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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第十部 時を越えて
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 飛び込んできたイリスが戸口に立ち尽くしたまま、私を凝視している。頭のてっぺんからつま先まで、無言で丹念に確認されて居心地悪くなった私は、ミイラみたいな指先を袖の中に隠した。

「……たいしたこと、ないわよ?」

 見た目が派手なだけで大怪我はしていない。大丈夫だと告げると、イリスは私になにか言いかけた。けれどぐっと言葉を飲み、無理やり抑え込む。拳をにぎりしめ、その場でうつむいて震えていた彼は、突然にくるりと踵を返し、入ってきたばかりの扉に向かった。

「どこへ行くの」

「……すぐ戻る」

 低い声で答えただけで、振り返りもせずに出ていこうとする。なんだかものすごくやばいと焦らされる雰囲気だった。目がイってなかった? 背中に殺気がただよっているように思うのは気のせいだろうか。

 このまま行かせてはいけないと、私は立ち上がった。でもどうやって引き止めよう。このようすじゃ何を言っても耳を貸しそうにない。イリスの足を止めさせるには――ええと。

「い、行かないで」

 私はイリスに追いすがった。いてて、急に動いたら傷に響いた。

「ここに、いて……?」

 いかにも心細そうな声を出して頼めば、イリスは足を止めて振り返った。私はお願いとまなざしで訴えた。置いていかないで、そばにいて。どこにも行かないで。

「…………」

 イリスの顔にはっきりと迷いが表れる。しばし逡巡したあと、結局彼は息を吐いてこちらへ歩いてきた。

 無言で抱き寄せられる。私もイリスにすり寄り、しっかりと彼のシャツを握った。やれやれ、うまくいったようだ。

 寄り添ったままベッドに腰かける。女官たちが辺りを片づけて出て行った。ミセナさんがこっそり目を輝かせてグッジョブとジェスチャーで伝えてきたけれど、何に対してだろうね。彼女も勘違いしていそうだ。

 私の傷にさわらないように、イリスは頭を優しくなでる。指を髪にくぐらせ、すぐにすり抜けてしまう短さに顔をしかめる。私より彼の方がずっと痛そうな顔をしていた。

「こんなとこまで来て、大丈夫なの。あまり出歩くと身体によくないわよ」

 私などよりもっと深く大きな傷を思い、たずねれば、イリスは呆れたような息をついた。

「人の心配してる場合か。具合はどうなんだ。そっちこそ、寝ているべきだろう」

「寝込むほどじゃないわよ。おなかは蹴られないようガードしたから大丈夫。むしろイリスに寝てほしい。二の宮まではイシュちゃんで来たとしても、そこからは自分で歩いてきたんでしょう。大分無理してるじゃない」

「いや、ここの庭先に直接降りたよ。緊急時なんだからかまわないだろう」

「かなり拡大解釈ね。緊急時って、こういう場合は含まないと思うんだけど」

「そうだな、襲われたその時に駆けつけたかったよ」

 青い瞳からはまだ怒りが消えていない。私に向けられたものではないとわかっていても、ちょっと怖かった。

 たしかに、危険な状況ではあった。すぐに助けが来たからよかったけれど、ものの三十分も暴行を受けたら死にかねない。日本でもそんなニュースをしばしば見かけていたから、じっさいは間一髪だったのだとわかる。

 でもそれを表にあらわすとまたイリスがぶち切れてしまいそうだから、極力なんでもない顔をしておいた。内臓だけはと前をカバーした分、腕や背中はひどく蹴られたし、頭もちょっと痛い。やせ我慢が辛いけれど、根性だ。イリスが犯罪者になったら困る。

「じゃあ、一緒に寝る? 私もイリスも、少し休む必要はあるわね」

 私を寝かしつけておいて飛び出して行かないように、一緒に横になろうと誘ったら、ものすごく複雑な顔をされてしまった。

「……きっと何も考えてないんだろうけど、そういうことを気軽に言わないでくれ」

「いろいろ考えてるわよ。でもこの状況でそっちに流れるとは思わなかったわね。何しに来たのよ、あなたは」

 むっとして言い返せば、大げさにため息をつかれた。本当にもう、男ってすぐそういうこと考えるんだから。

 結局ひとりで寝かされた。私はイリスが行ってしまわないよう、袖をつかまえていた。

「そんなにしなくても、ここにいるってば」

「本当に? 目を覚ましたらいなくなってたなんていやよ。ずっといてね」

「いるよ。どこにも行かないから」

 イリスの顔が近づいてくる。額やまぶたにぬくもりがふれ、切った唇には羽のようにそっと口づけられた。

 優しい手にくりかえし髪をなでられながら、私はほっと息をついて目を閉じる。イリスを引き止めた理由には、おびえる気持ちもあったのだと自覚した。

 このできごと以来、私は外出を禁じられた。噂が落ち着き安全になるまで極力一人にならないようハルト様に厳命されたが、落ちつくどころか世間の声は日増しに大きくなっていった。

