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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第九部 かよいあう心
105/130



 寝台の中で目覚めた時、ああ全部悪い夢だったんだと一瞬喜びかけた。

 それはまったくのぬか喜びだと直後に悟り、より絶望感にとらわれただけだったけれど。

「……ようやく目を覚ましたか」

 枕元に男性が一人座っていた。ぼんやりとそちらを見た私は、見覚えのある顔だということに気付いた。

「…………」

 起き上がろうとして、あちこちの痛みにうめく。特に腕と喉が痛かった。そうだ……あの男に、ユリアスと名乗る黒衣の男に、ものすごい力でつかまれたのだっけ。

 どうにか半身を起こせば、男性が水を注いだグラスを差し出してくれた。

 受け取り、口をつける。ひどく喉が渇いていたのだと気づき、中身を飲み干した。痛みになんてかまっていられない。まだ足りない。

「あいにく食事はまだ来ぬがな。お前は元々食べぬから平気だろう」

 そっけない口調で言いつつも、男性は私のようす見守りもう一度グラスに水を注いでくれる。以前会った時よりもさらにやつれて血色の悪い顔を、私は見上げた。

「ありがとうございます……ご無事で何よりです、クラルス様」

「無事と言えるか、この状況が」

 クラルス公は私の言葉に、自嘲的に鼻を鳴らした。

「ここは、離宮の中ですか」

「そうだ。もうずっと、ここに監禁されている。やつらは、いつになったら私を殺す気なのやら」

 すっかりあきらめた顔で、クラルス公はため息をついた。私と二歳しか違わない、まだ若い人のはずなのに、疲れた顔はひどく老けて見えた。もともと痩せすぎで顔色の悪い人だったのが、よけいにひどくなっている。ずっと捕虜になっているのだから当然だけれど、健康状態が心配だ。

「お身体の具合はいかがですか」

「お前に聞かれたくはない。まずその顔を洗え。見ていて気持ち悪い」

 クラルス公はそっけなく突き放し、洗面道具を指さした。気持ち悪いって……ああ、泣いたからな。化粧が崩れて、さぞかしひどいありさまになっているのだろう。

「最初は誰なのかわからなかったぞ。その胸も……詰め物か?」

 寝台から下りて顔を洗っていると、クラルス公が複雑そうな声で聞いてきた。

「変装していたんです。結局、無駄になりましたけど」

 見た目だけはうまく偽装できていたようだ。ユリアスもそう言っていた。

 でもまさか、歌で正体がばれるだなんて思わなかった。

 あの歌を、ユリアスは知っていたのか。なぜ? それこそ、どこで知ったの?

 私が歌ったことで龍の娘だと知らしめた、その理由は……。

「……私を救い出そうと、時々ここへ潜入を試みる者がいるのだがな。昨夜も騒ぎが起きた。その者たちがどうなったか、知らぬか?」

 私が落ちついたのを見計らって、クラルス公が尋ねてきた。きっとずっと気になっていたのだろう。私は少し考えてから答えた。

「それは、イリスのことですか?」

「いや……ああ、たしかにやつも来た。だが、それとは別口だ。イリスも驚いていたし、騒ぎが起きたおかげで脱出することができず、ほんの少し前までこの部屋に隠れていた」

「ここに……」

 もともとクラルス公が使っていたのだろう、上等な寝室だ。イリスは昨夜からずっとここにいたのか。

「昼頃になって、ユリアスが急に兵たちを連れて外出したのでな。ようやく警備が手薄になり、脱出していった。その後のことは知らん」

 ……そうか。じゃあ、あの場へ現れたのは、宿へ帰ろうとする途中で広場での騒ぎに気付いて駆けつけたんだ。

 私は……宿で待っているべきだったのか……。

 自分の失敗を知って、また涙があふれてくる。私はタオルに顔を突っ込んだまま、その場にへたり込んだ。

 十分待ったつもりだった。でもなかなか帰ってこなくて心配で。

 慎重に状況を見て動くつもりだった。変装もして、用心して。

 まさか歌が原因で正体を知られることになるなんて、思いもよらなくて。

 ――言い訳は、いくらでも出てくる。でも、結果は変わらない。私の行動は、間違いだった。

 あの場に私たちがいなければ、イリスは多分飛び込んでいかなかっただろう。私が失敗したせいで、彼をさらなる危険にさらしてしまった。

 全部、私のせいだ。私が外へ出たから、正体を知られてしまったから、捕らえられてしまったから。

 私の、せいで――!

