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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第九部 かよいあう心
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 表情を変えるような真似はしなかったものの、きっと相手にはわかっただろう。

 龍の娘。そう呼ばれたことに、私が動揺したと。

 鋭い目に射抜かれて、視線をはずせない。この男はいったい何者なの。なぜ私のことを――龍の娘を知っているの。

「以前見かけた時とはずいぶん雰囲気が違うな。おかげで気付かなかった。うまく化けたものだ。小さくてもさすがは女といったところか」

 からかうような口調に、ますます困惑が深まる。やはり、この男とはどこかで会っているのか。いつ、どこで? こんな特徴的な人物、そう簡単に忘れないと思うのに答が出てこない。

 でもたしかに、記憶のどこかが反応している。私もこの男を知っているはずだ。

 私たちの異様な雰囲気に、集まっていた聴衆も困惑してざわめいていた。その人垣をぬって出てくる者がいた。こちらへ向かって急に駆け出し、懐から何かを――

「侵略者め、覚悟!」

 振りかざされる刃が、光をはじく。息を呑む私の前で、黒衣の男は余裕の笑みを浮かべたまま振り返った。

 悲鳴と怒号が交差する。

 私たちのもとへたどりつく前に、襲いかかってきた男は放たれた矢に貫かれて倒れ伏した。一本や二本じゃない。こんなにたくさん――最初から、狙っていたかのように。

 狙って、いたのか。

 荒々しい足音と金属音が響く。四方から兵士たちが大挙して現れた。と同時に、別口の武装集団も襲来する。逃げまどう人々と戦う男たちとで、広場は大混乱におちいった。

 私をつかまえたまま、黒衣の男が低く笑う。

「少しばかり姿を見せてやれば、たちまち食いついてくるとは。なんと愚かで浅はかなことか」

「チィ!」

 メイがこちらへ飛び込んできた。私を捕らえる男に向かって、肘打ちや蹴りをくり出す。男は驚くようすもなく、軽くメイの攻撃をかわした。でも意識が少しだけそれる。その隙をついて、ホーンさんが楽器で殴りかかった。

 それもかわしたものの、男の手が私から離れた。すかさずメイが私を引き寄せ、男からかばった。

「ふたりとも、逃げるよ!」

 ホーンさんが叫ぶ。一も二もなく従おうとしたけれど、周囲はすでに戦場だ。どこへ逃げたらいいのかと、私たちはとまどう。

「うかつに飛び出さん方が賢明だがな。そこの女はともかく、お前たちでは巻き込まれて死ぬだけだ」

 黒衣の男が背後から声をかけてきた。相変わらずの余裕だ。とりたてて威嚇するでもなく、自然な足取りでこちらへ近づいてくる。ホーンさんが私を背に回し、さらにその前にメイが立つ。それでも男の足は止まらなかった。

「……あなたは、だれ」

 私の問いに、はじめて男の足が止まった。あと少し歩けば手が届く。それだけの距離を置いて、私たちと向かい合った。

「答が必要か? 龍の娘よ」

 笑いを含んだ声に、私はつばを飲み込む。まっすぐ私を見据えてくる眼は、もうわかっているのだろうと語りかけていた。

 ……まさか。

 この男がエランドの人間だということは、すでに疑いようがない。けれどただの指揮官クラスではないだろう。もっと上の存在だ。反撃を狙うアルギリ軍が、襲撃の対象とみなす相手――エランド軍の、統率者。

 まさか……。

「名を聞くならば、ユリアスと答えておこう」

 ホーンさんが息を呑んだのがわかった。

「な……皇帝!?」

 つぶやきに、メイが振り返る。彼女の顔も驚愕に満ちていた。

「皇帝って……え? この、こいつが――エランドの!?」

 せわしなくホーンさんと黒衣の男を見比べる。彼女の混乱は無理もない。まさか皇帝がこんな場面で、こんなにあっさり目の前に現れるだなんて、にわかには信じがたい話だ。

 私だって悪い冗談じゃないのかという気分だった。でも直感的に、嘘でも冗談でもないと悟っていた。想像していたような王者の姿ではなく、ごく普通の騎士みたいないでたちだけれど、並外れた存在感にやはりと納得してしまう。

 離宮にいる偉い人というものを、私は将軍か何かだと思っていた。皇帝はエランド本国にいて、その代理人が軍を率いてきたのだと。普通そういうものじゃないだろうか。国主が軍を率いるなら、その利点を最大限に発揮すべく大々的に公表するだろう。何も言わず実はもう上陸していただなんて、そんなのあり?

