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エランドに到着したその日と翌日は、ほとんど寝台から動けずに過ごした。殴られた場所はしつこく痛んだし、薬の影響かずっと気分が悪かったからだ。
起き出せるようになったのは三日目からだった。ようやく落ちついて、食事も普通のものが食べられるようになった。とはいえ、ここの料理は肉や魚の割合が多い。野菜もやたらとしょっぱい塩漬けやすっぱい酢漬けばかりで、フレッシュサラダなんて出てこない。果物は言うにおよばず。どうにも食べづらいメニューだった。
「お口に合いませんか」
今朝も半分以上残した私に、サラが困った顔で聞いてきた。
「お肉と魚は苦手なの。それに野菜も……こういうのは、苦手で」
「どういったものなら、召し上がっていただけますか」
いつも残すので毎回メニューは工夫してくれているようだが、基本が同じ食材ばかりなので食べづらいことに変わりない。手の込んだ料理なんていらない。むしろ生の野菜や果物のほうがいい。でもそう言うと、
「……申しわけありません。今の季節に、それは手に入りませんので……」
サラは本当に困ったようすで謝った。
「じゃあ、最初に出してくれたお粥でいい」
お粥といっても、シーリースで食べていた雑穀粥とはちがう。もっとドロっとした、糊みたいなものだった。美味しくはないが、薄味だったので肉や塩漬け野菜よりはましだ。
「あれは、蒸したプフをつぶして湯で溶いたものです。病人や老人の食事に出すものですが、あればかりというのはどうかと……」
プフというのは根菜の一種らしかった。なるほど、あのドロっとした食感はたしかにでんぷん質だ。でんぷん質はエネルギーになりやすいからいいんじゃないのかな。まあたんぱく質は不足しそうだけど。
どうしても食べない私に困り果てたようで、サラはデュペック候に聞きに行った。戻ってきた時、手には新しい器を持っていた。
「甘いものがお好きとうかがいまして……これなら、召し上がっていただけますか?」
差し出された器には、赤い小さな果実のシロップ漬けみたいなものが入っていた。食べてみると甘酸っぱくてとても美味しい。どうやらベリーのようだ。シロップ自体もとろりとしてコクがあり、自然な甘さがいい。
気に入った私は毎食これがほしいとねだった。するとサラはまた困った顔になった。今度は何が問題なのだろうと思っていると、前触れもなく突然にユリアスが入ってきた。
「ユリアス様」
サラが驚いて下がり、場所を譲る。私の前に立ったユリアスは、ほとんど空になった器を見下ろして言った。
「いちいちわがままを聞いてやる必要はない。食べぬと言うなら、そのままほうっておけ」
「そのような……」
「飢えてどうにもならなくなれば、目の前にあるものを食べるようになる。それでも食べぬなら、勝手に死ねばよい」
表向きはサラに向けた言葉だが、じっさいは私に言っている。私は少し腹が立って目の前にそびえる黒衣を見上げた。好きでこんなところへ来たわけじゃないのに。誘拐しておいて、わがまま扱いしたあげく勝手に死ねとは言ってくれるものだ。
「面倒をおかけしてごめんなさい。今すぐシーリースへ追い返してくだされば、これ以上困らせることもないのだけれど」
「天人には地上の民の苦労など想像もつかぬようだな。シーリースではさぞ甘やかされて好き勝手してきたのだろうが、ここで同じにできると思うな」
「だからシーリースへ帰せばいいと言ってるじゃないの。人の意志を無視して誘拐してきたくせに、何を偉そうに言ってるのかしら。デュペック候はほしいものはなんでも用意すると言ってたのに、いざお願いするとそうやって責められるのね。勝手なのはどちら?」
「用意できるものとできぬものがある。オルトはお前の機嫌をとるため愛想をふりまいていたが、俺はそこまでする気はない。すぎた贅沢は不要だ」