 私を厳しく取り調べ、罰するべきだと主張する者もいれば、噂などでたらめだと主張する者もいる。批判的な意見を述べるのは主に貴族たちで、戦場で私を見ていた人々は擁護側に立ってくれていた。ともに戦い危機をくぐり抜けた連帯感でもあったのだろうか。私は反撃の手段を考案したり、奇襲を防いだり、味方として行動していたと証言してくれた。

 鳥や獣をあやつった件についても、敵を追い払いハルト様たちを守るためだったと証言された。最初に口を滑らせた騎士が、反省したのか頑張ってくれているそうだ。

 それでも私を糾弾する声は消えなかった。

 よほど私を排除したいのか、噂を煽っている人物がいるようだ。それにじかに見ていない人たちには、私みたいな小娘が戦場で役に立つはずがないと信じられないようだった。無理もないね。事実さほど貢献できたわけでもなかったし。ただ魔女だ魔物だと言いながら一方では都合のいいことを言うと、ちょっと呆れはした。

 それはともかく、ちっぽけな小娘ひとりの進退問題では済まなくなってきた。有力者たちの意見がまっぷたつに割れて、このままでは内乱に発展しかねない。そう懸念したハルト様は、一時私を宮殿から遠ざけると決断した。

 ――実はオリグさんと相談して私が提案したのだ。ハルト様が私をかばい続けるからよけいに反対派を刺激している。ハルト様に対する不信を募らせないよう、私と距離を置いてみせることで鎮静化をはかれないかと考えた。

 私が宮殿から追い出されたとなれば、噂を煽っている連中も満足するだろう。せめて戦争問題が解決し情勢が落ちつくまでは、私は存在を消してしまった方がいい。そう説得し、了承を取り付けたのだった。

 火種を蒔いていったデュペック候は、まさしくこの状況を狙ったのだろう。私がハルト様のもとにいられなくなるよう仕向けたことは百も承知だ。まんまとしてやられてくやしいけれど、ずっとこのままのつもりはない。ハルト様から離れるのは、あくまでも一時的な措置だ。

 そうして私は夜逃げ同然にエンエンナを出、護衛ひとりを連れて北部の片田舎に移った。行き先を知っているのはごく一部の人だけだ。表向きには西部の離宮へ行ったことになっている。最後まで同行したがっていたイリスには、具合がよくなったらこっそり会いに来てねとお願いした。

 それから半月ばかりが過ぎ、身体に負った傷はほとんど癒えた。髪だけは短いままだけれど、もともと切りたかったのだからかまわないと、明るく考えられるようにもなった。おばあちゃんが毎日可愛くリボンを結んでくれるし、うなじを風がなでても震えることはない。地面には小さな青い花が咲き出した。いよいよ、本格的な春の始まりだ。

 毎朝食料や生活用品を届けてくれる配達人が、今日は私宛の手紙も預かってきた。荷物を台所に運び込んだあと、開いてみる。一通はイリスから、もう一通はオリグさんからで、こちらには小包も添えられていた。

「山からですか」

 炭を運んできたアークさんが、手紙に気付いてたずねた。ここの管理人たちにはくわしい事情が知らされていないので、ハルト様の名前や宮殿のことなどは伏せるようにしている。山というのは、もちろんエンエンナ、つまり宮殿を指す。

「ええ。イリスが来るみたいです。それも今日これから……手紙出す意味あるのかしら」

 呆れて答えると、アークさんはちょっと笑った。

「まだ本調子には遠いでしょうに、こんなに急がなくてもねえ」

「心配しておられるんですよ。お気持ちはわかります」

 オリグさんの手紙も開く。誰に見られるかわからないから、戦について直截的には書かれていない。全然関係ない季節の便りを装い、巧妙に情報をまぎれ込ませてあった。わかる人が見ればわかる、という内容だ。

 エランドとは秘密裏に接触し、交渉を進めているらしい。向こうの反応は鈍いが、完全に拒絶の姿勢でもないようだ。状況的にシーリースと手を組むのもやむなしと、考えてはいるのだろう。でもお互い相手を信用できないから、条約を交わすといっても簡単にはいかない。

