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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第十部 時を越えて
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10



 ものも言わずに兵士たちがイリスへ斬りかかる。悲鳴を上げる私と反対に、イリスは冷静だった。瞬時に剣を抜き払い、襲いくる敵を迎え撃つ。地下の空間に人の足音と悲鳴が響いた。

 十人はいる相手を、イリスはたくみにさばき、次々倒していった。あまりの手ごわさに兵士たちが二の足を踏めば、攻撃に転じてみずから斬り込んでいく。見る間に死体の数が増えていった。

 私は立とうと思ったが、腕の中にリシャールがいる。抱き上げることまではできず、腰を落としたままうろたえる。戦うイリスと兵士たち、そしてデュペック候をあわただしく見回した。

「さすがに、強いですな」

 珍しくいまいましげな感情を見せて、デュペック候がつぶやいた。私の視線に気づき、こちらを見下ろしてくる。

「……リシャールを殺そうとしたのは、あなたなの」

 ほぼ確信しながらも、まさかという思いもあった。否定してほしかったのかもしれない。けれど彼は、あっさりとうなずいた。

「ええ、まあ。もう少し時間をかけて、完全な自然死に見せかけたかったのですがね。あなたのおかげで急がざるを得ませんでした」

「え……?」

 私のせい? なぜだと理解できず、私は続ける言葉を見失う。

「リシャール様を外の医者に見せるなどと言われては、困ってしまいます。もしもそれで持ち直せば、これまでのことがすべて水の泡ですし、原因を指摘されるのもまずい。多少強引でも、容体が急変したということですぐに死んでいただくしかなかったのですよ」

「…………」

 私の、せい……。

 私が医者を呼ぼうなどと言ったから、彼を焦らせてしまった? もっと慎重になるべきだったのか。リシャールの命を縮めたのは、私なのか。

 身体がふるえる。腕の中のリシャールは、ぐったりとして何も言わなかった。ぼんやり開かれた目が感情を映さずデュペック候を見ている。

 血糊をまといつかせた切っ先が、デュペック候に突きつけられた。兵士たちをすべて倒したイリスがこちらへ来ていた。

「なぜ、王子を殺そうとする? お前たちにとって、生きていてもらわなくてはならない存在のはずだろう」

 鋭い声で問う。目の前に剣を見ても、デュペック候はうろたえなかった。

「始祖の血さえ引いていればよいというものではありませんよ。かつてはそれでよかったが、戦が続き強い指導者が必要な今、何の力も持たぬ血筋以外に価値のない子供など、邪魔でしかない」

 私はリシャールをさらに抱きしめ、胸元に頭を囲い込んだ。残酷な言葉を聞かせたくなかった。けれどデュペック候は気にもしない顔で無情に続ける。

「我々に必要なのは、お飾りではなく民を導き守れる、真の皇帝です。ディオンに、身代わりなどではなく名実ともに皇帝として立ってもらうために、リシャール様には退場していただかねばならない」

 世間話でもするような調子で言いながら、デュペック候は後ろ手に組んでいた手をほどいた。私のすぐ目の前に来た手には、小さな瓶が握られていた。親指ひとつで栓を抜く。

「私も斬りますか? どうぞ、おやりなさい。彼女もただでは済みませんが」

「…………」

「ジジロッカ島の死の泉はご存じでしょう。触れれば肌が溶け崩れる、猛毒の水。これが彼女にかからぬよう、私を倒せますかな?」

 青い瞳に怒りがひらめく。イリスはぎり、と音を立てて歯ぎしりした。

 小瓶は私の鼻先、ふれそうなほど近くにある。いくらイリスが卓越した戦士でも、この状況で私に被害を出さないようにはできないだろう。

 私はなんとかデュペック候から距離を取ろうと、岩の上でいざった。しかし軽いと思っていたリシャールの身体も、完全に抱いて動かすとなると重かった。思うように動けない。私が動けばその分だけ、デュペック候も追ってくる。剣をかまえたままにらむイリスと、私を盾にするデュペック候。互いに次の行動に出られずにらみ合いが続いた。