「……っ」

 どれだけ悔いても取り返しがつかない。泣いても叫んでも過去には戻れない。これはゲームじゃない。選択肢に戻ってやりなおすなんてできない。たった一度の失敗が、人の生死を分けてしまう。

「う……、……っ」

 転ばなければ痛みを知らないままだとホーンさんは言った。失敗することで経験になるのだと。もしとりかえしのつかないことになったとしても、自業自得でしかないのだと。

 でも、それならなぜ私が死ななかったの。なぜ失敗した私がまだ生きてるの。すべてのツケが、私に来たならよかったのに!

 泣き続ける私にクラルス公は何も言わなかった。彼の問いにまだ何も答えていないのに、急かさず待っていてくれた。少しだけ気持ちが落ちついてきて、そのことに気付く。まだおさまらない嗚咽をこらえながら、私は振り向いた。

「……すみません……」

「いや……」

 クラルス公は私から目をそらした。

「イリスは……死んだのか」

「……わかり、ません……」

 死んだなんて思いたくない。生きている、きっと助かっていると思いたい。

 でも私にたしかめるすべはない。あの状況で彼がどうなったか、想像するのが怖い。イリスが負傷して川に落ちたところは、メイとホーンさんも見ていただろう。イシュちゃんも追いかけていた。彼らに助けられているかもしれない。怪我も、致命傷には至らなかったかもしれない。どうにか助かっているのではないか……そんな期待にすがるしかできない。それはひどくはかない、蜘蛛の糸でしかなかった。

 どうか、どうかお願い、生きていて。神様、イリスを助けて。

「アルギリの……人たちは……ユリアスという男を襲って……でも、それは彼らの仕掛けた罠で……襲撃は、失敗しました。どれだけの人が逃げられたのか、わかりません……ごめんなさい……」

 町にアルギリ兵が多数潜入したことを知り、ユリアスはおびき出そうとしたのだろう。自らを囮にし、わざとテロを起こさせた。あの襲撃は、最初から予想されたものだったんだ。

「そうか。まあよい、どうせそんなところだろうと思っていた」

 なんでもなさそうに答えるが、クラルス公の表情も沈んでいた。自身を助けようと奔走する臣下たちが、罠にかかって命を落としたという話は、彼にとって残酷なものでしかないだろう。

「……ユリアスは、私を捕らえる方を優先したみたいですから、その隙にうまく逃げてくれたかもしれませんが……」

「イリスに預けたものは、受け取ったか? うちの臣下に届くようできただろうか」

 預かりもの?

 そんなのあっただろうかと、私は記憶をさらった。そんなことを言っていられる状況じゃなくて、イリスとほとんどまともに話もできなくて……あ、でも。

「そういえば、ホーンさんに――うちの参謀官に、何か渡していました」

「その参謀官は無事か」

「ええ、多分」

「そうか」

 クラルス公は息をついた。どこか、ほっとしたようすだった。

「ならば、これ以上長引くことはない。もう私を助けようなどとはせず、堂々とわが国の軍が攻めてくるだろう」

「……どういうことですか」

 立ち上がり、クラルス公へ近づく。こちらを振り向いた彼の顔には、すべてをあきらめた人の空虚な清々しさがあった。

「私はもうアルギリ公王ではない。退位し、親族に玉座を譲ると記したものをイリスに預けた。直筆の署名と御璽(ぎょじ)を添えてな。これだけは、やつらに見つからんよう隠し持っていた。イリスがここまでたどりついてくれたおかげで、ようやく渡せた。ここにいるのは、ただの男だ。もう人質の価値はない」

