猫伽草子
本作は、真夏のホラーフェア参加小説です。
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猫又――。
猫が長寿して妖怪化したもの。
長生きした猫はやがて、尻尾が二股に裂け、人間の言葉を理解する。
時に、世話になった家に戻り、恩返しをする、所謂良い妖怪。
「あれ?手紙が届いてる」
ある日、荻野邑音の元に届いた一通の手紙。
この時間に郵便物が届くことは、滅多に無い筈なのだが。
その手紙は、只、“荻野邑音様”という宛名と住所が書いてあるだけで、差出人の情報はまったくない。
其の上、それは果たして、手紙と呼んでも良いのかと迷うほどに、はちきれそうに膨らんでいた。
邑音は鋏を使って封筒を開け、机の上でひっくり返して中身を見る。
「っ!!」
邑音は思わず息を呑んだ。
中から出てきたのは、おびただしい量の赤いクレヨン。
メーカーや長さもまちまちだが、赤だけを集めて入れてあり、その光景は、机の上に血溜が出来たのではないかと、錯覚するほどに、紅く、不気味だった。
りん。
何処からか、涼やかで風鈴のように透明な、鈴の音が聴こえた。
*
「でねっ、昨日そんなことがあったのよ!」
開口一番、邑音は親友のヨモギに、昨日の不気味な手紙の事を話した。
「えー、やだ気持ち悪い」
柳川蓬は、邑音の親友で、頭の良さも然る事ながら、その名を聞いて皆が思い浮かべるのは、抜群の運動神経だった。 蓬のすらりと伸びた手足は、猫のようにしなやかで、友人達から『ヨモギなら窓から落ちても、猫みたいに回って着地できるねー』等と言われている程だった。
そうして邑音と蓬が話し始めたところで、後ろから別の人物が声をかける。
「気をつけて。赤は警告。危険の色」
その声と台詞に、邑音は心中で渋面した。声を掛けてきたのは、伊勢真架。
真架はいわゆる『かわりもの』の部類だった。 話の内容と、少しも茶が混じっていない、漆黒の髪の毛も手伝って、魔女のような印象を感じさせる。
蓬が人なつこい三毛猫なら、真架は不吉な黒猫だ。
「早く思い出してあげないと。緋色の好きな、女童」
真架の言っている意味が、邑音にはまったくわからない。
邑音は真架を無視し、反対の方向へ踵を返した。
それでも、赤は警告、という真架の言葉が、頭の隅に引っ掛かる。 ――余計気味悪くなったじゃない。
真架はどうせ当てずっぽうで言ったのだろう、と思っていても、気持ちの悪さは変わらない。
邑音はほんの少し腹を立てながら、別の話題に移ろうと口を開きかけた。と、
「ねえ、さっきの話。何か覚えないの?赤いクレヨン」
蓬に言われて、邑音は考える。
赤いクレヨン……。
「――?」
何か、頭に引っかかるものがあった。
何か、自分が忘れているもの。忘れようとしたもの――。
りん。
頭の中で、再びあの鈴が鳴った。
風鈴のように涼やかな音色で、普通の鈴とは少し違う。
沢山の鈴を一斉に鳴らしても、それだけは区別出来るような、特徴的な音だった。
「んーわかんないや。鈴の方は聞き覚えがある気がするんだけど…」
「ふーん?」
「まあ何だか知らないけど、大丈夫よ。質の悪いイタズラでしょ」
邑音は気丈に言い切った。
だが。
「……」
その日、学校から帰宅した邑音を待ち受けたのは、玄関の床に書かれた赤い文字。
『ヒトゴロシ』
一瞬、血文字なのではないかと、目を疑った其れは、紛れも無く、赤いクレヨンで描かれていた。
「なによこれ……」
