7
その夜――と、いうよりも、すでに夜明け近い時間。
まだ真っ暗な部屋の中、私はそっとクラルス公を揺り起こした。
就寝の際、彼とどちらが寝台を使うかでもめるような一幕はなかった。暖炉前の長椅子で寝ると言えば、クラルス公はすんなり了承し、気にするようすもなく寝台を使っていた。なんだかんだ言っても王様だ。傲慢でも横暴でもなく、ただそれが彼の中で自然な流れなのだろう。ハルト様の庇護を受けているとはいえ、私は平民の拾われっ子だから、譲るのは当たり前な立場というわけだ。おかげで面倒くさいやりとりをする必要がなく、あまり親しくない男性と相部屋ということも気にしないでいられた。
「クラルス様……起きてください」
肩を揺すりながらひそめた声をかける。クラルス公の寝起きはそう悪くなかった。「なにごとか」と眠そうな、少し不機嫌そうな声があがった。
「しっかり目を覚まして。ここは敵陣の中ですよ」
「…………」
目を開けたクラルス公が起き上がる。何か言おうとした彼の口を、失礼ながら手で押さえた。
「大きな声を出してはいけません。詳しい説明をしている時間もありませんが、今すぐ急いで着替えてください。こちらに服を用意してあります。ご自分でできますか?」
畳んだ服を差し出せば、無言で彼は受け取る。
「脱出の機会はおそらくこの一度きりです。どうか迅速に、そして慎重に」
「……脱出だと」
疑わしげな声が低く漏れる。暗がりの中で私はうなずいた。
「向こうにいる者が案内してくれます。その者に従って行動してください」
「――待て。ここからどうやって脱出するというのだ。外へ出る前にかならず見つかる。よし外に出られたとしても、そこも敵兵だらけだ。味方の陣までどうやって行けと――そもそも、向こうにいる者とはいったい」
抑えた声でさらに言おうとするクラルス公を、私はもう一度手を伸ばして制した。
「大丈夫です。扉の向こうにいるのは、間違いなくあなたの国の勇士です。疑問や不安が大きいのは当然ですが、どうか信じてください。かならず、お味方の陣まで導いてくれますから」
「…………」
クラルス公はしばらく疑わしげに黙り込んだが、すぐに布団をはねのけて寝台から下り立った。
「この離宮には私以外にも捕らわれている者たちがいる。それはどうなるか」
「……はっきり申し上げます。今いちばん必要とされているのは、あなたが無事に脱出されることです。他の人を気にかけて機会を逃せば、アルギリ中の人々に苦しい戦いを強いることになります。王として、ご決断ください」
「…………」
「そう心配なさらずとも、エランド側にしたって離宮の職員なんてどうでもいい相手です。どさくさで逃げる機会はあります。でもクラルス様が脱出できるのは、今だけです。さあ、早く。夜明けには見張りが交代しますから、今のうちに」
「……わかった」
うなずくと、クラルス公は服に手をかける。背を向ける前に、相手が王様なので一応確認した。
「お手伝いは必要ですか?」
「いや、よい。自分でできる」
片づかないのがいやだからと自分で掃除までしちゃう人だ。大丈夫だろうと私は背を向ける。身繕いの音の後、クラルス公がとまどうような声を出した。
「とりあえず着てみたが……これでよいのか?」
私は彼に向き直る。月明かりと絶えず焚かれる篝火の明かりが窓から差し込み、闇の中に背ばかり高くて細い男性の姿を浮かび上がらせていた。細すぎる身体は着込んだ兵士服に不釣り合いだけれど、鎧をつければ少しはごまかせるだろう。
「こちらも、ご自分でできますか?」
脇に置いていた具足一式を差し出す。さすがにこれは一人では無理だったようで、手伝ってあげながらなんとか身につけた。最後に剣帯をつけ、そこに剣を差し込んだら完了だ。
よく見れば鍛えていない身体や、妙に品のある表情を除けば、どこにでもいそうな下っ端兵士ができあがった。
「……重いな」
クラルス公は剣や胸当てを気にしていた。こうして見ると、ハルト様は武装に慣れていたんだなとわかる。あまり似合わない気がしていたけれど、慣れない装備を気にすることもなく自然に動いていた。お父様、意外と鍛えていらしたようだ。かっこいい。
