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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第十部 時を越えて
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 本当言うと手元に残しておきたかったけれど、リシャールにあげると言った以上オルゴールを私が持ち続けているわけにはいかない。名残惜しいが、夕食の後私はオルゴールを持ってふたたびリシャールの部屋を訪れた。

 昼間は龍船が来たことに興奮して彼を放り出してきてしまった。そのことも謝ろうと、扉をノックする。

「お邪魔します」

 中へ入ると、妙に強い匂いに出迎えられた。

「……チトセ?」

 明かりは寝台のそばだけになり、リシャールは横になろうとしているところだった。

「あ、もう寝るのね。遅くにごめんなさい」

「いや、別にいいけど」

 私は寝台に歩み寄る。枕元の香炉から立ち上る薄い煙に、思わず顔をしかめた。

「……これ、気分がよくなるお薬だって言ってたっけ」

「うん」

「こんな匂いで本当に気分がよくなる? なんか、かえって悪くなりそうなんだけど」

 リシャールは首をかしげた。

「そうかな? まあ、慣れていないと気になるかもね」

 彼はあまり不快に思っていないようだ。たしかに悪臭というのとはちがう。お香というか薬っぽい匂いで、もう少し控え目なら気にならないだろう。じっさい今まで、この部屋へ来るたびに残り香は感じていたが気にしなかった。でもちょうど焚いている最中に来て強い匂いをかぐと、鼻についてしかたがない。リシャールの言う通り慣れていないせいだろうか。

「それで、こんな時間に来たのは何か用?」

 知らず香炉をにらんでいた私は、リシャールに聞かれて我に返った。

「ああ、ごめんなさい。えっと、昼間は何も言わずに飛び出しちゃってごめんね?」

「わざわざ、それを言いにきたの? 知ってるよ、シーリースの龍船が来たんだってね。和平を結ぶことになったって、ディオンが言ってた」

「ディオン、来たの?」

「うん。大きなことをする時には、ちゃんと報告してくれるよ。聞いても僕には何もできないけどね」

 自嘲のまじったあきらめ顔で、リシャールは笑う。横になる彼に、私は布団をかけてあげた。

「ディオンは、ちゃんとあなたのことを気にかけているのよ」

 私はオルゴールを見せた。

「それは?」

「シーリースの使者が持ってきた贈り物のひとつ。この絵を崩すと、ふたが開かなくなる仕組みなの。ぐちゃぐちゃにしちゃうと元に戻すのが大変。それを楽しむものなんだけどね。あなたにあげたらどうかしらって言ったら、中に変なものが入っていないか確認しろって、その場で私に開けさせたの」

 受け取ったリシャールは絵を眺め、ふたを開く。流れ出たメロディに驚いた顔をした。

「なんで音が鳴るの」

「内部に仕掛けがされているのよ。鳴らなくなったら底にあるねじを回してね」

 ためつ眇めつ箱を眺め回し、ねじを巻き、ふたを何度も開け閉めして、リシャークはしばらく感心していた。パズルで鍵がかかるという仕組みも気に入ったようだ。男の子って、そういうの好きだよね。弟も時計やラジオを意味もなく分解して遊んだりしていたな。

「退屈な時のなぐさめになると思うわ。でも、あまり根を詰めないようにね」

「うん……これ、僕がもらっていいの?」

「気に入ったなら、どうぞ。ディオンの許可は取ってあるわ」

「ありがとう」

 オルゴールを抱え、うれしそうにリシャールは微笑んだ。その姿を可愛いと思い、でもあまりに力ない儚げなようすに胸が痛んだ。

 この子は、いつまで生きられるのだろう。

 不治の病と決めつけるのは早い。この島にはろくな医者がいないとリシャールは言っていた。今までまともな治療が行われてこなかっただけで、ちゃんと治療さえすれば治せるかもしれない。和平が成立してシーリースとまともな交流ができるようになれば、医者を呼べないだろうか。以前お世話になったチャリス先生みたいに、広い知識を持つ優秀な医者だったら、リシャールを助けてくれるかもしれない。

