10
眼下になつかしい山と宮殿が見えると、ほとんどの乗員が甲板へ出てきて歓声を上げた。
戦をしている間に年が明けてしまい、久々に見たエンエンナ山からは、頂上付近を残してほとんど雪が消えていた。まだ風は冷たいけれど、着実に春へ向かっているのだと実感する。
船の周囲を飛ぶ飛竜の群れも、故郷へ戻ってきたことを喜んでいるようだった。先に帰還するよう命じられた騎士たちは、しかし結局途中で待っていた。イリス負傷の知らせに、いくら主君命令でもさっさと帰る気になれなかったらしい。アルタもハルト様も、苦笑しただけで彼らをとがめなかった。
ジェイドさん以下飛竜騎士たちは、元気そうにしているイリスの姿に心底安堵したようすだった。その後は文句と野次のオンパレードでほとんどけんかみたいだったけれど、メイによればこれで普通らしいので、彼らなりの友情だろうと解釈しておく。
そうしてみんなでそろって帰って来た宮殿では、留守を守っていた人々からの大歓迎を受けた。
「おかえりなさいませ、ハルト様!」
いちばんに出てきたのは、やはりユユ姫だ。不安に耐え心配しながら待ち続けていた日々は、どれだけ辛かっただろうか。周りの目をはばかる余裕もなく飛びついてきた姫君を、ハルト様も強く抱きしめた。
「長く待たせたな。留守中、問題はなかったか」
「ええ、ええ」
泣き笑いの顔でユユ姫は彼を見上げる。
「こちらはなにも。ハルト様と皆が守ってくださったおかげです。本当にありがとうございます、お疲れさまでございました」
「そなたも留守居役、ご苦労だった」
現代日本人の感覚で見ると、婚約者同士の再会にしては堅苦しい会話だなと思うけれど、王様とお姫様ならこんなものか。当人同士はそれで満足しているようだし、ユユ姫は幸せいっぱいな笑顔だからいいのだろう。
宰相や主立った重臣などが次々出迎え、宮殿前の広場は大賑わいだ。そんな中、イリスはさっさと飛竜隊の隊舎へ搬送されていった。まだ移動は辛かったはずだ。やせ我慢もそろそろ限界だろう。叱り飛ばすジェイドさんに、逆らえずにいた。なにやらもの言いたげなまなざしを私に向けてくるのに、しらんぷりで手を振って見送る。まさかこんな人前でキスしてくれとか言わないよね。言われても聞かないよ。あとでまた、落ちついたらお見舞いに行ってあげる。まずは一の宮に戻って、私も一服したい。
今夜は自分の寝台で落ちついて眠れると思ったら、安堵とうれしさがこみあげてきた。相互報告などでまだ忙しそうなハルト様には悪いが、一足お先に帰らせてもらう。数ヶ月ぶりの我が家だ――と、喜べたのは、入り口をくぐるまでだった。
「ご無事のお戻りを、心よりお喜び申し上げます」
知らせを受けてからずっと待っていたのかと思うくらい、びしりと並んで出迎えた女官たちにたじろいだ。みんな笑顔だけれど、なんだか怖かった。特に女官長が怖かった。怒りのオーラをびしばしと感じる。
……結局、一休みできたのは一時間も後になってからだった。なにも言わず勝手に船に乗り込んだこと、そのまま戦場までついていってしまったことを、女官長からさんざん叱られた。うん、そこはもう叱られてもしかたがないとわかっています。全面的に私が悪い。ごめんなさい。レイダさんにも叱られたし、ミセナさんにまで「心配したんですよ!」と言われてしまった。本当にごめんなさい。
ようやくお説教から解放されてぐったりしていたら、今度はユユ姫がやってきた。
「あなたともゆっくり話がしたかったのに、気がついたらいなくなっていたのだもの。こちらへ戻るなら誘ってくれたらよかったのに」
「……ごめんなさい」
あああ、ユユ姫からも怒りのオーラがにじみ出ている。お説教タイムはまだ終わりではないらしい。
改めてこってりしぼられて、その後は戦場でのことを色々と聞かれた。あの場ではいつまでもハルト様を独占していられなかったので、ユユ姫は私から戦のようすを知りたがった。死にかけたこととか、死にかけたこととか、死にかけたこととか、あと捕らわれたことなんかは省いて、私は大まかないきさつだけを話して聞かせた。
人が戦って死んでいく現場は、想像を超えた過酷さだった。船に乗り込んだ時、覚悟したつもりになって、少しもわかっていなかった。ニュースと目の前の現実は違う。同じできごとでも、受ける衝撃がまったく別次元だ。そしてニュースでは語られない部分までもが、現場では嫌でも目に入ってくる。本当に、自分がどれほど甘かったのか、今ではよくわかる。