私はクラルス公を連れて隣室へ出、さらに廊下につながる扉を、音が響かない程度に中から叩いた。
すぐに開かれ、兵士が顔を覗かせる。見張りの二人と、さらにもう一人。無言で私たちはうなずき合い、クラルス公を廊下へ出した。
「あとはお願いします」
「承知した」
短いやりとりだけを交わし、ふたたび扉を閉めようとした私を、あわててクラルス公が呼び止める。
「待て、お前は行かぬのか?」
「お静かに」
注意してから、私は口早に説明した。
「二人ともいなくなればすぐにばれます。私は残ってごまかします」
「そのような――それでは、ハルト公に申し開きが」
「だいじょうぶ」
扉に手をかけようとするクラルス公を、私は微笑んで押し戻す。
「私はこの方法では逃げられません。イリスも置いていけませんし。でも他に脱出方法を用意してありますから。さあ、行って。さっきもお話ししたように、今はご自分のことだけ考えてくださいね」
強引に扉を閉じれば、それ以上の問答はなく、束の間扉の向こうでためらっていた気配が動き出す。行ってくれたことを確認し、私は寝室へ戻った。
寝るわけではない。まだやることが残っている。夜が明ける前に、できる限りの偽装工作をほどこさねば。
弟月は海の方角に沈みかけている。もう時間がない。私は急いで寝台から布団をはぎ取った。
「それでは、行ってきます」
朝食の後、イリスの部屋へ向かう私は、戸口でふりかえって室内に声をかけた。もちろん返事はかえってこない。衝立の向こうに半分隠れた身体は、無視するようにじっとしていた。
筒状にした布団に服を着せかけて、なんとか人っぽく見えるようにしているだけだから当然だ。近くまで行ってよく見ればすぐにばれてしまう。今いる見張りは本物のエランド兵なので、あやしまれる暇を作らないよう、私はさっさと外へ出て扉を閉めた。
増員したことで離宮内はざわめいていた。歩きながら耳を澄ませ、ようすをうかがう。今のところ、騒ぎらしいさわぎは起きていないようだ。昨日と同じように端の部屋へ行き、扉の前に立つ兵士に見張られながら、イリスの容体をたしかめた。
熱は大分下がったようだ。呼吸も落ちついていてほっとする。私はハチミツとオイルを混ぜたお手製のリップジェルを取り出し、ひび割れた唇に塗ってあげた。
室内には医者も控えている。手元で作業していた彼は、ふと窓の外へ目を向けた。
「なにやら騒がしいですな」
窓を開け、そこから下を覗き込む。それが合図だと、遠くから見張っている者にはわかるはず。
「あれはいったい、なにごとでしょうか」
窓から庭を見下ろした医者の言葉につられて、見張りの兵士が近寄っていった。
「どれだ? なにも――ぐっ」
覗き込んだ瞬間、医者が兵士の口元に布を押しつけた。当然兵士は暴れて振り払おうとするが、枯れ枝のような細い腕は意外にしぶとくしがみついた。それをなんとか振り払い、腰の剣に手をかけたところで、兵士はうめいて膝をついた。
「う……なんだ……くそ……」
こらえようとしてもかなわず、そのまま崩れ落ちる。完全に意識を失った兵士のそばで、慣れない力仕事をした人は、やれやれと面布をはずした。
「思ったより時間がかかりましたな。遠慮して量を少なくしすぎましたか」
淡々と言いつつ薬をしみこませた布を放り出す。頭巾と割烹着みたいな上着も取り払ってしまえば、動きやすい軽装に身を包んだ、これまた細い身体が現れた。
「それ、どのくらい効いてるんですか。さっさと縛り上げておいた方がいいんじゃ」
私の指摘に、あの世から生還(?)した人は首を振る。
「竜も眠らせるヘレドナの原液ですからな。匂いだけでも二、三日は目を覚まさないかと」
「……飲んだらどうなるんですか」
「よほど運がよくないかぎり、死にますな」
平然と答えてくれる。それはもう眠り薬じゃなくて、毒だろう。
そんなものを目の前で用意されていたのかと、ちょっと怖くなった。今のところ眠くはないので、大丈夫だよね?
