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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第十部 時を越えて
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「皇帝……?」

 告げられた言葉の意味がにわかには理解しがたくて、私は問い返した。

「どういうこと。あなたが祖王の最後の子孫で、だから皇帝なの? じゃあユリアスは? ここの関係図って、どうなってるの」

 祖王の子孫から政権は失われ、別の一族に移ったということだろうか。つまり王朝の交代があった。でも本当は自分たちこそが正当な血筋だと、もとの王族が主張しているということだろうか。

 私の考えを、リシャールは首を振って否定した。

「ユリアスはもういない。十年も前に死んだ」

「……は?」

「ゲイナとの戦の最中にね。とても強い人だったのに、流れ矢に当たってあっさり死んでしまったんだってさ。人の命なんて、どこでどうなるかわかったもんじゃないよね」

「……どういうこと」

 よくわからない。ユリアスは十年も前に死んでいるって、じゃああのユリアスは? 私が向き合っていた相手は誰だというの。

「わからない? 察しが悪いね。あれはユリアスじゃない、影だよ」

「かげ……」

 ――影武者?

「先帝が死んでも、まだ跡を継ぐ息子がいた。勇猛で指導力にもすぐれた、父親を凌ぐほどの人物がいたからみんなうろたえずにいられた。ところが間を置かずにその息子まで死んでしまった。あとに残されたのは、やっと五歳になったばかりの異母弟ひとりだけ。そんな事実を表沙汰にできるかい? 民たちは絶望するだろうし、外の連中はここぞと勢いに乗って攻めてくるだろう。ユリアスの死は、ぜったいに秘さねばならなかった」

「…………」

「エランドにも優秀な人物はたくさんいるよ。でもこの島の人間にとって皇帝の一族は神の一族だ。単なる指導者にとどまらない、守り神みたいな存在なんだ。それが失われたなんて、言えるわけがない。だから隠した。背格好や雰囲気のよく似ている男を身代わりに仕立て、表向きユリアスはまだ生きていることにしたんだ」

「……では、あれは誰なの?」

 皇帝ユリアスとして現れた、黒衣の人物。ずっとそう信じて話していた相手は、何者だったのだろう。

「あいつの本当の名はディオン。ユリアスの……兄上の、乳兄弟だったやつさ」

 リシャールはため息と一緒に答を吐き出した。

「ずっと一緒にいたから兄上のことはよく知っていた。くせも、好みも、誰より詳しかったかもしれない。おまけに同じ黒髪で、体格もよく似ていたから、近しい人間じゃなければ入れ代わってもわからない。まして外の連中に見抜けるはずもない。事情を知っている者が口をつぐめば真相は闇の中だ。死んだのはディオンの方だということにして、この十年間隠し続けてきたのさ」

「…………」

 明かされた真実に、とっさに言葉が出てこない。では、今まで私が――諸国が皇帝だと思っていたのは、偽物だったのか。本物のユリアスはずっと昔に死んでいて、ハルト様たちは亡霊を相手にしていたのか。

 だからリシャールが真の皇帝ということになるのか。もう残された血族は、彼ひとりだけだから。

 そこまで考えた頭に、ひっかかるものがあった。私はあわてて口を開いた。

「待って、じゃあデュペック候は? 彼も皇帝一族の人間でしょう? ユリアスの従兄だって聞いたわ。彼が跡を継ぐのではいけなかったの?」

 直系じゃなくても、血を残すという目的は果たせる。そう思った瞬間、聞くまでもなく答に気付いた。リシャールはそれを肯定した。

「従兄といっても母方だよ。始祖の血筋じゃない。兄上とは血がつながっていたけれど、僕とはつながっていない」

 ……そういうこと、なんだ。

 だからどうしてもユリアスの存在が必要だったんだ。わずか五歳の幼児を次の皇帝として人前に出すわけにはいかなかったから。

 でも、それから十年。幼児は少年にまで育った。

 私はあらためて目の前の少年を見つめる。まだ幼く、人々が頼りにするには不安が残るだろう。それでも象徴として上に立つくらいできるのではないだろうか。影武者とはいえ、この十年間実質的に皇帝として人々を導いてきたユリアス――ディオンがいるなら、実務上の問題はない。そろそろ真実を明かしてもいい頃合いではないだろうか。

