5
外へ出て身体を冷やしたせいで、その後例によって私は熱を出した。せっかく体調がよくなっていたのに、またベッドに出戻りだ。
寝込んでいた数日間、ユリアスと顔を合わせることはなかった。戦の状況はどうなっているのか、シーリースとの交渉は進んでいるのか、サラに聞いても何もわからない。彼女はそうした話を聞く立場にはないようだ。ただ私の身の回りの世話をするだけの役目らしかった。
どうにか回復した私が真っ先にしたのは、ユリアスとの面会を申し込むことだった。ここへ来てからまだ二度しか顔を合わせていない。そのどちらも、ごく短い時間に一方的な言葉をかけられただけで終わっている。私が彼とまともに会話しようとしなかったせいでもあるが、わざわざ遠くから連れてきておいて放置もないだろう。一度きちんと話をしたいと、サラに頼んで伝えてもらった。
一応承諾の返事はかえってきたが、ユリアスの時間が空くまで待てと言われてずっと部屋で待機させられた。今日も天気は落ちついているようだが、もう外へ出ようとは思わない。もっと体調をよくした上で十分に防寒しないと、次は肺炎になりそうだ。
いつまで経っても連絡が来ず、いい加減しびれをきらせて特攻してやろうかと思いはじめた夕方、なんの前触れもなしに彼はやってきた。私との面会は夕食を摂りながらということになった。そんなに忙しいのだろうか。それとも、単に面倒がられただけか。
「今日は食べるのか」
ともに食卓についた私に、ユリアスは皮肉な調子でたずねた。少し前なら単純にむかついて終わりだったが、今は複雑な気分だ。私はだまってカトラリーを取った。
今日は新鮮なジンゴの肉が手に入ったとサラが言っていたとおり、メインディッシュはステーキだった。なかなかに脂ギッシュな見た目である。肉が苦手だと言ったのは燻製を嫌がったと思われたらしい。たいていの若者はステーキが好きだから、私みたいな例外の存在なんてあまり想定されないのだろうな。
肉にナイフを入れる。脂身が多いからか、柔らかかった。ジンゴというのは海獣の一種らしい。こうして料理されたものは牛肉と変わらないように見える。特に強い臭いもなく、脂っこいことをのぞけば食べるのに苦労はしなかった。
黙々と食べる私をどう思ったか知らないが、ユリアスもしつこく厭味を言うことなく食事を始める。しばらくは、食器のふれあう音だけが響いた。
「やけに神妙だな。またなにかたくらんでいるのか」
一口水を含んでユリアスが言った。晩餐にお酒はつきものだと思っていたが、ここではちがうようだ。彼に用意されたものは、私の前にあるものと何ひとつ変わらない。
「常にたくらみごとをしているのはそちらでしょう。私は普通の人間よ」
「どの口が言うか」
私の反論を鼻で笑って聞き流す。失礼な話だ。私は必要がなければ何もたくらんだりしないぞ。
「体力をつけたいだけよ。こう頻繁に寝込んでいたんじゃ、何もできないもの」
私も水を口にする。出されたものはちゃんと食べようと決心したけれど、肉が苦手なことは変わらない。口の中に広がる脂がつらい。
「けっこうなことだな。こちらとしても、その方がありがたい。病弱とは聞いていたが、こうも寝込んでばかりいられたのでは話にならん」
「体調不良が続いたのは、ここへ来るまでの経緯と、あとは慣れない気候のせいよ。普段はここまでじゃないわ」
「早く慣れろ。これから夏へ向かうとはいえ、そのままでは次の冬を越せん」
「ずっとここで暮らすことが決定しているような口ぶりね。今まで聞きそびれていたけど、そもそもなんのために私を誘拐したの? そのようすだと人質とかじゃなさそうだけど」
「お前など人質にしたところで、役には立たん。ロウシェン公とて、国益と引き換えにはせぬだろう」
「……なら、何の役に立てたいの?」
突きつけられる言葉にいちいち傷ついたりしない。私と国益を天秤にかける状況なら、ぜひ国益を取ってほしい。
「はっきり答えてほしいのだけど、私をシーリースへ帰す予定はあるの? まさか死ぬまでここに捕らえておくつもり?」
