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6:白い世界

 真っ白い季節が、今年もまた巡ってきた。空から降ってきた雪が、地面を覆い隠す。空もすっかり雲に覆われてしまった。

 まるで、世界を綺麗に掃除してしまったみたい。全てを、白く白く磨き上げてしまったかのような世界。

 奏と桜田はその中で取り残された埃のように、寄り添っていた。

 色彩というものが減ってしまったというのに、この季節は寂しいという雰囲気をあまり持てなかった。寧ろ、綺麗と思う。

 白という色がきっと綺麗だからなのだろう。もしくは、白が他をより引き立ててくれるからだろう。

 呼吸というものは、当たり前の存在で忘れがちになっている。しかし、この季節では白という形で現れてくれる。

 桜は枝に雪を纏い、曇り空でもきらきらと光る白い花を咲かせていた。

 桜田はそれをぼんやりと眺めていた。

「あったかい」

奏はつないでいる手に少し力を入れる。彼の手から伝わるぬくもり、隣にいる存在、全てが凍えてしまいそうな奏には暖かくて、嬉しかった。

 桜を眺めていた桜田は隣にいる奏に視線を移した。

 こんなにも寒く、地面だって雪で白く覆われているというのに、2人は当たり前のように桜の木の下に腰をかけていた。

 何をするわけでもない。こんなに寒いのだから、騒ぐ気にもなれない。それに、鳥のように寄り添うだけで十分だった。

「風邪、ひかないか?」

相変わらず抑揚のない声の桜田。でも、心配してくれてるって奏はちゃんとわかっている。心からの言葉だって。

 彼はいつも奏のことを気遣ってくれる。ただ、その気遣い方が不器用でわかりづらいだけで。

 彼はおもむろに着ている上着を脱ぎだした。

 奏も桜田のそれと同じくらいに、彼の心配をしている。でも、彼はいつも自分のことはお構いなし。それに、いつも奏より先に行動を起こしてしまう。

 彼が奏に風邪をひいて欲しくないと思っていれば、奏だって彼に対してそう思っている。

 そうだというのに、奏は彼が肩にかけてくれる上着を拒もうとは思わなかった。

 これはきっと、わがままなのだろう。

 奏は、彼の優しさを感じることが嬉しい。彼の優しさを感じていられるこの時が愛おしい。彼の優しさを感じることが許されるこの空間では、奏の中の彼を心配することや申し訳ないという感情は機能を鈍くする。もう、意味をなさないほどに。

 奏では、そっと彼のぬくもりを感じることの出来る上着に触れる。

 この何にもないような真っ白い世界で、このぬくもりだけが確かに存在するもののように思えた。

 目が焼けるぐらい眩しい光の中で、唯一目を開いて見ることが出来るもののようで、嘘の中に唯一ある真実のよう。

 このぬくもりに触れた奏は、このぬくもりを手放すことなんて出来なかった。

 だからといって、上着を借りた奏が自分の上着を貸すわけにはいかなかった。

 それならと、奏は体を彼に寄せる。布越しのぬくもりがいつも以上に暖かい。

 若干驚いたように桜田の肩が揺れた。

 眠るように目を伏せていた奏は、彼を見上げる。見上げると言うほど、彼は高いところにいたわけではないけれど、なぜかその表現がぴったりだと思った。

「そんな顔しないでよ。風邪、ひかせたくないのでしょう?」

彼が眉を寄せて迷惑そうな顔をしているものだから、奏も拗ねたような顔をする。もちろん、本当に拗ねるわけがない。だって、彼も嫌がっているわけではないと伝わっているから。ただ、本当にどうしていいのかわからなくて戸惑っているだけ。勘違いしてしまうのは表情が乏しいから。

 この真っ白い雪だっていろいろな顔を見せてくれるというのに、彼の表情はどう考えてもそれより少ない。

 とん、と彼の肩に頭を乗せる。奏の絹のように柔らかい髪の毛がまるで蜘蛛の糸のように、彼の体を滑り落ちる。

 彼といるときは自然体でいる奏は、髪をあげることはもちろんしなかった。

 奏が彼の様子をうかがうと、やはりいつものように空を見上げていた。奏も彼の視線をなぞるように空に目を向ける。

 どこまでも青く広い空を、厚い灰色が覆っていた。まるで、その先に隠しておけなければならない秘密があるかのよう。

 奏はこの雲が好きではなかった。

 どうして、空を隠してしまうの?自由な空を見上げることを邪魔するの?