ざっと室内を見回してユリアスは言う。贅沢ってどれのことだ? 明るく暖かな部屋は居心地がいいが、高級品で埋めつくされているわけではない。落ち着けるナチュラルテイストだ。ここで贅沢に感じるのは広々とした寝台くらいである。
「なにが贅沢なのかしら、よくわからないわ。私にとっていちばんの贅沢は、行動の自由よ」
「外へ出たければいくらでも出るがいい。この部屋の外で、お前が生きていけるならばな」
言いたいだけ言うと、来た時同様ユリアスはさっさと出て行った。結局なにがそんなに腹立たしかったのか、さっぱりだ。
私は最後の一口を食べ終えて、寝台に移った。体調は大分よくなったが、食事のあとは少し胃もたれするので横になる。
そうしながら、片づけをするサラに聞いてみた。
「ユリアスは何をあんなのに怒っていたのかしら。贅沢って、なんのこと?」
「いえ……」
相変わらず困った顔で彼女は微笑む。
「その果物も贅沢なの? 毎日は食べられないのかしら」
「……それほど量がありませんので。残っている分を全部姫様にさしあげても、ひと月もつかどうか」
「そんなに貴重なものだったの?」
あまり採れない果物だったのだろうか。遠慮なくパクついたのを申しわけなく思った私に、サラは優しく首を振った。
「夏になれば、たくさん実ります。それを煮詰めたアカリヤの樹液に漬け込んだものを、長い冬の間の楽しみとして少しずつ食べるのです。去年作った分はもう大分なくなってしまったので、今はあまり残っていないのです。申しわけありません」
「…………」
話を聞いて、私はようやく少し理解できた。果物だけでなく、野菜も冬の間は手に入らない。だから夏の間に長期保存できるよう、塩漬けや酢漬けにするのだろう。肉や魚が多いのは、野菜よりは手に入れやすいから――でもそれだって、燻製にしたものが多かった。そうやって保存食で冬を乗り切るのが、この島の暮らしなのだろう。
だから毎食同じような食材ばかりだったのだ。それしかないから。いやだと拒否しても、他に食べるものがないから。
……ああ、だからわがままと言われたのか。
理解すると納得もできた。けれど、どうしても理不尽に感じるところはある。私は来たくてここへ来たわけではないのに。帰りたくても帰してもらえないのに。
好きなものを食べられない環境に、わかっていて進んで乗り込んできたわけではない。無理やり連れてきておいてわがまま呼ばわりしないでほしい。
結局、どんなに丁重に扱われようと、私は囚人なのだ。文句を言う自由すらないのだろう。
シーリースへ帰りたい。ロウシェンの、みんなのもとへ帰りたかった。
頭まで布団をかぶってふて寝する。そのうち本当に眠ってしまって、目が覚めた時部屋にサラの姿はなく、私ひとりだった。
気分はよくなっていたので、起き出して窓辺へ行ってみた。今日は雲が少なく、青空が見えている。地面や木に積もった雪がきらきら輝いてきれいだった。少し向こうに広がる町も、家々の屋根が輝いていた。
この島だって春に向かっているはずだ。もう真冬の気候ではないのだろう。眺めているうちに外へ出てみたくなった。昨日一日、することもなく退屈していたせいで、珍しくアクティブな気分になる。ユリアスは出たいならいくらでも出ていいと言ったんだから、そのとおりにさせてもらおうじゃないか。
衣装箱からコートを引っ張り出して着込む。扉から顔を出し、周囲に誰もいないのをたしかめて、私は部屋を出た。
来た時のように具合が悪くないから、階段だって普通に昇り降りできる。私は足取りも軽く玄関へ向かい、外へ飛び出した。
途端、肌を刺す寒さに震え上がった。あわててコートの襟をかき寄せ、フードをしっかりかぶる。窓から見た時には暖かそうに思えたのに、じっさいに出てみると冷凍庫だった。
これが、この島の春なの?
