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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第九部 かよいあう心
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 ところで、退位宣言なんて出してしまったクラルス公が、その後どうなったのかが気になる。

 イリスはかなり元気を取り戻してもう心配なさそうなので、私はクラルス公のもとへ行ってみることにした。

 イリスから返してもらった指輪をフル活用して、城の人に案内してもらう。私がどういう立場の人物かすでに周知されていたので、話を通すのも早かった。クラルス公は王の執務室にいた。

「申しわけございませんが、ただいま陛下はお取り込み中です。しばらく、こちらでお待ち願います」

 侍従に言われ、控室で待つ。取り込み中なのは言われなくてもよくわかった。扉が閉じられているというのに、ここまで話し声が聞こえてくるのだ。

「いい加減にしていただきたい! 私に王位を譲るというのは、軍を勝手に動かす権限を与えるための方便でしょうが! エランド人どもを追い払った今、必要のない措置だ。とっととこれを受け取って、仕事に戻ってください!」

 若い男性の張りのある声が、さきほどから響いている。かなり怒っているようで、別室にいて姿も見えないのに怖い。しかしそれに言い返すクラルス公の声も負けずに力強かった。

「方便などではない。署名と御璽の揃った、正式な勅書だ。多少手順は省いたが、効力は本物だろう。私はもう公王ではない。あなたが公王だ」

「どこが多少だ!? 省きまくりのすっ飛ばしまくりだろうが! こんな紙切れ一枚で譲位が成り立つと、本気で思っておられるのか!?」

 どう聞いてもただの口げんかだ。私はそっと、そばに立つ侍従を見上げた。

「察するに、あちらにいらっしゃるのはクラルス様のお従兄様ですか?」

「……さようにございます」

 なんともいえない顔で侍従はうなずいた。

「現在継承権一位でいらっしゃる、エーゼル殿下です」

 ふうん、とうなずきつつ、先程彼がクラルス公を「陛下」と呼んだことを思い出した。

「お聞きしたいのですけど、あなたにとってアルギリの公王陛下はどちらのお方ですか?」

 クラルス公やエーゼル殿下と同年代だろう、まだ若い侍従は、なにを言うのかと呆れた顔で私を見下ろした。

「無論、クラルス・ジェイル・オーヴェル・アルゲウス陛下にあらせられます」

 迷いなくきっぱりと言われた言葉に、私は微笑んだ。あちらで喧々囂々やり合っているエーゼル殿下も、同意見のようだ。

 私は扉に近づいて、そっと押し開けた。あわてて止めようとする侍従を無視して、細く開いた隙間から隣室のようすを覗く。お金のかかっていそうな調度品が目につく豪華な執務室の中、二人の男性が仁王立ちで言い争っている。クラルス公の前に立つのは、彼とよく似た男性だった。

 くせの強い茶色の髪に、怒っていても品のいい端整な顔だち。クラルス公がもっと健康的になったら、こんなふうになるんじゃないかと思わせる人物だ。

 兄弟と言われても通るくらい、二人はよく似ていた。クラルス公よりちょっとだけ押しが強そうなエーゼル殿下は、妙に据わった目で笑った。

「そうか、そうまでも頑迷に私が王だと言われるか。ならばその通りにしてよろしいのだな?」

 異様な迫力にクラルス公は少したじろいだようだが、胸を張って言い返した。

「最初からそう言っている。すでに全権はあなたのものだ」

「ようぅし……ならば、こうだ!」

 突然エーゼル殿下が拳を振り上げて、クラルス公の頭に落とした。拳骨をくらうなんて、もしかすると初体験かもしれないクラルス公は、頭を押さえて絶句していた。

「いかに身内といえど、主君に対して手を上げるようなことはできんからな。今だけの特権だ。目が覚めたか、この馬鹿者」

 すっきりしたドヤ顔で言い放ったエーゼル殿下は、次に机に向かい、何かを書きつけた。

 書き終えたものを取り上げ、クラルス公の鼻先に突きつける。

「王の一存で譲位が決定されるというなら、こちらも王の一存で叩き返してくれる。署名に御璽入りだ、文句あるまい!」

「…………」

 その辺にあった紙を適当に使った即席勅書を目の前にして、クラルス公はさらに絶句する。目を白黒させている彼に、エーゼル殿下は勅書と御璽を押しつけた。

「二度目だから戴冠式は省略でよかろう。今からふたたびあなたが公王だ。わかったらさっさと仕事をなさい。ご不在の間に決済の必要なものが山ほど溜まっておるのです。こんなくだらぬ言い合いをしている時間も惜しい。最低限、ここの分が片づくまでは部屋から出しませんぞ」