 硬直した空間を破ったのは、大勢の足音だった。追いついてきた後続が状況を見てとるや、たちまちイリスに襲いかかる。イリスはまた私たちから引き離されてしまった。

「オルト、これはどういうことだ」

 低く響く声がした。兵士たちの後ろから、ディオンが現れていた。

 その瞬間デュペック候の表情が翳ったのを、私は見逃さなかった。ディオンはこちらへやってくると、私の腕の中のリシャールを見て血相を変えた。

「リシャール様? リシャール様!」

 飛びついてきてリシャールを覗き込む。呼びかけにほとんど反応がないのを見て、私に殺気のこもった目を向けてきた。

「きさま、リシャール様になにをした!?」

 殺されるかと思うほどの怒気だ。どういうことだろう。ディオンはリシャールが殺されそうになっていたことを、知らないのだろうか。

「人質、あるいは傀儡として使えると踏んだのでしょうな。リシャール様を連れて逃げ出したのですよ。お気の毒に、ただでさえ弱っておいででしたのに、無茶をされてこのようにぐったりと」

 いけしゃあしゃあと言うデュペック候にぎょっとなる。そんな、全部こっちになすりつける気か。

「ちがうわ! リシャールを殺そうとしていたのはデュペック候よ! ずっと使っていた香は、命を縮めるヘレドナの毒だったのよ!」

 一瞬混乱したようにディオンは眉を寄せる。デュペック候の方も見たが、結局にらみつけられたのは私だった。

「ふざけるな、なぜオルトがそのような真似をせねばならん。愚にもつかぬたわごとを」

「あなたにも知らされていなかったのね? でも、おかしいと思ったことはなかったの? リシャールは最後の王族でしかも身体が弱いのに、いつもひとりで放っておかれていた。最低限の世話しかされていなかった。なぜ? そこに疑問を持ったことはなかったの?」

「なに……?」

 ディオンの目から少しだけ威圧感が薄れ、いぶかしげな色が浮かんだ。

「何を言っている。リシャール様には常に最善のお世話をするよう命じてある。ようすを見に行ってもおかしなところなど、何もなかった」

「あなたが見ている時だけちゃんとしていたんでしょうよ。私が知っているのは、独りぼっちで寂しそうにしていた姿だわ。誰もそばについていない。ポットのお茶はいつも冷えていたし、鎧戸も自分で閉めていた。みんな用を済ませたら逃げるように出て行ったって、リシャールも言っていたわ。長時間部屋にいてヘレドナにやられたくないと、恐れたんでしょうよ」

「そんな馬鹿な……」

「馬鹿はあなたよ。なんでおかしいって思わなかったの? 昔はもっと元気だったのが大きくなるにつれて弱くなっていったって、普通逆じゃない。成長して丈夫になるならともかく、よけいに弱っていくなんて。深刻な障害を持って生まれたのなら、はじめから弱かったはずよ。まともに成長できるはずがない。どう考えても、リシャールの状態は後天的なものじゃない!」

「…………」

 ディオンの目に動揺が浮かぶ。私とデュペック候を交互に見るが、すぐには信じられないようすだ。こちらを見る顔にはまだ疑いがありありと浮かんでいる。私はさらに声を張り上げた。

「和平条約を結んだら、シーリースの医者にリシャールを診てもらおうって提案したのよ! ちゃんと治療すれば治せるかもしれないからって。そうしたら毒を増やされた。連れ出さなければリシャールは今夜のうちに死んでしまっていたのよ!」

「馬鹿な……」

「嘘じゃないわ。つい今しがた聞かされたばかりよ。リシャールでは指導者として不足だからって」

「チトセの言うとおりだ。そいつは、王子を殺してお前を名実ともに皇帝にしようとしていたんだ」

 返り血を浴びたイリスが言った。また全員斬り伏せた彼は、さすがに肩で息をしていた。ディオンが身構えるが、イリスはその場に立ったまま言葉を続けた。

「王子の部屋の香がヘレドナだったのは、僕が保証してやる。戦が起きる前は犯罪者どもを取り締まるのが主な仕事だったからな。ヘレドナの匂いはお馴染なんだよ」

「…………」

「てっきりお前も共謀しているのかと思ったが」

 ディオンはデュペック候を見る。まだ信じきれない、まさかという思いなのが手にとるようにわかった。当然だろう、身内がそんな真似をしていたなんて、すぐには信じられないし信じたくもないはずだ。ここでデュペック候が言葉巧みに言い逃れをしたら流されてしまいそうなようすだった。