だったら真冬にはどれだけ寒くなるのだろう。想像して怖くなった。私、ここで生きていけるのかな。いや、次の冬を迎えるまで長居したくはないんだけど。
部屋に戻ろうかと思ったが、せっかくここまで誰にも見とがめられず出てこられたのに、すごすご引き返すのが惜しかった。逃げ出そうと思ったわけではない。ただちょっと、自由に歩いてみたかった。その場でしばらく迷ったあと、私は思いきって町へ向かうことにした。
そんなに遠くはない。市街地まで二キロもないだろう。いくら私がひ弱だからってそのくらいは歩ける。そう思って歩き出した。
踏み固められた雪は滑りやすく、歩きにくかった。頑張ってバランスを取っても何度も転んでしまった。そのうち息切れがして、足もひどく重くなってきた。雪道がこれほど体力を使うものだったなんて驚きだ。日本で住んでいた町は雪が積もることなんて滅多になかったし、積もったところでちょっと人が歩けばドロドロになる程度だった。エンエンナでは通路の雪は常に掃除されていて、城を出る時は乗り物を用意してもらっていた。まともに雪道を歩いたのはこれがはじめてだ。私ぜったいスキーに行けない。ゲレンデに着く前にリタイヤだ。
しばらくして、とうとう道の真ん中で立ち止まってしまった。胸が苦しい。ちょっともうこれ以上進めない。それに寒い。歩いていれば温まるかと思ったのに、一歩ごとに冷気が染み込んできて、どれだけコートの襟を寄せてもふるえが止まらない。室内用の靴は水気を吸い込んで、足が冷たいのを通り越して痛かった。
このままじゃ城のすぐ近くで遭難しそうだ。あきらめて戻るしかないか。
回れ右をしたものの、同じだけの距離をまた歩くのかと思うと絶望的な気分になった。じっさいはそれほどたくさん歩いたわけではない。雪さえなければ普通に行き来できる距離なのに、城が遠く見える。真っ白な大地に気が遠くなりそうだ。
ああ……もっとよく考えて出てくるんだった。雪道が歩きにくいのなんか、わかりきったことじゃないか。都心に雪が積もったら交通がマヒして、歩行者が転びまくっているニュースを見たじゃないか。ただでさえ体力のない私が、ざくざく進めるはずもなかったのに。
それにコートの下は部屋着だ。室内は春みたいに暖かかったから、かなり薄着をしていた。その上に一枚着たくらいで出てくるなんて、我ながら馬鹿と言うしかない。寒いに決まっているじゃないか。
いくら暖かそうに見えても、雪が積もって溶けるようすもないのだから、気温は氷点下だと考えるまでもなかったのに。
外へ出たい、城から離れたいという気持ちばかりが先走って、どうしようもない初歩的なミスをしてしまった。自分が馬鹿すぎて、泣きたくなる。
私は寒さに身を縮めながら、ふたたび雪の上を歩いた。ひどくみじめな気分だった。えらそうな口を利いていても、ちょっと厳しい状況に立てばこのとおりだ。ユリアスにはわかっていたんだ。私はあの部屋を出られない。一歩外へ出ればこうしてふるえ、歩くことすらままならない。鍵なんてかけなくても、見張りを置かなくても、私はあそこから逃げられないんだ。
「きゃ……」
よろめいた足が滑り、また転んでしまった。起き上がろうと手をつくが、苦しくてすぐには立てない。四つん這いのままであえぐ。本当に泣きそうだった。
ここにイリスがいれば、すぐに助け起こしてくれるのに。それ以前に、抱きあげるなり橇に乗せるなり、私に負担がかからないようにしてくれただろう。アルタもトトー君も、ハルト様、メイにアークさん……周り中が私を気遣い、面倒を見てくれた。みんなに大事にされて、甘やかされて、いつしかそれが当然になっていて……自分がどれだけ情けない人間かを忘れていた。
ひとりになれば、これほど弱い。
「…………」
涙がにじんでくる。でも泣いていたってどうにもならない、立ち上がって歩くしかない。力なく息を吐いた時、すぐ近くから声がかけられた。
「あらあら、どうしたの」
女性の声だ。顔を上げると、スカーフで頭を覆った人がこちらへ歩いてくるところだった。
「大丈夫? 怪我したのかしら」
私とはちがってしっかりと雪を踏みしめて、女性はやってくる。おばあさん、と言ったら失礼なんだろうな。でもそれなりのお歳に見える。うちの母より年上だろう。化粧気のない染みだらけの顔に、優しそうな温かい表情が浮かんでいた。
「立てる?」
「はい……だいじょうぶです」