 明日ディオンに話してみよう。彼だってリシャールをこのまま死なせたくはないはずだ。私との間に子供を作らせようと考えたって、当のリシャールにその力がなければどうにもならないんだから。

「これ、竜?」

 ふたの絵もずいぶん気に入ったようで、リシャールは飽きずに眺めていた。

「そうよ。竜には二種類いて、姿も全然ちがうの。これは翼を持つ飛竜。地竜は角と、首の周りに大きなひだがあるのよ」

「この女の子は、君だよね」

「…………」

 とっさに言葉が出せず、「さあね」と言うまでに少し不自然な間ができてしまった。そんなにはっきりわかるだろうか。細部は描かれていないし、髪の色も実物よりずいぶん明るく塗られているのだけれど。

「始祖は竜に愛されていた。君も、そうなんだね」

 どこかさみしげな声には、自分はそうでないという思いが含まれているように感じられた。

 かけるべき言葉をさがし、プラチナの髪をなでていたら、ふたたび扉がノックされた。返事も待たずに開かれる。入ってきたのはデュペック候だった。

「お休み前に、失礼いたします」

「オルト……どうかした?」

 近づいてきたデュペック候は、私とリシャール、オルゴールと香炉をざっと見回した。

「姫君をお迎えにまいりました。あまり夜更かしをされると、具合を悪くなさいましょう。先ほどのお怪我もまだ手当てしておられないとか。お部屋へお戻りください」

 私は眉を寄せて彼の顔を見上げた。人当たりのよい笑顔を浮かべてはいるけれど、やけにうさんくさい。

「リシャール様も、そろそろお休みになりませんと。長居して夜更かしさせないようお願いします」

「…………」

 それを言われると文句も言えない。私はだまって腰を上げた。

「おやすみなさい、また明日ね」

「うん……」

 リシャールに声をかけて部屋を出る。だまって歩く私に半歩遅れて、デュペック候がついてきた。

「リシャールはともかく、私はまだ休まなければならない時間でもないと思うけど?」

 振り返らず前を向いたまま言えば、デュペック候も横に並ぶでもなくそのまま答える。

「今日は昼寝もしておられないと聞いていますよ。早めに休まれた方がいいでしょう」

「だから、私は別に病人じゃないってば。もう体調は戻ってるし、さっきぶつけたところだって手当てが必要なほどじゃないわ」

「あなたに関しては、問題が起きる前に予防をしておくことが肝心だと思っています。大した怪我ではないと思われても、きちんと手当てをしておきましょう」

 言っていることは、それほどおかしなものではない。私がひ弱なのは事実だし、ロウシェンでだって似たような過保護ぶりだった。でも、私を心配して言ってくれる人々とデュペック候は、同じには感じられなかった。

「ずいぶん神経質に気をつかってくれるけど、私よりリシャールにもっと気を回すべきなんじゃないの? あの状態なら常に人がそばについているべきでしょう。そうでなくても、ひとりぼっちで放っておくなんて可哀相だわ。いつもポットのお茶は冷えきっているし、夕方になって鎧戸を閉めるのも自分でやっている。周りが世話をするのは最低限のことだけ。おかしいじゃない。彼はこの国の、最後の王族でしょう。真の皇帝がなぜあんな扱いなの」