話がそれてごまかされてしまっては困る。私はカトラリーを置いて、ユリアスを見据えた。
「それとも、近々殺してしまう予定があるとか?」
「殺すもののために、なぜこうも手をかけねばならん。馬鹿馬鹿しい」
「それはありがたいこと。でもじゃあなんのために私を誘拐したのか、ちゃんと教えてほしいわね。閉じ込めて飼うためなんて言わないでしょう。何かに使うためよね?」
「…………」
「祖王と同じ国の出身だからって、特別な知識や技術を持っていると期待しているのならおあいにくよ。私は普通の一般人です。なんの役にも立ちません。龍の加護だって、できることはかぎられているし他人に利益をもたらすものではないわ」
「…………」
ユリアスは答えない。私を無視するかのように、黙々と食事を続けていく。下品にがっついたりはしないが、結構なスピードだ。もう皿の中身がなくなりそうである。
「一体私をどうしたいの? だまってないで教えてよ。許容できる目的なら、取引として応じるわ。かわりに、私をロウシェンに帰して」
「……帰りたいか」
カトラリーを置いて、ユリアスが問い返した。黒い瞳がようやく私を見る。
「当たり前でしょう。誘拐されて帰りたがらない被害者がいる?」
「……被害者、か」
視線をそらし、ふっと笑いをこぼす。私への皮肉というより、自嘲に近いものに思えた。
「ここは気に入らんか?」
静かに聞かれて困惑してしまう。私の立場では帰りたがるのは当たり前だと思うのに、なにかひどいことを言っているような気分になってくる。
「大事にされていることはわかるわ。この部屋、きっと特別なのよね? 床下に管を通して、温かい空気をめぐらせていると聞いたけれど、それって別の場所で絶えず火を焚いているわけで、相当の燃料を必要とするのでしょうね。観葉植物はインテリアとしてだけじゃなく、室温管理や換気のタイミングをはかる目安にもなってるんでしょう。用意された服や寝具も、質のよいものばかり。豊かとは言えないこの島で、こうした準備をするのがどれだけ特別なことか、わからないわけじゃない。この部屋はとても居心地がいいわ。でも、だからって受け入れられるわけがないでしょう? 自分の意志に反して連れ出され、親しい人たちと引き離されて、今日からここがお前の住処だって言われてあなたなら受け入れられる? 自分の家に帰りたいと思うのが当然でしょう」
「さきほどから帰る、帰ると口にしているが、お前が帰るべき場所はロウシェンではないだろう」
私は唇をかんだ。いったん目を閉じて気持ちを落ち着け、ふたたびユリアスをにらむ。
「今は、ロウシェンが帰る場所よ」
「やつらにどれほどの思い入れがある? お前がこの世に現れてから、まだ一年と経ってはおらんだろう。たまたま拾って世話してくれた連中を頼りにしているだけだろう。他に頼る相手も行くあてもない。唯一の救いにしがみついているだけではないか」
「…………」
水の残ったグラスを投げつけてやりたくなった。拳をにぎりしめ、落ちつけと自分に言い聞かせる。ちがう――違う。そんな理由じゃない。まどわされるな。私はちゃんと、あの人たちを愛している。
「……最初は、たしかに不安なことばかりで、目の前の救いにすがるしかなかった。でも生きていくための素地を得たら、自立してひとりで頑張るつもりだったわ。ずっと頼るつもりなんかなかった。頼れると思っていなかった。ひとりで生きていくしかないんだって思い込んでいた私を、先にみんなが受け入れてくれたのよ」
ずっとここにいたらいいと言ってくれた。親代わりになると言ってくれた。友達だと言ってくれた。……好きだと、言ってくれた。
優しい、あたたかい人たち。助けを求めていただけじゃない。あの人たちが好きだから、一緒にいたいから、差し伸べられた手を喜んだんだ。