立ち上がる私に、おばさんは手を貸してくれた。服についた雪も払ってくれる。たぶん私はとても情けない顔をしていたのだろう、おばさんは優しく聞いてきた。
「町の子かしら。このあたりでは見かけないお顔ね。ひとりでどうしたの?」
「…………」
「ひょっとして、迷子?」
私はだまって首を振る。おばさんは少し首をかしげていたが、にっこり笑って私の背中に手を回した。
「お茶でも飲んでいかない? うちはすぐそこよ。濡れた服や靴を乾かすといいわ」
おばさんの指さす方に、小さな家があった。ログハウスみたいな可愛らしい家が何軒か集まっている。場所的に、もしかすると王宮の職員宿舎だろうか。
躊躇する私を、おばさんはさあさあと押して歩かせた。
「お茶より食事がいいかしら。そろそろお昼だものね」
「いえ……」
断りかけたとたん、おなかがグウと大きく音を立てて、私はひどく驚いてしまった。普段あまり鳴ったりしないのに、どうしたんだ。たいして空腹でもないのに――と考えかけて、そうでもないことに気付く。意識してみると、たしかに空腹だった。考えてみれば残してばかりでろくに食べていないし、私にしては頑張って運動しているから、空いて当然だった。
おばさんは笑わずに私を家へ連れて行ってくれた。中へ入ってすぐさま暖炉に火を入れ、濡れたコートや靴を脱がせる。下が薄着なのを見て、おばさんは上着を出してきてくれた。
「しっかり着ていなさい」
上からさらにショールで包まれて、暖炉の前の椅子に座らされる。かじかんだつま先を徐々に大きくなる炎で温めると、ほっと身体から力が抜けた。
太い毛糸で編まれた上着はずしりと重く、正直あまり質がいいとは思えない。ショールもだ。おばさんの服装も、失礼な言い方をするとみすぼらしかった。別に破れたりすり切れたりしているわけではないけれど、ごわついた布で色も生成りというか茶色というか、くすんだ地味なトーンばかりだ。私が着ているのは柔らかな生地で、明るい色に染められている。凝った刺繍や繊細なレースといった、いかにもお金のかかった装飾はないけれど、おばさんの服と比べるとはるかに上質なのは明らかだった。
そういえば、サラも地味な装いをしていたっけ。おばさんよりは上等な服だったけれど、あまり飾り気はなかった。色合いもくすんだものばかりだった。
……この島では、そういうのが普通なのかな。私が今着ているのは、外から持ち込まれたものなのだろうか。
さぞ異質に見えるだろうに、おばさんは私に何も聞かず、熱いお茶を淹れてくれた。はじめて口にする味だったけれど、寒い中を歩いてきた身には美味しかった。
「こんなものしかないけど、お食べなさいな」
おばさんは休みなく動いて、台所からお盆を運んできた。乗っていたのは例によって燻製の魚や塩漬け野菜だ。ナンのような生地があり、それに挟んで食べるらしかった。
せっかくの親切に文句なんて言えるはずもないけれど、やはりこれかと内心ため息をつく。この島にいるかぎり、食事は苦行とあきらめるしかないようだ。
「これは好きじゃないかしら?」
私の表情から察したのか、おばさんが首をかしげた。
「いえ……」
いくら気に入らないからって、この状況で文句を言うほど無礼になるつもりはない。私は食事をいただこうとした。見ていたおばさんは、そうだと手を打って私を止めた。
「ちょっと待って、あれがあったわ。いいものあげる」
いそいそと台所へ引き返し、瓶を持って戻ってくる。ほとんど空になった硝子瓶の底の方に、琥珀色の蜂蜜みたいなものが入っていた。
「……それは?」
「アカリヤよ。知ってるでしょう? 甘くておいしいの」
おばさんは蓋を開けて、柄の長いスプーンで底に溜まった中身をかき集めた。樹液を煮詰めたものだっけ。メープルシロップみたいなものかな。
……でも、もうほとんど残っていない。私に使ったら、なくなってしまう。いいのかな。
おばさんは瓶を傾けて、ナンの上にアカリヤシロップをかき出した。瓶はすっかり空になってしまう。
「そんなに使っちゃって、いいんですか。なくなっちゃう……」
「いいのよ。暖かくなったらまた作ればいいんだから」
「……自分で作ってるの?」
私の問いにおばさんは首をかしげた。
「そうよ。たいていの家にはアカリヤが植えられているでしょう?」
私をこの島の人間と思っているのだろう。おばさんは当然の口調で言うけれど、私にはどれがアカリヤの木なのかわからない。でも、お手軽に買ってくるわけじゃないらしいとは理解した。
