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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第九部 かよいあう心
103/130



 同じあやまちをくり返してはいけない。

 私は間違いだらけのみっともない人間だけれど、そこから学んで正していけば、いずれはもっとましな人間になれるはず。

 頭ではそうわかっていても、じっさい行動に移すのは難しかった。どうしても我を通したいという気持ちを捨てきれない。

 ……でも、それを捨てないと――捨てられなくても、抑えなければいけないんだろうな。

 すぐそばに手本がいる。メイはもっと辛い状況から己を克服して立ち直った。今の私は、彼女から非難のまなざしを浴びてもしかたがない。どうしてお前はできないんだと、そう言われている気がした。

 この身を苛むさまざまな想い、自己嫌悪や不満などを、涙と一緒に少しずつ流していく。時間をかけてゆっくりと、私は気持ちを落ち着けていった。

 そして今なにをいちばん考えるべきなのか、もっとも重要なことは何なのかを考えた。

 ――誰がやるかとか、どんな手段を使うかとかは、だいじなことではないんだ。

 今、もっとも優先されるべきは、いかにしてクラルス公を助けるか。こうしている間も戦は続いている。戦えばそれだけ死者が増える。一日も早く終わらせるために、アルギリが反撃できる体勢を取り戻さなければならない。クラルス公の居場所を誰がどうやって調べるかなんて、そんなところにこだわっている場合じゃないんだ。

 気付いてみればすごく当たり前のことなのに、ずいぶん遠回りしてようやくそこにたどりついた。私はベッドの上に起き上がり、息を吐いた。

 メイはいなかった。しばらく前に出て行く音がしたのは気付いていた。私を気づかってくれたのか、それともそばにいるのがうっとうしかったのかな。多分お風呂に行ったのだろう。

 乱れた髪をなでつけながら、私はベッドから下りた。窓辺に洗面用の(たらい)がある。冷たい水で顔を洗うと、少しすっきりした。

 窓の外に広がる空は赤かった。近くの木は小鳥のねぐらになっているのか、ずいぶんとにぎやかだった。遠くには海鳥が飛んでいた。彼らももうねぐらへ帰るのだろう。

 竜と違って他の動物は、私が呼びかけないかぎり近寄ってきたりしない。龍の加護の影響力は、種族によって大分違うようだ。

 動物を操る能力なんて、我ながら気持ち悪い。できるだけ使いたくはない。そんな非常手段が必要になる場面は、もう訪れてほしくない。

 私は扉へ向かい、寝室から出た。

 居間には誰もいなかった。反対側の寝室から人の気配がする。イリスとホーンさんはそっちにいるようだ。さっきのことを考えると気後れするけれど、もう一度話し合う必要がある。ホーンさんも交えれば、冷静な意見を聞かせてもらえるだろう。今、どう動きべきなのか、彼らと相談するべく私は向こうの部屋へ向かった。

 扉の前に立つと、彼らの話し声が聞こえてきた。入るのにやはり気後れして、そこで立ち止まってしまう。しばらくふたりの会話に耳を傾けて、これって盗み聞きになるのかなと思いつつ戻るか入るかためらっていたら、耳を疑うようなことが聞こえた。

「――そんな感じで、どうにかアルギリの皆さんとは話がつきましたよ。あちらさんも、これ以上はもう隠しておけないと悟ってくれたみたいです。協力し合った方がいいのは考えるまでもありませんからね、離宮の見取り図も提供してくれました。はい、これ」

「ありがとう。たいしたものだな。簡単そうに言うけど、向こうも相当渋っただろうに」

「まー、そこはいろいろ説得して。首根っこ押さえられて彼らも切羽詰まってましたからね。いい加減、なりふりかまっちゃいられないでしょう」

「今夜にでも、下見をしてくるか……」

 ホーンさんがすでにアルギリ側と接触していたのだと、今初めて知って驚いた。いつの間に? ああ、でも、イリスとホーンさんは夜間も出かけていた。私には絶対に宿から出ないよう言いつけ、見張りにメイを残して、ずいぶん遅くまで帰ってこなかったっけ。どこへ行ったのかと聞けば、酒場などだと答えていたけれど。