 何の前触れもなく突然目の前に現れて、混乱するなと言う方が無理だった。

 男が、ふたたび足を踏み出した。私たちをかばったままメイが一歩後ずさる。と同時に、後ろに回した手がこちらに合図した。ホーンさんが隠し持っている彼女の剣を、寄越せと言っているのだろう。ホーンさんがコートの下に手を入れた。

 けれど取り出すより早く、もみ合う兵士たちがこちらへなだれ込んできた。巻き込まれないよう、あわてて私たちは逃げる。今の動きでできた隙間から脱出をはかろうと走り出した瞬間、目の前に黒いものが飛び込んできた。

「や――ぁあっ!」

 一瞬で前に回り込んだ黒衣の男が、乱暴な力で私をとらえ引き寄せた。つかまれた腕が痛い。容赦ない力に骨がきしむ。

「チィ!」

 助けようと飛びかかってきたメイが蹴り倒され、ホーンさんも腕の一振りで飛ばされた。なんて力だ。人というより、獣のようなたくましさと敏捷さだ。

「おとなしくしていろ。無駄に怪我をしたくなければな」

「……今、怪我しそうよっ」

 いったい握力はいくらあるのだろう。私の二の腕を、片手ひとつで握りつぶしてしまいそうだ。

「痛いわ、骨が折れそう。力をゆるめて」

「この程度でひ弱なことだ。細いな……働いたことのない身体だ」

 周囲の騒乱とは裏腹に、男の声はどこまでも静かだ。軽い嘲笑の裏側に、なにかもっと別の感情があるような気がして私はふたたび彼を見上げた。

 見下ろしてくる眼と間近で見つめ合う。なんだろう、これは。怒り? 悲しみ? それとも憐れみだろうか。

 わからない。黒い瞳に浮かぶものは複雑すぎて、彼がなにを思い私を見ているのか読み取れなかった。

「これが、龍の娘……こんな、力なき存在が……」

 わざとか無意識か、男の手にさらに力がこもる。あまりの痛みにたまらず悲鳴を上げてしまった。腕が、痛い。血が止まり、指先が冷たく痺れる――!

「――っ」

 不意に男が背後を振り返った。突き飛ばすように私から手を放し、直後剣のぶつかり合う耳障りな音が響いた。

「逃げろ!」

 私に向かって放たれた言葉。その声に、私は痛みも忘れて顔を上げた。

「……出てきたか」

 剣を交えたまま、黒衣の男が(わら)った。押し返す力に一旦離された剣は、直後にまたぶつかり合う。

 その場に硬直したまま、私は動けなかった。待っていた人が、今やっと無事な姿を見せてくれた。でもすさまじい戦いをくり広げて、そばへ寄るどころか声すらかけられない。

「チィっ」

 メイが私を引っ張った。

「メイ……イリスが……」

「ああ。ご無事だった。よかった」

「よかったといえばよかったけど……到底安心できる状況じゃないな」

 吹っ飛んだ眼鏡をかけなおしながらホーンさんも寄ってくる。黒衣の男とイリスの戦いは、あまりに激しすぎて見ているのが怖い。兵士たちですら加勢に入ることもできず、ふたりからあわてて距離を取るほどだった。

 この、光景。

 イリスと戦う、黒衣の大きな男。どちらが勝つのかわからない、拮抗した力。

 私の脳裏に同じ光景がよみがえった。そうだ――あの男だ――あの時の!

 ようやく思い出した。あの時の男だったんだ。ユユ姫の領地、シャール地方へ行った時の。ユユ姫を狙い私に近づいてきたデュペック候を逆にだまし、一網打尽にしようとした時に邪魔をした――あの時の!

 思い出すと同時に悪寒が走った。全身が総毛立った。感じたのは、恐怖だ。

 あの時イリスは……あの男に、後れをとって。

 男の剣がかすめ、イリスのスカーフがちぎれ飛んだ。銀の髪が背に落ちてくる。

 いやだ。やめて。やめさせて。あの戦いを止めないと。イリスが今度こそ死んでしまうかもしれない!

「……やめて」

 泣きそうな気分で私はうめいた。

「お願い……やめさせてっ」

 助けて。イリスを助けて。あの戦いをやめさせて。

 お願い――!