ここでは自給自足が基本なのかな。ひょっとして燻製も自家製なんだろうか。
「もっとたくさんあったらよかったのにねえ。これだけしかなくてごめんなさいね」
「いえ……ありがとうございます」
「サムルよりジンゴの方がいいかしら。焼いたものの方が美味しいんだけど、あいにくうちには燻製しかなくてねえ」
ジンゴも魚だろうか。それとも肉? どっちがいいかと聞かれても答えようがない。
「ろくなものが残ってないわね。誘っておいてごめんなさい」
「いえ、おかまいなく」
おばさんは台所をあさり、燻製やチーズを持ってくる。鍋も持ってきて暖炉の火にかけた。中身はシチューらしい。
「船が入ったら新しいものも手に入るんだけどね。最近は回数が減ったから、なかなか買い物もできなくて。まあ、贅沢な話よね。昔は島にあるものだけで暮らしていたんだから」
鍋をかきまわしながら、おばさんは陽気におしゃべりをする。
「今じゃ飢え死にする人もほとんどいなくなったけど、昔は冬越しが大変だったのよ。あなたくらいの歳の子は、もうそんな時代なんて知らないでしょうねえ」
まるで戦後日本の苦しい時代を聞かされるみたいだ。それほど遠くない過去には、餓死者が出るほどの食料難だったのか。
「夏の間に作り溜めた食糧で、どうにか食いつないで雪解けを待つの。暖かくなるまでに食糧が尽きてしまわないか、毎年ひやひやしていたものよ。漁に出ても、思うように魚が獲れるとはかぎらないし。船が転覆して男手を失くす家もよくあったわ」
「…………」
「外へ出ていた船が食糧を持ち帰ってくれるのを、みんなすごく待っていたの。でも全員に行き渡るほどじゃないから、その船に家族や知人が乗っていなければ分けてはもらえないしね。ここ十数年くらいよ、定期的に物資が入ってくるようになって、暮らしが楽になったのは」
……それは多分、戦で支配下におさめた属国からの荷物だろう。それ以前に出入りしていた船というのは、もしかして海賊船だろうか。
最近回数が減ったというのは、いくつもの属国が反乱を起こしたせいだろう。
「外から持ち込まれたもので、いちばんありがたかったのはプフね。島中で栽培されるようになって、おかげで飢えから解放されたわ。あれがこの島に根付いたのは、本当にありがたかった」
「プフって、お芋ですよね。もともとは外の植物だったんですか」
「そうよ。今の子はそれも知らないのねえ。もう主食みたいになっちゃってるから、無理もないのかしら」
おばさんは笑いながらナンを指さした。
「昔はそんなの、食べられなかったのよ」
私は手の中のナンを見下ろす。これもプフが材料なのか。
今までなんとも思っていなかった。パンもご飯も、私にとってはあって当たり前のもので、特別に思うものではなかった。
……でも、この島では、人々を飢えから救ってくれるありがたいものなんだ。
きっと燻製もチーズも、塩漬け野菜も、みんな同じだ。手に入る少ない食材を工夫し保存して、飢えをしのいでいる。好きとか嫌いとか、そんなことを言う余裕はないんだ。食べられるものを食べる、それがここでの当たり前なのだろう。
燻製を見てまたかとがっかりしたことを、ひどく申しわけなく思った。いくら昔に比べて楽になったとはいっても、貴重な食糧にはちがいないのに。通りすがりの誰だかわからない人間にふるまってくれる、その思いやりに対して、私はちゃんと感謝していただろうか。これがどれだけありがたいことか、理解していただろうか。
誘拐されたからとか、そういうこととは別の話だ。食べ物があることに、それを分け与えてもらえることに、感謝するのは人として当たり前だったのに。
申しわけなくて、恥ずかしい。そして自分を振り返って、今だけじゃなかったと気が付いた。
今まで、食べ物に対して感謝なんてろくにしたことがない。不況と言われながらも現代日本にはものがあふれ、ありとあらゆる食べ物の中から好きなものを選ぶことができた。店へ行けばいつでも山ほどの食材が売られていて、期限が迫ったものは売り場から下げられていた。腐っていたわけでもないのに、売り物にはできないからという理由で、毎日どれだけの食べ物が人の口に入ることなく廃棄されていたか――テレビの特集でそんな話を見たこともある。もったいないと思いつつも、それが当たり前の社会だったから深刻にはとらえていなかった。