 そこで、アルギリ側の人間と接触をはかっていたのか。

 私がいじけて泣きべそをかいていた間も、ホーンさんは働いていたんだ。離宮の見取り図まで手に入れて、イリスはすでに忍び込む算段をしている。

 恥ずかしかった。彼らが着々と役目を果たしている間、自分は子供っぽい感情にふりまわされて時間を無駄にするばかりだったのだと、情けなくて恥ずかしくてたまらなかった。

 それと同時に、うらめしい気持ちもわいてくる。我ながら本当にどうしようもないと思いつつも、そういった話をいっさい聞かされず、蚊帳の外に置かれたことを恨んでしまった。

 どうして教えてくれなかったの。そう思うのは、やはり子供じみているのだろうか。

 何か考えがあってのことだろう。きっとそのうち教えてくれたはずと、自分に言い聞かせる。それに答えるかのように、ホーンさんが言った。

「姫君にはいつ言うんです? 今夜も黙って行かれるおつもりですか」

 問いかけに、イリスは少しだけ間を置いて答えた。

「チトセには教えない。だまっていてくれ」

「そのうちばれるんじゃないかと思いますけどねえ」

「うまくごまかしてくれよ。そういうのは得意だろう」

「そりゃ、やれとおっしゃるならやりますけどね。あんまりいつまでも仲間外れは可哀相じゃないですか?」

「そんなんじゃない」

 イリスの声に、さっきのような怒りの気配はなかった。ただ、普段の明るさも感じられなかった。

「知れば、チトセは自分で動こうとする。普段は亀みたいに引っ込んでるくせに、こんな時に限って猪になる。あぶなっかしくて、教えられないよ」

 …………。

「離宮へも乗り込む気満々だったからな。だまって引き下がりはしないだろう」

「お気持ちはわかりますけどねえ。そうやって、大事にだいじに囲い込んで守るばかりだから、姫君はいつまでたっても子供なんじゃないですかね」

 ホーンさんの言葉がやけに冷たく聞こえて、どきりとした。

「ご本人の自覚ももちろん必要ですけど、イリス様たちにだって責任がありますよ。甘いんです。過保護に甘やかしすぎなんですよ。ちょっとでも危ないことがあれば、そこから遠ざけようとするでしょう。転ばなきゃ痛みを知らないままだし、何をすれば危ないのかも、経験しなきゃ覚えられませんよ」

「その痛みがささいなことならいいけど、取り返しのつかないことになったらどうするんだ。ちょっとの失敗が命に関わるんだぞ。素人に、チトセにそんな無茶をさせられるもんか」

 鼓動が乱れる。だめだ、これ以上聞いていちゃいけない。そう思うのに足が動かない。

「だから、甘いって言ってるんですよ。これは戦なんですよ? はなから命のやりとりだってわかりきってるんです。敵の懐へ飛び込むのがどれほど危険なのか、言うまでもないことです。それを姫君が、どこまできちんと理解しているのかは知りませんがね。理解しようともせず突っ走って手痛い目にあったとしても自己責任でしょう。判断材料は十分すぎるほどあるんです。いまさら知らなかった、わからなかったなんて言い訳は通用しません」

「お前は……チトセがもし死んでもかまわないと言うのか?」

「かまわないなんて思っちゃいませんよ。けど、そうなったとしても仕方がないと言ってるんです。うちの室長がいたら、きっと同じことを言いますよ。あなたも陛下も姫君をただ守って甘やかすことしかしない。それじゃあ成長なんて望めません。人を成長させるのは経験です。もしその過程で命を落とすことになったとしても、そこまでの運命だったという話です。残念ではありますが、しょせん大成しない人間だったというだけの……」

「やめろ!」

 激しい音が聞こえた。イリスが机か何かを叩いたのだろう。びくりと私は飛び上がった。

「そんなふうに、人を切り捨てるのは……」

「これがうちの方針です。生き残れる奴だけが役に立つっていうね。そのくらいでないと、一線で使える人材なんて育ちません。姫君にそれをさせる気がないなら、最初からここまで連れてくるべきじゃなかったんです。イリス様が悪いんですよ? 適当にそれらしい活動させて姫君を満足させておいて、本当に危険な任務は陰でこっそり片付けておく、なんてずるいこと考えるから」

 次から次へと私を揺さぶる言葉が出てきて、もう頭が追いつかない。イリスが私を支持してくれたのは、理解からじゃなかった? 私をなだめるために、適当に調子を合わせていただけだというの? 私は、本当は遊びに来ていたのと変わりなかった……?

