面の扉が大きく解放され、待ち構えた国民の前に新たな公王夫妻が姿を現した。
街をふるわせるほどの大歓声に迎えられ、ふたりは手を振って応える。輝く春の青空に鳥が飛び立ち、花がまき散らされた。祝福の雨がとめどなくふりしきる。明るい、どこまでも晴れやかな空に、これからの幸せな日々を誰もが思い、喜びをかみしめる。
集まった人々の中にアークさんの姿を見つけた。ここにも失恋の日を迎えた人がいた。彼は遠くから静かに想い人の幸せを見守っている。優しい顔をしていた。
ユユ姫の館で働いていたアークさんは、これから先どうするのだろう。少し前にザックスさんが騎士団に誘っていたのは知っている。
万一の時には家を継ぐため、騎士になれないと言っていた。でも弟さんに息子が生まれて跡継ぎの心配はほぼなくなった。本人がそう言って笑っていたのだから、もう問題は解決したと考えていいだろう。お父さんには悪いけれど、アークさんはやっぱり職人より騎士の方が向いていると思う。私もザックスさんの意見に賛成だ。実力は十分にあるのだから、本人が望みさえすればすぐにでもかなえられるだろう。
神殿前の広場は、熱狂する人々で大騒ぎだ。式場から出てきた列席者たちもしだいに列を乱し、そこかしこでてんでに盛り上がっていた。ハルト様たちのことは近衛が守っているが、こっちは騒ぐ人々に押されてもみくちゃにされそうだ。私はイリスの姿をさがした。ここはやはり彼に守ってもらいたい。人込みの間に見つけた彼は、ジェイドさんにつかまっていた。
「いつまでものらくらしてんじゃねえよ! もう戦は終わったんだ、とっとと隊長に戻れ!」
喜びにわく人々の中で、ひとりジェイドさんは怒っていた。その声は周囲の歓声にかき消され、注目されることはなかったが、けっこうな剣幕だ。
「馬鹿言うな。不始末をして降格された男が、戻りますって言って戻れるわけないだろうが」
つかみかからんばかりのジェイドさんを、イリスは飄々といなしている。
「失態を取り返すだけの功績は十分に立てただろうが! 飛竜隊の誰も文句なんか言わねえよ!」
「他からは言われそうだけどなあ。それに、お前はどうなるんだ。なんの失敗もしていない、それどころかちゃんと功績も立てているのに、なんで交代させられなきゃいけない。おかしいだろうが」
「うるせえ! 俺自身がいいって言ってんだから、いいんだよ!」
「そう言われてもなあ」
ジェイドさん以下飛竜隊の騎士たちは、イリスに隊長に戻ってもらいたいようだ。でも当の本人にはその気がなさそうで、どうしたものだろうね。
私は別にどっちでもいい。みんなが納得いく形でおさまるなら隊長に戻ってもいいし、そうでないなら今のままでいいと思う。まあ、最終的にはハルト様とアルタが決めるだろう。
イリスが私を見つけ、こちらへ駆け寄ってきた。人の波から私を救出し、そのまま抱き上げてくれる。
「おいこら、待ちやがれ!」
「悪いな、むさい男より可愛い恋人の方が優先だよ」
追いすがるジェイドさんに笑いながら言って、イリスは逃げ出した。
人々の間をすり抜けて走る。そのまま一気に混雑から抜け出すと、イリスは空へ向けて高く指笛を鳴らした。
「イシュ!」
呼びかけに応えてイシュちゃんが飛来する。近くで待機させていたのか。なんのために? さすがに気がついてみんながこちらを見ている。おかまいなしにイリスは私をイシュちゃんの背に押し上げた。
「イリス、何をするの?」
「急いで行きたいところがあるんだ」
ひらりと後ろに飛び乗ってくる。どこへ行くというのだろう。まだ式が終わったばかりで、この後もいろいろと予定があるのに。
「ちょっと待って、今行くの?」
人の波の向こうに、ハルト様とユユ姫の姿も見えた。ふたりもこちらを見ていた。
「夕方までには戻るよ。ちょっとだけ付き合ってくれ」