 うずたかく積みあがった書類を示し、エーゼル殿下は宣告した。書類の山って本当にできるんだな。漫画的表現だと思っていた。あれいったい何枚あるんだろう。

 私は静かに扉を閉じ、侍従に向き直った。

「お忙しいようなので、面会は後日にします。とりあえず今日の用件は片づきましたので」

「かしこまりました」

 侍従は頭を下げて了承する。その口元がうれしそうにほころんでいるのを、私はもちろん見逃さなかった。

「あとで、一段落したらクラルス様に伝言をお願いします」

「はい、いかように?」

「私の言ったとおりだったでしょう、と。スタミナのつくものでも食べて、頑張ってくださいって、お願いします」

 侍従は、今度は隠すことなく微笑んだ。

「承りました」

 私なんかが心配する必要はなかったね。彼は大丈夫。

 きっとこれから、さらに立派な王様になるだろう。




「……ってね、遠慮なくゴツンとやってたの。相当痛そうだった」

「へえ」

 貸し与えられた部屋には窓の大きいサンルーム的な場所があり、日中はぽかぽかと暖かい。私はメイに、先程見てきたばかりの光景を話していた。

「クラルス様は真面目な方だし、たぶん子供の頃も叱られることなんてあまりなかったんじゃないかな。拳骨なんて、生まれてはじめてだったかも。すごくびっくりしてらしたの」

「そりゃあ、王太子を殴るような教師や側仕えはいなかっただろうな。そのエーゼル殿下って方も、よっぽど腹にすえかねたんじゃない」

「そうね、怒ってた。でも愛情を感じられる怒り方だったな。本当に兄弟みたいだったわ」

 ふたりのことを考えると、ちょっと故郷の姉弟がなつかしくなった。ああして言い合えるクラルス公たちがうらやましい。

「……そうだ、従兄で思い出したんだけど」

 どさくさでそれきりになっていた問題を思い出し、私は尋ねた。

「イリスとハルト様が従兄弟同士って、本当なの?」

 メイは当たり前の顔でうなずいた。

「ああ。知らなかったの?」

「うん……本当に、従兄弟なんだ」

 クラルス公たちと違い、イリスとハルト様はあまり似ていない。見た目も性格もかなり違って、言われるまで血縁だなんて気付かなかった。

「メイも知ってたってことは、わりとみんな知ってることなのかな」

「知らない人の方が少ないと思う」

 メイの返答は、私を少しへこませた。

「ウルワットのフェルナリス家っていえば、王家とつながりの深い国内屈指の名家だからね。そこの長男が竜騎士になったってんで、当時はかなり騒がれたらしいよ」

「ぜんぜん知らなかったわ……イリスは何もないド田舎だって」

「田舎と言われればそうかもしれないけど」

 私の言葉にメイは苦笑した。

「ロウシェンの食糧庫って言われるほど豊かな農業生産力があるから、かなり重要な地域だよ」

「そうね。言われてみればたしかに、スーリヤ先生の授業でもそう習ったわ。でもそこの領主がイリスのお父様で、お母様はハルト様の叔母君だなんてことは知らなかった。ねえ、もしかして、イリスに口止めされてた?」

 知らない人の方が少ないという情報を、私だけが知らなかったなんてちょっと不自然だ。どこかから耳に入ってもおかしくない。それこそおしゃべりミセナさんあたりが言いそうなのに、聞いたことがなかったというのは、誰かの意図が働いていたとしか思えない。