 脚がふるえて崩れ落ちそうになった。身体が冷えて、めまいがする。その場を立ち去ることもできず、動揺する自分を必死におさえていた私は、室内の会話が止まったことに気付かなかった。

 いきなり目の前の扉が開かれ、私はまた飛び上がった。出てきたイリスは外にいたのが私だと知り、やはり驚いていた。

「チトセ……」

「…………」

 互いに言葉が出て来ない。あまりに気まずすぎて、何をどう言えばいいのかわからずに見つめ合う。

 室内に視線をずらせば、ホーンさんがいつもと変わりなく笑いかけてきた。

「聞いてたなら状況はおわかりですね。イリス様は今夜離宮に忍び込んで下調べなさるおつもりです。どうします? 姫君も一緒に行きますか?」

「ホーン!」

 振り返ってイリスが叱りつける。それを気にも止めない顔でホーンさんは私を見つめる。いつも朗らかなちょっと軽い人――そう思わせて、実はとてもシビアな内面を持っているのだと、いまさらに思い知る。

 私は静かに息を吐き、声が震えないよう気を落ちつかせて答えた。

「……行きません」

 行くなんて、言えるわけがなかった。

 誰もがわかっていたことだ。わかっていなかったのは、私だけ。そんな危険な任務を果たせる能力が、私にはまったくないことを。

 無茶でもなんでも経験しなければ成長しない、とホーンさんは言ったけれど、今ここで私が無茶をやらかしたところで成功はしないと思っていただろう。さんざんイリスの足を引っ張って迷惑かけるか、さもなくば戻ってこられなくなるか……。

 どうするか、と問いかけたのは、まだ行くと言い張るのかという意味だろう。この期に及んでも現実を理解できないのかと。

 イリスのように叱らない。怒鳴りもしなければ、怖い顔も見せない。けれどホーンさんの言葉がなによりいちばん強く鋭く、心を突き刺した。否応なしに理解させられた。

 不思議と、反発は感じなかった。ひどく落ち込みながらも、否定できない現実なのだと受け入れられる。ここで私が我を張れば迷惑どころではすまなくなる。それをはっきり容赦なく指摘されるのは、気落ちすると同時にどこかすっきりする思いだった。

 危ないからだめだと言われても、納得できずに反発して、なんとか頑張ってみせると逆らってしまった。やりたきゃ勝手にやったらいいよ、でも死ぬよ。知らないよと、突き放されてはじめて自分の愚かさを知る。結局、常に心のどこかで、危なくなったら助けてもらえるという甘えがあったのだ。

 私はイリスに目を戻した。

「今夜、行くの?」

「……ああ」

 ためらってからイリスはうなずく。何か言い訳でもしようとしているのか、言葉をさがすようすの彼に、私は首から抜き取ったものを差し出した。

「持って行って」

 細い銀の鎖に通した男物のシンプルな指輪は、以前クラルス公からもらったものだ。宝石も何もなく、アルギリ王家の紋章だけが彫り込まれている。

 使えるかどうかわからない。でも、もしアルギリの人がいたら、味方だと信じてもらう材料になる。

「役に立つかわからないけど、一応伝えておく。見回り兵の交代時間は日付けの変わる頃と、夜が明けた頃。最近兵士たちも疲れと中だるみが出てきたみたいで、交代の時間が待ち遠しいようだから、ちょうどその頃だと気がそれていて、警備が緩むんじゃないかと思う」

「……ありがとう」

 イリスは鎖ごと指輪を握り込んだ。

 他に何か伝えられることはないかと考えるけれど、出てこない。もっとたくさん、役に立つ情報を得られていればよかったのに。

 役立たずの私には、ありきたりな言葉しか伝えられない。

「気をつけて」

「ああ」

 ようやくイリスは微笑んで、身をかがめた。私の頬に手が添えられ、顔が近づいてくる。いつものアレかとぼんやり待っていたら、なぜか途中で動きを止めてためらっていた。微妙に視線がさまよい、それから頬にくちづける。もう怒っていない、いつもどおりの優しいぬくもりだ。