「助けられて、甘やかされていただけじゃないわ。私が間違えた時にはちゃんと叱ってくれた。だめなことはだめって、言われていたわ。優しい時もあるけど、厳しい時もあった。友達や家族としての、当たり前の関係よ。そんな人たちのもとへ帰りたいと思うのが理解できない? あなたにはただの損得勘定としか見えないの」
「ともに過ごし情がわいたというならば、相手は誰でもよかろう。ここで暮らせばそのうち同じようになる」
「ちがうわよ。そういうことじゃない」
まともに聞こうとしないユリアスに苛立って、少し声が高くなった。珍しく怒鳴りつけたい気分だ。でも感情的になってうまくいくことはない。落ちつかないと。
「この国にも友達になれる人はいるでしょうね。でも、帰りたい場所はロウシェンよ。ハルト様や、イリスのいる所よ」
「そんなに帰りたければ帰ればよい。用が済めば好きにさせてやる」
口元をぬぐったナプキンを乱暴に投げ出し、ユリアスは立ち上がった。高い場所から見下ろす眼に、浮かんでいるのは怒りだろうか。どこか、苦さをこらえるようにも見えた。
「お前を見ていて、天人にもいろいろいるのだとわかった。お前と始祖はちがう。我らの同胞にはなり得ぬ。けっして我らを受け入れぬ。外のやつらと同じだ――もうよい、お前に求めることはひとつだけだ。子を産め。天人の血を残せ」
「……え?」
とっさに理解できず眉をひそめる私を置き去りにして、ユリアスは大股に出ていってしまう。ひとりになって、彼の言葉を反芻して、その意味するところを悟った瞬間血の気が引いた。
子を産めって……。
ここへ来た最初の日、サラから「花嫁様」と呼びかけられた。そういうことなの? 私はそのために連れてこられたの? ユリアスの子供を、産むために……?
ふるえが走る。思わず口元を押さえていた。そんな……そんなこと、できるわけない。とても許容できない。だって、子供を産むということは……そういう行為を、するということで。
取引なんてできる話じゃない。一から十まで全部無理だ。いやだ。そんなの、ぜったいいやだ。
「……姫様? またお加減が?」
入ってきたサラが私のようすに気付いて、覗き込んできた。多分私は青ざめていたのだろう、食事を中断して休まされた。
脂っこい肉を食べたせいで胸焼けがしている。気分が悪いのはそのせいでもある。でも身体がふるえるのは、別の理由だ。
寝台に横になっても眠る気になれなかった。またユリアスが戻ってきたらと思うと、怖くて目を閉じられない。処刑台の上にいる気分だ。
イリス……イリス……。
どうしたらいいの。私はちゃんと身を守れる? ユリアスが実力行使に出たら、どうやって逃げればいいの。
現代日本人なら、もっと軽く考えられなきゃいけないだろうか。今どき結婚前に経験するのは当たり前という風潮だし、関係を持っても別れてまた別の相手とつきあったりする。特別に好きな相手とでなくても、遊びで関係を持てる人もいる。そういう話は知っている……でも、私には無理だ。
ずっと男に苦手意識を持ってきて、性的な対象に見られるのが何より嫌いだったんだから。やっと苦手意識が薄れ、好きな人もできたけれど、まだそういうのは受け入れられない。まして相手は好きな人ではない。イリス以外の人とそういう関係を持つなんて、考えるのもいやだ。生理的に受け付けられない。あげく、妊娠して出産する――? 無理。ぜったい無理。ありえない。
いやだ、いやだ、嫌だ――
今にもユリアスが入ってきそうな気がして、いてもたってもいられなくなった。ここはもう居心地のよい部屋ではなかった。不安でたまらなくなる。
私は跳ね起き、衣装箱へ走った。着られるだけ服を着込んで外へ飛び出す。どこへ逃げるあてもない。ここから逃げ出す力が自分にないことはわかりきっていた。でもじっとしていられない。ただふるえながらその時を待つなんて、とてもできなかった。そのくらいなら、また凍えてしまった方がいいくらいだ。いっそ、そのまま死ぬ? この地でなら簡単に自殺できる。……でも死んだら、イリスのもとへ帰れない。