こちらに被害が降りかからないよう、私は慎重にワゴンを押しやった。
ふたりで協力して倒れた兵士の身体を引きずり、ベッドの陰に隠す。念のため腰の剣を取り上げ、ちょっと考えて布団の中に放り込んでおいた。そうしてしばらく周囲の気配に耳を澄ませていると、やがて急に離宮が騒がしくなった。
走り回る足音と交差する怒号。「敵襲!」と叫ぶのが何度も聞こえた。
合図はうまく伝わったらしい。外からだけでなく内部からも襲撃を受けて、エランド軍が混乱しているのがわかる。クラルス公が部屋にいないことは、じきにばれるだろう。もう気付かれているかもしれない。ここにも人が来るに違いない。どちらが先か――と緊張していると、複数の足音がして扉が乱暴に開かれた。
入ってきた兵士たちに私は身を固くする。すると先頭に立つ人物が軽く手を上げた。
「味方です。ここにいるのは、あなた方二人だけか」
「さよう。後ろの怪我人と合わせて三人です」
ほっと息を吐く。よかった、予定どおりに進んでいるようだ。
兵士たちがベッドの周りにやってきた。私たちを別の場所に移動させるという名目で、ここから連れ出す計画になっている。敵襲を受けて混乱している今なら、騒ぎに乗じて脱出がはかれる。別の場所でもクラルス公を連れた人たちが移動を始めているはずだ。
イリスを担ごうと数人で腕を伸ばした、その時だった。
「忍び込んだネズミが動き出したか」
低い声が響き、瞬時に振り返った全員が身構える。ユリアスが手勢を率いて入ってきた。
「そこにも大きなネズミがいたとはな。見落とすとは、我ながらうかつな」
にらまれた人物は平然と見返し、私の前に立つ。
「こちらの手勢が内部へ入り込めたのは、貴殿が援軍を呼ばれたおかげです。人が増え、他国の軍も混じった状態では、船ひとつがまるごと敵軍に入れ代わっていても気付けなかったでしょう。これまでのように潜伏を続けられる方が難儀でしたが、早々に動いてくださり助かりました」
「……なるほど。そちらの思うつぼだったというわけか」
ユリアスは笑うが、目は怖いほどに暗く燃えている。私はそっと周囲をうかがった。敵と味方と、数は同じくらいだろうか。でも向こうはいくらでも後ろから応援が来るだろうし、明らかに不利だ。襲撃をかけた味方の軍がここまでやってくるのに、どれだけかかるだろう。はたして、間に合うか。
じりじりと場所を移動していたら、周りの兵士たちが動いた。エランド兵たちとぶつかり合い、たちまち血が流れる。すぐ目の前での殺し合いに身がすくむ。その中を、ユリアスが堂々と歩いてこちらへ近づいてきた。
まっすぐに見据えられて、震えが走る。このままつかまるわけにはいかない。目当ての場所へ飛びつこうとしたら、後ろから引っ張られた。
不意をつかれてベッドに尻餅をついた私を追い越し、飛び出した人がユリアスに襲いかかる。斬撃を難なく剣で受け止め、ユリアスが笑った。
「まだそれだけの元気が残っていたか。力は出ぬようだがな」
「……っ」
イリスは苦しげに顔を歪めていた。打ち返され、飛びずさって身構えるが、すでに息が荒い。無茶だと止める暇もなく、二人はまたぶつかり合った。
私はワゴンに飛びつき、その上の瓶を引っ掴んだ。ヘレドナと呼ばれた強力な眠り薬が、まだ瓶の半分以上を満たしている。蓋を開け、イリスとユリアスを見る。二人が離れた瞬間を狙い、ユリアスに向かって投げつけた。
私の力ない投擲なんて、ユリアスは軽く手を振ってはねのける。けれど開いたままの口から中身がこぼれ、彼の手と袖を濡らした。はじかれた瓶は近くにいたエランド兵に当たった。たちまちうめいて倒れるのを見て、ユリアスの顔色が変わった。
「飲まぬかぎり死ぬことはありませんが、匂いを吸い込めば三日ほどは昏睡状態になりますぞ」
私を制してまた前に出た人の言葉に舌打ちをする。薬がかかったのは利き腕の方だ。剣を使えば匂いを吸い込んでしまうだろう。
どうするかと一瞬考えるようすを見せたユリアスに、さらに言葉がかけられた。
「今すぐ退かれることをお勧めします。この場でこれ以上戦うのは、貴殿にとっても利がない」
「この程度で勝ったつもりか? 少数でしかけた襲撃など、結局は成功せぬ」