「何か、非常食持って行った方がいいんじゃないかしら。女将さんに頼んでかさばらないもの用意してもらってくる」

 私は踵を返して廊下へ向かった。イリスが何か言いたげなのを、気付かないふりで振り切った。こっちも言いたいことや謝りたいことがある。でも今長々と話し込んではいられない。彼が戻ってきたら、じゅうぶんにねぎらって、それからもう一度話し合おう。

 うつむいてしまいそうになる顔を懸命に上げて、私は足早に歩いた。




 イリスは大丈夫だろうか。無事に戻ってきてくれるだろうか。

 不安を抱え、眠れないまま朝を待っている時、それは起きた。

 もう深夜というより未明というべき時刻だろう。突然宿の中が騒がしくなり、私はなにごとかと身を起こした。隣のベッドで、やはりメイも起き上がっている。彼女も眠れていなかったようだ。

「なにかな……」

「しっ」

 聞きかけた私をメイが制する。ふたりで耳を澄ませていると、各部屋を回る物音と人声が聞こえてきた。大勢の人間が騒々しく歩き回っている。

 私たちの部屋にも荒々しいノック音が響いた。

 身を固くする私のかたわらで、メイが剣を引き寄せる。ホーンさんが応答するのが聞こえた。

「はいはい……なんですか、こんな時間に」

 どやどやと入ってくる足音がする。その中に混じる、金属の触れ合う音に気付いた瞬間、私はメイの手から剣をひったくった。驚く彼女に無言で首を振り、布団の中に隠す。短い髪にショールをかぶせた直後、寝室のドアが乱暴に開かれた。

「あ、ちょっと! やめてくださいよ!」

 ホーンさんの声を押し退けるように、数人の兵士が踏み込んでくる。私はおびえたふりでメイにすり寄った。メイも私を抱きしめ、乱入者をにらみつける。

「……女たちだけか」

「おい、もう一人男がいるはずだろう。そいつはどうした」

 兵士が振り返って聞く。その向こうに、ようやくホーンさんの顔が見えた。

「飲みに行ってますよ。帰ってこないところを見ると、適当な女をつかまえてしけこんでるんでしょう」

 イリスのことが話に出て、どきりとする。私は思いきって口を開いた。

「ホーリー、なにごとなの」

 お嬢様の演技で聞けば、ホーンさんも調子を合わせて答えてくれる。

「ただの宿改めですよ。何があったのかは知りません。こっちが聞きたいくらいで……本当に、なにごとです?」

 最後は兵士に向けた問いだ。もう一度部屋をぐるりと見回した後、兵士は横柄に答えた。

「離宮に賊が侵入した。仲間がいるようなので、調べているところだ」

 彼らの前で露骨に表情を変えてしまわないよう、必死に自分を抑えなければならなかった。もしかしたらと思ったとおりの言葉だ。イリスは見つかってしまったのだろうか。

「お城を狙うとは、大胆な賊ですねえ。いやでも、まさか私らが仲間だなんておっしゃらないでくださいよ? こちとら身元はしっかり証明できます。お嬢様はジーナの老舗宝石店の一人娘です。おかしな連中とはいっさい関わりありませんから」

「もう一人の男は何者だ?」

「用心棒に連れてきた傭兵くずれですが、もう何年もうちで働いてますからね。いまさら妙な真似なんぞするはずがありません」

 兵士たちとホーンさんが居間の方へ戻っていく。私は戸口まで行って、寝室からは出ずそこから彼らのやりとりを見守った。

「どこへ行ったかは、はっきりしないんだな」

「そりゃあ……そんな詳しくは聞きませんし奴も言いませんよ。どこぞの酒場だと思いますけど」

「イシュトってば、まだ帰ってないの? もう、だからあんな遊び人はいやだったのに」

 怒った声で割って入れば、さすがの順応力でホーンさんはさらりと乗ってきた。

「なに言ってんです、顔がいいからって気に入っていたのはお嬢様でしょう」

「べっ、別に、あんな女ったらし!」

「もう五年すればお嬢様も相手してもらえると思いますけど、いやーでもあいつはオススメできませんねえ。女癖が悪すぎますからねえ。ま、まず旦那様がお許しにならないでしょうね」