 なんとか、いい形でおさまってもらいたいな。関係者の苦労ははかりしれないけれど、この先戦が続くよりはずっといい。今はぎすぎすしていても、いつかエランドと仲良くなれたら、祖王についての真実を世間に広く明かせるようにもなるだろう。罪人の島という偏見をなくせば、もっといい時代が迎えられる。

 私は手紙を置いて小包を開いた。片手で持てるほどのごく小さな箱の中には、ペンが一本おさめられていた。白い軸に金を使った塗料で模様が描かれていて、必要性のない飾りもついている。きれいだけど重くて使いにくい。実用性より装飾性を重視した、貴族の見栄っ張り小道具という品だった。

 私は同梱されていた説明書を読み、キャップを外して軸の端にある仕掛けを動かした。するとペン先が伸びて極細のナイフに変身した。フェイクだ。ペンそっくりな形をしたナイフ、いわゆる暗器である。念のために持っておくよう書かれてあった。

 こんなものが必要になる可能性があると、オリグさんは思っているのだろうか。敵はだれ? 国内貴族の過激派か、それとも……。

 私をハルト様から引き離して、それで終わりではないだろう。きっとそのうち、デュペック候はまた何かしかけてくる。戦と、私に対する彼らの執着は、別の話だ。油断はできないとあらためて自分に言い聞かせ、私は刃を戻して元通りキャップをかぶせた。せっかくの心遣いなので、持ち歩くことにしてポケットに入れる。すると指先が別の感触にふれた。

 ポケットにはリボンも入っていた。イリスと分け合ったリボンの片割れで、互いに持っていればかならずまた会えるというおまじないだ。戦場から帰り、もう必要ないものなのに、なんとなくまだ手放せず持ち歩いている。イリスの方はどうしているのだろう。ついつい聞きそびれていたけれど、まだちゃんと持ってくれているかな。あとで会ったら聞いてみよう。

 私はいそいで手紙を自室に置いてきた。今日のおやつ用に用意された、木の実の皮むきをしなくては。栗みたいな甘い実だ。皮も栗に似て硬いので、昨日から水に漬けてある。そろそろやわらかくなっただろう。

 おいしいケーキを用意してイリスを迎えてあげよう。ケーキを焼くのはおばあちゃんだけど、皮むきをマスターしたことは私としては大変な進歩なんだから。そこは自慢してやるんだ。

 道具を出してさあ作業を始めようとした時、玄関の戸を乱暴に叩く音が響いた。

「おおい、誰かいるか!? 出てきてくれ!」

 知らない男の人の声がする。奥へ行っていたアークさんが戻ってきた。

「なんでしょう?」

「さあ。見てきますので、ティトシェ様は出ないでください」

 足早に歩いていく背中を、少しあとからそっと追いかける。気になったので廊下の角から玄関をのぞいた。

 そこでは村人風の男性が、ひどく焦った顔をして待っていた。

「なにか?」

「ここの男手はあんただけか? すまんが、近くで事故があったんだ。手を貸してくれ」

 応対に出たアークさんに、男性はあわてた口調で頼み込んできた。

「旅人の馬車らしいんだが、河に落ちてひっくり返ってる。早く助けてやらんと死んじまうかもしれない。手伝ってくれ」

 アークさんの顔が引き締まる。私の背中に冷たいものが走った。

 旅人の馬車……って。乗っていたのは、誰?

 ううん、イリスのはずはない。イリスならきっと、イシュちゃんで飛んでくる。違うよね。

 でも……もしかしたら。

 まだ具合はよくないだろうし、飛竜でやってきたら人目につく。身体に負担をかけないように、目立たないように、馬車でやってくるという可能性もないだろうか。

 もし、もしも、イリスだったら。

 脚がふるえた。思わずふらりと踏み出していた。こちらへ戻ろうと振り向いたアークさんと目が合った。

「あ……」

「行ってきます。私が戻るまで、絶対に外へ出られませんように。いいですね?」

 アークさんは私に強く言いつける。一緒に行きたい、とのどまで出かかった。心配でたまらなくて、イリスではないと少しでも早く確認したかった。

 他の人ならかまわないのかっていう話だけれど、この時の私にはイリスのことしか考えられなかったのだ。連れていってとお願いしかけて、寸前でどうにか思い止まる。行ってどうするのか。何も手伝えないだろうに、邪魔になるだけだ。私がいれば、アークさんはそっちも気にしないといけない。どう考えても迷惑なだけだった。