「うわっ」

 どこかで悲鳴が上がった。大きな音が空から降ってきた。

 一瞬雨かと思うような、これは羽音だ。鳥が集団になってこちらへ飛んでくる。

 無数の海鳥が広場へ集まってきた。彼らは戦う人々の間を切り裂いて飛び、イリスと黒衣の男にも突っ込んでいく。

 さすがに驚いた顔をして黒衣の男が身を引いた。その隙にイリスが叫んだ。

「メイリ、吹けっ!」

 命じられて、あわててメイが胸元に手を突っ込んだ。紐をたぐって取り出した小さな笛を口に当て、力一杯吹く。

 音は、しなかった。人の耳は空気の漏れるかすれた音を拾うのみだ。けれど海鳥たちはいっそう興奮し、騒々しく鳴き出した。

 犬笛と同じだ。人間には聞き取れない周波数で鳴っている。笛の音は遠くまで響き、町の外の森で待機している竜たちにも届くはず。

 耳のいい竜たちは、主が呼んでいると理解しすぐにやってくる。

 抜き身の剣を手にしたまま、イリスがこちらへ駆けてきた。私の手を引っ掴み、そのまま走る。引きずられないよう私も必死に走った。メイとホーンさんもついてくる。人と鳥が入り乱れる混乱の場から、私たちは全力で逃げ出した。

 今は、他に気を回す余裕がない。自分たちが逃げるだけで精一杯だ。けれど私は長く走れない。速くも走れない。たちまち息が切れ、見事に足手まといになってしまう。

 背後から追手の足音が聞こえる。エランド兵たちが追ってきているんだ。このままでは、みんな捕らえられてしまう。いや、その場で殺されてしまうかもしれない。

「イリス……私を、置いてって」

 苦しい息をこらえ、なんとか私は声をしぼり出した。

「このままじゃ、逃げきれない……っ」

 イリスは答える暇すら省き、私を担ぎ上げた。でも、いくら彼が力持ちで持久力もあるからって、人ひとり担いだまま逃げるのは無理だろう。

「私は殺されないわ! あの男は私が龍の娘だって知ってる。きっと何かに利用するつもりで――だから、置いてって! あなたたちが無事なら、いくらでも反撃できるから!」

 竜たちが来れば、逃げきれる。私というお荷物がいなければ、彼らは逃げられる。

 イリスの肩の上で必死に頼み込む。けれど彼は聞いてくれなかった。私を下ろそうとせず振り向きもせず、ただ走り続ける。その足取りはしっかりとして、重い荷物を感じさせないものではあったが、息はさすがに荒くなっていた。あれだけの死闘を演じた後で休む間もなく走っているのだから当然だ。きっと、相当に苦しいはずだ。