 部屋の前に到着して足を止める。振り向いた私に、デュペック候は内心の読めない笑みを返した。

「あなたにはそう見えているのかもしれませんが、ちゃんと気は配っておりますよ。先ほどだって、お休みになるのを邪魔なさらないよう、お願いしたでしょう」

「どっちかというと、私をあそこから連れ出したい口実に聞こえたわ」

「やれやれ、私はどうしようもない悪人と思われているようですな」

 苦笑しながらデュペック候は扉を開いた。その場で押さえたまま、私が入るのを待っている。この人から本音を引き出すのは容易なことではない。あきらめて、私は中へ入った。

 濃厚な緑の匂いに包まれる。リシャールの部屋へ入った時と同じような状況で、でもこちらはとても心地よい匂いだ。本当に気分が落ち着き、リラックスできる。

 リシャールの部屋も、ここと同じにすればいいのに。あんな香より植物の匂いの方がずっと効果がありそうだ。

「リシャール様を気にかけてくださるのは大変ありがたいことですが、あまり頻繁に訪ねてはかえって疲れさせてしまいます。特に夜はご遠慮ねがいます。静かにお休みいただくことが重要なのですよ。どうかご理解ください」

「……気をつけるけど、何か妙な気分ね。あなたたちは私に彼の子供を産んでほしいのでしょう? なのに仲良くなるのを、どうして嫌がられるのかしら」

「嫌がってなどおりません。ぜひ仲良くしてください。まあ、ついでに陛下にも、もう少し優しくしていただきたいとは思っておりますが」

「なんであっちと仲良くしなきゃいけないのよ。必要ないでしょう」

「そのようなことをおっしゃらず。前にお話ししたでしょう、あの方は不器用なだけですよ。そっけない冷たい態度に見えても、内面はとても情の深い優しいお方なのです。あなたにもきつく当たっているように見えますが、意地悪で言っておられるわけではない。先日外へ出られた時には配下に後を追わせて、あなたが危険な目に遇わないよう見守れと命じておられました。食事について厳しく言われたのも、あなたが食べずに弱っていくのを止めるためですよ。わかりにくく、相手に伝わらない――伝えようという気も持っておられないため、誤解ばかりされてしまいますが、本当はとても優しい方なのです。民のために己を殺し懸命に働いて、ただただ皆を守ることだけを考えてこられた。どうかあの方の本当の姿を、理解してあげてください」

 私はじっとデュペック候を見つめた。これまで常に内心を隠した上辺の言葉ばかり聞かされてきたけれど、今の言葉には彼の本当の思いが込められているように感じた。たぶん今のは、全部本音だろう。デュペック候にとってディオンは言ったとおりの人物なのだろう。こちらからすれば、優しい人がなんで他国に攻め入って民間人まで殺すのかと言いたいところだが、身内に対するのと他者にとでは別人の顔を見せるっていうのは、理解できないほどでもないな。

 彼らが親しいことはよくわかった。でもどうして、同じだけの想いをリシャールへ向けることができないのかと、疑問はさらに大きくなった。血はつながっていなくてもデュペック候にとってリシャールは親戚だし、大切な主家の跡継ぎでもある。きっと子供の頃から成長を見守ってきただろうに、大事には思わないのだろうか。

「……考えたことがあるんだけど、条約締結を機にシーリースから医者を招けないかしら」

「なんですと?」

 話を変えた私に、デュペック候は眉を上げた。

「これまでちゃんと治療を受けてこなかったと、リシャールから聞いたわ。この島には医療技術や知識が不足しているようね。祖王は軍人だったから、そっち方面の知識は伝えられなかったのね。シーリースには優秀な医者がいるから、いい治療法が見つかるかもしれない。ディオンにも話すつもりだけど、次に公王と会った時に頼んでみてよ。三人の誰であっても、きっと了承してくれるわ」

「…………」

「リシャールに、元気になってほしいでしょう?」

 少しわざとらしいかと思いつつたたみかけると、デュペック候はうなずいた。

「考慮しておきましょう」

 いかにもな返事を残して彼は一礼する。そうして出ていくのを、私はだまって見送った。

 王子が健康を取り戻せる可能性が示唆されたのに、あの反応だ。少しもうれしそうでない、冷めたまなざしだった。やっぱり、彼はリシャールを大事になんてしていない。ディオンのことを語った時の半分ほども、リシャールに対する愛情が感じられなかった。

 あの人はいったい何を考えているのだろう。何を求め、成そうとしているのだろうか。

 気味が悪かった。私に誰の子供を産ませようとしているのだろう。リシャールだと思っていたのは間違いな気がしてくる。やはり相手はディオンなの? でも彼は身代わりで、祖王の血脈ではない。もしこのままリシャールを死なせたら祖王の血筋が完全に失われてしまう。ディオンに子供ができても、それは彼らが執着する天人の末裔ではないのに。

 天人……。

 思い出した呼び名に、ふと悪寒が走った。それは、何を指す言葉だったっけ?