食べるものがなく、飢え死にの恐怖と隣り合わせの暮らしなんてしたことがない。周りにそんな人もいなかった。遠い外国の子供が食べられずに死んでいく話を聞いて、日本に生まれてよかったとは思ったけれど――恵まれていると思うこともあったけれど、食事のたびに感謝をしていたかと問えば、答は否だ。お腹が空いたから、食べないと生きていけないから――それだけの理由で機械的にこなす、ただの作業になっていた。
この世界へ来てからも、根本の意識は変わらなかった。好き嫌いを叱られてもうるさい小言と聞き流して、自分がどれだけ恵まれていたのか、わかっているつもりで全然わかっていなかった。今、ようやくそれがわかる。
私はとても恩知らずな人間だったんだ。
飢えないよう不自由なく与えられていたことを、正しく理解して心から感謝したことがない。好き嫌いばかり言って、出されたものに文句をつけて。だったら食べるなって、見放されてもしかたのないことばかりしていた。周りが見放さず許してくれるのに甘えて、いつまでもわがままを言い続けていた……。
ユリアスの言ったことは正しい。食べるのがいやなら勝手に死ねって、本当にそのとおりなんだ。
「はい、どうぞ」
温まったシチューをよそい、おばさんが勧めてくれる。でも食べられなかった。こみあげてきたものが喉を詰まらせる。
「……ごめんなさい」
涙をこぼす私に、おばさんは不思議そうに微笑んだ。
「なあに? いいから食べなさいな」
「ごめんなさい……」
たくさんの人に申しわけなかった。わがままだなんて言葉では足りないほどに、私は恩知らずで恥知らずだった。
「冷めてしまうわよ。温かいうちに食べなさい」
おばさんが前掛けで涙を拭いてくれる。私をどう思っているのだろう。なにか事情のある子だとは思っているはずだ。だから家まで連れてきて、優しくしてくれた。それなのに、私は出されたものに落胆して、苦行だなんて思ってしまった。
恥ずかしい。本当に、申しわけない。
私はプフのナンを口に運んだ。もちもちした生地は、お腹をしっかり満たしてくれる。アカリヤの甘さがとても優しい。シチューには豆や根菜が入っていた。全部おばさんが畑を耕して作ったのだろうか。畑を作るのも、きっととても大変な重労働なのだろうな。このシチューができるまでに、どれだけの労力がかけられているのだろう。
……今まで食べてきたものすべてに、いろんな人のいろんな苦労が詰まっていたはずだ。小さい頃に教えられたのに。いただきますという言葉は、そうした苦労や自然の恵みに対する感謝だって、たしかに教わったのに。なのに、何もありがたいと思っていなかった。
いったい私は、人の言葉の何を聞いていたのだろうな。イリスにもメイにも、さんざん言われたのに。知らなかったのではなく、理解しようとしていなかった。それは、無知よりはるかに罪深い……。
温かいものでお腹が癒されると、凍えていた身体が温まった。みじめな気分だったのが落ちついてくる。食事をして幸せだと実感したのは、戦場から戻って以来だ。あの時はおびやかされない暮らしに対して感謝した。今は、食べられることに感謝する。
「ごちそうさまでした……とても、おいしかったです。ありがとうございます」
生まれてはじめて、心からの感謝とともに頭を下げた。口先だけのお愛想でなく、本当においしかったと思えた。
おばさんが食後のお茶を淹れてくれる。それをいただいていると、玄関の扉がノックされた。
「はいはい、誰かしら」
おばさんが小走りに出て行く。残された私はぼんやりと考えていた。
望んで来たわけではないし、もちろん帰りたいと思っている。でも、この島へやってきたのは、意味のある経験かもしれない。
住んでいるのは普通の人たちだ。悪の巣窟なんかじゃない。おばさんのような、優しい人が暮らす島。厳しい環境の中、一生懸命に日々を暮らしている。他の、すべての国と同じように。
ただ帰ることばかり考えるのではなく、彼らのことをもっとよく見るべきかもしれない。
ユリアスと話がしたい。彼は何を考えているのだろう。私をどうするつもりなのだろう。きちんと向かい合って、話がしたかった。
どやどやと足音が響いた。おばさんひとりのものではない。お客さんだろうかと顔を上げた時、戸口に見知った姿が現れた。
「お迎えにあがりましたよ」
再会した時と同じ言葉を口にして、デュペック候はやはり微笑んでいた。