 ――けれど、デュペック候はごまかすのを放棄した。

 深いため息をついた後、あきらめた顔になる。苦笑すら浮かべる彼を、ディオンは言葉もなく見つめていた。

「やれやれ、あなたには聞かせたくなかったのですがな」

「……オルト」

 私も少し意外な思いでデュペック候を見る。ごまかそうと思えばできそうな状況だったのに、やけにすんなり認めたものだ。

 でも、そうするしかないのかも。たとえこの場はごまかせても、リシャールが死んでしまえばディオンはずっと理由を考え続けるだろう。一度生まれた疑惑は消すことができない。

 疑いを残したままでいるよりも、すべてを明らかにして理解を求めることにしたのだろう。

「ヘレドナは優しい毒です。なんの苦しみも与えず、眠りのまま死に至らしめる。真実を暴いたりしなければ、誰も傷つかず自然なことと受け入れられたでしょうに……リシャール様ご自身も」

「オルト」

「私はけっしてリシャール様を憎んでいたわけでも嫌っていたわけでもありません。哀れな子供だと思っていましたよ。ユリアスがあのようなことにならなければ、ただ大切に育ててやれたでしょうに」

 ディオンが一歩踏み出す。デュペック候に詰め寄ろうとして、けれどそれ以上聞きたくはないとためらうようすだった。

「今のエランドに必要なのは、血筋だけ始祖に連なる無力な子供ではありません。軍を率い、戦に勝つことのできる、真の指導者だ。あなたが皇帝になるべきなのですよ。影ではなく、本物に」

「オルト!」

 ディオンが吠えた。悲鳴のようにも聞こえた。

「馬鹿な! そのような……それでは意味がないではないか! 我らが誇りとし、心の支えとしてきたものを、根本から否定するなどと!」

「現実を見なさい、ディオン」

 反対にデュペック候は揺るぎなく、冷然と言い返す。

「始祖への敬意と国を守ることは別物だ。ただ血統をありがたがるだけでは何も守れない。今の世に必要なのは力だ。ユリアスが死んで以来、ずっと国と民を守ってきたのは誰だ? お前だろう。尊い血を引かずとも、立派に勤めを果たしてきた。この十年間が証明している。もはや始祖は信仰の中にいるだけでよい」

「ちがう……違う!」

「お前はそうやって首を振ると思っていたよ。リシャール様がいらっしゃるかぎり、けして自らが皇帝になろうなどと考えないことも。だから死んでいただくしかなかったのだ。始祖の血が完全に絶えてしまえば、お前はこのまま皇帝であり続けるしかないからね」

「オルト……」

 ディオンの顔には怒りよりも悲しみが強く表れていた。信じていた人に裏切られた悲痛なまなざしをしている。こんな顔をさせてまで彼を皇帝にしたいの? 何の罪もないリシャールを殺してまで? 本当にそれで正しいの?

 強い指導者が必要なのはわかるけれど、デュペック候のやり方はどうしても認められない。こんな悲しい選択なんて、認めたくなかった。

 周り中から非難の目を向けられてもデュペック候は揺るがず、まるで弟に言い聞かせるような優しい声で諭した。

「神の血を失うのが怖いならば、新たな神を迎えればよい。まさにこの時代、我らの前に天人が降り立った。これは天の導きだとは思わないか? 龍の姫を娶り、新たな血統を築けばよい」

「勝手なことばかり言ってくれる」

 またイリスが口を挟んだ。わずらわしそうに見るデュペック候へ、イリスは踏み出す。

「チトセはお前たちに都合のいい道具じゃない。他の男になんて、渡すもんか」

 地を蹴って駆け出そうとする彼に向かって、デュペック候は手にした小瓶を投げつけた。飛来する猛毒をイリスは軽く横に飛んでかわす。着地した足でさらに地を蹴ってこちらへ向かおうとした、その時。