 祖王セトの子孫でなく、異世界からの来訪者を指していたのではなかったか。そして、私を連れてきた時のデュペック候の言葉は。

『天の国より下り来りし龍の姫――我らが始祖につながるお方よ。その稀なる血こそ、我らが求めてやまぬもの。我々は、始祖に再臨していただきたい。ただそれだけなのです』

 閃いた考えに、私は知らず息をのんでいた。もしか、したら。

 残したいのは祖王の血ではなく。

 ――私の(・・)血……?




 深夜、私はこっそり起き出して窓辺へ向かった。

 部屋の暖房は夜間も切れないけれど、窓のそばは冷気が伝わってきて寒い。凍りついた窓を開け、鎧戸も一枚だけ開けば、どっと冷たい外気が流れ込んだ。覚悟はしていたがたまらない。ふるえながら急いで窓を閉め、上着の襟元を締める。あまりここに長くはいられないなと思いながら、硝子の内側でゆっくりとランプを動かした。

 カームさんからのメッセージを正確に読み取れているといいのだけれど。外は真っ暗で何も見えない。氷点下の世界、この暗闇のどこかに合図を待ってくれてる人がいるのだろうか。

 何も変化のない暗闇に向かってしばらく明かりを動かし続け、最後に窓枠の上にランプを置いた。もし誰かが見ているなら、ここに私がいるという目印になるだろう。朝になれば城のどの部屋かも判明する。

 すっかり身体が冷えてしまった。部屋の奥へ戻り、リシャールがやっていたようにダクトの前で身体を温める。しばらくうずくまっていると、少しずつこわばりがほぐれていった。

 合図が間違っていなかったとして、私がここにいることを知った後、カームさんはどうするのだろう。面と向かって引き渡しを要求したってディオンたちは知らぬ存ぜぬで突っぱねるだろう。強制捜査なんてできないだろうし。やっぱり、工作員が潜入してひそかに助け出してくれるのかな。潜入するところまではできたとしても、その後逃げるのが大変そうだ。

 あるいは確認だけにとどめて、シーリースへ戻ってからハルト様に伝えるのだろうか。そしてそのあと、どうする? 何ができる?

 考えていると期待よりも不安が大きくなってくる。頭がごちゃごちゃになって、私は重い息を吐き出した。疲れた。いろいろありすぎて、なんだかもう考えるのがいやになってきた。

 二度と家族の元へ帰れないのは辛いけれど、こっちの世界にも馴染み始め優しい人たちに恵まれて、楽しく暮らしていけるかと思ったのに。そうしたら戦争だなんて、自分には縁遠いと思っていたできごとがすぐそばで起きた。みんなで必死に頑張って、たくさんの犠牲を出しながらもようやく落ち着けたかと思ったら、今度はおかしな噂を流され味方のはずの人々から敵意を向けられた。エンエンナ宮で襲われた時、本当は怒りたかった。私が何をしたというの、なんでこんな目に遇わなきゃいけないのって。でも感情的になってもしかたがない。これは裏で仕組んでいる人間がいるのだからと抑え、対処を考えた。イリスやハルト様たちと離れるのなんてさみしくていやだったけれど、そんなことを言っていられないから、しばらくは我慢するしかないと自分に言い聞かせて。まんまと私を追い出して、手を叩いてよろこんでいるだろう連中に腹立たしく悔しい思いを抱えつつも、おとなしく身を引いた。私ひとりの我慢で解決するなら、それでいいと思って。