たくさんの人に心配をかけたし、迷惑もかけた。いろいろ反省すべき点が多いけれど、自分で見て、自分で知ったのは、大事な経験だったと思っている。それがなければ、私は今も戦を、遠くのニュースくらいにしか感じられなかっただろう。
「そうね……わたくしたちを守るために、多くの者が死んでいったのよね。勝ち戦だと、安易に喜べないわね」
戦えば戦うほど人の命が失われていくと話すと、ユユ姫も神妙にうなずいていた。戦えない私たちでも、戦いがどういうものかは知っておかなければいけない。この先の、平和な未来を作って行くために。
故郷で戦争の記憶を伝えようとしていた人たちも、きっとそういう気持ちだったんだね。今頃理解してごめんなさいって思う。
あんまり暗い話ばかりでも何なので、ちょこちょこ見つけた面白いネタも提供した。イリスが寒空の下で気前よく脱いで見せたとか、それで現れた筋肉にドン引きしたとか、オリグさんが変装スキルを発揮して活躍したこととか。
ついでにメイと和解して友達になれたことも報告した。あの騒動にユユ姫はあまり口出しせず静観を貫いていたが、いい方向で解決したと聞くと喜んでくれた。
あと、もうひとつ……どうしようかな。これも報告するべきだろうか。
だまっていてもいずれ知られるだろうし、その時になんで言わなかったんだと責められそうな気がする。今自分の口から言っておいた方がいいかな。
と思ったものの、あらためて報告するのは、ものすごく恥ずかしい。
「えっと……それから……あの、イリスのことなんだけど……」
「そうそう、怪我の具合はどうなの? かなり深手を負ったと聞いたわ」
「うん、一時は危なかった。でも、もう大丈夫だってオリグさんも言ってる。オリグさんってお医者さんとしても優秀なのね。縫合手術とかこっちで見たの初めて」
「大きな傷になると縫い合わせるとは聞いたことがあるわ。知っていて? アルタも胸に大きな傷跡があるのよ」
「え、それは知らなかった」
どうしてついたのだろう。今度会ったら聞いてみよう。というか、胸の傷なんて、なんでユユ姫が知っているのかな。
「べ、別におかしな話ではないわよ! ハルト様と剣の鍛練をした後で、暑いあついって言って水をかぶっていたのよ! もう何年も前の話よ」
頬を染めてうろたえるユユ姫は本当に可愛い。
「そういえば、ハルト様が剣を使うところ、初めて見た。本当にちゃんと戦えたんだね」
「失礼ね! ああ見えてお強いのよ。ご本人は全然だめみたいにおっしゃるけど、昔からアルタを相手に鍛練なさっていたのだもの、並の騎士には負けないわ」
うんうん、好きな人を語るユユ姫は可愛い。めちゃくちゃかわいい。
「昔から?」
「ええ。あのふたりは幼なじみみたいなものだから」
「アルタは平民なんでしょ? なのに幼なじみ?」
「彼の父親も騎士だったから、引き合わされる機会があったそうよ。気が合ったのでしょうね、身分を越えて親友づきあいをしてきたの」
「ふうん」
「子供の頃は、アルタがちょっと怖かったわ。身体も声も大きいのだもの。それでハルト様にしがみついていたら、いじけさせてしまってね……」
ああ、なんだかものすごく想像できるなあ。小さなお姫様に怯えられて、いじけるアルタが脳裏に浮かぶ。子供好きみたいだから、かなりショックだっただろう。
昔を思い浮かべていたらしいユユ姫は、ふと我に返った顔で言いなおした。
「ごめんなさい、話がそれてしまったわね。イリスのことだったわね」
「あ、うん……」
「何か問題でも?」
言いよどんだ私にユユ姫の顔が曇る。私はあわてて首を振った。
「ううん、違うの。問題というわけじゃなくて……えっと、いちおう話しておこうかと思って」
「なあに?」
「…………」
うう、やっぱり恥ずかしい。人の話は楽しく聞けるのに、自分の番になるとすごく言いにくい。
どう言おうか、やっぱりやめようかと迷う私を眺めていたユユ姫は、不思議そうに尋ねた。
「どうしたの、赤い顔をして。告白でもされた?」
「えっ!?」
「あら図星」
ちょっと待って。なに、そんなに露骨に顔に出ていましたか!?