「ちがうって言ってるでしょ!」

「ああ、もう、くだらん話をするな」

 うるさそうに兵士が舌打ちしてさえぎった。

「おい、さっさと次行くぞ」

 他の兵士が声をかける。彼らは就寝中に乱入したことをひと言もわびず、どやどやと出ていった。最後に宿の人がお騒がせしましたと頭を下げにきた。そちらこそご苦労さまですと答え、ホーンさんは扉を閉める。

 静かになった室内で、最初に声を出したのはメイだった。

「イリス様が……見つかったのか……?」

「まだわからないな。別口って可能性もあるよ」

 抑えた声に、ホーンさんも小声で答える。私もうなずいた。

「もしイリスが捕らえられるかどうかしたのなら、私たちが見逃されるはずないわ。多分つかまってない。さっきの連中は侵入者の特徴をくわしく伝えたわけじゃないみたいね。もし聞いていたら、宿の人にはイリスだってすぐにわかったはずよ。発見されたけれど無事に逃げたのか、それとも別の――そうなるとアルギリ側のってことになるけど、工作員が発見されたのか。そんなところだと思う」

 胸がさわぐ。大丈夫と言いながら、内心はちっとも安心なんてできなかった。

 朝になって、ちゃんとイリスが帰ってくればいいけれど……もし、戻ってこなかったら……。

 私は洗面用の盥に向かい、水を入れて髪を濡らした。

「チィ? なにを……」

 いつものように髪を巻いていく。どうする気なのか、見ていてすぐにわかったようだ。

「まだやる気なのか?」

 とがめる声に、手を止めないまま言う。

「もし、イリスが戻ってこなかったらどうする? そのままあきらめて私たちだけで帰るの?」

「それは……」

「そうするべきだと思うなら言ってください。でも私は、もう少しくわしいことが知りたい。だから止められないなら、このまま動きます」

 ホーンさんを見る。彼は珍しく真面目な、難しい顔をしていたが、そうだねとうなずいた。

「できるとこまではやってみるのもいいんじゃないかな? ただし、それなりに危険がつきまとうよ? それは覚悟の上だね? 言っとくけど俺は荒事はからっきしだからね。メイリだって一人じゃ荷が重すぎるだろう」

「ええ。できるだけ、危ない状況にはならないように心がけますけど……イリスを置いて逃げ帰る気には、とてもなれなくて」

「ん、そこは俺も同感だよ。といっても、いざとなったら見捨てる覚悟も持たなきゃいけないけどね。できるところまで、でいいかな?」

 いつもと違う口調は、彼がそれだけ本気で私に語りかけているということだろう。いざとなったらイリスを見捨てる――本当にそれが私にできるだろうかと、自信はなかった。でも、私がぐずぐずしてそのせいでメイとホーンさんまで危険にさらしてしまったら、もっと取りかえしがつかない。意識して、そこを自分に言い聞かせる。私ひとりが死ぬのはいい。でも彼らは……少なくともメイは、きっと最後まで私を守ろうとしてくれるだろう。私ひとりの問題で済まない話だから、どこかで、覚悟は決めないといけない。

「……はい」

 私はうなずいた。ホーンさんもうなずき返す。メイもそれ以上は何も言わなかった。敬愛する上官を、そして恋い慕う人を、彼女だって本当は見捨てたくなんかないはずだ。

 イリスを助けたいという気持ちはみんな一緒だった。ただ、どこまで動けるか……それは、やってみないとわからない。

 私たちは朝を待った。すっかり明るくなり、部屋に朝食が運ばれる頃になってもイリスは戻らなかった。そのまま昼まで待った。遅くに濡らした髪もすっかり渇き、きれいなカールが復活していた。空腹なんてまったく感じないけれど、メイとホーンさんに食べるよう言われ、どうにか昼食を詰め込んで、それでもまだイリスが姿を見せることはなかった。