 どうなんだろう。現実問題、そう簡単にはいかない気もする。十年間だましていたのかと怒る人たちも出てくるだろうし、こんな子供ではだめだと否定されるかもしれない。今が平和な時ならよかったけれど、苦しい戦をしている最中に明かせる話ではないのかも。

 隠されてきたいくつもの秘密。その中には、リシャールの存在そのものも含まれているのかもしれない。王宮の奥深くに人知れずひっそりと暮らす王子。そう考えると、このそっけない部屋がますます寂しく、寒々しく思えた。

「……あなたは、いつまでここにいるの?」

 私がたずねた意味を、リシャールはちゃんと理解したようだ。ふいと視線をそらせ、すっかり暗くなった窓の方へ向けた。

「さあね。多分、そう長くじゃないよ」

 立ち上がり、窓へ向かう。二重になった窓をいったん開き、鎧戸を閉める。外の冷たい空気が流れ込み、私は身をすくめた。リシャールもショールをかき寄せる。そうして分厚いカーテンを引き、室内の明かりを増やす。硝子や金銀のシャンデリアで反射させて部屋全体を明るくしていたシーリースの王宮と違い、ろうそくとランプだけのこの島の夜は、ひどく暗かった。

 部屋には床暖房だけでなく、温風が出てくるダクトもある。柵で囲まれた通風口があり、リシャールはその前に座って身体を温めた。

「僕はきっともうじき死ぬよ。ディオンが君を連れてこさせたのは、焦ったんだろうね。血が途絶えてしまう前に子供を作らせないといけない。そう思っていた矢先に天人が降り立った。薄れて弱った始祖の血に、新たな神の血を取り込んで残そうと考えたんだろうな」

 薄暗い部屋の隅に膝を抱えてうずくまる少年。ひどく痩せて生気に乏しい姿は、何を語るよりも雄弁だ。

「……病気なの」

「さあ。この島にはろくな医者がいないから、病気なのか何なのか、わからないよ。昔から身体が弱かったけど、成長しても強くなるどころかますます弱っていったんだ。今じゃ一年の大半は寝込んでる。もう元気になれるとは思えない。このまま弱り続けて、遠からず死ぬんだろうな」

 自分の身体に、何も期待なんて持っていないようすでリシャールは語る。まだ十五歳の子供なのに。クラスメイトたちみたいに馬鹿やって楽しんでいるはずの年頃なのに、こんな誰も来ない王宮の奥で、ひとりで死ぬ時を待っているだなんて。

 リシャールは私に目を向け、薄く笑った。

「心配しなくていいよ。君を無理やり花嫁にする力なんて、僕にはない。もう手遅れだよ。今さらあわてたところで、僕に子孫なんて残せやしないさ」

 それは私にとってありがたい話のはずだった。なのに、ひどく胸が痛む。

 しゃべり疲れたようすでリシャールは黙り込んだ。一度は冷えた部屋の空気が、また暖かくなっていく。私は手元を見つめ、これからどうすればいいのかを考えた。

 ディオンとデュペック候が私を求めた理由はわかった。私自身に特別な力がなくても、かまわなかったんだ。始祖に再臨してほしいとデュペック候は言っていた。島の人々が今後も拠り所を失わずに済むように、中心となるべき存在が必要だったんだ。

 リシャールはひどく弱っていて、たしかに無理強いはできないだろう。でもたとえば、薬で私を眠らせるとかすれば可能かもしれない。この子にその気があるかどうかは別として、ディオンたちは多分そう考えたのだろう。

 身体がふるえた。そうまでしても血を残したいという執着が怖い。彼らの境遇を考えるとまったく理解できないわけでもないけれど、寒気が走る思いだった。

 ……それだけ、この島の人々は追い詰められているのだろうか。

「誘拐されたって、言ってたよね」

 ぽつりとこぼれた言葉を、あやうく聞き逃すところだった。私はあわててリシャールに目を戻した。彼は私を見ないまま、また口を開いた。

「君は、ここへ来たくてきたわけじゃないんだね? 無理やり連れてこられたの? だから逃げ出したかったのかい」

 さみしそうな姿に、答えるのをためらう。でも嘘はつけない。私はここで暮らす気にはなれない。帰りたい場所がある。会いたい人がいる。

「……ええ」

 きっと残酷な答えなのだろうけれど、うなずくしかなかった。

 リシャールは一度目を閉じ、それから私を見た。

「なら、機会を待つことだね。ディオンたちがどれだけお膳立てしようと、僕は君に何もしない。そんな元気もないし……嫌がられているのに無理に手を出すなんて、みじめすぎるよ」