「イリス、お願いだから……っ」

 不自然な体勢で揺らされて、私の方も苦しい。イリスの背を叩く手にも力が入らない。

 走って、角を曲がり、坂を上り、建物の間を抜けて。

 周囲の景色が開けた。大きな川にかかる橋の上に出ていた。

 今日も恋人たちが橋からの眺めを楽しんでいる。そこへ突然飛び込んできた集団に驚き、さらに現れた武装兵士たちの姿を見るや、あわてて反対側へと逃げ出した。

 その行く手にも兵士が現れた。橋の両側を占拠され、イリスが足を止める。どちらにも逃げられない。町の人たちから悲鳴が上がった。

「くそ……っ」

 前後をはさまれて、メイが舌打ちした。イリスとメイの二人だけでは、到底対抗しきれない数だ。

 何度もメイは笛を吹いていた。竜たちの羽音はまだ聞こえない。ここへ来るまでに、あとどれだけかかるのだろう。

「無駄なあがきをするものだ」

 また、低く響く声がする。兵士たちの後ろから、黒衣の長身が現れた。

 イリスは私を下ろし、懐から何かを素早く取り出した。それをホーンさんに押しつけ、剣を構える。軽く笑って黒衣の男が言った。

「最後まで見苦しくあがき続けるか? それも一興ではあるが……こうするのはどうかな?」

 男の合図を受けて兵士たちが踏み出す。彼らが狙ったのは私たちではなく、逃げそこねて隅で小さくなっていた恋人たちだった。

 目の前に剣を突きつけられて、悲鳴も出せずに彼らはすくみ上がった。

「龍の娘よ、お前が悪あがきを続ければ、その間に死体が増える。そやつらに、まったくもって無駄な死を与えるか?」

「聞くなっ」

 イリスが鋭く言う。メイも叫んだ。

「卑怯者が! こちらのせいみたいに言うが、殺そうとしているのはお前たちだろう!」

「そうだな。で、それがどうかしたか?」

 蚊に刺されたほどにも感じない顔で、男は問い返す。私は一歩踏み出し――イリスに押し戻された。

 邪魔をするイリスの腕越しに、黒衣の男に向かって声を張り上げる。

「私がおとなしく従ったからといって、全員の安全が保証されるとでも? もののついでにと殺される未来しか想像できないんだけど」

 今は時間が必要だ。竜たちがここへやって来るまでの時間をかせがないと。

「あなたのやり方は逆効果だって気付かないの? 私に言うことを聞かせたいなら、先にその人たちを解放しなさいよ。これだけの戦力差で、どうせこっちに勝ち目はないのよ。人質を取る方がよっぽど無駄でしょうが」

「…………」

「目の前で無関係な人を殺されて、仲間も殺されて、あげく捕らわれるんじゃ救いがないわ。どうせその先にも何ひとつ希望なんてないでしょうし。だったらいっそ、ここから身投げしてやる。ひと思いに私を殺そうとせずあくまでも捕縛しようとする、あなたたちの思惑をせめて裏切ってやるわ!」

 言いながら、さっきとは逆に後ろへ下がった。煉瓦造りの欄干は私の背中くらいまで。すぐにそこまでたどりつく。水面までの高さは優に建物三階分だ。

 あの時と同じようなもの。傾く船から放り出されて、海に落ちた時――とても泳ぐことなどできず、沈んでいくばかりだった。ここから飛び下りれば川に飲み込まれ、そのまますぐ海へ流されて、今度こそ溺死するだろう。

 ぎょっとした顔で振り向く仲間たちを無視して、私は黒衣の男だけをにらんだ。

 今、彼らが突進してきても、私が欄干を乗り越える方が早い。本気で命をかける、いちかばちかの勝負だ。

「その人たちを解放しなさい。その後、仲間たちを解放して。そこまで確認できたら、おとなしくつかまってあげる。少しでも妙な真似をしたら、ここから飛び下りる」

 欄干の装飾に足をかけ、よじ登る。イリスがこちらへ手を伸ばそうとするのに、私は叫んだ。

「動かないで! 誰も、動かないで」

 欄干の上に膝を乗り上げる。下を見るとめまいがしそうだ。ふらついて落ちそうになるのをこらえる。背に、脇に、こめかみに、冷たい汗がにじんだ。

 私の本気が伝わったのだろう。みんな動きを止めて、こちらを凝視していた。その中、黒衣の男が手を振る。兵士たちが町の人から剣を引き、顎をしゃくって行けとうながした。

 解放された人々は足をもつれさせながら、あわてて逃げ出していく。橋の上から無関係な通行人が全員いなくなると、これで満足かと男が問いかけてきた。

「まだよ。言ったでしょう、次は仲間を解放して」

「要求が多いな」

「当たり前でしょう。命と引き換えにするんだから、まだ足りないくらいよ」

「そっちの女と眼鏡は逃がしてやってもよい。だがその男は逃がせんな。後々禍根になりそうだ」

 余裕の笑みを見せながら、男はイリスへ目を向ける。

「それに、ロウシェンの王族を目の前にして逃がしてやるほど、こちらも間抜けではない」

「……は? なにを勘違いしているの。彼は貴族よ。ただの騎士だわ」

「ほう? 知らなかったのか」

 男が声を立てて笑う。私はついイリスを見てしまった。

 イリスが王族? そんなの、一度も聞いたことがない。名前だって三つだし、田舎の出身だって――みんなだって、ただの騎士として接していたはず。

 ……でも、本当に違和感はなかっただろうか? ユユ姫もハルト様も、やけにイリスの兄弟とか家族構成に詳しそうだったし、ただの騎士を相手にするにしては、みんな丁寧すぎなかったか。メイもホーンさんも、イリスをずっと格上の人みたいに接して……それを、隊長位にあった人への敬意だと受け取っていたけれど。

「僕は王族じゃない。ただの田舎領主の息子だ」

「ああ、こっちの連中は色々と細かい区別をするようだな。だがお前の母親は、現公王の叔母だ。お前は公王と従兄弟だろう。名称がなんであれ、公王にとってお前は身内に変わりない」

「え――」

 ……イリスが、ハルト様の従弟?