 メイは困ったように首をかしげた。

「あたしには、特に……でも今まで知らなかったってことは、チィの周りの人たちには、たぶん口止めしてたんだろうな」

「なんでそんなこと……」

「出自のことでは苦労してらっしゃるから。いくら騎士団が実力主義の世界だからって、出自をまったく気にせずにいるのは難しいよ。もめごとの原因になることも珍しくない。ましてフェルナリス家ほどの名家となれば、どうしても特殊な目で見られる」

 身分社会の中で生まれ育ったメイは、私にはわからない身分や血筋に対する社会の認識を、当事者の言葉で教えてくれる。

「今じゃみんなイリス様に心酔してるけど、入隊したばかりの頃はけっこう疑われてたらしいよ。なにせ公王様の従弟だからな、他の貴族とも一線を画してる。さすがに上層部も融通を利かせなきゃいけなくて、試験に不正があったんじゃないかって、そんな噂があったそうだ」

「竜騎士団でも、そんなこと言われるんだ……」

 意外な話にちょっと驚いた。竜騎士は完全に実力主義、竜を得られるかどうかで決められるものだから、不正なんて起こりようがないと思っていたのに。

「予備試験の段階なら、正直不正がまったくないとは言いきれない。どこにでも不心得者はいるからな。最終試験は、実力だけでなく運の部分もあるし……もちろん、イリス様にちゃんと実力があるってことは、毎日一緒に働いていればわかる。最終試験の時の逸話もあるから、隊の仲間には次第に認められていった。でも外部の人間からは今でもいろいろ言われてるみたいだ。反発されるばかりじゃなく、逆に媚びて取り入ろうとするような連中もいる。そういうのがいやで、チィには知られたくなかったんだろうな」

「知ったって、別に何も言わないのに」

 偉い人には気をつかわなければいけない。そのくらいは、私も考える。でもイリスは騎士で、気さくなお兄ちゃんで、偉い人というとらえ方はしていなかった。間違っていた? でも友達だって言ってくれたのはイリスだ。だから普通に接していた。実はハルト様の従弟なんだって言われても、へえで終わった話なのに。

「それは、イリス様と付き合ってきた経験があるから言えることだろ? 最初に知って同じようにできたって言える?」

「……わかんないけど、私には身分とかあまり実感できない話だし」

 暖かな午後の日差しを浴びながら、メイはとても柔らかく、そしてどこか切なげに微笑んだ。

「チィは遠くからやってきて、何も知らないまっさらな状態だった。それがイリス様にはすごく貴重に思えたんじゃないかな。自分に対して、何の思い込みも偏見もなくありのままに見てくれるのが、うれしかったんだと思う。チィのことを、よくわがままだとか困った子だとか言ってらしたけど、いつもどこか楽しそうだったよ。相手の気を引くためのわがままじゃなくて、自分のしたいことをする本当のわがままだから、困りながらも見ていて楽しかったんだろうな」

 わがままと繰り返し言われてちょっと複雑な気分になった。そんなに私はわがままだっただろうか。ご飯に関してはよくもめたし、引きこもりすぎたり逆に無理をしすぎたりで叱られることはあったけれど。

 話の流れ的に責められているわけじゃないと思う。でもよろこべる内容でもなくて、どう反応すればいいのかわからない。そうやって自分のことばかり考えていた私は、この時のメイの表情の意味に、気付くことができなかった。

 その後ようすを見に戻ると、イリスは眠っていた。

 元気になってきたとはいえ、まだ一日の半分以上は眠っている。医術の心得もあるらしいオリグさんによると、体力を取り戻すために身体が欲していることだから、心配はしなくていいという話だった。

 音を立てないようそっと枕元に座り、寝顔を見つめる。出血しすぎて貧血状態だからまだ青白い顔をしているけれど、一時にくらべるとましになってきた。食べなきゃ血が増えないと言って、すごく頑張って食べているから、たぶん近いうちに解消されるだろう。荒れてひび割れていた唇も大分治った。イリス自身は気持ち悪がっていたお手製リップジェルが、まちがいなく効いている。柔らかさを取り戻した唇を見つめていると、離宮で看病していた時のことを思い出した。