「協力してくれるということ?」

「何度も言うけど、僕に力はない。生きているだけで精一杯なんだ。だから期待はしないで。ただ、君に何もしないとだけ約束してあげる。それ以上のことは、自分でなんとかするんだね」

「……ありがとう」

 ディオンたちがどう出るかわからない。でもこの言葉は、とてもありがたかった。ようやく少しだけ期待が持てる。と同時に、疑問も抱いた。

「でも、あなたはそれでいいの? ディオンたちみたいに、天人の血をほしいとは思わないの?」

 エランドに生まれ育ち、拠り所を求めているのはリシャールも同じだろう。なぜこうもすんなり私の気持ちを受け入れてくれるのか、少し不思議だった。

「別に……自分自身が天人の末裔だからね。その血になんの力もないのはいやというほどわかってるさ。民たちに拠り所が必要なのもわかるけど、正直どうでもいいかな……父上と兄上が死んで、そのうち母上まで死んで、もうだれもいなくなった。僕自身はこのとおりだから、ろくに外へも出られない。ずっとここで死にそこねてきた。この島に特別な思い入れも未練もない。いずれ滅びるさだめなら、滅びればいいさ」

 最後の王子はそう言ってまた目を閉じる。それきり話しかけてくることもなかった。私はさがしに来たサラに見つかり、自分の部屋に連れ戻された。途中ディオンに会って束の間にらみ合ったが、彼も何も言わず小さく鼻を鳴らしただけだった。

 サラはずいぶんと私の体調を心配して、あれこれと世話を焼いてくれた。窓の鎧戸はすでに閉じられ、カーテンで冷気をさえぎられている。灯された明かりはリシャールの部屋よりも多い。なぐさめにと、大きな花を咲かせた鉢植えが寝台のそばに移された。

 私がひとりになる時間は少ない。はじめは監視されているのだと思っていたが、サラのようすを見ていると単純に気づかわれているだけなのがわかる。不自由のないように、なにかあればすぐ対応できるように、彼女は常に部屋の隅に控えていた。お茶がほしい時は、いつでも熱いものが用意された。作り置きが冷えきってそのまま、なんてことはなかった。

 不自然な違いをいやでも感じる。私にこれだけ気を配るなら、リシャールにだってもっと世話がされていて当然なのに。あんなに弱っている人間を、看病する者もいずひとりでほうっておくなんておかしすぎる。部屋は暖かかったけれど、それだけだ。他のすべてが寒すぎる。

 この国の人々にとって何よりも尊いはずの祖王の末裔が、なぜあんな状態で放置されているのだろう。それともたまたま人のいない時に私が行ったのだろうか? 普段はちゃんと、人がそばについて見守っているのだろうか。

 謎がひとつ解けても、また別の疑問がわいてくる。ディオンたちは本当にリシャールの子供を求めているのだろうか。そんな疑問も抱いた。

 けれどディオン自身が私に手出ししてくることもなく、そのまままた数日の時が流れた。すっかり体調が戻り元気になった私は、サラの目を盗んではリシャールの部屋へ通うようになった。案の定いつ行っても彼はひとりで、本を読んでいるか寝込んでいるかだった。

「なんで来るのさ」

 毎日訪れる私に、リシャールはいぶかしそうにしていた。

「来ちゃいけなかったかしら」

「……別に」

「部屋にいてもすることがなくて退屈だし、リシャールともっと話がしたかったの。でもリシャールを疲れさせてしまってるのなら、やめておくわ」

「別に、かまわないけど……」

 ふてくされたような顔でぼそぼそと言う姿は、弟を思い出す。本当はうれしいけれど、それを表に出したくなくてごまかしている時の顔だ。うちの弟はクールであまり大きく感情を見せない子だった。内心でよろこんでいたり甘えたかったりする時、こういう表情を見せていた。

