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5:桜の君

 十四回目の桜はもう散ってしまった。大きく空に挑むような枝には、今にも落ちそうな頼りのない葉がぶら下がっていた。風が吹き、今、数枚飛んでいった。

 春はそれはそれは綺麗な花を咲かせるので趣があった。夏の葉桜は、春とは違う趣があった。しかし、秋の桜には趣なんてなかった。悲しい、寂しい。そんな負の言葉しか出てこない。奏は秋の桜が好きではなかった。気が滅入りそうだ。極力枝を見ないように努めてみる。

 太い桜の幹。その前では彼がいつものようにバイオリンを奏でていた。桜田と言うだけあって、彼は本当にどんな桜でも似合って見える。奏はというと、いつもの特等席に座っていた。アンティーク調の椅子は、もっと古めかしくなっていた。それに座って彼のバイオリンに耳を傾けている姿は実に絵になる。

 彼は、あの曲しか弾かない。奏のための曲を。

 綺麗で、悲しい曲。奏はその曲が大好きで、苦手でもあった。

 いつも浮かんでくる情景。決して触れあうことの出来ない二人。

 奏はそれを見ることがとても怖かった。昔は目を閉じ、曲に入り込んでいた。しかし、今は目を開き桜田を見つめる。時折、癖で目を閉じてしまうことがある。そうなるともう苦しくて。

 桜が舞っている。

 実際、薄桃色の桜は舞っていなかった。もう、数ヶ月も前に、散ってしまったのだから。舞っているのは、桜の葉であった。

 落葉。文字通り、葉は舞っていると言うより、落ちているに近い動きだった。それに、花びらとは違って、見た目はいいものではなかった。枯れ葉はどこまでも枯れ葉だった。華やかではなく、切ない。

 しかし、彼の周りの葉は違っていた。葉が優雅に舞っていた。ひらひらと、まるで空から狂い咲きの桜の花びらが、舞い踊っているようだった。

 そのあまりの美しさに、奏は淡く微笑んだ。

 彼は、桜の化身か何かなのだろうか。それとも、桜に好かれているか。はたまた、桜の化身に好かれているか。

 彼は、どんな桜でも美しく見せてくれる。彼の周りだけは違う世界があった。奏はいつでもその世界に見ほれるばかりだった。

 すっと、桜田は目を開き、バイオリンを降ろす。演奏の終わりだ。彼はバイオリンを弾き終わったあとは決まってこうなる。ぼーっといったいなにを見ているのか、考えているのか、ただ立ち尽くす。違う世界に連れて行かれた魂を、体が帰還するのを待っているような。

 奏は満面の笑みで拍手をする。ぱたぱたと、軽い足音を立てて桜田の方に向かう。そのとき、ふと気がついた。ちょっとだけ身長が伸びた桜田の頭に、桜の葉がくっついていた。きっと、桜の葉も彼を気に入り離したくないのだろう。まだぼーっとしている桜田は気がついていない。彼は鈍感だから。普通の人でも気がつかないことに気がつくわけがない。

 やっと魂が帰ってきたのか、桜田は桜の方に歩き出す。二人の場所。いつもの場所に。

「待って」

ぎゅっと、距離が離れそうになる彼の腕を抱くように掴む。少し驚いたように振り返った彼の顔は、いつものような締まり気はなかったが、少しだけ驚きで間抜けな顔になっていた。見ていて少しおもしろいものだった。しかし、今笑ってしまったら、目的を達成することは出来ない。桜田はちょっとでもむっとすると、すごく冷たく。きっと、腕を振り解かれてしまうだろう。

 出来るだけ顔を引き締めて、彼の頭に腕を伸ばす。

 いったい、いつの間に彼はこんなに大きくなってしまったのだろうか。目一杯、奏が背伸び、つま先立ちしているというのに、葉に手が届かない。あと一歩と言うところなのに。もどかしい、悔しい。指をぴんっと伸ばしてみても駄目。体は彼にもう無理と言うほど密着していて、これ以上前に出ることは出来ない。