「どうして、空を見上げるの?」

そんな言葉が、奏の口からこぼれた。またかとでも言うようなため息が、すぐそこからした。白い白い彼の反応は、今朝まで見ていた夢のように自然にとけてしまった。

 ため息もつきたくなるだろう。奏自身も、自分が言ったことに呆れてため息が出てきてしまった。それもやはり、空気にとけて今はどこにいったかわからない。

 この質問は奏によって何度もくり返されていた。そして、何度も同じ答えを与えられる。

 まるで壊れてしまった蓄音機が、何度も何度も同じ場所を再生するような、そんな感じだった。

「わからない」

繰り返し聞いた答えに、奏は満足をしていないわけではなかった。ただ、違和感を覚えているだけ。

 確かに彼の答えは決して外れているわけではない。

 この違和感はきっと、曲に合う音色を探すのと同じ。たとえば、桜田が奏でてくれる曲に合う音色は、バイオリンしかないと奏が思うのと同じ。それは奏が思っているだけで、他の人が聞いた時にそれに違和感を覚えるかもしれない。その人は、ピアノしかないと思うかもしれない。

 奏が感じた違和感はそれと同じ。

 彼の「わからない」という答えは、きっと彼にとっては間違いではないのだろ。しかし、奏では違うと思った。彼の持つ答えは、きっとそんなものではない。漠然とした直感。考えの押しつけ。奏の感じている違和感は、今の彼にはそれでしかなかった。

 だから、違和感を口にするべきではない。これは奏が教えては意味がない。これも、結局直感でしかないのだけれど。

 それならば、どうして聞いてしまうのだろう。人に指摘されるまでもなく、奏は気づいている。

 どうして、言葉ばかり簡単に口から出てきてしまう。

 わかっているのに、わかっていても…。

 白い花弁が視界に映る。 花びらかと思ったそれに、奏は手伸ばしてみる。ゆっくりと指先に触れてきたそれの、小さい冷たさに奏では驚いていた。

 今は冬。桜なんてとっくに散ってしまっていたことも、わかっていた。

 確かにそこにあったはずなのに、今は名残しか残っていなかった。

 雪が降ってきた。最近寒かったからいつ降るのかと思っていたところだった。

 彼の肩が小さく揺れる。肩に乗せていた奏の頭が少しばかり浮いた。

 離れたくないと言う思いを抑えつけ、そっと頭を肩から離す。彼の方を見ると、右の目をしきりに手の甲で擦っていた。

 せっかく綺麗な肌なのに、そんなことをしてしまったら傷がついてしまう。奏はそんなことをぼんやりと思いながら眺めていた。

「どうしたの?」

「…雪が」

「目に入ったの?」

彼は擦る手を止めないで小さく頷く。

 当然だろうと奏は思った。あんなにじっと空を空を見ていたら、雪の一つや二つ入らない方がおかしいと思う。

 よほど驚いて違和感があるのか、眠たそうな子供のように、彼はしつこく目を擦っていた。

「そんなに擦っちゃ駄目よ」

擦っている手が伸ばしっぱなしの前髪も巻き込んでしまっている。奏は思わずその手にそっと触れた。擦るのを止めさせなくてはいけなかったから。

 奏は詳しい知識はないけれど、目を擦ると肌と眼球を傷つけてしまうと聞いたことがある。つまり、目を擦ってはいけない。桜田の方が詳しい知識を持っているはずなのに、目を擦ってしまっていた。知識を別として無意識に動いてしまうということが、奏はどこかおかしくて小さく笑ってしまった。

「手が冷たいな」

目を擦るのを止めた彼の手は、奏の手を握っていた。手が冷たいと彼は言うけれど、彼の手だって暖かいとは絶対に言えない。

 彼を見るとまだ違和感があるのか、瞬きがいつもより数倍も多かった。いつも表情が乏しいから、それが珍しくて違和感があって面白かった。ずっと見ていられると思うほどだった。昔、珍しいからくりを見た。オルゴールというもので、仕組みはわからないのだけれど音の鳴るからくり。それを見たときと同じだった。