無意識に玄関へ向かいかければ、階段を昇ってくる足音が聞こえた。別の場所からも人の気配がする。私はあわてて反対側へ走った。目についた角を曲がり、廊下を奥へ進む。何やってるんだろう。城の中で逃げたところで、行き止まりで立ち往生するだけだろうに。
うろたえる意識と自分に呆れる意識が混在していた。逃げてもどうにもならないという絶望感が大きくなってくる。走ったことで息切れもして、足元がふらついた。手をついたのは、つき当たりの大きな扉だった。
この向こうにはどんな部屋があるのだろう。私が隠れられる場所はある? それとも、外へ出ることができるだろうか。
体重をかけて重い扉を押し開く。予想に反して、その向こうに見えたのは廊下の続きだった。
なんだろう、表と奥を区切る扉だろうか。城の奥というと、一般的には王族の私的な生活空間だけど……逃げてきたつもりで、ユリアスの部屋に近づいているのだろうか。
少し進んだところで、とうとう私は立ち止まってしまった。もうどうすればいいのかわからない。行くか、戻るか。どっちがましなんだろう。
「だれ?」
人がいないと思った廊下に声がして、私は飛び上がった。見回せば、開いた扉から人が顔を出している。物音を聞きつけて出てきたのだろうか。見つかった――と、一瞬身をすくめたけれど、それがとても若い、私よりも年下らしい男の子だと気づき、少し力を抜いた。
肩にショールをかけた姿で出てきたのは、小柄な少年だった。ほとんど純白に近いプラチナの髪と、ひどく色白な肌をしている。女の子みたいに繊細な、きれいな顔だちだった。近づいてくれば、私と変わらない身長だとわかる。そしてゆったりした服を着ていても、彼がとても痩せていることもわかった。
すぐ近くで立ち止まった少年もまた、私を観察していた。首をかしげて聞いてきた。
「知らない顔だね。もしかして、君が龍の姫とやらかい?」
「…………」
「まだ身体がこの地になじんでないから療養していると聞いたけど……なんでこんなところにいるのさ」
この子は誰だろう。使用人、じゃないよね。働くような身なりじゃないし、雰囲気もちがう。王族なんだろうか。ユリアスと、どういう関係だろう。
だまっている私に少年は首をかしげ、軽く息を吐いた。
「口が利けないの? 用がないなら帰れば」
「……あなたは、だれ」
用心しつつたずねた私に、少年は眉を上げた。
「やっとしゃべったと思ったら不躾だね。侵入してきたのは君の方だろ」
「……ごめんなさい」
たしかにそうだ。仕切りの扉もあったし、ここは関係者以外立ち入り禁止かもしれない。無断で踏み込んだことを、まずは謝るべきだろう。
「どこかに……逃げるか、隠れるか、したかったの……夢中で進んだらここまで来ちゃって。勝手に入ってごめんなさい」
「逃げる? なにから?」
「…………」
この子がだれであろうと、エランド人には変わりない。助けを求められる相手ではない。
また黙り込む私に、少年はうんざりした顔になって踵を返した。
「こんなとこに立ってちゃ寒い。とりあえず入りなよ」
出てきた扉へ向かう彼に、ためらいつつ私はついていく。彼に救いを求めたわけではなかった。何も考えず逃げ出して、どこへ行くあてもなく、途方に暮れていた。気持ちが少し落ちついてきて、ようやく自分の行動がいかに馬鹿なものか自覚する。今すぐ逃げ出すのは無理だ。あきらめる気持ちと、なんとか対策を考えなければという意識がわいてくる。いったん彼についていって落ちつくのもいいかと思った。
入った部屋は私の部屋と同じくらいに暖かかった。何かの匂いをかすかに感じる。特別広くもない、豪華な内装もないそっけない雰囲気の部屋だ。本が少し多いくらいで、男の子の部屋にしては片づきすぎというか、それらしい私物があまり見当たらなかった。
部屋の隅に寝台があるから、この子が使う私室ではあるのだろう。おもちゃで遊ぶような歳ではないけれど、何か雑貨があってもよさそうなものなのに、本以外ろくにものがない。