 どもまでも鈍感で気遣いが出来なくて天然の彼は、ちょっとも屈もうとはしない。寧ろ、嫌味なのか、背筋を伸ばして立っている。顔やまとっている雰囲気は緩いくせに、姿勢はとても素晴らしい。しかし、今は猫背の方がいい。確かに彼がこれ以上駄目になったら、いいとこなんて普通の人には見つけられなくなってしまう。だから、彼が姿勢がいいことは些細なことだけれど、とてもいいことなんだ。

 全く届かないものだから、奏は桜田がわかっていてやっているのではと思ってしまった。もちろん、そんなことはないだろう。こういうことはよくある。そのどれも、彼は故意的に意地悪をしたわけではない。全てが天然。

 だから、困るし大変なんだ。

「くっつきすぎではないのか?少し離れた方が…」

「じゃあ、少し屈みなさいよ」

彼は少し眉を寄せた。言っている意味がわからないとでも言っているのだろう。

 彼は口数が少ない。だから、ちょっとした表情から彼の感情を読み取らないといけない。といっても、彼の表情もわかりづらい。種類も少ない。しかし、一つ一つにはいろんな意味がある。だからそれを見極めなければいけない。眉を寄せる一つでも、困った、意味がわからない、気に入らないのか、着物が汚れている、などと言ったいろんな意味がある。

 最初のうちは全くわからなくって意思の疎通が大変だった。

 しかし、慣れてしまえばこっちのものだった。彼とのつきあいは長いから。

 よく彼の表情と奏の言葉で会話が成立している。端から見れば、奏の一人言を並べているか、一人でお人形ごっこでもしているぐらいに見えるだろう。

「いいから、早く」

説明するより、とった葉を見せる方が早いことだろう。

 身長の差で悔しがっていた奏の声には、少しだけ苛立ちが混じっていた。彼が目を細める。

「怒ってなんかないから、早く」

なに怒っているんだと彼が表情で言ったものだから、返さなくてはいけない。本当になにをするにも遅い。本当に怒った方がいいのだろうか。

 しかし、彼が動き出したので怒ることはなかった。ゆっくりな、まるで広がった布が落ちるような、ゆっくりした動きだった。それでも屈んでくれたおかげで桜田の頭から葉を取った。

 目的は達成できたというのに、奏はどうしてか胸の中がもやもやした。

 嫌な予感。何となく、そんななのに似ているような気がした。直接的には身長差に、そのうちにはきっと時の流れに。それを嫌がっているのか。それとも、危惧しているのか。

 不安と苛つき。感情が収まらない奏は、取った葉を押しつけるように彼に握らせ、一人桜の方に向かった。

 ぱりっとも、さくっとも言えない音が、後ろの彼の拳から小さく聞こえた。


 自分の部屋に戻って来た奏は、いそいそと着物を変える。着物の汚れを見せる、そんな恥を母様に見せられない。それに、見られてしまったら大変なことになる。

 脱いだ着物をいつもの場所に置く。明日の朝には、ここには綺麗になったこの着物が置いているのだろう。

 お手伝いの斉藤さんには、本当にお世話になっているな。奏は着物に袖を通しながら、少し苦笑いした。

 新しい着物を着付けながら、ずっと桜の木を見つめ続けた。

 もう枯れてしまって、寂しい桜。春にはあんなに美しく咲き誇っていたのに。夏には瑞々しい力を見せていたのに。

 聞こえる糸の震える音。ずっと聞いてきたバイオリンの音。どんどんうまくなっていく。しかし、変わることのない。

 戻って来てしまったら、触れることさえ出来ず、寄り添うことすら出来ない。

 変わって欲しくないのに、変わってしまうもの。

 変わって欲しいのに、変わらないもの。

 未来が怖い。先にある未来が不幸だろうと、幸福だろうと、進んでしまいたくない。

 止まっていたいのに。

「おやおや。お戻りですかぁ?」

竹箒を持って、いかにもお手伝いさんという格好をした人が、部屋の外に見えた。お手伝いさんと言っても、すぐに思い浮かぶようなおばさんではない。まだ、三十にもなっていないし、二十半ばでもない。つまり、まだ若い。しかし、行動がゆっくりでおばさん臭い。