 ……でも、それで終わらなかった。

 こんなに遠くまで連れてこられて、子供を産めだとか無茶を言われて。今は大事にされているけれど、いつひどい目に遇わされるかわからない。不安と緊張の連続で、周りには頼れる人もいない。ひとりで虚勢を張ってこらえるのは、もう、疲れた。

 いやになってくる。私はいつまで頑張ればいいの。どれだけ我慢すればいいの。この世界へ来てからずっと頑張ってきたつもりなのに、まだ足りないのか。こんなの耐えられて当たり前? 甘えるなって言われる? でも、もう、疲れた……。

 日本での暮らしがどれだけ平和で幸せだったのか、あらためて実感する。戦争も陰謀も私からは遠く、悩みと言えば友達が作れないことくらい。それだって単に自分が怠け者だっただけで、本当はいくらでも機会があった。深刻な危機ともおそろしい悪意とも縁遠く、ただ呑気に学生生活を送っていられた毎日がなつかしい。あれからまだ一年も経っていないのに、故郷の景色がひどく遠い。

 気持ちが弱り涙がこみ上げてくる。私は抱えた膝に目元をすりつけた。身体はじゅうぶん温まったはずなのに、寒くてたまらない。あたたかい腕が無性に恋しかった。

 イリスに会いたい。ぎゅっと強く抱きしめてほしい。もう大丈夫、何も心配ないって言ってほしい。お日さまの笑顔で安心させてほしいよ。

 泣きごと言っていないで頑張らないとって思う気持ちもあるけれど、それはすみっこに追いやられる。いい加減頑張るのがいやで甘えてしまいたかった。

「イリス……」

 服に染み込んだ涙が膝まで通り抜けてくる。泣いて気持ちを落ち着けて、明日また頑張れるだろうか。助けは確実に近くまで来ている。希望はある。だから、しっかりしないと。

 もう一度ため息をついた時、何かの物音がした。顔を上げ、暗い室内を見回す。なんだろうと思っていると、また音がした。

 窓だ。二重窓の外側に、何かがぶつかって……いや。

 窓辺に置いたランプの明かりに、黒い影が照らし出されていた。

 びくりと私は身を竦ませる。暗いし黒っぽいしで、ただの影にしか見えない。窓の外に黒い影だなんて、お化けか不審者か。

 でも、すぐに気付いて立ち上がる。合図を見つけて人がここまで登ってきたのだとしたら……それは、エランド人ではなく。

 そろりと近づけば、窓の外の人影が動いた。どうやら頭も顔も黒い布で巻いて、目元だけ出していたらしい。布が引き下げられ現れた顔を、私は信じられない思いで見た。

 うそ……本当に?

 これは現実だろうか。いつの間にか眠って夢を見ているのではないだろうか。あまりに都合がよすぎて、目の前のものが信じられない。

 コンコンと、外から硝子を叩いてくる。私はふるえる手で掛け金をはずし、窓を開いた。冷たい空気と一緒に滑り込んできた身体が、ものも言わずに私を抱きしめる。強い腕に、広い胸に包み込まれた。

「チトセ……!」

 耳元に聞こえる声は、本当に本物だろうか。私はちゃんと目を覚ましているのだろうか。これを、信じていいのだろうか。

 会いたいと思っていた人が目の前にいる。のぞんだとおりに抱きしめてくれている。どれだけ外にいたのか、身体は氷のように冷たかった。体温を感じられないのが、現実だと実感できなくする。でも、この力強い腕は。