 あの時は必死だったから、他に何も考える余裕がなかったけれど……今にして思えば、ずいぶん大胆な真似をしたものだ。

 何度もなんども、唇を重ねたっけ。いやもちろん、あれは水を飲ませるためで、他の意図は一切なかったし、意図できる状況でもなかった。とにかく水を飲ませなきゃって、それしか考えていなかった。本当にほんと、それだけだ。

 でも考えるほどに顔が熱くなってくる。意識するのはかえって変だろうと思いつつも、意識せずにはいられない。

 ……好きな人とキスできたって、こっそり喜んでいたら気持ち悪いかな。

 人口呼吸をキス扱いするようなものだな。やっぱり気持ち悪いよね。あれをキスにカウントしたら、私はただの変質者だ。

 ……本当のキスが、したいなあ。

 イリスはよくキスしてくれるけれど、家族の親愛や友情を示すものばかりだ。当たり前だけれど、唇に口づけられたことなんてない。

 私には一生ご縁がないと思っていたのが、人生なにがあるかわからないもので、すでにファーストもセカンドも済ませてしまった。でもあれは私の望んだことではなく、ほしい人からのものでもない。好きな人とのキスは、まだ経験していない。

 本当は、イリスとキスしたいよ。

 私は音を立てないように、そっと身を乗り出した。

 一時は生死さえもわからなくて、かろうじて助かった後も危ない状態が続き、辛くて怖くてたまらなかった。今こうして静かに眠る顔を見下ろしていると、心の底からうれしく、そして愛しくてたまらない。世界中いろんな国で、世界を越えたこの地でまで、口づけという同じ行為が存在するのは、人間の持つ生き物としての本能だからではないだろうか。愛しいものは無性に抱きしめたい、口づけたい。お母さんが赤ちゃんに頬ずりするように、飼い主がペットとじゃれあうように、あふれる想いがふれあいを求めてやまない。

 起こさないよう静かに顔を寄せて、ほんの少しだけ唇をふれさせた。ほとんどぬくもりも感じないくらい、一瞬かすめただけで終わったのは、やはりうしろめたい気持ちがあったからだ。

 ごめんね、と心の中で謝って、ふたたび離れようとした時。

 ガッと後頭部をつかまれて、強い力で押さえ込まれた。起き上がろうとしていたのが力に負けて倒れ込み、また唇が重なり合う。さきほどよりもはるかに強く、深く、しっかりと。

「んっ……んん!?」

 突然のことに驚いて、反射的に暴れてしまった。動かした腕が怪我をした場所にぶつかり、イリスの身体が反応する。それに気付いて、あわてて私は身を縮めた。

 痛かっただろうに、それでもイリスは私を離さない。どころか、反対側の腕までまわしてがっちりホールドしてくる。ちょ、それ無茶だから。傷に障るから。そう言いたくても、ふさがれた口からは意味をなさないうめきしか上げられない。

「んぅ……」

 苦しい。ろくに息ができない。だけでなく、初めて経験する大人のキスについていけない。

 待って、待って、まって! いきなりすぎ!

 呼吸も許さないかのような、深く激しい口づけにもう耐えられない。私は怪我をしたのとは反対側の、それも配慮して布団だけを叩いた。意図は伝わったようで、ようやくイリスが力を緩めてくれる。身を起こした私は、とにかく新鮮な酸素を求めていそがしく呼吸した。

 信じられない思いで視線を戻すと、仰向けに寝たままイリスはにやりと笑った。

「寝込みを襲うとは、やってくれるじゃないか」

「……そ、そっちこそ、なんてことするのよ!?」

 おもいきり声がひっくり返ってしまった。起きていたのだと知らされて、一気に耳まで熱くなる。いったいいつから? ずっと寝たふりしていたの? ひどい、ひどすぎる!

 恥ずかしさのあまり腹が立ってにらめば、イリスは器用に片眉だけ上げた。

「君から口づけてくれたんだから、遠慮しなくていいかなって思って」

 しろ! そこは遠慮しろ!