「あの、あの……」
「いつ言うのかしらと思っていたけど、そう、ようやく言ったのね」
「え……」
てっきりはしゃいで突っ込んでくるかと思ったのに、意外に冷静に流されて拍子抜けする。今の口ぶりだと、ユユ姫は知っていたような……。
「ええ、知っていてよ。わたくしだけじゃなく、みんな知っていたわよ。当たり前でしょう」
あ、あたりまえって……。
そういえばメイも、みんな知ってるとか言ってたっけ。えええ、本当にそうなの?
「むしろあなたが気付かないのが不思議だったわ。あんなにわかりやすいのに。普段女性にあまり興味を示さない彼が、あなたのことは気にかけて、それはもう可愛がって大切にしているのですもの。はじめは保護者的な気分なのかしらと思っていたけど、段々そういうようすではなくなっていったし……本当に気付いていなかったの?」
……知りませんでした。はい。
なんなんだ。とっくの昔に、周り中にバレバレだったのか。もうどこを恥ずかしがったらいいのだか。
絶句する私に、ユユ姫は笑って言った。
「イリスがあんなに不甲斐なかったと知って呆れたものよ。今まで女性の側から言い寄られるばかりで、自分から行動を起こしたことがなかったからでしょうね。見ていて腹立たしい気分になったこともあったわ。特に、カーメル様があなたに求婚しにいらした時とか」
その頃私は、絶望のどん底にいましたが。
「うかうかしているから、目の前で横取りされそうになるのよって言ってやりたいくらいだったわ。じっさい言った人もいたようね。トトーとか」
トトー君まで……いや、そうだよね、ユユ姫が気付いていてトトー君が気付かないわけないよね。
いつかの光景を思い出す。急に怒り出してイリスを責めていたトトー君は、つまりそういうことが言いたかったのか。
「それで? あなたはなんと答えたの? そのようすだと嫌がってはいないようだけれど」
楽しそうにユユ姫は聞いてくる。イリスの気持ちはバレバレでも、私の気持ちは周りに知られていなかったのだろうか。そうであってほしい。
両想いなのにそうと気付かず嘆いていただなんて、あまりにも馬鹿すぎる。さぞ滑稽だっただろう。
「彼と付き合うの?」
「…………」
私はだまってうなずいた。ユユ姫はからかわず、優しく微笑んでくれた。
「そう、よかったわ。気の毒な人もいるけれど……あなたたちは、お似合いだと思うから。イリスを特別視しないあなたも、必要な時はあなたに厳しくできるイリスも、お互いのためによい存在でしょう。仲良くなさいね」
「……うん」
ふざけず真面目に祝福してくれて、恥ずかしいけれどうれしくなる。ユユ姫とはコイバナで語り合える仲間になったんだね。これからも、お互いいろいろと相談し合えるかな。
と思っていたら、にこにこと続きを聞かされた。
「イリスの怪我が治ったら、彼の家族にも紹介しなくてはね。ティトはまだ会ったことがないでしょう? 八月の式典の時にイリスのご両親もいらしていたのだけど、あの時は忙しかったから邪魔にならないようにってイリスが挨拶を止めていたのよ。まあ、自分の素性を隠しておきたかっただけでしょうけど」
「紹介って……そんな、そこまでしなくても」
お互いの気持ちをたしかめ合ったばかりなのに、もう家族に紹介だとか話が早すぎる。というか、それって結婚前提じゃないのか。気にしすぎ? 単なる彼女認定での紹介もあり?