 リシャールを見ていると弟を思い出してしかたがない。だからよけいにほうっておけなかった。

「何かしてほしいことがあったら言ってちょうだい。お掃除とか……は、あまり必要なさそうね」

 部屋を見回し、掃除はちゃんとされていることを確認する。食事も運ばれているようだし、汚れた衣類が溜まっていることもない。最低限の世話はされているようだ。

「そういうのは城の女手がやってくれる。不自由はしていない」

「でも、お茶とかすぐに淹れてくれることはないのね」

 今日も大きめのポットに入ったお茶が、テーブルの上で冷えている。リシャールは顔をそむけた。

「……みんな、忙しいから」

 いくら忙しくても、大事な王子を放り出すはずがない。口にするリシャール自身が信じていない言い訳だと明らかだった。

「前からこんな状態なの?」

 私は窓辺へ行ってみた。今日は雲が多くて日が射さない。外を見ていると寒い気分になる。

 リシャールの部屋からは、広大な大地が見渡せた。河があり、森がある。うんと遠くには海も見えた。比較的海から近い場所のようだ。私は空からやってきたけれど、普通は港に入りここまで移動してくるのだろう。途中に町があり、道が続いているのが見える。

「ディオンはよく顔を見せてくれるよ。兄上や母上の代わりにディオンが僕を気にかけてくれている……でも戦が続いて忙しくて、島にいないことも増えた。兄上の身代わりとして、ディオンは常に先頭に立たなければいけなかったから、以前ほどここへも来られなくなった」

「デュペック候は? 血がつながっていなくても、いちおう親戚でしょ」

「オルトもたまに来るよ。薬を持って」

「薬?」

 リシャールはうなずいて、枕元の香炉をさわった。

「気分をよくする香だって。気休めかもしれないけど、オルトが外から持ち帰ってくれたんだ。なくなったらまた仕入れてきてくれる」

「毎日焚いてるの?」

「うん。寝る前にね」

 いつも感じる匂いは、そういうことなんだな。リシャールのようすを見るかぎり、あまり薬としての役には立っていなさそうだけれど。

「ねえ、チトセ……君は、始祖と同じ地に生まれたんだよね」

「ええ。多分ね」

「たぶんなの?」

「これまでの状況から、そうなんだろうなってわかっただけ。明確な証拠を見たわけじゃないけれど、そう考えないと説明がつかなかったから」

「証拠……」

 何かを考えていたリシャールは、寝台から下りて造りつけのクローゼットへ向かった。中から箱を取り出し、私の前へ戻ってくる。鍵のかかった金属製の箱で、重箱くらいの大きさだ。鍵は机の引き出しから取り出した。

「ずいぶん厳重ね」

「大事なものだからね。もっとも、ここへ盗みに入るやつなんかいないだろうけど。ネズミにかじられないようにっていうのがいちばんかな」

 開かれた箱の中身は布でくるまれていた。それをほどけば、さらに油紙で包まれたものが出てくる。どれだけ大事な宝物なんだろう。慎重な手つきでリシャールは包みを開いていく。中から現れたのは、黒皮の表紙を持つ一冊の手帳だった。

「…………」

 思わず私は立ち上がり、身を乗り出した。この世界でも本やノートはあり、自分でも使ってきた。でもそれらとはちがう作りだとわかる。これは……この手帳は。

「始祖の遺品だよ。他の遺物は廟におさめられているけど、これだけは代々の当主が手元に置いてきた。中は、誰にも読めなかったけどね」

 リシャールは私の前に手帳を置く。私はおそるおそるそれを取り上げた。

 何百年もの時を経た品は、ひどく傷んで表紙もぼろぼろになってしまっている。うかつな扱いをすると、あっという間に分解してしまいそうだ。私はそっと表紙をめくり、一旦閉じて反対側を開いた。横書きじゃない、これは縦書きだ。だから右綴じになる。

「…………」

「読める?」

 リシャールの問いに答えることもできなかった。目は夢中で中の文字を追いかけた。

 褪色したりにじんだりして、読めなくなっている部分が多い。千年前の巻物がきれいな状態で残っていたのは、墨で書かれていたからだ。墨は耐久性にすぐれていると聞いた。言い換えれば、他のものでは長持ちしないということだ。インクで書かれた文字は、もうかなり消えかけている。それでも読める場所をかろうじて拾い上げていけば、これを書いた人がどういう人物だったのかがわかった。旧かなづかいだったので少し苦労したけれど、古文よりはすんなり読める内容だった。