 近くで倒れていた兵士が跳ね起き、後ろからイリスに飛びついた。血まみれになりながらも、すさまじい執念を見せてしがみつく。予想していなかった襲撃にイリスは肘を打ち出して振り払おうとしたが、さらに別の兵士が前から組み付いた。

「イリス!」

 斬られて死にかけなのに、彼らは力をふりしぼってイリスをはがいじめにし、ホールの端へと引きずっていく。鬼気せまる光景だった。私は思わず立ち上がりかけ、リシャールを落としそうになってうろたえる。反対にイリスは冷静さを失わずひとりを蹴り飛ばしたが、もうひとりの手がたまたま怪我をした肩にかかった。

「うぁ……っ!」

 怪我の場所を力いっぱいつかまれて、たまらずにうめく。その隙に蹴られた兵士がまた起き上がり、体当たりしていった。

「――っ!!」

 言葉にならない悲鳴が私の喉から漏れる。よろめいたイリスの背後には、もう崖が迫っていた。兵士たちはイリスをつかまえたまま、地下の暗い淵へと身を踊らせる。

「イリス!!」

 消えていく姿、響く重い水音。半端に立ち上がった私の腕から、リシャールの身体がずるりと滑った。蒼白な顔をして、すべての力を失っている。閉じたまぶたはふるえもしない。

 イリスはどうなったのか。呼びかけても返事すらかえらない。崖から姿を現してくれないかと期待して目をこらしても、いつまでも変化はない。

 私は――わたしは。

「彼らも、思いは同じだ。この島を救えるのはお前だけだと、己が命をかけて託していった。皆の願いは、期待は、始祖の血ではなくお前に向けられている。それを受け止めなさい、ディオン」

 デュペック候の声だけが変わりなく続く。ディオンは言い返す言葉を失っていた。そして私は――わたしは――

 何かが身体の奥から噴き上げてくる。これは怒りか、絶望か。とどめようのない勢いで爆発した感情が、私から思考も何もかも奪い去った。

「いやだああぁ――っ!!」

 喉から絶叫がほとばしる。視界が赤くはじけ、身体も引き裂かれそうな衝撃にただ叫び続けた。もう意味をなさない、獣のような悲鳴が止まらない。

 世界が揺れていた。崩れていた。このまま、私も壊れて消えてしまえばいい。もういやだ。もうみんななくなってしまえ。こんな辛いことばかりの世界、私ごと消えてしまえ!

 周りがどうなっているのか、自分がどうしているのかも理解せず、ただ私はあふれ出す激情に揺さぶられていた。大きな音が聞こえていたようだが、認識していなかった。

 なかば狂いかけていた意識に突然飛び込んできたのは、澄んだ響きだ。

 無数の硝子片が鳴り響くような、涼やかな響きがふと私に人の意識を取り戻させた。真っ赤だった視界に周囲の景色が戻ってくる。さきほどまでとは一変していた。洞窟の壁や天井が崩れ、あたりに岩が散乱している。龍の骨とは別の、淡い光が頭上から降りそそぐ。空が見えていた。夜明けの、ほのかに色づいた空だった。

 また音楽的な音色が響きわたった。それと同時に目の前に白い輝きが現れる。淡くとりどりの色をまといながら私を取り囲む。虹色の優美なひれが踊り、私を抱き上げた。気がつけば白い身体の上にいた。リシャールを抱いた私を乗せて、白い神は空へ舞い上がる。

「リシャール様!」

 地上から声がした。瓦礫の間からディオンとデュペック候がこちらを見上げていた。落ちてきた岩に当たったのか、デュペック候は頭から血を流していた。その光景が私に現実を取り戻させ、同時に悲しみも戻ってくる。けれどまた、優しい声が響いた。