 目を離すことが出来ない。ずっとずっと見ていたい。

 彼は奏をそんな気持ちにしてくれる。

「心が暖かい、のか」

疑問符が見えるような彼のつぶやきは、奏がよく知っている言葉だった。しかし、彼の口から出てくるというのは違和感だらけで、おかしいと思った。おかしいのは奏の反応だった。違和感を感じておかしいと思うのなら、普通は首を傾げる。そのはずなのに、奏は心臓の音を速くしていた。嬉しいようは恥ずかしいようなくすぐったい気持ちで、混乱していた。

 それを悟られまいと、奏は触れていた手を離す。手には脈があって、心臓の速さと脈の速さは一緒で、そこから彼に悟られてしまう。

 しかし、どうしてあんなつぶやき一つでこんな気持ちになるのだろう。

 目の違和感がなくなった彼は、懲りもせずにまた空を見上げた。同じことをくり返すだろうと、奏はその横顔を見つめる。

 彼は、昔みたいに雪が降ったからといってすぐに追い返そうとしなくなった。あきらめかもしれない。けれど、奏はそばにいたいと思ってくれているのだ信じている。それが勘違いなのか、真実なのかなんてどうでも良かった。

 彼のそばにいられる。それが嬉しかった。それに、彼も嫌がっているわけではない。表情は乏しいが、嫌なら嫌だとはっきりとわかりやすい反応を示す。

 奏は再び彼に寄りかかる。そして、同じように空を見上げる。

 空は雲が覆って見ることが出来ない。奏はこの雲が好きではなかった。

 でも、どうしてだろう?彼がそばにいるだけで、それは少し違って見える。

 空を見上げながら、奏はふと思った。

 比喩で雨は涙。それならば、雪は何なのだろう。

 ゆっくりと、白い結晶は彼の方に舞い降りた。まるで引き寄せられているようだ。

 今度は目を擦らないで欲しい。擦る前に止められるように注意しなければいけないと、奏は彼を睨みつけるように見つめる。

 運良く、雪は目を避け目尻に落ちた。

 なんだ。雪も、涙じゃないか。

 奏はそっと、彼の目尻に留まっている雫を人差し指で拭った。


 たまに鼻についてしまう華やかな庭が、今では無表情。全てが白。まるで何も書かれていない便せんのよう。何かを書かなければいけないとわかっているのに言葉は出てこなくて、所々にインクのシミが増えていく。あの、人を不愉快にするもののようだと、奏は音に耳を傾けながら思った。

「お気に召しませんか?」

音が止まり、違う音がした。夏になると盛んに花が咲くであろう方を見ていた奏は、音のした方に視線を移す。バイオリンを手にした明が、心配をしてるような顔をしていた。

「そんなことございませんわ」

だから桜の君は安心させるように、穏やかに笑ってみせる。世の人は、これを桜の花が咲くような笑顔と呼ぶ。

 場所は、桜の君の自室に接している庭。時は冬の午後。

 桜の姫君は縁側に座布団を敷き星座をしていた。ここが、桜の君のいつもの場所。ここで明の話を聞いたり、バイオリンの音を聞いたりしている。

 安心させようたしたというのに、明の顔は晴れてはいなかった。

 それにしてもと、明に微笑みながら奏は思った。彼にバイオリンはとても似合っている。それこそ、どこぞの舞台で堂々と音楽を奏でている一流のバイオリン奏者のよう。容易にその姿を想像できてしまうのは、幼き頃の記憶からだろうか。

 確かに、一流のバイオリン奏者というのは朔明からしたら、遠いものではないだろう。明のバイオリンの腕は一流並み。有名なバイオリン奏者とも知り合いが多いと聞く。そして、その腕はこの世界では知り渡っている。この世界。財閥、良家、金持ちの世界。つまり、桜の姫君の世界のこと。