「始祖の手記だと言い伝えられているよ。誰にも読めない文字は、天の国のものだろうって。君には、読める?」

「……ええ」

 答える声が少しふるえた。

「なんて書いてあるの?」

 リシャールの声も少しふるえる。彼の方は、期待と興奮がにじむものだった。

「たしかに、私の国の文字だわ。少し昔の……七十年くらい前でしょうね」

「七十年? 半端な数字だな。日付けでも書かれてるの?」

「いいえ……ちょうどその頃のことを、習ったから」

 第二次世界大戦が終結したのは一九四五年だ。私が暮らしていた時代から七十年近く前のこと。旧日本軍に属していた軍人なら、その時代からこの世界へ来たのだろう。

 こちらの世界では何百年もの時を隔てているけれど、元の世界では一世紀もちがわない。世界を越える時には時間の拘束からもはずれるのか。

「祖王の本当の名前は瀬戸(せと)久通(ひさみち)……ひさみち、って発音できる?」

「……ィサ、ミティ」

 きっとこの世界の人にはうまく呼べなかったのだろう。だから苗字の瀬戸で呼ばれ、それが祖王の名前として伝わったんだな。

「すごい、これまで何百年も、誰にも解読されなかったのに――ねえ、他には? 他は何が書かれてる?」

 リシャールは目を輝かせて身を乗り出してくる。この子のこんな顔を見るのははじめてだ。年相応の期待と好奇心にあふれたまなざし――けれど、私は内容を伝えることをためらった。

 教えてしまえば、この子はどう思うだろうか。

「……この世界へ来たばかりの時に書かれたものらしいから、どうしてこうなったのか、ここはどこなのかって混乱して悩んでいたようすがうかがえるわ。私みたいに教えてくれる人がいなかったから、自分の身に何が起こったのかわからなかったみたい」

「始祖は、望んでこの世に降り立ったわけではないということ? 君と一緒で、無理やり連れてこられたのか……?」

「ううん、誰かにさらわれわけじゃない。龍と遭遇して、転移に巻き込まれたのね。くわしいことはわからないけど、事故みたいなものだったんだと思う」

「事故……」

 少年の顔に落胆が浮かぶ。偉大な先祖が実は望まずにこの世界へやってきたのだと、人々を導くために現れたわけではなかったのだという事実は、彼には残念な話なのだろう。

「始祖は、この世がきらいだったのかな……」

 しょげた声に私は首を振った。

「今言ったのは、本当に最初の頃の記述よ。その後彼は何十年もこの世界で暮らしたのでしょう? その間に仲間や家族ができたのだから、嫌いではなかったはずだわ。私も、そうだもの」

 リシャールのまなざしに微笑みで返す。最初はつらい気持ちばかりが大きかった。不便で怖いことも多いこの世界が、きらいだと思ったこともある。家族が恋しかった。帰りたくて帰りたくてたまらなかった。

 でも、今では故郷と同じくらいこの世界も大切だ。もし帰れるとなったら、私はどちらを選ぶだろう。きっとものすごく悩み、苦しむだろう。そのくらい大切なものが増えた。もうどっちが好きかなんて決められない。なによりこの世界には、イリスがいる。

 たぶんそれは、祖王も一緒だ。彼も最後には、この世界とこの世界の人々を愛していただろう。

「シーリースを出た後も人々を導いて、この島での暮らしを切り拓いた。周りの人を大切に思っていたからこそできたことでしょう。彼の心に愛情があったから、今のこの国が、あなたたちの暮らしがあるのよ。祖王はこの世界を愛していたわ。きっとね」

 複雑な顔をしつつも、リシャールはうなずく。どうでもいいと投げやりなことを言っても、この子も祖王に対する憧れや思い入れは持っていたのだろう。思っていたような英雄や神様ではなかったとしても、愛されていた事実が信じられれば、祖王への想いは守られる。

 祖王の――瀬戸さんの、救いを求める叫びなんて聞かせなくていい。




 まばゆき光に引き込まれ、零式はいづこかへ消へ去りぬ。

 雲より出し奇跡は、僕に驚きと絶望をもたらせり。

 龍が僕をここへ連れてきたのか、ここは何処なのか、誰か教へて欲しひ。

 如何すれば日本へ帰ることができるのであらう。

 父さん、母さん、僕は生きてゐます。お伝へするすべのなきことが、心底口惜しくてなりませぬ。




「……あれ?」

 窓から外を見ていた私は、遠くに見えるものに首をかしげた。

「どうかした?」

 もとどおり祖王の手帳を箱にしまい、棚に戻したリシャールが振り返る。私は懸命に目をこらした。

「あれ、何かしら」

 海の方に、何かの影が見える。まだ輪郭もよくわからないけれど、空を飛んでくる。ここから存在を見て取れるということは、鳥などではないだろう。近くで見ればもっと大きなもののはずだ。

 リシャールもやってきて私の隣に並んだ。

「……船じゃないかな」

「船? でも空を飛んで……」

 言いかけて、私ははっとなった。全身に電流に似た衝撃が走る。窓硝子にくっついて、もう一度目をこらした。

 私の視力ではまだよくわからない。でも言われてみれば、帆を張った船のようにも思える。空を飛ぶ帆船――龍船が、やってきたのか。

 ハルト様? 私を迎えにきてくれたの?