「なにを……」

「残念だったな。じきにアルギリの正規軍が押し寄せてくるぞ。リヴェロとロウシェンも参戦するだろう。今のうちに逃げる算段でもしたらどうだ?」

 笑みすら浮かべてクラルス公は私の背後に向かって言う。私はあわてて振り向いた。いつ来たのか、部屋の入り口に黒衣の長身が立っていた。

 クラルス公は挑戦的に言った。

「貴様らの軍など、しょせん数では負けている。個別に戦うならともかく、三国をいちどに相手しきれるものではあるまい。コソコソと卑劣な真似は得意なようだが、正面きっての戦でどこまでやれるかな。ロウシェンのように竜騎士を持たぬからといって、アルギリ軍を舐めるなよ。無理な遠征をしてきた貴様らに、勝ち目はない」

 若い公王の啖呵に、ユリアスは動じなかった。泰然と構え、薄笑いを浮かべてこちらを見ている。

「そのような紙切れ一枚で、簡単に切り捨てられるのかな、公王殿は」

「捨てられるとも」

 クラルス公は暗く笑った。

「カーメル公やハルト公とは違う。私はなんの取り柄もない凡庸な男だ。血筋だけで王位に就き、周りに助けられてこれまでどうにかやってきた。私などいてもいなくても変わりない。このような状況になって、皆どれだけ見捨てたかっただろうな。凡百の役立たずでも公王を見殺しにするわけにはいかず、仕方なしに救出しようとしていた。だが退位してしまえば――御璽も戻ってくれば、もうはばかる必要はない。嬉々として見捨てることだろうさ。私の代わりなど、いくらでもいるのだからな」

 楽しげにすら語られる言葉が、痛くてたまらなかった。見えない傷から血が流れ続けている。彼がこんなことを言う気持ちを、私は理解できるだけに辛かった。

 自分に自信が持てない人。自分に価値なんてないと思い込んでいる人。

 寂しすぎて、胸が痛い。

「位を失ったところで、貴公がアルギリの直系王族であることは変わらんはずだが?」

「それがどうした。生きて戻ればむしろ迷惑なくらいに思われているだろう。案外貴様らに感謝しているかもしれんな」

「それはまた、気の毒な公王殿だ。臣下たちからそうも見放されているとはな。その割に、ずいぶん必死に助けようとしていたが……まあ、この後どう動くのか、楽しみに拝見するとしよう。それはそうと、龍の娘によい知らせを持ってきてやったぞ」

 突然こちらへ話を振られて、私は身構えた。なにを言い出す気だろう。

 ユリアスは、やはり薄笑いを浮かべたままで言った。

「お前の恋人が見つかった」

「…………」

 恋人、って……まさか、イリスのこと!?

 思わず私は立ち上がった。あわてた拍子に机にぶつかり、水をこぼしてしまったがかまっていられない。

「イリスが……?」

 ふらふらと数歩、ユリアスの方へ足が動く。

「部下が川から引き上げた。一応まだ生きているぞ。いつまでもつかはわからんが」

 イリスが……見つかった。生きていた。本当に? これは、本当の話なのだろうか。

「会いたければ、ついてこい」

 あっさり言ってユリアスは背を向けた。私がついてくるかどうかたしかめもせず、隣室へ姿を消す。ためらう余地もなく、私はその後を追った。

 これがどういう思惑なのか、もしや何かの罠なのか、そんなことはどうでもよかった。イリスに会いたい。彼が生きていることをこの目でたしかめたい。すがる気持ちでユリアスを追い、廊下を歩く。扉の前に立つエランド兵の視線など、気にもならなかった。

 離宮の構造は単純な長方形で、廊下の両脇に部屋が並んでいるだけだ。私たちがいたのは中央あたりの部屋で、ユリアスは端にある部屋へ向かった。いくらも歩かないうちにたどりつく。そこに見張りの兵士は立っておらず、彼は自分で扉を開けて部屋に入った。