 もうなんと言っていいのかわからず、とにかく離れようと思うのに、力を緩めただけでイリスは私を放してくれない。あまり暴れるとまた怪我に響かせそうで困ってしまう。

「ちょっと、放して」

「なんでさ」

「なんでじゃないでしょう!?」

 恥ずかしいとかもちろんあるけどね、中途半端なこの体勢はしんどいんだよ。

 さっきだって息は苦しいわ無理な姿勢が辛いわで大変だった。正直ときめく余裕もなかったよ。キスというより、格闘した気分だった。

 文句を言うと仕方なさそうにイリスは手を放し、よっこらしょと身じろぎした。そのまま止める暇もなく起き上がってしまう。布団の上に座り腕を伸ばしてくるのから逃げると、彼は拗ねた顔をした。

「そんなに嫌がらなくてもいいだろう。君から口づけてきたんじゃないか」

「し……したけど、それは謝るけど、でもあんな、あんなのは、ないでしょう!?」

「ないって、なんでだよ」

 なんでって、改めてそう聞かれると困ってしまう。なんて答えればいいのだろう。

「だって、その……ああいうキスは、恋人とか、夫婦とか、そういう相手とするもので」

 相手にその気があったら、イリスは誰とでもあんなキスができるのだろうか。そう思うと悲しくすらなってくる。私の非難のまなざしを受けて、イリスは困ったように頭をかいた。

「……じゃあ、そっちはどういうつもりで口づけてきたんだよ」

 それを聞くか!? 私に言わせたいのか? 羞恥プレイかこれは!

 寝込みを狙って勝手にキスなんてした報いなのだろうか。恥ずかしさといたたまれなさで泣きそうになる。だまってうつむく私を、イリスは本当に困った顔で覗き込んだ。

「あのさ、君が僕を好きだって言ってくれて、口づけまでしてくれて、うれしかったから、その気持ちのままに動いたんだけど。恋人同士の口づけをしたっていいだろう? 君は僕を好きだって言ってくれたんだから」

「は……? い、言ってない――こともないけど、いや、でも、そういうのとはちがって……っ」

 たしかに何度も好きだって言ったけれど、本当の気持ちは伝わらないよう友情にまぎれ込ませた言葉だった。そう思っていたのは私だけで、伝わっていたの? ばれちゃってた?

「ああ、うん、君が覚えてないのは知ってる。でも言ったんだよ。本当の話」

「ええ?」

 覚えていない時って、いつのことだろう。はっきり告白してしまったというのか。いつだ、いつ?

 必死に考えて、もしかしたらと気付いた。クルスクに着いたばかりの時、私は低体温症になっていて意識が朦朧としていた。城に入った時のことなんてまったく覚えていない。でもその時、イリスとも再会していたらしい。

 ……そういえばあの後、イリスのようすがおかしかったっけ。周りのみんなも妙ににやにやしていて……。

 熱くなっていた頭から、ざっと血の気が引いた。私、なにを言ってしまったんだろう。みんなが見ている前で、イリスになにを――

「なんでそうこの世の終わりみたいな顔するかな。念のため確認するけど、僕を好きなんだよな? 友達とか兄貴じゃなくて、男として見てくれてるんだろう?」

 重ねて追い討ちをかけられて、本当に涙が出てくる。何も言えず震える私に、イリスはため息をついた。

「ちがうのか? ただの友達としか見てなかったってのか? でも、それなら口づけはしないだろう。君の国にもそういう習慣はないって言ってたじゃないか」

「…………」

「なんで泣くんだよ……たのむから、ちがうとは言ってくれるなよ。君の言うことだから早とちりしちゃいけない、友情のつもりでしかないのかもしれないって、僕なりに抑えていたんだぞ。でもやっと確信が持てて、大丈夫だって思ったらうれしくて、それでつい……」

 混乱している頭に、かすかにひっかかるものがあった。うれしいって、そう言った? 私がイリスを好きなのを、うれしいと思ってくれるのだろうか。

「……なんでうれしいの」

 破れそうな心臓をこらえて、勇気をふりしぼって聞けば、イリスはしばし絶句し、それから上をあおいで盛大に息を吐いた。

「そこからか……わかっちゃいたけど、あまりに子供すぎてめまいがするな」

 ……む。なにか失礼なことを言われている気がする。

 イリスはもう一度腕を伸ばし、私の手をとった。なだめるように揺らし、軽く叩いてくる。その心地よさに逆らえない。

「僕も君が好きだよ。もうずっと、その気持ちは隠さず表していたつもりなんだけど、全然伝わっていなかったか」

 ……え?