私の返事も待たずにイリスはイシュちゃんを飛ばせてしまう。みるみる群衆が小さくなる。ドレスの裾が風にあおられてひるがえる。花がいくつか取れて飛んで行ってしまった。
「知らないわよ。全部イリスのせいだって言うからね、ひとりで怒られてよ」
ハルト様はともかく女官長あたりから怒られそうだ。私が言うと、イリスはにこにことうなずいた。
「いいさ。いくらでも怒られてやるよ」
……なんだろう、やけにご機嫌だな。
うきうきした様子に私は首をひねった。たしかに今日はおめでたい日で、不機嫌になりようもないけどさ。
地上にいる時は日差しに汗ばむほどだったが、空を飛ぶと少し寒かった。イリスがマントをはずして私をくるんでくれた。
「……で、どこへ行くの」
屋根の連なりが遠ざかっていく。下は森や山ばかりになっていく。
「内緒。着くまでのお楽しみだ」
いたずらっぽく笑ってイリスは片目をつぶった。いったい何をたくらんでいるんだか。
どんなサプライズが用意されているのか、少しわくわくしてくる。それに久しぶりにふたりだけで、なんの悩みもなくただ楽しく行動できるのがうれしかった。ごめんねハルト様、ユユ姫。帰ったらお祝いの続きをするから。こんなに気持ちよく晴れているんだもの、少しだけデートを楽しませて。
私たちを乗せて、イシュちゃんは高く飛んでいく。暖かくなったからか、彼女もうれしそうだった。眼下の景色はどんどん人里から遠ざかり、山の高いところをめざす。
「ちょっとごめんよ」
イリスがマントを引き上げて、私の頭まですっぽりとかぶせた。高度が上がるのにつれて気温は下がっていくから、それ自体はありがたい。でもなんで目まで覆われるのだろう。これじゃせっかくの景色が見えないじゃないか。
「ごめん、少しだけ我慢してくれないかな。着くまで何も見ないで」
……これもサプライズの演出か。
「まだ遠い?」
「いや、もうじき着くよ。寒くないか?」
「大丈夫」
もともと早春の式を想定して作られたドレスだから、今の時期にはちょっと暑かったのだ。見た目ほど薄いわけじゃない。
私を胸にぎゅっと抱き込んで風から守りつつ、イリスはしばらくイシュちゃんを進ませた。視界がふさがれイリスのぬくもりだけを感じていると、だんだん鼓動が早くなってきた。強い腕とたくましい胸を感じて、やけに顔が熱くなってくる。おかしいな、私マッチョは苦手だったはずなのに。でもこの腕が、ずっと私を守ってくれたのだ。いつでもいちばんの味方だった人。出会った時から私を気にかけて、大切にしてくれた。時には厳しく叱られたりもしたけれど、みんな私のためだ。私が間違えたら正せるように、正面からぶつかってくれた。イリスはいつだって、私を守ってくれていた。
大好き。この腕が、ぬくもりが、心からいとおしい。彼が私を守ってくれるように、私も彼を守りたい。私にできるやり方で、彼を助けて守っていきたい。
あの時、帰ろうと思えば帰れた故郷を捨てて、この世界に戻ってきた。それなら私は精一杯幸せにならなければいけない。後悔なんてしないために、たくさん努力して今以上に幸せになってみせる。
やがてイリスが指示を出し、イシュちゃんが降下の体勢に入った。翼をはばたかせ、着地したのを感じる。私はマントに覆われたまま、イリスに抱かれて地面に降りた。
「じゃあ、いいかな――どうぞ」
ふわりとマントが取り払われる。
そこに何があるのかと期待して顔を上げた私は、淡いピンクの雲を見た。
どこかの山の、高い場所。周囲に背の高い木は少なく、森はない。下草ばかりのちょっとだけ開けた場所に、ぽつりと立つ木があった。広げた枝いっぱいに、淡いピンクの花を咲かせている。花に覆われた木は、まるで山あいに浮かぶピンクの雲みたいだった。
「…………」
言葉が出てこない。その光景に、息をのむ。