 身内って……ああ……以前、ハルト様もそんなことを言っていた。あれは、親しい友人とかそういう意味じゃなくて、そのまま言葉どおりの……。

「お前はお前で、利用価値がありそうだ。もっとも、おとなしく投降するとも思えんがな。さて、どうする?」

 兵士たちが包囲の輪を狭め、迫ってくる。私は我に返った。いけない、こちらが動揺させられてどうする。今は余計なことに気を取られている場合じゃない。

「それ以上近寄ったら……っ」

 手足に力を入れなおして叫びかけた時、力強い羽ばたきの音が降ってきた。

 同時に聞こえる、鋭い鳴き声。きた――! 期待の目を上げる私たちの前に、二頭の飛竜が空を滑って下りてきた。

 近くにいた兵士たちが巨体に吹っ飛ばされた。イシュちゃんとリアちゃんは威嚇の声を上げ、尻尾や爪で敵をなぎ払う。

 メイがそばにいたホーンさんを引っ張ってリアちゃんへ向かった。イリスは問答無用で私を欄干から引き下ろし、やはりイシュちゃんへ向かう。けれどその前に、またも黒衣の男が飛び込んできた。

「イシュに乗れっ」

 私を突き飛ばしてイリスは男と剣を打ち合わせた。

「イリス……っ」

「行け!」

 イリスは逃げようとしない。私が空へ逃げるまで、追手をくい止める気だ。

 ピィ、とイシュちゃんが鳴く。呼んでいるんだ。私は彼女のもとへ向かった。でも、このまま逃げるの? イリスを残して?

 私がこの場からいなくなれば、イリスは川に飛び込んで逃げられるだろうか。私と違って彼なら、この高さから飛び込んでもちゃんと泳いで岸へたどりつけるだろうか。

 すぐにイシュちゃんと救助に向かえば。それなら……。

 私はイシュちゃんの背によじのぼり、イリスに声をかけようとした。逃げるから、そっちも逃げてと。

 でも。

 その瞬間に。

 赤いものが、視界に飛び散った。衝撃によろめいたのは、イリスの身体――右の肩口に剣の一撃を受けて、イリスが後ろへふらつく。さらにそこへ容赦ない追い討ちがかけられる。かろうじてかわしたイリスの身体が、欄干にぶつかった。

「イリス!」

 流れる大量の血。あんなに、たくさん。あの時よりもっとひどく。そんな――あんなに血が流れたら、あんな場所を怪我したら。

 イリスが――死んでしまう!

 何も考えられなかった。冷静な思考なんて頭から吹き飛び、私はイシュちゃんから飛び下りてしまった。イリスのもとへ走ろうとして、途中で黒衣の男にとらわれる。それすらまともに考えることもできず、私はイリスへ手を伸ばした。

「イリス!」

 肩を押さえていたイリスが顔を上げ――けれど喘ぐようにのけぞり、そのまま後ろへかしいでいく。欄干は彼の身長を支えられるほどの高さはなく、ずるりと上を滑り、向こう側へ落ちていく。

「イリス――いやぁっ!」

 イシュちゃんが羽ばたいて、落ちていくイリスを追った。私も必死に手を伸ばす。でも追えない。黒衣の男にとらえられ、一歩も踏み出せない。

「イリス……イリスっ! いやああぁっ!!」

 取り乱し泣き叫ぶ私に、黒衣の男がうるさそうに言った。

「なんだ? やつと恋仲だったか? あきらめろ。お前は――のものだ」

 なにを言ったのか、まともに聞く気もないしそんな余裕もない。今はイリスのことしか考えられない。イリスが、イリスが死んでしまう。誰かたすけて。あの人を助けて!

 いやだ。お願い、死なないで。いなくならないで。あなたが誰を選んでもいい。たとえ二度と会えなくてもいい。ただ元気に生きていてくれれば、それだけでいいから。だから死なないで。この世からいなくならないで!

「イリス!!」

「うるさい。しょせんは女か……わめくしかできぬなら、永遠にだまっていろ」

 首に圧迫感と息苦しさを覚えた。大きな手が私の首をつかみ、絞めてくる。

「……っ」

 声を出すことはおろか、呼吸さえもできず、私はもがいた。苦しい――目の前が真っ赤になり、そして暗くなる。

 死ぬのだろうか。それでもいい。あの人さえ助かるなら。

 神様、どうか、お願い、イリスを助けて。

 かわりに私の命を差し出すから。私なんて死んでもかまわないから、だからどうかイリスを助けて。

 お願い……。

 足元が揺れたような気がしたけれど、それはただ自分がふらついていただけかもしれない。

 そのまま私の意識は、深い闇へと沈み込んでいった。

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