弟の部屋を思い出してみる。サッカーの雑誌がいっぱい積み上げられていて、プロ選手にサインしてもらったボールを宝物にしていたっけ。専用のパソコンもあって、そっちの専門雑誌やソフトもデスクの周辺に置かれていた。比較的ちゃんと片づける子だったけれど、多少は雑然とした雰囲気があったものだ。でもここは、ひどくがらんとしてそっけない。寝台のそばのテーブルに香炉らしきものがあるのが、唯一の雑貨といっていい。入った時に感じた匂いは、あそこが源らしい。
「今はだれも来ないから、お茶はないよ。冷えたのでいいなら、そこのポットに残ってるけど」
テーブルの上に置かれた茶器を示して少年は言う。私は首を振り、勧められて椅子に座った。
「名前くらい言えば? 僕はリシャール」
少年も向かいに座る。肘掛けに頬杖をついた拍子に袖がずれて、ひどく細い手首が露出した。
私と同じくらいか、もっと細いかもしれない。多分中学生くらいで、まだたくましさはない年頃だけれど、それにしても細すぎないか。弟を思い出してみるも、サッカーで鍛えていたからあまり比較対象にはならなかった。クラスメイトたちはどうだっけ。
「千歳。佐野千歳」
「ツィ……チ、トセ、か」
少し言いにくそうに、それでもちゃんとリシャール少年は発音した。
「君が龍の姫なんだろ?」
「……そう呼ばれてるけど、お姫様なんかじゃないわ。普通の一般人よ」
「王族って意味の姫じゃないはずだけど。まあ、そんな呼び名どうでもいいや。ようするに始祖と同じ龍の加護を持つ天人なんだろう」
天人、という言葉に私は首をかしげた。ユリアスにも何度かそう呼ばれたけれど、どういう意味なのだろう。伝わってくるニュアンスは、神様とか天使とか、そういう存在を指しているように思える。
「祖王セトと同じ世界の同じ国に生まれたのは間違いないと思う。でも、こことは別の場所だったというだけで、天国なんかじゃないわよ。普通の人間が暮らす地上の世界だった。龍の加護は、この世界へ来た時にたまたま備わったというか、そのおかげで生きて流れ着いたというか……」
「ふうん?」
よくわからないという顔でリシャールは聞き流す。私が人かそうでないかには、あまり興味がないらしい。
「まあ、こうして見ていても、普通の人間にしか見えないし。話じゃ神の眷属みたいな雰囲気だったのに、現実はこんなもんだね。始祖だって、どんなだったか知れたもんじゃないな。じっさいは凡庸なただの男だったのかも」
白けた調子で笑う。ユリアスやデュペック候が始祖と口にする時とは、ずいぶんな温度差だった。彼らには深い思い入れや信仰みたいなものを感じたのに、この子はもっと冷めた考えのようだ。
「そうよ、普通の人間よ。なのに、なんでユリアスはあんなことを……」
「あんなことって?」
この子に話そうと思ったのは、ひとりで考えているのが耐えられなかったからだ。相談相手になってもらえると期待したわけではない。でも、ここへ来てからずっと周りに気を許せずにいたため少し疲れていた。簡単に言ってしまえば、愚痴を言いたかったのだ。
「私に、子供を産めって言ったわ。天人の血を残せって。私を誘拐したのはそのためだったみたい……いったい私をなんだと思っているのかしら。ただの人間でしかないことは見てわかるでしょうに。異世界人の血を残して、それでどうするっていうの? なにか意味がある? 役にも立たないものに、なんでこだわるのかさっぱりわからない」
「…………」
レーネでの出会いにまでさかのぼって考えても、理解はできなかった。私に唯一普通でない点があるとすれば、龍の加護だ。たしかに私は、そのおかげで何度も助けられてきた。でも他人から見てそれほど価値のあるものだろうか。まして私が子供を産んで、その子に受け継がれるようなものなのだろうか。
そこまで考えて、ふと気付いた。
「そういえば、この島には祖王の子孫がいるのよね。龍の加護って、子孫にも受け継がれるものなの?」
ほとんど解明されていない龍の加護について、ここには前例がある。彼らがいちばん詳しいはずだ。