はらはらと、風に吹かれて花びらがこぼれ落ちていた。木の下には花びらのじゅうたんができている。記憶からよみがえるなつかしい風景――毎年見ていた春のしるしが、ここにある。
「前に言ってただろう。ほら、レーネへ向かう途中でさ。君の国で春の象徴として愛されていた花があるって。これと似てるなって思ってたんだけど……どうかな」
うしろに立つイリスが言う。
「同じものじゃないかもしれないけどさ、似ているものがあったら、少しは故郷を偲ぶことができるかなと思ったんだ」
「…………」
答えられない。涙がこみ上げてきて、言葉にならない。
イリスは後ろから腕を回し、ゆるく私を抱いた。
「いろいろあって遅くなってしまったから、もう低いところの花は全部散ってしまってさ。ここが最後だよ。この花も、今日で見納めだ。今夜には雨が降り出すから、もう完全に散ってしまう。どうしても、それまでに連れてきたかったんだ」
なにげなく話したことを、イリスはずっと覚えていてくれたんだ。春になったら私にこれを見せようと、忘れずにいてくれた。故郷を手放した私のために、故郷を思い出せる風景をさがしてくれていた。
ああ――涙が止まらない。
日本にいた頃は滅多に泣かなかったのに。人前で泣くやつは甘ったれだって、嫌ってすらいた。なのにこっちへ来てから私は泣いてばかりだ。今まで泣かなかった分、取り戻すように泣いている。でも今日の涙はつらくなかった。胸に切ない痛みもあるけれど、それ以上にうれしい温かさでいっぱいになる。うれしくて、涙が止まらない。
この人と出会えてよかった。この人のそばに戻ってこられてよかった。
私の涙が落ちつくまで、イリスはなにも言わずにずっと抱いてくれていた。嗚咽がすすり上げるだけになり、やがて完全に落ちついてから、私たちは花の近くに腰を下ろした。イシュちゃんもやってきて私たちに寄り添い丸くなる。彼女にもたれ、私たちは静かに花を眺めていた。
「来年も、また見に来よう。再来年も、その次も。毎年花の時期には一緒に来よう」
優しい言葉に私はうなずく。ありがとうと、それしか言えない私を、イリスは目を細めて受け入れてくれる。ずっとずっと、一緒に春を迎えよう。くり返し訪れる花の季節を、この人と迎えていきたい。
「まあつまり……求婚してるつもりなんだけど、伝わってるかな」
少し照れくさそうに言うイリスに、笑ってしまった。うんまあ、そういうことになるよね。なんとなくわかってはいるけれど、はっきり言葉にするのはお互い照れくさい。
「僕と結婚してくれる?」
「ええ」
真面目な顔で言うのに笑いをこらえてうなずけば、一転してイリスは破顔する。この笑顔がいつも私を照らしてくれていた。つらい時にも心を支える光になった。彼が笑っていられるように、私もそばで笑っていたい。
ずっと一緒に。その約束が結婚ということなら、ためらう必要はない。
「ありがとう」
うれしそうにイリスは言う。私もありがとうと答えた。愛してくれてありがとう。私を望んでくれてありがとう。
「じゃあ、明日式をあげような」
――――は?
最後のひと言に私は笑顔のまま固まった。今、何を言った? 耳に届いた言葉がにわかには信じられず目をまたたく。何か聞き違いでもしただろうか。
「……明日?」
「うん」
たしかめてみれば、当たり前の笑顔でうなずかれる。私は二の句が継げなかった。
明日って……あした?
今日プロポーズして、明日挙式?
なにそれ。
「……だめか?」
私の反応が悪いことに気付いて、イリスが少し顔を曇らせた。だって、明日って。明日はないでしょう?
「なんで明日なの」
あまりのことに頭が白くなって、うまい言葉が出てこない。かろうじてそう聞くのが精一杯だった。
「いや、早い方がいいかと思って。今ならみんな集まってるから改めて招待する必要もないしさ」
「…………」
そういう理由?
一生に一度の、人生の晴れ舞台を、そんな理由で?