 何も言えないまま、出て行くアークさんを見送る。さわぎを聞きつけたおじいちゃんとおばあちゃんがやって来て、何があったのかと聞かれた。

「そりゃいかん、わしも行ってくるよ」

 おじいちゃんはすぐさま外へ飛び出していった。残された私を、おばあちゃんが優しくなだめる。

「だいじょうぶ、きっと近くから人が集まっているから、すぐに助けてもらえますよ。ハノ河なら落ちたといってもそれほど高さはないし、心配いりません」

 多分私は真っ青になっていたのだろう。おばあちゃんは私を居間へ連れて行き、居心地のよい椅子に座らせると、お茶を淹れに台所へ向かった。

 座っても落ち着けず、私はそわそわと窓の外を見る。こんな時、電話があればすぐに連絡が取れるのに。イリスは無事なのか、それが知りたくてたまらない。

 やっぱりようすを見に行こうか。邪魔にならないよう、離れたところから見るだけにして。人が集まっている場所で私に何か起きることもないだろうし……。

 どうにもがまんができなくて立ち上がる。廊下に出て、裏手の方へ向かった。だまっていなくなったらおばあちゃんを心配させるから、まず台所へ行こうとしたのだが、いくらも歩かないうちにぎくりと立ち止まった。

 裏口に、知らない男の姿があった。

 断りもせず勝手に入り込んでくる。あとに続いてもう一人。彼らは私に気付くと、口の端にいやな笑みを浮かべた。

 ぞっと鳥肌が立った。瞬時に確信する。これは危険、敵だと。

 男たちは、まっすぐこちらへ向かってくる。その途中に台所の入り口がある。私はさらにふるえた。あいつらがおばあちゃんに気付いたら――

 強盗なのか、それとも別の襲撃者か。

 私はそろそろと、玄関の方へ後退した。逃げるそぶりを見せれば、男たちは追ってくるだろう。私が目的なら――私をつかまえないことには、他に手を出している暇はない。

 案の定男たちは台所など気にかけるようすもなく、こちらへ向かって駆け出した。それを確認して、私は踵を返した。玄関へ――外へ向かってダッシュする。

 とにかく、ここから離れないと。おばあちゃんが巻き込まれないところまで逃げて、そこでなんとか人を呼べないか。事故はどこで起きているの。アークさんたちはまだ近くにいるだろうか。

 走りながら考えて、自分の間違いに気付いた。事故なんか起きていない。あれは嘘だ。護衛を引き離して、その隙に襲う計画だったんだ。知らせにきた男も、仲間なんだ。

 アークさんはどうなっただろう。おびき出されて襲われていたら――アークさんは強いけれど、多勢を相手にしたのではかなわない。

 心配だった。でも今の私に、できることはなかった。何よりもまず自分がいちばん危なくて、逃げきることすら難しい状況だ。

 庭へ飛び出し、そのまま外へ向かう。もう男たちの足音はすぐうしろに迫っていた。私の脚で逃げきれるわけがない。助けを呼ぶしかない。この近くに獣は、鳥は、いるだろうか。

 呼びかけようと息を吸い込んだ時、前方の門から影が飛び出してきた。それが人だと認識するのと、おなかに強い衝撃を感じたのは同時だった。

 息が詰まり、世界がひっくり返る。苦しい――気持ち悪い――

 身体から力が抜けた。私を殴った男に抱きとめられる。理解できたのはそこまでだった。視界が暗くなり、ただ苦痛だけに苛まれ、それもすぐにわからなくなった。




 事故の話が襲撃のための嘘なのだったら、少なくともイリスは無事ということ。

 それだけが、せめてもの救い。




 朦朧とした意識で、どれだけの時間を過ごしたのだろうか。

 絶えず揺れていたように思うから、どうやら私は馬車に乗せられて運ばれていたらしい。

 殴られただけでなく、その後薬も使われて、ずっと眠らされていた。むしろそれは、私にとって幸いだっただろう。殴られたあとの苦しみを抱えながら、乗り心地のよくない馬車に延々揺られていたら、間違いなく吐いていただろうから。

 半分覚醒した意識で、ぼんやりと自分の状況を感じ取る。横になった身体の下が硬い。ガタガタと揺れて、そのたびにぶつける頭が痛い。

 周囲は薄暗い。幌馬車の荷台に転がされているのだと、ずいぶん時間をかけて理解した。

 おなかに鈍い痛みがあった。寝心地の悪さとその痛みのおかげ意識がはっきりしてくる。見知らぬ男たちに襲撃を受けたこと、そして殴られたことを思い出した。

 お腹をおさえながら、ゆっくり身体を起こす。降り口の方には荷物が積み上げられていて、外が見えなかった。光が差し込んでくるから、昼間だろうということだけわかる。でもあれから、どのくらい経ったんだろう。