「アルギリの正規軍が来ております。クラルス公が脱出された今、彼らは何の遠慮もなく攻撃をしかけてくるでしょう。それを迎え撃つ余裕は、貴殿にはありません。すでにエランド本国へ向けて、ジリオラをはじめゲイナ、ラシュエルなどが侵攻を開始しておりますゆえ」
「……なに」
ユリアスが眉を寄せる。淡々とした言葉は続く。
「帝国の支配下にくだったとはいえ、彼らから反撃の意志が完全に消えたわけではない。帝国の民として意識から変わるほどの時間は経っておりません。そこへ、こう耳打ちしてやればよい。今ならばエランドはシーリース攻略に力を向けて、本国の守りは薄い。皇帝も不在のところを攻めれば、自由を取り戻すのはもちろん、隠されたエランドの宝を得ることもできる――と」
ユリアスの背後にデュペック候が姿を現した。彼はユリアスに駆け寄り、耳元に何かをささやく。ユリアスがぎり、と音を立てて歯ぎしりした。
「……貴様らを見逃して、すごすご逃げ帰るだけと思うか」
「その方が賢明かと存じますがな。我々を殺して気を晴らしたところで、ご自身が脱出する機会を失ったのでは話になりますまい。それ、聞こえませんか。正規軍の攻撃が始まったようです」
開け放ったままの窓から、さらなる騒ぎが聞こえている。市街に入り込んだ軍勢が上げる鬨の声に、ユリアスはいまいましげに剣をおさめた。
「貴様もロウシェンの人間か」
「いかにも。参謀室長オリグ・ケナン。人は愛の使者と呼びまする」
呼んでない、呼んでない。愛の死者なら認めるけど。
冗談なのか本気なのかわからないゾンビ顔をうさんくさそうに見つめた後、ユリアスは視線をずらしてを私を見た。
イリスが立ちはだかり、私をかばう。ユリアスは鼻で笑ったが、こちらへ手を出してこようとはしなかった。
「お前を連れていくのは、先になりそうだな。せいぜいつまらぬことで命を落とさぬよう、その身を大事にしていてくれ」
くるりと背を向け、あとはもう振り返ることなく足早に去っていく。続くデュペック候が一度だけ振り返り、私に言った。
「あなたは、いずれ我々のもとへ来ることを選びますよ。そうせざるを得ない。安心なさい、いつでも快く迎え入れますから。ロウシェン公よりも、そちらの騎士よりも、我々の方があなたを大事にします」
余裕の笑みすら見せて、彼も去っていく。生き残った兵士たちも後を追い周囲が味方だけになると、イリスががくりと膝をついた。
「イリス!」
荒い息をつく彼を支えようとすれば、すごい力で抱きしめられた。
「……ごめん……」
私の肩に顔を伏せ、イリスは言った。
「えらそうなこと言って、守りきれなかった……」
涙があふれてくる。私は傷口を慎重に避けて、イリスを抱き返した。
「守ってくれたじゃない。イリスはちゃんと守ってくれた。私が悪かったの。ごめんなさい。こんなひどい怪我をさせて、ごめんなさい。……生きててくれて、ありがとう」
よかった。イリスが目を覚ましてくれて、よかった。無事に生き延びてくれて、よかった。ただそれだけで、私は幸せに満たされる。他のことなんて、もうどうでもいい気分だった。
現実にはそうのんびり幸せにひたっていられなくて、私たちは急いで移動することになり、途中力尽きたイリスを兵士が運んでくれたりと大変だったのだけれど、気がおかしくなりそうな不安は、もう感じずにいられた。
「かっこ悪いとこ見せてるけど……このくらいじゃ、死なないよ」
そう言ってイリスが笑ってくれたから。
もうだいじょうぶと安堵しながら、なぜかまた涙がこぼれた。
アルギリ軍による町の奪還作戦は成功し、ユリアスは自軍を率いて海へ退却していった。心配していた民間人への被害はほとんどなかったらしい。元の世界みたいに爆弾が撃ち込まれるような戦いではないから、固く入り口を閉ざして屋内で息を潜めていれば、戦闘に巻き込まれることはない。幸い火をかけられることもなかったので、町は無事だった。
人間の楯として駆り出された男性たちも、正規軍の指揮官によって説得され、抵抗はしなかったそうだ。もちろん彼らは脅されて従っていただけなので、反逆の罪に問われることはない。
クラルス公はすぐさまディンベルのエルシタン宮殿へ帰還した。私たちはそのまま離宮で保護され、数日してイリスの体調が落ち着いてから、ディンベルへ移送された。その際に使われたのは、龍船だ。それもロウシェンの。なんとレーネの港に、ロウシェンの龍船が入っていたのだ。最初の日、イリスが商船ではないと指摘した船のひとつがそれだった。あちこち焼けたのを応急処置した上で偽装をほどこしていたため、元の美しい姿は面影もなく、誰もが引退間近のボロ船だとしか思っていなかった。