 しかし、容姿は幼く可愛い。少し、どころではなく、勿体ない。

 ああ、こっちまで怠くなるそうなこの口調は斉藤さんだ。

「じゃあ、洗濯の時間ですねぇ。……よいしょっと」

庭でどうやら、落ち葉掃除をしていたらしい。努力むなしく、無数の枯れ葉が風で飛んでいるのが奏の目に映った。斉藤さんはそれを背に廊下に立っているから、見えていないし、気づいてもいない。きっとその方が斉藤さんの気持ち的にもいいのだと、奏は口を閉じて鏡と向き合った。髪を結わなくては。たまに、男の短い髪が羨ましく思える。

「お化粧道具を出しておきましたからぁ」

先ほど奏が脱いだ着物を手に持っている斉藤さんが、棚の上を指す。そこには、あまり見慣れないものがいくつか置いてあった。

「化粧道具?」

聞き慣れない言葉でもあった。

 慣れた手つきで髪を結い終わった奏は、普段この部屋にはないものを見つめて首を傾げた。

 化粧をしたことがないわけではなかったけれど、化粧道具が部屋に置いてあると言うことはなかった。化粧はいつも斉藤さんにしてもらっていたから。

 そもそも、どうして化粧を?

「そうですよぉ。この前、お化粧の仕方を教えましたでしょう」

「……教えてもらってないわ」

全く身に覚えがない。

 沈黙。

「あらあら、私としたことが。忘れていましたぁ」

へにゃっと顔を崩した斉藤さんには、特に焦った様子もなければ、悪びれた様子も微塵にも見えない。これでいいのかなんて心の中でつぶやいてみたが、これが斉藤さんなんだと心から返答があった。頷ける。

「じゃあ、今日は私が化粧をしますねぇ。教えるのは、また後日にでも」

「後日…」

そんな日が来るのだろうか。そうつぶやこうとしたのを、ため息に変えてはき出す。斉藤さんは丁寧に着物を床に置くと、奏の横に座る。あ、お香のいい匂いがする。お香の好きな斉藤さんは、いつもいろんないい匂いがして、どこがほっとする。

 奏も斉藤さんと向かい合うように座る。

 そしてまた、短い沈黙。

「お嬢様。申し訳ありませんが、お化粧道具を取ってくださいますかぁ?」

それを聞いて奏も気がついた。化粧道具は今、斉藤さんの座っている位置からでは手の届かないところにある。そして、奏が手を伸ばせば届くであろうところ。どうしてわざわざ化粧台ではなく、その隣の棚の上に置いたのだろう。きっと、なにも考えてはいなかったのだろう。断言は出来ないが、否定は出来ない。その方が断言されるより、酷いと思うけれど。

 奏は手を化粧道具に手を伸ばしながら、不満を心の中でつぶやいていた。

 そもそも、お手伝いさんが雇い主を使うって言うのはどういうことだ。いいのか?自分で立って取りに行けばいいのに。全て、斉藤さんだからで片付いてしまうのが、なんだか怖い。いや、斉藤さんのそんなところを奏はもちろん、母様も父様も気に入っていた。父様にいたっては、娘みたいに可愛がっていた。小さい頃からお屋敷にいるのだから、当然と言えば当然か。兄様だけが、斉藤さんにしょっちゅう突っかかっている。斉藤さんに一番厳しい。小さな失敗でも、長い長い説教が待ち受けている。それをのらりくらりかわし、こたえない斉藤さんってすごいと思う。兄様があんなにも他人に突っかかることは珍しい。兄様は、嫌いな人、興味のない人には関わらない人なのに。奏が知っている限りでは、斉藤さんだけだった。兄様があんな態度をとるのは。