「ぼうっとしていましたよ。お体が、よろしくないのでは?」

今日は肌寒くはあると思う。しかし、具合が悪いというわけはない。

 心配顔のままの明は、自分の上着に手をかけていた。

 ソンナノ、イラナイ

 奏は突き放すように首を振る。そして、桜の君は顔を上げまた微笑んでみせる。

「大丈夫ですわ。ただ、あなた様のバイオリンの音に聞き惚れていまして…」

お恥ずかしいですわ。と、桜の君は別に赤く染まっていない頬を隠すように両手で挟む。

「しかし、今日は寒いですから」

奏の意思表示を無視して、明はそっと上着を掛けてくれた。奏は小さく息を飲み込んだ。

 奏は時折、彼が本当に噂の朔明なのかと疑いたくなった。桜の君の目の前に幾度も訪れる朔明と、噂の中の朔明は別人のようだった。

 噂の朔明とは、とても冷たい人だという。いや、人ではない。父親のいいなりの、意志のない操り人形。朔財閥の道具。心が冷め切って凍っている。

 これが陰で囁かれている朔明。

 一方で朔明のことをとても良い評価をする人もいる。寧ろ、そちらの数の方が多い。確かに、朔明には実力も才能もある。評価されるべきの人間で、きっと操り人形だという噂はただのひがみから来るものだとも思える。

 しかし、奏は彼を見たとき気持ち悪いと思った。これは人じゃないと思ってしまった。恐怖すら奏は感じた。

 そして、同じだと、近いものだと感じた。

「お体に障ります」

明は奏の隣に腰をかける。奏は無意識に少し距離を置いていた。

 ここにいる朔明は冷たくなんかなかった。傷ついた小鳥を看病する子供のような過保護すぎる優しさ、そのもののようだった。

 彼はいつでも桜の君の心配をしてくれる。本当に優しい青年だ。普通に見たらそう見えるのだろう。

 しかし、奏はそんな彼を見る度違和感を感じる。頭ではない、心が違うと叫ぶ。そして、その叫びは彼ばかりではなく、自分にも刺さっていることも気付いていた。

「もう、バイオリンはお弾きになりませんの?」

「飽きてしまわれたようなので」

明の声は実に残念そうな響きがあった。しかし、奏は心でその響きを否定していた。

「まぁ、一体誰がそのようなことを思うのです。これほど素晴らしい音、聴くことなど滅多にしか叶わないというのに」

桜の君はおかしそうに小さく笑う。その姿は本当に、良家の愛らしいお嬢様だった。今が冬なのが大変惜しまれるほど、桜が似合いそうだ。桜の君だと呼ばれるのが頷ける。

 灰色の空から、世界を染め上げた白い白い結晶が降りてきた。

 桜の君は目を細めてそれに手を差し伸べる。

「立派な道化だな」

指先に落ちた雪のような、痛いと感じてしまう冷たさが込められた言葉が不意に刺さった。

 奏は思わず手を引っ込ませる。奏は驚いて見開いた目で、隣にいる明を見る。

「どうされたのですか?」

雪のように名残だけ残して、冷たさはどこかへ消え去っていた。

 隣にいた明の声は、いつものように気遣いだらけの優しい声。表情だって、気持ち悪いくらい柔らかくて穏やか。

 評判通りの朔家の御曹子、朔明。それがそこにあるだけだった。

 しかし、勘違いなんかじゃない。雪のように冷たさは消えてしまったが、そこに確かにあった。姿を隠してしまっただけで、なくなったわけではない。

 喉から声が出てこない。息をすることさえ難しい。頭が真っ白になって、雪に触れた手を抱き寄せていた。それが震えていることすら気付いていなかった。

「今日は、お疲れのようですね。では、また後日」

こちらを向き、人畜無害そうな優しい笑顔をする明。奏は思わず顔を背けてしまった。明の目が全てを見透かしている。そんな脅迫的な感覚から、奏は明を見ることが怖かった。

 奏の返事を待たずに足音が遠ざかっていく。

 奏はその背すら見送ることが出来なかった。

 笑えないのに、おかしいと思った。

 悲しくもないのに、視界が歪む。

 照れてもいないのに、顔が熱い。

 奏はおもむろに着物の袖を握りしめる。そして、顔を強く擦る。

 何度も何度も、強く強く。

 袖は涙と化粧で汚れていった。擦る度に、汚れていった。

 それでも、奏の化粧はただ崩れるだけで拭い取ることは出来なかった。


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