 もう泣くな。悲しむな。苦しむな。

 言葉ではない声が頭と心にしみこんでくる。龍は私をなだめ、あやすために啼いていた。澄んだ音楽が夜明けの空に響きわたる。

 地下から地上へ出て、さらに上空へと昇っていく。世界が見渡せた。雪に覆われた大地は青かった。山の端に光が現れはじめ、空は金から青へとグラデーションを描いている。大地の向こうには遥かな水平線が広がっていた。鳥が群れをなして飛んできて、私たちの周りにたわむれる。白い鱗が朝日を受けて、さらに美しく輝いた。

 龍は私たちを乗せて、ゆったりと島の上空を飛んだ。海から離れ、内陸部へ移動する。ものすごいスピードなのに、髪や頬に触れる風は優しかった。

 変化に富んだ風景が続いた。カルデラ湖を頂く山があり、あちこちから蒸気を吹き出す山もあった。大小さまざまな湖沼が無数に広がる場所もあった。空を映す鏡の中を、白く長大な身体が泳ぐ。

 山の中腹をすすむ獣の群れが、雪の上に足跡を残していた。あっという間に島を突っ切り反対側の海岸へ出れば、無数の海獣が目を覚ましたところだった。岩場からも鳥が飛び立ってくる。

 命輝く大地。生き物たちの楽園。朝日に照らされた島は、どこまでも美しい。

 寒さは感じなかった。悲しみも憤りも、すべて薄れて消えていく。優しい響きと美しい景色になぐさめられ、凪いだ心は個を失っていく。龍とひとつになり、大気に溶け込んでいく、その心地よさだけを感じていた。

 ぐるりと島を一周した龍は、ふたたび元の場所に戻ってきた。王宮の上を駆け抜け、海へと向かう。停泊している船の甲板にたくさんの人が出ていた。みんなこちらを見上げている。美しい人の姿もあった。

「チトセ……!」

 あれは誰だったかしら。たしかに知っている人。でももう、思い出せない。

 さようなら。見る間に後方へ遠ざかる姿に別れを告げて、私たちは海に出る。龍はひと声啼くと、空の高い場所を目指した。

 高く、たかく――ずっと高く昇っていけば、どこへたどりつくのだろう。そこに悲しみはなく、苦しむこともなく、ただゆったりとまどろむことができるだろうか。

 龍の背に身を伏せる。優美になびくひれに包まれ、腕の中で静かに眠る子を見つめる。私は愛し子に頬をすり寄せ、みずからも目を閉じた。もう、悲しみはいらない。人の身という檻を捨て、あるがままに美しい自然の素となろう。大気に、水に、大地にこの身を散じ、命たちの源となろう。

 世界を感じ、世界とつながり、世界に溶けて。完全に自我が消えてなくなる、その寸前、強く響いたものが私を引き止めた。

「チトセ!」

 ――それは、龍の歌声とはまったく異なる、美しさのない響きで。

「チトセっ」

 自然が奏でる旋律にもなじまない、耳障りな響きで。

 なのに打ち捨てることができず、なぜか振り向いてしまった。そうせずにはいられない、何かを感じた。

 白い神を追って、小さな眷属が懸命に羽ばたいている。あれにはこれ以上高く飛べない。もうかなりの無理をしているのに、それでもまだこちらへ来ようと必死になっている。その背に、さらに小さな身体を乗せて。

「チトセっ」

 乱れてなびく髪が白くなっていた。身体にも白い霜がまとわりついている。濡れたままこの高い場所まで飛んできて、全身が凍りついているのだ。それでもその人は、竜を駆り私に向かって腕を伸ばす。

「チトセーっ!」

 あれは……誰だった?

 知っている人。ひどく心を揺さぶられる人。嵐から解放され穏やかに溶けていきそうだった自我が、急速に戻ってくる。やめて。もうつらいのはいや。思い出したくない。でも思い出さずにはいられない。差し伸べられた手が無性になつかしく、受け取りたくてたまらなくなる。

 意識の奥から浮かび上がってくる名前を、あと少しでつかまえられる。その名を呼ぼうと唇が開き、手を取ろうと持ち上げたけれども。

「行くなーっ!!」

 視界が白く輝く。空も、海も、思い出せそうだった人の姿も、なにもかも輝きの中に呑み込まれていく。やがて世界は白ばかりとなり、優しい輝きの中に私も呑み込まれ、すべてが消えていった。

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