悪戯や嫌がらせにしては度を越えている。
それよりも、この文字が玄関に書かれていることの、意味することは。
「誰か、家の中に入った……?」
りん。
突然、邑音の背後で鈴の音が鳴った。
「!」
驚いた邑音は後ろを振り返るが、誰も居ない。
ぴたりと不気味に閉じられた、玄関の扉があるのみだった。
得体の知れないものに対するおぞましさに、邑音の体を悪寒が駆け抜ける。
気味の悪さに、邑音は玄関から家の中へ走り出した。
深呼吸をして、自分を落ち着かせる。
こんなときに限って、家の中に家族は誰も居なかった。
「人殺しって……誰も殺したりしてないわよ」
間違いなく、自分は人殺しなどしていない。
その事実に邑音は力を得ると、あの文字を消そうと、お湯で濡らした雑巾を持って、恐る恐る玄関へ向かった。
まだ夕方なのに、玄関は異様に暗い。
ぐっと拳に力を入れ、勇気を振り絞って、邑音はあの紅い文字を見ようとした。
「…!あれ……?」
文字は消えていた。
*
「おはよう」
「…おはよ……」
翌日の朝の挨拶。昨日、一睡も出来なかった邑音は、元気がなかった。
「どしたの?元気ないじゃん。また、あの赤いクレヨンとか?」
蓬は冗談交じりにそう言ったが、当たっているので笑えない。
「そのまさかだよ…また来た」
「え?」
「玄関にさ、赤いクレヨンで『ヒトゴロシ』って」
昨日の事を思い出した邑音の顔は、みるみる真っ青になっていった。
血痕のような、紅い文字。書いたのは誰?私は一体、どうなってしまうのだろう……――。
「殺されちゃうよ?」
「!!」
そう言ったのは、真架だった。
「殺されちゃうよ、このままじゃ。死霊の代弁者に殺されちゃうよ……」
「やめて!!」
邑音は叫ぶように一喝し、真架の声を遮った。
「大丈夫?邑音」
「ん……」
こんな時、心配してくれる蓬の存在が嬉しかった。
「伊勢ももっとマシな冗談言いなさいよ、まったく。邑音、ホントに心当たりないの?」
昨日から考えているが、思い当たる節はまったく無かった。
「卒業アルバムとか見てみたら?この学校とは限らないじゃん」
「あ…そっか」
それは確かに良い考えかもしれない。
邑音は、その日、帰ってから早速小学校の卒業アルバムを棚から出した。
ページを捲る内に、一人、見覚えの無い子がいるのに気づいた。
記憶力は悪いほうではない。
むしろ、同じクラスになった人間なら、顔を見れば、ちゃんと名前が出てくる自信はあった。
ところが、その女の子に関しては、何も思い出せない。
まるで、記憶がまるごと抜け落ちているように。
見覚えのない女の子は、何時も邑音の側に写っていた。
小学一年生から、三年生の写真だ。それ以降のページには写っていない。転校でもしたのだろうか。
「お母さん、この子知ってる?」
邑音は、母に訊いてみた。
「どれどれ?あ、この子……」
母の顔が、悲しそうに曇った。
「覚えてない?笠野みおちゃん。三年生の時に交通事故で死んじゃってね…」
「え……」
それで、三年生以降はアルバムに載っていなかったのだ。
「結構邑音と仲良かったのよ。確か、事故にあった時も、邑音と羽海ちゃんが知らせてくれたんじゃなかったかしら」
羽海と言うのは、小学校の時の邑音の親友だ。
地区が違うので、中学は離れてしまったが、今でも週末は二人で遊ぶことが多い。
「……」
邑音は、笠野みおの写真を見て、記憶を掘り起こそうとする。
仲の良かった子で、事故にあった時、自分と羽海が知らせた?