「イリス……本当に? 本物のイリスなの?」

「そうだよ」

 青い瞳が優しく微笑む。一度は引っ込んだ涙が倍になってあふれてきた。私は夢中で腕を伸ばし、イリスの首に抱きついた。

「イリス……っ」

 強く抱き返され、言葉もなく互いをたしかめあう。嗚咽がこみ上げてまともにしゃべれなかった。

「イリ……っく、イリ、ス……っ」

「無事でよかった……もう大丈夫だ。だいじょうぶ」

 聞きたかった言葉を聞かせてくれる。しっかり抱きしめながら、片手で頭をなでてくれる。ほしかったすべてが与えられる。私を安堵と喜びが満たしていった。

 イリスが、ここにいる。もしもこれが夢なら、もう二度と目覚めなくていい。このまま幸せにひたっていたい。絶望するだけの目覚めはいらない。

 大きな手が涙をぬぐった。どちらからともなく唇を寄せ合い、長くくちづけを交わす。ふれた頬は冷たかったけれど、分け合う吐息は熱かった。

 何度もなんどもキスした後でようやく少し落ちついて、私は少しだけ身をはなした。イリスも私を抱く腕はほどかないまま、力をゆるめた。

「おどろいた……カームさんと一緒に来たの?」

「ああ。事情をお話ししたら全面的に協力を約束してくださったよ。会談の時も近くにいたらしいな。声が聞こえたって言っておられたよ」

 ――あの時、ちゃんと気付いてくれていたのか。てっきり届かなかったと思ったのに。

「ここへ来たのは、あのメッセージを見つけてくれたから?」

「見つけたよ。山小屋に残されたリボンも、幌馬車の伝言も。よくやった。あれがなければ、どこに見当をつけるべきかわからなかったよ。心当たりが多すぎたからな」

 私から手を離したイリスは隠しからリボンを取り出す。幌馬車に残してきた約束のリボンだ。かならずまた会えるというおまじないが、本当にちゃんと再会させてくれたんだ。

 返されたリボンを私はにぎりしめた。すごい御利益だ。もうこれ、一生宝物にする。

「よく、あんな遠くまでさがしてくれたわね」

「当たり前だろう、飛竜騎士総出で飛び回ったぞ。山小屋の死体を見つけた時には目の前が暗くなりかけたけどな、リボン以外なにも残されていないんだから君は無事なはずだって信じた」

「そうなの、ありがとう……あ、アークさんは? アークさんとおじいちゃんがおびき出されちゃったんだけど、その後大丈夫だった?」

「ああ、彼らはなんともないよ。まんまとだまされて君を守れなかったってものすごく落ち込んで、首をくくりそうな雰囲気だったけど」

「ええ?」

「だいじょうぶ、ユユ姫が叱ってくださったから。それなら今後の働きで取り戻せって。アークは姫に惚れてるから言われたとおり頑張るだろう」

「あ、そうなの……って、え? ええ? そうだったの!?」

「ん? どれのこと?」

「あ、いえ……いいの」

 なんかどさくさでプライベート情報を聞いてしまった。そうか、アークさんはユユ姫が好きだったのか。考えてみれば当然かな。美人で優しくてけなげなお姫様に仕えて、そういう気持ちにならない方がおかしいかも。でも身分がちがうしユユ姫は明らかにハルト様一直線だし、だまってそっと見守っていたんだな。うわあ、切ない。

 ちょっとどきどきしてしまったが、そういうことを考えている場合ではない。私は脱線しそうな意識を引き戻した。

「イリスの具合はどうなの。まだ治りきってはいないでしょう。ここまで登ってくるなんて無茶を……というか、よく登ってこられたわね」

 動きやすさと防寒を重視した服の上からでは、傷の状態はわからない。そっと肩をなでると、イリスは笑って腕を動かした。

「動くのに支障はないよ。あれから一ヶ月以上経ったんだ、もう平気だよ」

 ……本当かな。あの傷が一ヶ月で治る?