 私は身を翻して駆け出した。リシャールの声が聞こえた気がしたが、そのまま置いてきてしまった。廊下を走り、自分の部屋あたりまで戻ってくる。そこでディオンと出くわした。

「珍しく元気だな。だが今日は部屋にこもっていてもらおう」

 彼は部下を何人も従えていた。デュペック候の姿もあった。

「……港に、龍船が入ったわ。あれは予定のこと? シーリースと和平交渉をするの?」

「こざかしい口出しは無用だ。部屋にいろ。勝手に出てくるな」

「ハルト様が来るんでしょう!? 私がここにいることを知らせたの? それとも隠しているの? 会わせて!」

 踏み出す私を、ディオンはうるさげに振り払った。

「馬鹿か。会わせるわけがなかろう。おとなしく中へ入れ」

 部下に目配せする。私を取り押さえようと踏み出すふたりから逃げつつ、懸命に口を開いた。

「会わせてくれないなら、リシャールから聞いたことを周り中に話すわよ。知っている人は少ないんでしょう? サラやこの人たちは知っているの?」

「…………」

 ディオンが舌打ちをする。部下たちは困惑した顔で私と彼を見比べていた。

「それとも実力行使で私をだまらせる? 殴るか薬でも使う? 捕虜として、強引に力でねじ伏せる? ここまで連れてきた時のように、私を痛めつけておとなしくさせておく? 何をされてもしかたがないわね。あなたは私を子供を産ませるための道具としか見ていないのだから。ただ、子供を産むどころか二度と目を覚まさなくなるかもしれないけど」

 いまいましげな顔でディオンは私をにらむ。でも負けたりなんかしない。私もにらみ返した。

 事情を知らないらしい部下たちは、ますます困惑して手を出しかねている。口を挟んだのはデュペック候だった。

「このようなところで言い合っていないで、ふたりとも少し落ちつきなさい。あなたに無体を働くつもりはありませんよ。捕虜などと、けっしてそのようには考えておりません。ですが、これから行う交渉は非常に難しく重要なものでして……影からこっそりのぞくくらいで我慢していただけませんか」

「オルト、何を……」

 眉をひそめるディオンに、デュペック候は首を振ってみせた。

「そうでないと、彼らをここから無事に帰すことができなくなります。交渉を成功させて問題なく帰国させたいなら、姿は見せず隠れて見守るだけにとどめてください」

「…………」

 脅しに脅しで返され、私は唇をかんだ。デュペック候の方がうわてだった。交渉のためといっても、敵国に乗り込んでくるには相応の危険がともなう。もし手の平を返して刃を向けられたら……いくら護衛がいたって、周り中敵に囲まれていたのでは勝ち目がない。

 どこまで本気の脅しかはわからないけれど、たぶんここが落としどころなのだろう。完全に蚊帳の外で部屋に閉じ込められるところを、隠れてとはいえ交渉のようすを見ることまでは許されたのだから。焦るなと自分に言い聞かせる。今は、状況を知るだけでもいい。

「……わかったわ。それでいい」

 私の答えに、デュペック候は満足げにうなずいた。

「陛下も、よろしいですな?」

 聞かれたディオンは返事をせず、うなずくこともしなかったが、だめだとも言わなかったのでいちおう認めたのだろう。ものすごく不機嫌そうな顔だったけれど。

 無言で踵を返す黒衣の背中を追いかける私に、そうそう、とデュペック候がわざとらしく明るい声をかけた。

「勘違いしておられるようですから、先にお教えしておきましょう。港に入ったのはロウシェンの龍船ではありません。がっかりさせてしまいましたかな? ですが、あちらもあなたにとっては慕わしい相手でしょう。リヴェロ公がいらしたのですよ」

 思わず足を止めた私に、感情の読めない笑みが返ってきた。

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