全然、思い出せなかった。
そんなに大変なことがあったのなら、絶対に覚えている筈なのにもかかわらず。
「お葬式の時なんか、邑音パニックになっちゃって。でも、ショックが大きすぎて、忘れちゃったのかもね……」
そう言うと、母は立ち上がった。
「あ、お刺身買い忘れた。ちょっと買い物に行ってくるわね」
「行ってらっしゃい…」
見送りもそこそこに、羽海に電話しよう、と邑音は思った。
思えば、今まで一度も羽海とそんな話をしたことは無かった。
邑音が受話器を取ろうとした、その瞬間、急に電話が鳴り出した。
「……!」
プルルルルルル、プルルルルルル。
狂ったように、電話は無機質な電子音を吐き出す。
なんとなく、電話を取るのが躊躇われた。
邑音は、電話から体を離し、手だけを伸ばして受話器をを取る。
「もしもし」
相手は、羽海の母だった。邑音がほっと、胸を撫で下ろしたのもつかの間、
「え……?」
羽海が死んだ、と言われた。
一瞬、邑音は自分の耳を疑った。
羽海は下校途中に、文房具屋へ突っ込んできたトラックの事故に巻き込まれたそうだ。
羽海は即死。トラックにぶつかられて、棚から撒き散らされた赤いクレヨンが、羽海の血と共に現場に散らばっていたらしい。
「赤い…クレヨン…?」
『殺されちゃうよ?』
唐突に、真架の声が頭に響いた。
まさか、羽海のところにも、赤いクレヨンが送られてきたのではないだろうか。
りん。
電話の奥から、あの鈴の音が聞こえてきた。
いや、電話を通しては、鈴の音は聞こえない筈だ。
ならば、この音はどこから……?
赤いクレヨン、鈴、笠野みお。
わからない。思い出せない。
――いや、思い出したくない――?
涼やかに、耳元で透明な鈴の音が唄う。早く、早く思い出さなければ。
こつっ。
と、階下から物音がした。母だろうか。しかし、こんなに早く帰ってくる筈はない上、母なら絶対にチャイムを押してから中に入る。
こつっ。
風で家が軋る音かもしれない。
邑音は、下に降りて、音の正体を突き止めるのが嫌で、自分にそう言い聞かせた。
こつっ。
何故か、家の中の温度が急激に下がった気がした。
こつっ。
「――っ」
泥棒かもしれないし、と邑音は階下へ降りることにした。
得体の知れない恐怖に怯えるよりは、正体を突き止めたほうが良いかもしれない。
ゆっくり、ゆっくり、階段を降りていく。
一階には、凄まじい密度の闇が広がっていた。
階段の明かりがあるのに、一階の様子は何も見えない。
暗いというより、深い闇。さながらそれは、底なしの沼のような。
電気を、つけた。
電球からこぼれだす光が、闇を跳ね除ける。
「なんだ、何もないじゃん」
邑音は早く上に戻ろうとして、くるりと、もと来た方向へ振り返った。と、
赤いクレヨンが落ちていた。
「ひ……っ!」
一本、二本、七本、十本。
ざらっ、と夥多な量の赤いクレヨンが邑音の足元に散らばっている。
自分の身に起こっていることは一体何?
邑音は思わず後ずさる。
脚が、何か温かい物に触れた。
猫だ。大きな三毛猫。
どうして飼ってもいないのに、家の中に猫が?
それよりも、この猫は……。
*
凛、と涼の音が鳴る。
あれは、今から九年前、小学校三年生の夏――。
邑音と羽海、そして笠野みおは、毎日のように仲良く遊んでいた――様に見えた。
最初は三人とも仲が良かったのだが、その頃には、仲が良いのは邑音と羽海だけで、みおは二人に陰でいじめを受けていた。
どうして、みおをいじめたのかは、もうわからない。
只、おとなしく、大人受けの良いみおが、なんとなく気に入らなかった。
無視や、いわれの無い暴力はもちろんのこと、特に、二人が執拗に攻撃をしたものは、みおのクレヨン。
みおは、赤い色が好きだった。
クレヨンや絵の具では、真っ先に赤いクレヨンが無くなる。
みおの両親が、あらかじめ、他の色より多めに赤を買っておいても、其れは同じだった。
けれど、赤いクレヨンが早く無くなった理由は、それだけではない。
邑音と羽海が、その大事なみおの赤いクレヨンを、次々と折っていたのだ。
一体何本折ったのだろう。
折っても折っても、みおは直ぐに、新しいものを買い足した。
しかし二人は、その度に折り続けた。