「あら、どうして? 彼と付き合って、いずれは結婚するのでしょう?」
やっぱり結婚前提か!
とてもそこまで考えられないと私が言うと、ユユ姫は不可解そうに首をかしげていた。こっちでは恋人ができたらそのまま結婚というのが一般的なようだ。もちろん別れる場合もある。過去のイリスのように。でも互いに適齢期でうまくいっている場合、あまり長く付き合わずさっさとゴールインしてしまうそうだ。
私はまだ十七歳。王族基準なら適齢期かもしれないが、世間一般的には子供のはずだ。だからもう少し時間がほしい。今は本当にそこまで考えられない。
イリスのことは好きだし、ずっと一緒にいたいと思うけれど……ずっと一緒にっていうのが、つまり結婚するっていうことなのかな。
想像が難しい。もともと自分には縁のない話だと思っていたし、そうでなくても私には早すぎる。結婚なんて遠い未来としか思えなかった。
それに、私には大きな気がかりがある。
なにも知らないユユ姫は、当然のようにイリスとの未来を語ったけれど、そんなものを望める立場かどうか、本当はわからなかった。
今は私を心配し、無事に帰ったことを喜んでくれる人々が、いつまで同じ顔を見せてくれるのか。我が家だと思いここで暮らすことを、いつまで許されるのか。
以前のように人の気持ちを疑っているわけではない。ただ、不安を抱かずにはいられない原因があって、それを思うと幸せな未来が想像しづらかった。
船の中でハルト様から聞いた話は、私の未来に暗い陰を落としている。窓の外は晴れているのに、私の中はずっと曇ったままだ。どうすれば厚い雲を払えるのか、わからない。
表には出さないようにしていても、私の不安が伝わってしまったのだろうか。ユユ姫は途中から心配そうな顔になった。でもこの話はまだ聞かせたくない。私は疲れたからと言い訳してごまかした。日頃のひ弱さが効果を発揮して、ユユ姫はすんなり納得してくれた。今日はもう休みなさいと言って、彼女は引き上げていった。
疲れていたのも本当なので、ひとりになって寝台に横になる。もしかすると明日は熱が出るかな。そんな予感がする。でもここでならゆっくり休めて、すぐに回復するだろう。留守の間も女官が手入れしてくれていたのか、布団はふんわりやわらかく、暖かかった。
すっかり自分の住処としてなじんだ場所に、あたたかく迎えてくれる優しい人たち。とても幸せな、大切なもの。それを、失わずにいられるだろうか。
疲れているのになかなか眠れず、ついつい考え込んでしまう。ハルト様が戻ってきたので起き出して一緒に食事をし、お風呂にも入ったけれど、その後もやはり寝つけなかった。
疲労と睡眠不足から翌日案の定熱を出したけれど、みんなも予想していたようで朝から医者が待機していた。眠れないのは神経が昂っているせいで、すぐに落ちつくだろうと言われる。ヘレドナで強制的に眠ったらどうかと提案したら、青筋立てて叱られた。いや、原液を飲むとか無茶は言わないよ。薄めたものが睡眠導入剤として使われていないかなと思ったの。そう聞いた私に、
「あれは強すぎる薬です。あなたのように身体の弱い人が使うと、心の臓が止まりかねません。間違っても実行なさいませんように」
白いおひげのおじいちゃん医師は厳しい顔で言った。心配しなくても言ってみただけですよ。実行しようにもモノが手元にありませんからね。
でも何か助けがほしい。でないと眠れる気がしない。
あとでこっそり訴えると、ハルト様はしかたなさそうに、お酒を少しだけ飲ませてくれた。
「大丈夫だ。あれは昔話で、どこまで真実が伝えられているのかもわからぬと言っただろう。そなたはなにも気にせず、今までどおりにしていればよい。ただ、龍の加護については、あまり人目にさらさぬことを心がけた方がよいだろうな。竜と心を通わせられる、その一例だけならば好意的に受け取られる。他の動物は、そなたが特に望まぬかぎり近寄ってきたりしないのだろう?」