「イリスは気付いていたわけ?」
エルシタン宮の豪華な客室で静養中のイリスに、私は尋ねる。ベッドに半身を起こせるようになっていたイリスは、気まずげに視線をそらした。
「いや……まあ、なんとなく、そうじゃないかなーってくらい……」
「当然、近くまで行って確認したのよね? 私と一緒じゃない時も外出してたものね。もしかして、オリグさんとも早々に再会してた?」
「あー……えっと」
微笑みながら優しく質問を重ねれば、ますますイリスはうろたえる。苦しげに視線をそらす顔を、微笑みをキープしてじっと見つめていると、やがてがくりとうなだれて「すみません」と謝った。やっと観念したか。
「あの時港へ行こうとした私を止めたのは、隠すため? どうしてそんなことをしたのかしら。オリグさんと合流できていれば、私だってもっと違う動き方を考えたのに」
「いや、あの時点ではまだ確信が持てなかったし、どういう状況なのかもさっぱりわからなかったから。ナハラで墜落した船をエランド側が回収したのなら、うかつに近寄るのは危険だし。それに、オリグとは会えなかったんだ。船に残っていたのは船長たちだけで」
「でも連絡くらいは取れたんでしょ」
「……そのまま、僕らだけで行動してくれって言われて」
「なら、そうと教えてくれればよかったのに。オリグさんや船長さんたちが無事だったことを、もっと早く知りたかったわ。本当に死んでしまったのかと思って、すごく悲しかったのに。無事だって聞けるだけで、うれしかったのに」
「あれ、そっち?」
イリスがきょとんと視線を戻してくる。私はせいいっぱいにらみつけた。
「他になにがあるの」
「いや、また蚊帳の外に置かれたって、怒るかと思って……」
「もちろんそれについても、じっくりお話したいけど。でもいちばん大事なのはオリグさんたちの安否でしょう。なによ、私が全然気にしていないとでも思ってたの?」
「いや……スミマセン」
「案じていただけたとは、光栄ですな」
怒る私の背後からすきま風のような声がする。私はむくれて振り返った。
「無事なら無事と知らせてくださいよ」
ホーンさんを連れてオリグさんが来ていた。今はもう、見慣れた参謀官の姿だ。動く死人みたいな姿は今日も健在で、エルシタン宮の人々を驚かせている。
離宮でオリグさんと再会した時は、思わず声を上げそうになった。目以外を隠していたって、知り合いならすぐわかる。思慮深いグレーの瞳を見た瞬間、私は彼が暗躍していたことを悟った。打つ手もなく敵に捕らわれているわけじゃない、すぐ近くに味方がいる――そう思えば、冷静さを保てた。きっとオリグさんには計画があり、助けてくれるはずだと信じて――ひそかに握らされた手紙を後で読み、それが間違っていなかったことを知った。
ユリアスも、自分の目の前でそんなやりとりが交わされていたとは気付かなかっただろう。
あの後ごたごたしていて、特にオリグさんが忙しそうで、落ちついて話す時間もとれなかった。並んだ顔をやっと来たかという気分で見る。
「申しわけありませんな。まずは船の修理と怪我人の治療に忙しく、それも間に合わせのまま各地へ飛んでおりましたので」
私のうらめしい視線にもオリグさんはしれっと返す。彼は墜落したと思われ追手がかからないのをいいことに、こっそり島から出てあちこちの国を回っていたらしい。途中は空を飛び、島の近くに来れば海へ降りて普通の船のふりをして入港する。そうやってエランドの目をかいくぐり、各国の軍や王族とひそかに接触して蜂起をうながした――というか、そそのかしていたそうだ。
そうして何食わぬ顔でシーリースに戻ってきて、レーネの港に入ったあとはエランド軍に潜入していた。大忙しの大活躍だ。でも主君にまったく何もしらせていなかったわけではないだろう。ハルト様のもとへはいつ連絡が行ったのか、気になるところだ。
もちろんオリグさんひとりでこれだけのことをなせるはずもない。彼は戦が始まる前から配下をそれぞれの国にもぐり込ませていた。いざという時、迅速に渡りがつけられるように、参謀室直属の工作員たちが下準備をしていたのだ。いつだったか、彼に問われて私自身が、そういう準備も必要だろうと言ったことがあった。あの時点で既に、オリグさんは手を打っていたのだ。さすが、と言うしかない。