 急いで私も扉をくぐり、部屋の中を覗き込む。物の少ない部屋に簡素な寝台があり、その脇に医者らしい人物が一人控えているのみだった。

「どうだ?」

 割烹着に似た白い服に、やはり白い頭巾と面布で目以外を完全に覆った医者は、ユリアスに問われて淡々と答えた。

「意識はまだ戻りません。危険な状態です」

 私はユリアスを追い抜き、寝台へ向かう。

「急所ははずしておいたが、死にそうか?」

「血が流れすぎましたからな。傷口の縫合は済ませましたが、助かるか否かはこの者の運と体力次第でしょう」

 血のついた布や道具を乗せた机を横切り、寝台のそばに立つ。半裸で横たわる人が見えた。

「……っ」

 言葉など出てこず、かわりに涙があふれだす。血の気の失せた顔。たくましい身体には包帯が巻かれ、投げ出された腕はぴくりとも動かない。浅く速くくり返される苦しげな呼吸だけが、彼がまだ生きていることを教えてくれた。

「イリス……っ」

 さらに踏み出そうとする私を医者が止めた。

「刺激を与えてはいけません。きわめて危険な状態です」

 私は医者を見上げる。唯一露出している、濃いグレーの瞳と目が合った。

 ……安堵と不安が入り乱れ、気が遠くなりそうだ。自分がちゃんとまっすぐ立っているのかもわからない。

「……イリスは、助かるんですか」

「できるかぎりのことはしますが」

 そっけなく答えながらも、医者は私の手を包むように、そっと押し戻す。私は手を握り込んだ。ユリアスがやってきて、私を引き寄せた。

「体力ならば人よりあるだろうさ。なんといっても竜騎士だからな。この町ならば、よい薬もすぐ手に入るだろう。運まではどうにもできんが、人の力のおよぶ範囲で最高の治療を与えてやれる。お前次第でな」

 大きな手が私の肩を抱く。やはりそうくるかと、私は唇をかんだ。私に言うことを聞かせるために、イリスを助けたのだろう。相手の思惑をいやというほど知りつつも、私は尋ねるしかない。

「……私に、なにをさせたいの」

「とりあえずは、おとなしくしていることだな。これを見た以上は言う必要もなかろうが、自害など考えるな」

「…………」

 私をどう使うつもりなのだろう。いろいろ気になるけれど、今聞いたところで答えてなどくれないだろう。私はうなずき、かわりにと頼んだ。

「ここに、いさせて」

「お前がいたところで治療の邪魔だ。日に一度は会わせてやるから、アルギリ公と一緒にいるんだな」

 ――そうだ、クラルス公のことも放っておけない。イリスの容体は気になるけれど、私がここにいたからって治るわけじゃないのだ。状況を、忘れてはいけない。感情に流されてはだめだ。

 私は目を閉じ、深く深呼吸した。自分を揺さぶり、崩してしまいそうな感情を抑え込む。

「……わかった」

 従順な私に満足した顔で、ユリアスが踵を返した。後ろ髪を引かれる思いで、彼に従い部屋を出る。また廊下を歩いて元の部屋へ戻った。

「この離宮には時々害虫が入り込む。せいぜい、公に近づかんよう見張ってさしあげろ。公も身の回りに不自由しておいでだったろうからな、この娘を世話係に使われるがよかろう」

 言い捨てて、ユリアスは去っていく。またクラルス公とふたりになって、私は大きく息を吐き出した。

「イリスに会えたのか」

「はい。意識はありませんが、手当てはちゃんと受けていました」

「そうか……」

 私の言葉に、クラルス公も少しほっとした顔になった。心配してくれていたんだな。いつも不機嫌そうにしていた印象が強いけれど、周りを気づかうことのできない人ではないんだ。

 私は室内を見回した。ひっくり返して水をこぼしたままになっていた洗面具は、ちゃんと片づけられていた。床も拭かれている。誰か来たのかと問えば、クラルス公は首を振った。