――いや、別に目立ちたいわけじゃないし、派手な式がしたいわけでもない。身内と友達だけに集まってもらって、つつましく挙式するのがいい。今日の式みたいに大神殿でやるのじゃなく、どこかの小さな神殿とか、いっそ人前式とか、そんなのでいいけどさ。
でもやっぱり、一生に一度のことなんだから、それなりの気持ちと準備で迎えたい。もののついでみたいに片づけたくない。
それをなんて言ってわからせよう。この大馬鹿男に。女心のわからない脳筋に、結婚に対する乙女のこだわりをどう伝えよう。
私が言葉をさがしてずっと黙っていると、さすがに何か感じたのかイリスは頭をかいた。せっかくきれいに整えられていたのに、またいつものざんばら髪に戻ってしまう。
「まあ、ちょっと急かなとは思うけど」
……ほほう、「ちょっと」ですか。
「いや、その、ぐずぐずしてるとまた何かあって君を誰かに持っていかれそうな不安がさ。しっかり確保しておきたいというか」
…………。
「……だめ?」
私は深くため息をついた。もう本当に、どうしてくれよう。これが小犬のような目というものだろうか。精一杯お願いと訴えてくるまなざしに、冷たく突き放すことができない。背後で揺れるしっぽが見える気がした。愛する人のお願いなら聞いてあげたいのは山々だけれど……。
――しかし、私にも譲れない一線はある。
しばらく考えて、私はうなずいた。
「いいわ」
「えっ? いいって言った? 明日でいい? 結婚してくれるの?」
はずみ出すイリスの声に、もう一度笑顔でうなずく。
「ええ、明日結婚しましょう。晴れたらね」
「――はい?」
今度言葉を失ってフリーズしたのはイリスの方だった。
「え……と。明日、晴れたら?」
「ええ」
満面の笑顔をふるまってやる。イリスはちらりと南の空へ目を向けた。青空の裾に、雲がわき出している。私にはわからないけれど、天候を読むことに長けた人にはそれが雨の兆候だとわかるのだろう。さっき言っていたものね、今夜から降り出すって。
もの言いたげなまなざしに、私はにこにこと続けた。
「今日のお式みたいに、気持ちのいい青空の下で結婚したいじゃない。雨の結婚式なんていやだわ。列席者だって大変よ。濡れないように屋内だけで全部済ませちゃったら、すごくせせこましくてつまらないし」
「あ……う、うん……」
「だから明日、今日みたいないいお天気だったらね。そうしたら結婚しましょう」
「…………」
イリスはじっと私を見つめ、もう一度空を見て、がっくりと肩を落とした。
「……わかった。今度晴れたらな」
「あら、ちがうわよ。『今度』じゃなくて『明日』。明日お天気じゃなければ、改めて仕切り直しよ」
「えええ!?」
悲鳴じみた声にイシュちゃんがぴくりと反応する。首をもたげてイリスを見、呆れたように鼻息をもらしてまたお昼寝に戻った。どうだ、女の子は私の味方だぞ。きっとユユ姫や女官たちだって加勢してくれるだろう。
イリスは頭をかきながら嘆息する。イシュちゃんにぐったりともたれていじける姿に、私はくすくすと笑ってしまった。
「いつなら結婚してくれるんだ……?」
「言ったじゃない、明日晴れたらよ」
「いや、だから」
「その先はわからないわ。明日のあとで、ゆっくり決めましょう」
「…………」
とうとうふてくされて、イリスは目を閉じてしまった。私は笑いながら身を寄せて、彼の唇に軽くくちづける。驚いて開かれた青い瞳が、やがてしかたなさそうに笑い出す。イリスの手が私を抱き寄せ、深いくちづけにいざなった。
私は目を閉じて、幸福を受け入れる。風と光、春の香りを感じながら。
花びらが舞う。青い空の下を飛んでいく。遠く海の向こうのあの国にも、世界の彼方の故郷にも、この幸せが届いてほしい。
雨の日にも晴れの日にも、明日はかならず訪れる。くり返される日々の中、笑うことも泣くこともあるけれど、どんな時にも明日は訪れる。
きっと輝くあかるい明日を迎えるために、私たちはどこまでも歩いていく。
***** 明日天気になったなら・完 *****