「たしかに、はっきり言葉にしたことはなかったけど……でもわからないかなあ? それこそ、何度も口づけたし」

 ――ちょっと待て。

「だって、頬や額へのキスは、家族への親愛だって言ったじゃない」

 私がにらめば、イリスは気まずげに目をそらした。

「うそじゃないよ。ただきみは血縁のない異性だから、意味合いは変わってくるね」

 ……へえ?

 私の目がどんどん据わっていく。イリスは目に見えてうろたえた。

「べ、別に、わかってない子に、そうと知って悪さをしていたわけじゃないよ。だって、面と向かってどういう意味かって聞かれたら、言いにくいじゃないか。下手に踏み込むと、君のことだから拒絶してくるかもしれないし。すごく中途半端な関係だなって思ってたけど、そこから踏み出すのが怖かったんだよ」

 早口でくりだされる言い訳に、段々力が抜けてくる。なんなの、じゃあもうずっと、イリスには好きだって言われていたようなものだったの?

 私の悩みはなんだったんだ。最初から失恋決定だって、一生片思いのままだって悲嘆に暮れていたのに。まったくの見当違いだったというのか。

 誰が悪いんだろう。イリスか? それとも私? 相手の気持ちを確認もせず、思い込みだけで決めつけていた私が悪いのだろうか。

 ……多々ある私の欠点のひとつに、すぐに思い込んでしまうという項目もあるのはわかっている。過去にそれで何度も失敗してきた。今回も、私の思い込みが話をややこしくしてしまったのか。

 変に決めつけないで素直に受け取っていれば、気付けていたのだろうか。彼から向けられる好意を、自然に喜べていたのだろうか。

 ……自分の非は認める。でもやっぱり、もの申したいところもある。

「言ってくれなきゃわかんないわよ。イリスはいろんな女の子と付き合ってたでしょう。告白されたらすぐ付き合ってたって聞いたわ。そういう人だから、なんの意図もなしに平気で触れてくるのかもって思って」

「なっ……い、いくらなんでも、なんとも思わない相手に口づけなんかしないよ! そんな節操なしみたいに言わないでくれ」

「だからそんなのわからないって言ってるの!」

「別に口づけだけじゃなくて、他にもいろいろあっただろう!? そりゃあ、はじめは君のことを妹みたいに思ってたよ。年も離れてるし、君は普通よりずっと子供っぽいし、そういう相手に見るのは問題かなって思ったりもしたよ。でも気持ちってのは理屈で片づけられるものじゃなくて、好きだって気付いたらどうしようもなくて……今までこういう想いを経験したことがなかったから、僕もどうすればいいのか悩んだんだよ」

 困り果てた顔でイリスは肩を落とし、息を吐く。後半は私も大変理解できる話で、それ以上追求の矛先をくり出せなかった。

 ……まあ、そうだよね。相手の気持ちがはっきりわからなかったら、臆病になるよね。心地よい今の関係を崩したくないって、私も思っていた。はっきりさせて気まずくなるのが怖くて、踏み出す勇気なんて持てなかった。

 イリスもそんなふうに思っていたのか。はっきりは言えなくて、でも伝わればいいなって気持ちでそれとなく態度に表してみたりして。私がどう反応するか、こわごわようすをうかがっていたのかな。

 身も蓋もなくまとめてしまうと、つまりヘタレていたということだけど、その気持ちはすごくよくわかる。私なんてもっとヘタレていた。だからこれ以上、責めることはできなかった。