「はい。ただ近くにいるだけなら、普通に逃げていきます。馬には興味を持たれていましたけど、竜ほどなつかれたわけでもありませんし」
「うむ。よくよく強い心で願わねば威力を発揮しないということだろう。動物でそれなのだ、人などおいそれと従えられるものではない。怯えずともよい、大丈夫だ」
優しい手に頭をなでられているうち、ようやく眠気がおとずれる。どうかこの幸せな時が続きますようにと願いながら目を閉じた。
数日後には体調も回復し、イリスのお見舞いにも行けるようになった。ハルト様たちはまだ戦後処理で忙しそうだったが、私がそんな話に呼ばれるはずもない。元通りの、平和で穏やかな日々をすごすようになる。スーリヤ先生と挨拶したり、久しぶりにエリーシャさんと会ったりもした。トトー君に面会に来た彼女には、もれなくデイルもくっついていた。あいかわらず邪険にされていたけれど、なんだかんだでお似合いなんじゃないかという気がしてきた。もしかしたら、もしかするかもね。
延期になっていたハルト様とユユ姫の婚儀も改めて日取りが決められ、宮殿は日々はなやいでいく。三の宮の館ではすっかり準備が整えられていて、あとはその日を待つばかりになっていた。
できあがったウェディングドレスは春の花嫁にふさわしい、可憐で軽やかなデザインだった。こちらでも花嫁は白い衣装をまとうのが一般的らしい。でもそれも、祖王から伝えられた伝統なのかもしれなかった。
ベールというより頭巾に近い形の被りものを見て、そう思う。花や真珠で飾られているけれど、どこか日本の花嫁の綿帽子を思わせる形だった。
「ティト、こちらにいらっしゃい」
呼ばれてドレスから離れると、侍女たちに取り囲まれて、あっとういう間に身ぐるみはがされた。なにごとかと思っていたら、白を基調にしたドレスを着せられる。まだ作っている途中のようで、ところどころのサイズを確認し、印をつけていた。これまでにも何度か経験した、仮縫いの作業だ。
「また痩せたのではありませんか? もう少し太ってくださいね」
胸回りを確認していたヘンナさんが言った。それ、胸がさらに小さくなったと言っていますか。太ったら大きくなるのだろうか。
あまり身体に沿わせない、胸の下で切り替える形のドレスだから、多少のサイズ変更には対応できそうだ。太っても痩せてもいいように、リボンで調節しようと侍女同士で相談していた。
「これは?」
ユユ姫に尋ねると、うふふと笑う。
「今回はこちらで勝手に用意させてもらったわ。あなたの好みは考慮したつもりだけど、さすがに婚礼の場で短いスカートは悪目立ちしてしまうもの」
薄絹とレースを幾重にも重ねた、花びらのようなスカートは、歩く時には持ち上げないと床掃除をしてしまう長さだった。これが王族女性の第一級礼装なのだそうだ。私はハルト様の義娘として、王族待遇で出席するらしい。
「いいのかな……正式には他人の平民なのに」
「まだそんなことを言ってるの。もう誰もそう思っていないわよ。形はどうあれ、実質的にハルト様はあなたを娘として扱っていらっしゃるのだもの。いまさら異議を申し立てる人はいないわ」
ユユ姫はそう言うけれど、きっと内心ではちがうことを考える人も多いと思うなあ。大丈夫なのかな、本当に。
「でもじゃあ、ユユ姫は私のお義母様ってことになるのよ。それでいいの?」
十九で結婚していきなりこんなでっかい子供ができるなんていやだろうと思ったら、ユユ姫は何をいまさらと言い返した。
「もちろんそのつもりですとも。母として厳しく接しますからね、覚悟してらっしゃい」
すまして言った後、ふたりして吹き出してしまう。お母さんって、それはないだろう。どう見てもお姉さんだよ。
婚儀に出席すること自体には、異論はない。私だってふたりを祝福したい。ハルト様の意志でもあるいうことなので、ドレスもありがたくいただくことにした。ついでに、ちょうどいい機会なので髪を切ってもらおうとお願いしたら、全力で却下されてしまった。