 ――これだけ待っても帰ってこず、連絡のひとつもないということは、やはり何らかの異常事態が発生したのだ。

 私は決心して、立ち上がった。身支度を整え、宿を出る。メイとホーンさんもだまって支度をし、ついてきた。

 道行く人々は昨夜のさわぎを知っているのだろうか。特におかしなようすはなく、いつもどおりに見える。私は広場の階段に腰かけ、歌うこともなく行き交う人々を眺めていた。

「今日は歌わないのかい?」

 顔見知りのおばあさんが声をかけてきた。近くの店のご隠居さんで、売り物のお菓子をくれたこともある。私はこんにちはと挨拶した。

「ちょっと、気が乗らなくて……ゆうべ宿に警備兵がやってきて宿改めをしていったんですけど、おかげで寝不足で。なにがあったんでしょうねえ」

「ああ、明け方前騒がしかったのはそのせいかい。そういえば、今日はやけに兵が目につくね。いやだよ、最近は戦争だの何だのと、物騒な話が多くて」

 おばあさんはまた私にお菓子をくれた。気が向いたら歌っておくれと、控えめなリクエストをして戻っていく。いい人だな。お礼に歌おうかと思っていたら、また声をかけてくる人がいた。

「ミカ、ミカ」

 聞き覚えのある声にはっとなる。あわてたようすで、周りを気にしながらコーシーがこちらへやって来た。

「あら……こんにちは」

 私も彼の周囲を見回す。いつも一緒だったイジャンの姿がなかった。

「今日はひとり? イジャンはいないのね」

「いつでも一緒ってわけじゃないよ。今日は組み合わせが違うんだ」

「そう」

 それはよかった。正直、昨日みたいなことになったら困るので、イジャンとはあまり顔を合わせたくない。彼がいないと知って、メイも少しほっとしているのがわかった。

「あいつの方がよかったか?」

 むくれるコーシーに笑顔で答える。

「ううん。本当言うと、あの人の強引さにはちょっと困ってたから。贔屓にしてくれるし、ありがたいとは思ってるんだけど……ちょっと、ね」

「そうだろう? そうだろう!」

 我が意を得たりとコーシーは身を乗り出した。

「あんたも本当は迷惑なんじゃないかって思ってたんだ! あ、俺はあいつみたいなことはしないぞ。安心してくれよ」

「ええ、あなたはいつも優しいものね。そうだ、ひとつ聞きたかったんだけど、ゆうべ兵隊さんたちが宿に踏み込んできて、離宮に賊が入ったからって宿改めしてったのよ。それって、まだ賊がちゃんとつかまってないってことよね? 大丈夫なのかしら。いったいどんな賊だったの」

 楽器を調律するふりをしながら、ホーンさんが聞き耳を立てているのがわかる。メイもこちらを見ていた。顔つきが怖いよ。そんなに緊張していたらあやしまれるよ。

 幸い、コーシーはそこまで見ていないようだった。あー、と苦笑する。

「コソ泥だと思うんだけどさ、逃げ足がやたらと早くてつかまらなかったんだよ。ただの小物だ。どうせたいしたことはできないから心配するな」

「そう? ならいいんだけど」

 泥棒くらいであんなに物々しい宿改めなんてしないだろう。すぐにばれる嘘なのに、これでうまくごまかしたと思っているようだ。この男、あまり深くは考えないたちらしい。

 でも、つかまっていないというのは本当だろう。そんな嘘をつく理由はない。だったらイリスは、まだ無事なのだと安心できる。

 ひそかにほっと息をつく私に、コーシーはそれよりも、と言った。

「あんたに急いで知らせたいことがあったんだ。もうじきこの近くを、偉いお方が通りがかる。昨日言ってただろ? 偉い人の前で歌いたいって。さすがに離宮に入れてやることはできないけど、歌声がお耳に止まればこっちへ来てもらえるかもしれないぜ」