「戦とは、軍勢をぶつけ合うばかりではありませぬ。事前の準備に根回し、裏での作戦も重要です」
防戦するだけでなく、討って出ることも考え、さらにはそれを自分たちではなく他国にやらせる。まとめると結構あくどいことをやっている。今頃エランドは近隣国と激しく戦っているだろう。けしかけた当人はここで涼しい顔をしていて、乗せられた人々にちょっと申しわけない。似たようなことを私も考えたので、あまり非難もできないが。
今本国が攻められれば、ユリアスは引き返すしかないだろうとまでは思ったのだ。でもその考えを実行に移す手段がなくて、そこで行き詰まってしまった。ずっと以前から考えて準備していたオリグさんと、その場でしか考えられなかった私との違いだ。ちょっとくやしい。
「イリスとは連絡を取りあっていたのに、どうして私には教えてくれなかったんですか?」
蚊帳の外に置かれたことももちろん根に持っている。知っていればもっとましな行動ができたのに、なんて言うと八つ当たりかもしれないけれど、教えてほしかったと言う権利くらいはあるだろう。
「そんなに何度も連絡できたわけじゃないよ。その時点でオリグはもうエランド軍にもぐり込んでいたから、外部と連絡を取るのが難しかったんだ」
イリスが私をなだめる。
「しばらく黙っていることにしたのは、僕の判断だ。知れば君は会いたがるかもしれないし、自分に振られた役割が意味のないものだと思って、落ち込むんじゃないかと……」
「じっさい意味がなかったんでしょう。私に好きにさせて満足させるために、形だけ与えられた役目だったようですからね」
ホーンさんとのやりとりを思い出し、じろりとにらんでやれば、イリスはあわてて手と首を振った。
「えっ、違う! ちがうよ、それは。そんな意地悪なこと誰も考えてない」
「だってそんな話してたじゃない」
「いや、あれは……ホーン、お前のせいだぞ」
責められてもホーンさんはどこ吹く風だ。へらっと笑って言い返す。
「あぶないことは一切させず、全部ご自分で引き受けるおつもりだったんですから、間違いじゃないでしょう? 過保護すぎるって言ったじゃないですか。そりゃあ姫君はあぶなっかしいですから、そばで手綱を握っとく必要はありますけど、ちゃんと情報を与えればそうおかしな判断はしないんですよ。ろくな説明もなしに危ないからだめって頭ごなしに言うばかりじゃ、姫君だって納得できないし判断のしようもありません。見た目ほど子供じゃないんですから、もう少し信用してきちんと話をするべきでしたね」
「…………」
イリスはがっくりとうなだれて盛大なため息を吐く。なんだか私たちふたりとも、参謀官たちにいいように踊らされていた気がする。たぶん、状況に対しどう判断するかという試験もかねていたのだろうな。食えない連中を眺め、文句を言っても無駄かとあきらめる。
「今回は落第ですか?」
聞けば、オリグさんはふむ、と顎に手を当てた。
「相互の意思疎通に問題があり、非常時の対応についても十分な打ち合わせができていなかった――という点を考慮しますと、合格点は差し上げられませんな。いくつか予測不可能な要素もありましたが、そういった可能性も考えに入れた上で計画は立てるものです。授業料も払われたことですから、次はもっとよい成績を期待してよろしいでしょうな?」
私はイリスの肩を見、イリスはいやそうな顔をする。高い授業料だったよね……命まで取られなくて、よかった。本当に。
「……まあ、それはともかく。ご無事で本当によかったです。オリグさんにはもっといろいろ教えていただきたいですから、そう早々とリタイヤされちゃ困りますもの。今後も元気でいてくださいね」
「無論のこと」
いちばん言いたかったことを伝えると、無表情なゾンビ顔のまま、オリグさんは胸を張った。
「大切な妻と子供たちが待っているのです。愛の戦士はかならず無事帰ります」
「愛の使者じゃなかったのかよ」
「愛の死者の間違いでしょ」
イリスは肩をすくめようとして、「痛てっ」と顔をしかめる。私は馬鹿馬鹿しくなって、でもうれしくて、くすくすと笑ってしまった。