「せっかく伸びたのに、何を言うの」
「伸びたから切るんじゃない」
私とユユ姫の意見は、最初からかみ合わなかった。
「理解できないわ。傷んでいるわけでなし、なぜ切らなくてはいけないの」
「……女性はみんな髪を長く伸ばすものなの? でも町へ出た時、肩までくらいの長さの人をたくさん見かけたわよ」
以前の長さでも特に変な目で見られることはなかった。レーネでも同じようなものだった。メイほど短いと目立つけれど、肩までくらいなら普通だろう。
そう主張しても、ユユ姫は首を振った。
「それは庶民の話でしょう。貴族や王族の女性はみな長く伸ばすわよ。子供なら短くてもいいけれど、あなたもそろそろ大人の装いを身につけるべきだわ。次に婚礼を挙げるのはあなたかもしれないのだから」
……だから、それはまだ当分考えられないって言ってるのに。
ヘンナさんたち侍女集団にも反対されて、カットは断念せざるを得なかった。長いと手入れがめんどくさくて大変なんだけどなあ。ユユ姫はほっといてもきれいなストレートだから、くせっ毛猫っ毛の悩みを知らないんだ。
着替えなおして一服していたら、ユユ姫にお客さんがやってきた。相変わらずお祝いに来る人が絶えないようだ。私は話の邪魔にならないよう、部屋の隅に移動して花嫁衣装の飾りを見せてもらっていた。
どこぞの貴族のご夫妻は、ユユ姫に愛想よくお祝いを述べながら、私にはあまり好意的とは言えない視線を向けてきた。なにやらいやな雰囲気だ。別室に移動していた方がよかったと後悔したが、いまさら動くのもあてつけがましいので無視していた。
ユユ姫も気付いたようで、話の合間に私に声をかけてきた。
「今日はまだイリスのところへ行っていないのでしょう? お見舞いに行ってきたら」
私は素直にうなずいて立ち上がった。追い出されるだなんて、もちろん思わない。ユユ姫が気をつかってくれているのはわかるので、礼儀正しくその場の人たちに挨拶をし、退出した。変に意地を張って居座っても、誰も得をしない。みんながいやな気分になるだけだ。
侍女に挨拶をして館を出ようとしたら、追いかけてきたアークさんに呼び止められた。
「馬車の用意をしてまいりますので、しばしお待ち願います」
「え、そんな、わざわざいいですよ。最近はちょっと体力ついて、飛竜隊まで歩いていけるようになったんですよ。訓練のために歩きます」
そう言ったけれど、アークさんは首を振った。
「それはよいことですが、姫から命じられておりますので。今日は馬車を使っていただけませんか」
「…………」
なんだろう。熱を出したから? でももう回復して、すっかり元気なのに。それとも一人歩きをするなということかな。イリスにもそう言われていたっけ。
アークさんに文句を言っても困らせるだけだし、ユユ姫はまだ来客中だ。私は承諾して馬車で行くことにした。そりゃあ、送ってもらったら楽だけどね。でもせっかくやる気を出して頑張っているのにな。
飛竜隊に着いたらいちばんにメイが出迎えた。戻って以来、彼女はまた下働きのような待遇になっている。私が抗議しようとすると、かまわないのだと止められた。戦場では非常事態ということで特例を認められたけれど、本来ならまだ謹慎中だし、待機していろという命令にも逆らったわけだから、かえって罪は重くなったのだと彼女は説明した。本人が納得しているのに私が騒ぐわけにもいかない。隊内の雰囲気も多少やわらいだようで、以前ほど冷たくされていないみたいだから、見守ることにしていた。
馬車から降りたのが私と気付くと、メイは素早く周囲を見回した。
「こんにちは……どうしたの?」
「いや。早く中に入って。すみません、後ですぐ行きますので、そっちへ馬車を寄せておいてもらえますか」