しかし、リシャールは肩をすくめた。
「さあね。二代目、三代目くらいなら継いでいたかもしれない。でもずっと先の子孫にまでは受け継がれないよ。始祖の血はとうに薄れて消えたも同然だ。もうこの島に神の力を持つ存在はいない」
「……そう」
やはりそうかと息を吐く。どんな特殊能力だって、何十代も後にまでは受け継がれないよね。当たり前だ。
「オルトたちだって、そこはわかってると思うよ。でも、この島には天人の存在が必要なんだ。神の力はなくたって血が残ればそれでいいのさ」
「どういうこと?」
眉をひそめる私に、リシャールはひどく大人びた笑みを見せた。皮肉げで、どこか自嘲的な、なにかをあきらめた目をしていた。
「始祖の存在が、民たちの唯一の拠り所なんだよ。外の連中にどれだけ蔑まれても、本当は偉大なる始祖の末裔なんだって誇りを持っている。そう考えないと耐えられないと言ってもいいな。本当は罪人なんかじゃない、穢れてなんかいない、あいつらの言ってることはでまかせだ――って」
プライド……いや、アイデンティティの問題だろうか。ずっと蔑まれ、穢れた民と呼ばれ続けてきた人々にとって、心の支えはとても重要なのだろう。自分たちは穢れてなんかいないと信じていられる、そのための拠り所が祖王なのか。
それはわかる。当然だと思った。でも、
「祖王の存在を忘れずに、ちゃんと語り継がれていればいいんじゃないの? 彼が人々をこの島へ導いた事実があるだけでいいでしょう。血縁もない単に同じ国の生まれというだけの人間を連れてきたって、しょうがないでしょうに」
「君から見れば、そういうことになるんだろうね。多分正しいけれど……残酷な言葉だよ、それは」
頬杖をついたまま、リシャールは静かに、寂しげに笑っていた。
「この島の人間にとって、始祖は神だ。自分たちと同じ人間なんかじゃない、天つ国より降りきたりし神なんだよ。新たな天人を迎えるのは、新たな神を迎えることだ。その辺の普通の人間を連れてきたわけじゃない」
「…………」
「そうでなきゃいけないんだよ。君がどう思っていようと関係ない。身も蓋もない事実なんていらない。特別な、神の国から降臨した天人が必要なんだよ。薄れきってもう消滅寸前な始祖の血に代わって、新たな神の血を求めているのさ」
消滅寸前、というところに引っかかった。祖王の子孫って、やはり王族なのだろうか。
「……私が子供を産むとしたら、ユリアスの子供ってことになるわよね。彼が祖王の子孫なの? ほかには、もういないの?」
どんなに血が薄くなっても、明確な系譜があるのなら消滅寸前なんて言われないのではないだろうか。日本だって戦国武将の末裔が普通に存在していたし、皇族にいたっては千年以上続く系譜だ。当然いろんな血が入っている。初代からみれば今の時代にいる人たちなんて子孫という名の他人だ。でもそういう問題じゃない。代々続いてきた系譜が彼らをつないでいる。継ぐ人がいるかぎり、消滅することはない。
ここではあくまでも血の濃さを求められているのだろうか。家や名前ではなく、血縁関係の濃さのみを? でも、何百年も保ち続けられるものではないと考えると、血が薄れただけでなく系譜を受け継ぐ人そのものがいなくなっているのではないかと気付いた。
「始祖の末裔は、たしかにもう一人しか残っていない。でもあいつじゃないよ……あいつの子供を産むのがいやで逃げてきたの? だったら、大間違いだね。君が逃げるべきなのは、あいつじゃなくて、僕からだ」
「え?」
目をまたたく私を、リシャールは吐息だけで笑った。明るさも力強さもまったくない、陰だけを感じる笑いだった。
どうしてこの子は、こんなにも冷めきった目をしているのだろう。なにもかもをあきらめて、どうでもいいと言わんばかりの……少しも少年らしくない、人生に疲れた人みたいな雰囲気で。
なぜ、と思う私に、リシャールはゆっくりと語った。
「僕はセト・リシャール。始祖の血を引く、最後のひとりだ。エランドの、真の皇帝だよ」