事が露見しないように、みおが落とした等と、様々な嘘をつき、みおの両親と仲良くなって、容疑が自分達に向かないようにした。
みおは、元来のおとなしい性格が災いして、教師や親にうったえることが出来なかった。
いじめは、完璧なまでに、水面下で行われていたのだ。
だが、どんなにいじめられていても、みおには邑音と羽海しか、友達がいなかった。
みおは、信じていた。何時かまた、仲の良い三人組に戻れると。
そして、運命の日が来た。
学校の下校途中に起きた出来事だった。
邑音と羽海は、みおを置いて学校から帰ろうとしていた。
みおは走って二人を追いかけ、まさに、手が邑音の鞄に触れようとした、その時だった。
「近寄らないでよ」
どん、と邑音は、みおを突き飛ばした。
その程度なら、いつものこと。
しかし、その日に限って、場所とタイミングが悪すぎた。
みおの体は車道に落ちた。
そこへ、大型のトラックが――。
「!!」
現場には、急ブレーキの音と、みおの甲高い悲鳴が響いた。
後に残ったのは、くっきりとした、長いブレーキ痕と、夥しい程の、大量の血。
そして、むっ、とむせ返るような血の海の中に沈んだ、手足が異様な方向へ曲がり、臓物が飛び出した、人間の体。
こんな小さな体の何処に、これだけの血が入っていたのだろう。
「いやあああああああああ!」
邑音がみおを突き飛ばした所為で。
邑音がみおを殺したのだ。
死体となったみおの眼は、じっと邑音を見ていた。
もう息絶えたはずの体に宿った、少し飛び出しかけたみおの眼。
それは、眼だけがまだ生きているかのように、異様な輝きを宿し、ただただ、邑音を見ていた。
目撃者は、邑音と羽海のみ。
二人は、このことを黙っていようと決め、そ知らぬふりを装って、歩道で遊んでいたみおが誤って、道路に転落したのだと話した。
そのまま、共犯関係を結んだ邑音と羽海は、この事件を記憶の奥深くに埋めて、忘れてしまったのだ。
一生懸命に、真っ青を通り越して、白くなった顔をして、泣きながら事件の事を話す二人。
大人たちは、その言葉を信じ、つらい思いをさせるだろうと思って、その後も、詳しく問いただしたりはしなかった。
それが嘘の物語だとも知らずに。
だが、本当は、目撃者はもう一人いたのだ。
みおの飼っていた、大きな三毛猫。
名前は思い出せなかったが、三毛猫は、みおの生まれる前から家にいた、年老いた猫で、みおに良く懐いていた。
そして、目印は、首輪についた大きな鈴だった。
夏のそよ風に鳴る、風鈴のような、透明で、特徴的な音――。
*
りん。
はっ、と邑音は我に返った。
「私が…みおを…」
邑音は全てを思い出した。
悲鳴、禍々しいまでに紅い血の色、鉄分の臭い、突き飛ばした、背中の感触――。
後ろから何かの視線を感じた。
振り返った先に居たのは、一匹の大きな三毛猫。
「あ……」
邑音の周りで鳴っていたのは、紛れも無く、この猫の鈴。
『殺されちゃうよ?』
真架の言葉が蘇る。
『死霊の代弁者に、殺されちゃうよ……』
死霊とは、笠原みお。
それならば、<死霊の代弁者>は、この、猫――……。
「いやあっ!!」
邑音は玄関から、家の外へ走り出した。
真っ暗な闇の中を、当ても無く、只ひたすらに道を走る。
走り続けると、四辻の電燈の灯りの下に、蓬が居た。
「蓬……!!」
息も絶え絶えに、蓬に駆け寄る。
だが。
「近寄らないでよ」
どん、と蓬は、邑音を突き飛ばした。
邑音の記憶の、最後のひとかけらが、嵌る。
三毛猫の、名前は。
「ヨモギ――」
邑音の体が、宙を舞う。
其処へ、大型のトラックが――。
その後――
トラックに轢かれた邑音は、即死だった。
柳川蓬のことを覚えている人は、一人を除いて、誰もいない。
ある人の話では、飛び散った大量の血と共に、おびただしい量の赤いクレヨンが散らばっていたらしい。 そして、現場から、尾の先が二股に分かれた三毛猫が立ち去るのを見たという。
「あーあ……あんなに忠告したのに……」
ホースの水で流されたが、未だに血の痕が残っている道路の四辻に佇むのは、伊勢真架。
「――ねえ?」
少しも茶の混じっていない、漆黒の髪の毛が、風に揺れる。
りん、と透明な鈴の音が、夏の夜空に響いた。