「壁登りは竜騎士の特技さ。エンエンナの断崖絶壁で訓練してるからな」

「……それ、騎士の訓練として普通なの?」

「さあ。でも役に立ってるだろう?」

 騎士たちは相当ハードな訓練をしているらしい。だからあんなトンデモ筋肉が生まれるんだな。メイって本当にすごいや。女の子なのにそれについていけるんだから。

「それより、ここからどうやって脱出するかだ。君を連れて窓から出るのは厳しいしな。この部屋の外に見張りはいるのか?」

 窓辺からランプを離し、明かりが外へ漏れないようにしてイリスは尋ねた。私は少し考えて答える。

「見張りはいないと思うけど……外へ出る場所は正面玄関しか知らないのよね。あまりうろついてると、誰かに見つかりそうだし」

「さきに調べに行った方がいいかな」

 私を置いて出て行こうとしそうなイリスを、あわててつかまえる。調べるんだったら私が行く方がいい。イリスだと、もし人に見つかればごまかしがきかない。捕らわれるだけならまだしも、問答無用で殺されるかもしれないのに。

「そんなに心配しなくても、僕はこういうのけっこう得意だよ。レーネでも……」

「だめ。私が行くからここで待ってて」

「そっちの方が心配なんだけどな」

 イリスは口をとがらせて私の腰を抱き寄せ、腕の中に閉じ込める。もう、そんなことしてる場合じゃないのに。

「ん……?」

 押し退けようともがく私にわざと頬ずりしていたイリスは、ふとちがう調子の声を上げた。私の髪に鼻を寄せて、ほとんど突っ込むようにして匂いをかいでいる。

「ちょっと、なに? やめてよ」

 二日ほど洗っていないから、におうのだろうか。

 ここでは毎日の入浴は無理だ。三日に一度が関の山。サウナで温まってから最後に汗と汚れを洗い流すというものだ。私としては物足りないかぎりだけれど、それでもここの人にとってはかなりの贅沢らしいので、文句は言えなかった。

 くさいからってそんなにクンクンしないでほしい。こういうところ、本当にデリカシーがないんだから。

 私はイリスを押し退けてにらもうとした。すると妙に厳しい顔をしているのに気付いた。

「チトセ、その匂い……どこでつけた?」

「え?」

 低い声にひやりとした。何か問題なのだろうか。その匂いって、どういう匂い? お風呂に入ってないからではないのか?

「な、なにか、におう?」

 腕を持ち上げて鼻に寄せてみる。自分ではよくわからない。

「髪だよ。髪に匂いが残ってる」

「髪って……別に、なにもしてないけど」

 短くなったため自分でにおうことができない。なにか匂いがつくようなことをしただろうかと首をひねっていた私は、はっとあることを思い出した。

「ああ、もしかしてあのお香かしら」

「香?」

 イリスはさらに表情を厳しくして、ざっと室内を見回した。

「どこにある?」

「この部屋じゃないわ。ほかの場所で焚いていたのよ。たぶん、それが移ったんじゃないかと……」

 答えながらだんだん不安になってくる。イリスのようすが尋常でないのが気になった。

「どうしてそんなに気にするの。何か問題があるの?」

「…………」

 イリスは少し考えるようすを見せ、もう一度私の髪に鼻を寄せた。匂いをたしかめ、やっぱりとつぶやく。

「何度もその香を焚いたのか?」

「……毎晩焚いてるらしいけど、今までは昼間にしか行かなかったから残り香を感じる程度だったの。でもさっき……って、もう何時間も前だけど、行ったらちょうど焚いてるとこだったの。部屋の主は慣れてて気にならないようだったけど」

「君に使われてるわけじゃないんだな?」

 真剣なまなざしにうなずく。イリスは少しだけ安心したように、表情をゆるめた。

「ねえ、いったいなんなの。この匂いにどういう問題があるの」

 私はイリスの袖をつかまえ、先をねだる。もしこれに問題があるのなら、リシャールに知らせないと。

 イリスは私の手を取り、軽く叩いてなだめた。

「ああ、大丈夫。それなら君は心配ないよ。ただ、その部屋の主とやらは危ないな。これは、毒だよ」

 低く告げられた答えに私は息を飲む。

 毒……あの、香が?

「別名を死の誘惑、あるいは悪意の雫とも呼ばれる――ヘレドナだ」

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