メイはアークさんに頼み、私を引っ張って足早に隊舎へ連れ込んだ。
「メイ?」
小走りにならないとついていけないほど、メイは早足で進む。まるで人に見られたらいけないかのようだ。
そう思ったのはまちがいではなかったようで、イリスの部屋の前へ着いたところで、メイは言った。
「今はみんな外へ出てるから顔を合わせないと思うけど、二時間くらいしたら戻ってくるから。それまでに、帰ったほうがいい」
「……どうして? 私がここにいるって、みんなに知られたらまずいの?」
「…………」
難しい顔でメイは下を向く。不安になって周囲を見回すと、メイは扉を開き無理やり私を押し込んだ。
「メイ?」
「ここで話し込んでいたら人目につく。イリス様から聞いて」
急いで言って、私の返事も待たずに扉が閉ざされる。なにがあったのかと立ち尽くす私を、寝台からイリスが呼んだ。
「おいで」
今まで眠っていたのか、イリスは起き上がろうとしている。急いで寄って手を貸そうとする私を、大丈夫と断ってイリスはひとりで座りなおした。
「起こしちゃった? ごめんなさい」
「いや、もう目は覚めていたよ。馬車の音が聞こえたけど、今日は馬車で来たのか?」
起きていたというのは本当のようで、目だけでなく耳もいいイリスはそんなことを言う。私はうなずいた。
「アークさんが送ってくれたの。ユユ姫の言いつけだって」
「ああ……姫も知ってるんだな」
「……どういうこと?」
いったい何が起きているのだろう。説明がほしくて見つめていると、イリスは私に腕を伸ばし、自分の膝に抱き上げた。無理をするなと言おうとしたら、顎をすくわれて口づけられる。
なんどか優しいキスをくりかえした後、イリスは私を抱きしめた。
「心配しなくていい。ハルト様もご承知で、対策を考えておられる。宰相やオリグもだ。しばらくはいやな思いをするだろうが、まかせていれば大丈夫だ」
――だから、なにが起きているというのだ。
説明もなしにこんなことを言われても、よけいに不安が増すばかりだ。教えてほしいとすがれば、イリスは深く息をついた。
「まだ詳細はわかっていないけれど、君のことでよくない噂が出ているらしい」
「……どんな噂?」
胸がいやな音を立ててきしむ。ずっと奥底に抱え続けてきた不安が、蓋を押し上げて出てこようとした。
「ちょっと不自然なんだ。ここしばらくで、急に広がり始めたらしい。誰かの作為を感じるって、ハルト様がオリグに調べさせていらっしゃる」
「だから、どんな噂なの」
思わずイリスのシャツをつかんでしまう。それで気付いたように、イリスは私に笑いかけた。
「益体もない話だよ。君がおかしな妖術を使ってハルト様に取り入り、周りの人間も操っているとか、そんなね」
「…………」
私は息をのむ。突飛な話に、けれど少しも笑えなかった。
以前なら笑っていただろう。でも今、そんな噂が出てくるなんて。誰かのしわざなのだとしたら、その誰かはすぐわかる。
『あなたは、いずれ我々のもとへ来ることを選びますよ。そうせざるを得ない』
去り際にデュペック候が残した言葉。あれは、先を予想したものだった。私がロウシェンにいられなくなるだろうと、彼は言っていたのだ。
身体が震える。言葉を失う私に、イリスは何度も優しい声をかけ続けた。
「みんなが信じているわけじゃない。ばかばかしいって、笑い飛ばしているやつがほとんどだよ。ただ、君が竜だけでなく鳥や獣まで操っていたと、目撃した騎士が言ってしまったんで、少し厄介なことになっているんだ。君に龍の加護があるのは事実だし、今では多くの人がそれを知っているからな。うちの隊員にまで噂は事実じゃないかと言い出す者が現れて、それでメイリも神経質になってるんだ。君がいやな思いをしないように、あれでも気をつかってるんだよ」
ああ……だから、さっきの夫婦も私にいやな目を向けていたんだ。きっとあの人たちも、噂を聞いていたのだろう。