「ここに使用人が来るのは日に二度、食事を運ぶ時だけだ」

「じゃあ、クラルス様が片づけてくださったんですか」

「散らかったままでは落ちつかんのだ」

「申しわけありませんでした。今後は、私が掃除しますね」

 生真面目な人なんだよね。きっと、なんでもきちんとしていないと気が済まないのだろう。だから自分に対しても厳しくなるんだ。

「散らかさなければそれでよい。掃除ならば、食事を運ぶついでに使用人がしていく。必要な物もその時に持ってくるから、ほしいものがあれば言いつければよい」

 窓際のソファで頬杖をついて、クラルス公はツンツンと言う。これは多分、私を気づかってくれているんだろうな。素直とは言えないけれど、なかなかわかりやすい人だ。

 私は彼のそばへ行った。

「退位宣言なさったというのは、本当ですか」

「ああ……私には、年の近い従兄がいる。血筋も申し分なく、能力で言えばあちらの方がよほどに優秀だ。みな納得するだろう。むしろ歓迎されるだろうさ。私さえ切り捨てることができるなら、この状況をひっくり返せる」

 私は彼の足元に膝をつき、肘掛けに置かれた手に自分の手を重ねた。クラルス公がちょっと驚いた顔で見下ろしてくる。細いけれどやはり大きな男性の手を、私は両手で包み込んだ。

「思い詰めないでください。状況は厳しいけれど、きっとみんなあきらめていません。クラルス様のことだって、見捨てたりしませんよ」

「……口先だけのなぐさめはよい」

 私は首を振る。そんなつもりじゃなかった。

「ご自分を何の取り柄もない凡人と、卑下なさるお気持ちは私にもわかります。以前にも言いましたよね、私とクラルス様は似たところがあるって。自分に自信が持てない気持ちは、痛いほどわかります。でも客観的に見て、クラルス様はそんなにだめな王様じゃないですよ。この町が、それを証明しています」

 装飾的な柵越しに、町の風景が見える。夕焼けも色あせ、そろそろ夜になろうとしている。建物には明かりが灯り、煮炊きの煙もあちこちで昇っていた。

「町の人はみんな明るい顔をしていて、旅人にも親切で、いいところですね。民がそうやって心穏やかに暮らしていられるのは、国が安定しているからでしょう。経済もうまく回って、三国の中でいちばん豊かです。それは、クラルス様がずっと努力なさってきた成果でしょう」

「……私は何もしていない。ただ玉座を受け継いだだけだ。いつだって、周りに助けられて……」

「受け継いだものを、そのまま守ることも立派な功績ですよ。周りが王様を助けるのは当然です。そんなの、ハルト様やカーメル公だって同じですよ。どんな王様だってひとりでなんでもできるわけじゃないんですから。そのために宰相とか役人とか将軍とか、いろんな職務の人がいるんでしょう」

「…………」

「でも、王様があまりにだめな人なら、周りが優秀でも国は荒れます。リヴェロがそうだったでしょう? カーメル公のお父様は国を荒らしてしまった。責任を果たせない人だったから。クラルス様は、一生懸命努力して責任を果たしていらっしゃいます。その成果は、派手なものではないから気づきにくいかもしれないけど、ちゃんと表れているんです。民の、笑顔という形で」

 似たような悩みと言っても、私よりはるかに重いものを背負っている人だ。どれだけ辛いだろうか。その重圧は、私などにははかりしれない。簡単に言ってしまうなと怒られるかもしれない。でもあなたはけっして価値のない人なんかじゃないんだと、聞いてほしかった。

「恵まれた血筋と地位だけで思い上がる人も多い。でもクラルス様はいつもご自分に厳しくて、真面目に努力を怠らない。その姿を見てきた人たちが、あなたを見捨てようなんて思うでしょうか。きっと、お戻りになるのを待ってますよ。だから、投げやりにならないで。あきらめず、機会を待ってください。あなたの、民のために」

 伏せていた顔を、クラルス公が上げる。私を映す瞳が揺らぎ、何か言おうとしかけた時、扉をノックする音が響いた。

 返事を待たずに開かれた扉から現れた姿を見て、私は立ち上がった。

「お久しぶりですな」

 彼は私に親しげに挨拶した。黒い顎ひげをきれいに整え、さりげなく趣味のよい服装は相変わらずの洒落者ぶりだ。彼と顔を会わせるのは何ヶ月ぶりだろう。デュペック候はにこやかに入ってきて、私の前で一礼した。