「いまいち伝わってないような気はしてたけど、ここまでまったくわかってなかったなんてなあ」

 イリスは疲れた声で言う。ちらりと向けられた視線に軽く非難の色があったけれど、私にだって言い分はある。気さくで誰にでも優しくて、女の子に言い寄られたらすぐ付き合ってしまうような人だもの。自分だけ特別だなんて思う気にはなれない。勘違いして後でどん底に落ちるのが怖かった。

 ……結局、私たちふたりとも、ヘタレて尻込みし合っていたということか。

「それで、あらためて確認したいんだけど、君は僕を好きだっていうことで、いいんだよな?」

 イリスがしつこく聞いてくる。面と向かって聞かれるのはあまりに恥ずかしい質問で、私は返答に詰まってしまった。

 ……ていうか、驚いて混乱して腹立てて最後は脱力して、なんとなく流してしまっていたけれど、よくよく考えてみなくても、さっきから相当恥ずかしい会話をしているよね。

 自覚するとまた顔が熱くなってきた。顔だけじゃない。耳も、頭も、全身が熱い。答える必要なんてないと思う。きっと真っ赤になっているだろう私を見れば、いやでもわかるはずだ。

 なのにイリスは答えをほしがる。

「チトセ、言ってくれ。君の言葉で、聞きたいよ」

 うう……だって一度言ったんでしょう。知ってるくせに、なんでもう一度言わせたがるの。

 確信していても、認めてもらえないのは不安なのだろうか。からかうようすは少しもなく、まじめな顔でイリスは見つめてくる。ふざけているわけじゃないのだとわかれば、私もちゃんと言わなければならないと思った。

 意識してしまったらものすごく言いにくいけれど、おもいきって口を開く。

「…………すき、です」

 つぶやきよりも小さな声になってしまったけれど、イリスはうれしそうに微笑んでくれた。ふわりと、とても優しく、やわらかく。見慣れたお日さまみたいな笑顔とはまた違う、でも同じくらい心に深く刻みつけられる笑顔だった。

「ありがとう、僕も君が好きだよ。友達でも妹でもない、ただひとりの大事な女の子だ」

 ――ああ、神様。

 これは夢だったなんて言わないで。どうかこの後に落胆を用意していないで。

 あまりに都合がよすぎて、しあわせすぎて、不安になる。目の前の人も、言葉も、すべて幻なのではないかと思ってしまう。

 そんな気持ちが伝わったのだろうか。イリスは私の頬を撫で、ぬくもりを伝えてくれた。

「じゃあ、もう一度口づけてもいいか?」

 ……わざわざそんなことを聞くあたりが、やっぱり本物だね。

 そこはもう、無言でやっちゃうくらいの強引さがほしいけれど、でも私がいやがるかもって気をつかってくれているんだろうな。

 そう思わせるような言動をしてきた自覚はある。だから文句は言わず、私はだまってうなずいた。イリスの微笑みが近くなる。

 出会ってからまだ一年足らず。その間に、いろんなことがあったよね。

 人を信じられず、うちとけられなかった私の、はじめての友達になってくれた。私の悪いところを知っても、好きだと言ってくれた。

 けんかしたこともあった。生まれて初めて癇癪を起こして怒鳴った相手も、イリスだった。そんな私に彼も厳しくやり返した。あんなに人とぶつかり合ったことはない。仲直りだって友達がいなければできない経験だった。

 友達だと思って、友達以上に好きになって。

 ずっと私を守ってくれていた。叱ったり、はげましたりしながら、私を守り続けてくれた。

 大好きな人。心から、いとしい人。

 家族と生き別れて、日本とは大違いな世界に流れ着いて、生活の不便さに困ったり、簡単に殺し合いが行われる物騒さに怯えたり、私にとって辛いことも多かったけれど、この人との出会いがすべてを溶かしていく。これほどの幸せは、きっとあの世界で平凡に暮らしていても得られなかっただろう。

 恨んだこともある運命に、今は感謝する。イリスと出会わせてくれてありがとう。私にこの人を与えてくれて、ありがとう。

 泣きたいほどのよろこびを感じながら、私はそっと目を閉じた。

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