 いったい何者が、なんのために私を誘拐したのか。

 考えようとしても、うまく思考がまとまらなかった。まだ薬の影響が残っているようだ。私は近くの荷物にもたれ、おなかをさする。身体が重く、動くのが辛かった。

 アークさんは無事だろうか。なにごともなく戻っていられたらいいのだけれど。でも私がいなくなって、今頃困っているだろうな。おじいちゃんとおばあちゃんにも心配をかけているだろう。知らせはエンエンナにも行っただろうか。ハルト様やイリスは、どうしているか。

 みんなにごめんなさいと謝った。それしか今の私にできることはなかった。これから先、もっと迷惑と心配をかけてしまうのだろう。いくら謝ってもたりない。

 反撃は、できるだろうか。

 服の上からポケットをさぐり、オリグさんが送ってくれたペン型ナイフがちゃんと入っているのをたしかめる。取り上げられていないのは幸い。これで戦おうなんてかけらも考えていないけれど、刃物を持っているのは心強い。なにかと役に立ってくれるだろう。

 まず犯人たちの正体と、目的を知ることだ。それから対処を考えよう。無理して脱出を試みるよりも、もっといい選択肢があるかもしれない。

 こうやって誘拐するからには、私を殺すことが目的ではないのだろうし。今すぐ命の危険はないと思ってよさそうだ。それなら、落ちついて状況を見極められる。

 体調を回復させるべく幌の中でおとなしくしていると、やがて馬車が停まった。外で人の声や物音がし、降り口をふさぐ荷物がのけられていく。見えた顔は、別荘に入り込んできた襲撃者だった。起きている私を見て、いやな薄笑いを浮かべた。

「降りろ」

 横柄に指図されて、私は外へ向かった。馬車の外にはあわせて四人の男がいた。一般人のような身なりをしているが、当然変装だろう。物腰や雰囲気で、なんとなく軍人であることがわかる。

 周囲は人里離れた山の中だった。緑が顔を出し始めた、起伏の多い斜面が続き、そこに一本の道が通っている。遠くを見回しても森や別の山が見えるばかりで、集落はどこにも見当たらなかった。

 ぽつんと建つ山小屋の前に馬車は停まっている。旅人のためのものだろう。これはどこへ続く道なんだろうか。地図を思い浮かべても、わからない。

 男たちは私を小屋へ放り込んだ。今夜はここで宿泊するのだろう。私を残してまた外へ出て、馬車へ荷物を取りにいく。そばで見張っていなくても、私が逃げられるはずはないとたかをくくっているようだ。くやしいけれど、そのとおり。こんな場所で逃げ出したところで遭難するだけだ。

 雨風を防げる屋根と壁があるだけで、他に何もないがらんとした小屋の中に、私は腰を下ろした。床はけっしてきれいじゃなかったけれど、気にしてもしかたがない。どうせ馬車の中でも転がされていたんだから今さらだ。

 あの男たちから何か聞き出せるかな。どこへ行くのかくらい、わかるだろうか。

 ため息をついた時、外でさわぎが起こった。なにごとか怒鳴り合っている。剣呑な気配に驚いて、私は腰を上げかけた。

 それとほぼ同時に小屋の扉が開かれた。飛び込んできたのはさっきの男たちだ。こちらへ向かおうとしたけれど、追いかけてきた刃に背後を襲われた。

「うわあぁっ」

「ぎゃああっ」

 おそろしい悲鳴が上がり、目の前で男たちがばたばたと倒れる。一人は首を斬り飛ばされ、私のすぐそばまで転がってきた。

 一瞬にして、辺りに死と血臭が充満する。

 私は上げかけた腰を落とし、へたり込んで動けなかった。目の前に生首が転がっている。切り口から血がしたたり、見開かれたままの目がこちらを見ている。全身に鳥肌が立ち、震えが走った。こわい。悲鳴を上げたいのに、声が出せない。

「これは、申しわけありません。見苦しいものをお見せしました」

 場違いに穏やかな声がした。聞き覚えのある声に、私はぎこちなく顔を上げる。戸口に立つ姿は逆光になっていて、顔がよく見えない。でも誰なのかはわかる。きっと、目の前の惨状など見えていないかのように、魅力的でどこか危険な笑みを浮かべているのだろう。

「お迎えにあがりましたよ、龍の姫。北の地にて、我が君がお待ちです」

 デュペック候は胸に手を当てて、優雅に一礼した。

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