「ロウシェンへ向かわせた部下が、なかなかあなたを見つけられぬと報告してきましたが、よもやこの町にいらしたとは。さすがに少々驚きましたよ。あまり行動的な方ではないと思っておりましたが、時折思いがけない動きをなさいますな」

「……私をさがしていたんですか。何のご用です?」

「そう、怖い顔をなさらんでください」

 身構える私に苦笑し、デュペック候はついてきた使用人に合図した。年輩の女中さんが食事の支度をするかたわら、別の人が私の前に着替えとおぼしき衣類を並べる。

「襲撃に巻き込まれたせいで、怖い思いをさせてしまったようですな。それはお詫びしましょう。ですが、こちらにあなたを害するつもりはありません。丁重におもてなししますよ」

 どこから調達してきたんだか、袖にも裾にもたっぷりとしたひだが取られ、繊細なレースで飾られた、どこのお姫様が着るのかというようなドレスだった。こんなもので私の機嫌を取れるとでも思っているのだろうか。

 ……いや、多分そうじゃないな。イリスを人質にして私をここに縛りつけ、ついでにクラルス公を監視しろとまで命じた。それと同じように、このドレスも私を身動きしづらくするための枷みたいなものだろう。

「今は、いろいろと行き違いがあり、我々によい感情を持っていただけないのはいたしかたありません。ですが、あなたとはかならず理解し合えるはずと信じております。イリス殿にも、できうるかぎりの治療をお約束しますよ」

 ユリアスが鞭ならデュペック候は飴だな。傷つけたのは自分たちなのに、調子のいいことを言うものだ。さんざん愛想をふりまいて、デュペック候は引き上げていった。私はうんざりとドレスを取り上げた。これ、着なきゃいけないかな。汗もかいたし、着替えはしたいけれど……似合う気がしないな。歩くたびに裾を踏んづけそうだ。

「やつらは、なぜお前に執着するのだ?」

 クラルス公に聞かれて、とりあえずドレスを置きテーブルへ向かった。あまり食欲はないけれど、今後のために体力をつけておかないと。

「さあ。龍の加護くらいしか心当たりはありませんが……そこまで執着するほど、役に立つのかしら。竜騎士団と戦う時のためなのかな……」

「龍の加護……祖王の力か」

 祖王セト。私と同じく、龍の加護を持っていたという人。

「クラルス様、祖王について詳しいことをご存じですか?」

 食事を始めながら尋ねる。クラルス公は私が世話なんてしなくても、自分でグラスに飲み物を注ぎ、黙々と食べていた。

「伝説だ。詳しいも何もない。正確なことなど、何もわからん」

「千年も経ってないんだから、何か記録くらい残っていそうなものですけど」

「ない――と、いうことにしておけ」

「……どういう意味ですか?」

 何か含みを感じて私は手を止める。クラルス公はちらりと私を見ただけで、すぐに目をそらしてしまった。

「書面に残された記録はない。王家と一部の者にのみ、口伝でつたえられているだけだ」

「それを知りたいんですけど」

 身を乗り出す私に、クラルス公は首を振った。

「正確なことなどわからんと言ったろう。ただ、祖王について知るのは禁忌とされているだけだ。知ってはならぬ――忘れられるべきものであると」

「禁忌……?」

 思わず眉をひそめていた。祖王のことを知ってはいけない、忘れられるべきって、どういうことだろう。彼は英雄ではなかったの?

 グラスの中身を干した後、クラルス公は難しい顔をして言った。

「祖王は英雄であり、同時に大罪人でもあった。お前が彼と同じ道をたどることのないよう、願う」

 ……大罪人?

 これまでと、まったく違う話が出てきてとまどう。どういうことなのか、祖王がどんな罪を犯したというのか。重ねて尋ねても、クラルス公はそれ以上教えてくれなかった。

 忘れられるべき、禁忌の王。

 そこに、大事な鍵がある気がした。

 ばらばらのピースが集まり始め、見えなかった構図が少しずつ見えてくる。これまでのことを一つひとつ拾い上げていくと、すでにかなりの情報が得られていた。

 けれど、最後にどんな絵ができあがるのか、それはまだわからない……。

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