「……まあ、本当?」

 得意気にコーシーはうなずく。

「見回りに来ておられるから、あんまりゆっくりはしていかないと思うんだけど、褒美くらいはくれるんじゃないかな。うまくすれば、離宮へ呼ばれるかもしれないぜ」

 離宮へ入れる……それは、とても魅力的な話に思えた。

 でも、どうなんだろう。今はイリスを信じて待つべきだろうか。うかつに入り込んだら、今度はこっちが危なくなるかも。

「それを教えてやりたいと思ってよ。本当は休憩時間じゃないんで、こんなことしてるの見つかったらどやされるんだけど」

「そうなの、わざわざありがとう。本当にいい人ね」

 コーシーはでれでれしながら、しかししっかりと私の手を握ってきた。

「その代わりって、言っちゃなんだけど、今度俺とだけ会ってくれないか? イジャンの奴の邪魔が入らないとこでさ。あ、絶対変な真似はしないって約束するから」

「……ええ、いいわ。あなたとなら、落ちついて話せるし。食事でもご一緒しましょ」

「本当か? やった! 絶対だぞ、約束だからな!」

 子供みたいに顔を輝かせるコーシーを見ていて、ちょっと罪悪感にかられた。この人は純粋に好意を持ってくれているのかもしれない。でもこの約束を、私は守る気はない。

 ごめんなさいと、心の中であやまった。イリスが聞けば、また甘いと叱られるだろうか。

 離れた場所からコーシーを呼ぶ声がした。多分今日の相棒だろう。怒った声に呼ばれて、コーシーが「それじゃ、またな!」とあわてて走って行く。私は手を振って見送り、ホーンさんたちに振り返った。

「……どうしよう、歌った方がいいと思います?」

 うーんと、ホーンさんは首をひねった。

「まあ、いいんじゃないかな? そう簡単に離宮へ呼ばれたりしないだろう。侵入者騒動があった直後なんだしね。これまでのところ、目についた女をさらって行くような真似はしてないみたいだし。あちらの偉いさんってのがどんな奴なのか、顔を拝んどくのもいいかもしれない」

「そうですね」

 そうと決まれば。メイにうなずき、彼女も心得て立ち上がる。私たちはにぎやかに音を鳴らし、これまで特に評判のよかった歌をうたった。

 すぐに通る、とコーシーは言ったけれど、三曲歌い終えてもそれらしい姿は見かけなかった。スルーされちゃったかな? そろそろバラードにするかと思い、私はお菓子屋のご隠居さんが好きな歌をうたうことにした。

 バラードというか、小学唱歌だ。日本人なら誰もが知っている、「ふるさと」がおばあさんのお気に入りだった。

 近くにいるエランド兵もこの歌を聴いて、里心をつけてくれないかな、なんて考える。いや、そういうのも馬鹿にならないと思うよ? すでに長く故郷を離れ、疲れも出始めている頃に里心のつく歌なんて聴いたら、士気は下がるだろう。

 私自身この歌をうたうと切ない気持ちになるのだけれど、その分情感は込められる。目を閉じ、日本の風景を思い出そうとしたのに、浮かんだのはなぜかエンエンナの山と宮殿だった。あそこで待っている人たちを思い出しながら「ふるさと」を歌った。

 三番まで歌ってもすぐ終わる。短い歌を終えて拍手におじぎをし、顔をあげた私はそのまま固まってしまった。

 目の前に、おそろしく背の高い男が立っていた。

 アルタと同じくらいかもしれない。漆黒の軍服に身を包んだ、存在感と威圧感にあふれた姿に息を呑む。

 見下ろしてくる顔は若かった。やはりアルタと同じくらいか、少し下か。怖いほどの鋭さがあるが、顔だちそのものは端整だ。

 髪も目も黒い。全身黒ずくめの恐ろしげな姿に気押されつつも、私は奇妙な既視感を覚えていた。

 この人……どこかで、見た……?

「お前……」

 響くような低い声が、男の口から漏れた。

「その歌を、どこで」

「え……?」

 にらまれているのだろうか。迫力に腰が引ける。男の言葉を反芻し、内心首をひねった。

 なんだか、彼もこの歌を知っているかのような口ぶりじゃないか?

 そんなはずはない。これは日本の、私の世界の歌だ。この世界で知る人なんているわけがない。この町へ来る前に歌ったことはないから、他で耳にすることなんてありえない。

 でも、彼は知っているような雰囲気だ。どういうこと?

 不意に頬に痛みが走った。男が大きな手で私の顎を捕らえ、上向かせる。強い力で食い込んでくる指に、顔をしかめてしまう。

「黒髪に、黒い瞳……そうか、お前が……」

 くっと男の喉が鳴る。無表情な顔に凄味のある笑みが浮かんだ。

 なに? いったいどうなっているの。この男はだれ? なぜこんなことをするの。

 どう反応すればいいのかはかりかねて困惑する私に、男は低く笑い声を立てると、心臓を止めそうなひとことを放った。

「――お前が、龍の娘か」

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