だいじょうぶとイリスはくり返す。その言葉にすがり、あたたかな胸に身を寄せながらも、足元が崩れそうな不安は消えず膨れ上がっていった。
「くわしいことがわからぬと言ったのは、嘘ではない。あえて文書に残さず口伝だけで伝えられてきた話は、おそらくいくつも変化を経てきただろう。だからこれは、かならずしも真実とはかぎらぬと前置きしておく……。
祖王セトは、ある日突然現れたと伝えられている。人ならざる力と知識で次々島の部族を支配下におさめ、やがてひとつの国を創りあげた。彼はその国を、アキツと呼んでいたらしい。一説には彼の故郷の名だとも伝えられているが、そのような名の島を誰も知らないので、真偽ははっきりしない。
アキツとセトが名付けた国は、しかし長くは続かなかった。彼を神のごとくあがめる者もいる一方、その力を恐れ、魔物だと嫌悪する者もいた。その声は、彼に統治者としての才がないと知られるにつれ、大きくなっていった。建国後も続いた諍いを、セトは力で押さえ込もうとしたのだ。
人々の上に火の玉を落とし、一日とかけずに町を焼き払ったり、あるいは竜や獣を操って人を襲わせた。反抗する者には力で対抗するしかないと、どんどんすることが過激になっていった。そのような方針では敵が増えるばかりで、国は安らがない。セトを打ち倒すべしとの声は日ごとに増し、やがて島中で叫ばれるようになった。
そうなってようやく、セトは己のやり方が間違っていたことを悟り、島を出ていくことを決意した。己に付き従う人々を連れてこの島を去ったが、近くの島ではいつ戻ってくるか、また襲ってくるかとシーリースの民は安らがない。遠く、とおくへと追いやられ、ついには北の果てと言われたエランドへ封じられた。
それ以降セトと仲間たちの消息は知れない。しかしその直後から、シーリースには大きな災厄が続いた。山が火を噴き、大地が暴れ、大きな波が集落をまるごとさらっていった。次には日照りが続き、飢饉が起き、疫病も蔓延した。数年の間に島の人口は半分以下に減ってしまったという。
あまりの災厄続きに、これはセトの呪いに違いないと言い出す者が現れ、それを信じ恐れた人々は彼を英雄として讃えることで怒りを解こうとした。セトを魔王として追い出した過去は消され、偉大な祖王とのみ語り継がれるようになる。その一方で、多くの者がエランドへ流された。祖王の御霊を鎮めるための生贄だ。当時はそうした儀式が効力を持つと信じられていたのだ。
そののち災厄がおさまったものだから、生贄の習慣は長く続いた。多くは流刑になった罪人だが、人が足りない時は美しい娘などが選ばれたという。そうやって長い時が流れ、人々から恐ろしい魔王の記憶は消え去った。偉大なる英雄の伝説だけが残り、生贄の儀式も廃れ、エランドは忘れ去られた地になった……。
これが、伝えられている話の全てだ。どこまでが真実なのかわからぬ。セトがそなたと同じ世界の人間ならば、魔王などという話はでたらめだろう。当時の人々にとって、龍の加護と見たこともない異世界の技は、妖術のようにしか思えなかったのだろう。我々がナハラで見たあの光景を、遠い昔の人々も見たのだとしたら、人外のわざと恐れたのも無理はない。
セトが人まで操ったという話も同じだ。彼に従う者たちを、妖術で惑わしたと思ったのだろう。今よりはるかに迷信深い時代の話だから、簡単に妖術だ呪いだで片づけられる。真実は、おそらくもっと単純でありふれた話なのだろう。だから心配しなくてよい。セトは魔王などではなかったろうし、ましてそなたが忌避される理由はない。
エランドの皇帝は、過去の恨みを引き継いで復讐しようとしているのかもしれぬが、今となっては詮なきことだ。戦いではなく和睦によって共存の道をさがせぬか、語りかけていくつもりだ。だからそなたは心配しなくてよい。大丈夫だ。だいじょうぶだから……」
***** 第九部・終 *****