 奏は目一杯手を伸ばして、化粧道具を取っては、斉藤さんの前に次々と並べ置いていく。

 奏も立ち上がらずに行儀悪く手を伸ばして取っているのは、意地からくるものだろう。自分は主なのだから、あなたにそこまでのことはしないのという意地。我ながら訳がわからないと、奏はため息をついた。

 斉藤さんはというと、いつもと変わらないのんびりとした動作で一つ一つ手に取り確認し、自分の横へ置いていく。

 最後の一つを取った奏の腕はもう無理だと言うように、床から離れようとしなかった。

「主人に仕事をさせる召使いなんか、聞いたことがないわ」

思わず心で何回もつぶやいていたことが、言葉という形になって出てきてしまった。

 出ていたのなら仕方がない。奏は頬を膨らませ、怒ったようなそぶりをしてみる。彼女とはつきあいが長い。そんなこと全く効果がないことなんて、わかっていた。しかし、それをしないと気が済まない。とはいうものの、やったものの気なんか済むわけでもい。そもそも怒ってすらいない。

 寧ろ、そんなところが斉藤さんのいいところで、好きだった。

 堅苦しくお嬢様とお手伝いさんなんかやられたら、気が滅入ってしまう。きっと、顔を合わせるのも嫌になるし、母様に頼んですぐにやめさせてしまう。もしかしたら、奏の性格すら変わっていたかもしれない。そう思うと、ぞっとする反面、斉藤さんでよかったとほっとした。

 体のせいで、同い年の人やそれ以外の人とも関わりのない奏には、斉藤さんという存在が大きかった。思い過ごしだとしても、奏は斉藤さんのことを友人のように思っていた。

 遊び盛りの小さい頃は、斉藤さんと兄様と庭を駆け回った。誰にも言えない悩み事だって、斉藤さんに相談した。斉藤さんがいなかったら、きっとふさぎ込んでいただろう。

「さぁ、こちらを向いてく、おとなしくしていてくださいよぉ。動かれたら、お顔がお化けになりますからぁ」

それは嫌だなと、妙な緊張感に支配された。

 慣れた手つきで化粧品を開けては、奏の顔に塗っていく。まるで、絵を描かれている紙の気分。

 バイオリンの音が消えた。

「お嬢様は元がいいから、お化粧なんかしなくてもいいと思うのですよぉ」

「でも、母様の言いつけでしょ。それに、化粧は大人の女性のたしなみ。必要なことだわ」

「大人の女性…」

ふむっと、ため息にも似た息を吐き出し口を曲げ、不思議そうな変な顔をした斉藤さん。いったい、なにを意味するのやら。どうせ、奏はまだ子供ですよ、なんてちょっとぐさりとくる天然の辛口に決まっている。あの天然で、どんなに多くの人が傷ついたことか。被害者として一番にあげられるのは、兄様だろうな。

 兄様や奏がなにを言われても、冷静を装えるように強くなったのは、斉藤さんのおかげだろう。

「そうおっしゃいますが、奥様はお化粧が苦手ですよぉ?」

「母様が?」

あまりのことに奏は手を口にやって驚いた。あの母様にそんな秘密があったなんて。母様はいつも綺麗で、凛としていて、それこそ欠点なんかない誰もがうらやむ大人の女性。そんな印象であった。確かに、母様と化粧の話を一回もしたことがない。それこそ、化粧をしている姿なんてこれっぽっちも記憶にない。

「そうですよぉ。私の母が引退するまでは、母が。今は、私が化粧をさせていただいているんですよぉ。お恥ずかしいんですねぇ。秘密だとおっしゃっていました」

秘密。母様、この人さらっと言っちゃいましたよ。斉藤さんは本物の天然です。奏は心の中でため息をついた。

 秘密があって、もしも、誰かに話したくなっても、斉藤さんだけには言ってはいけないのだと思い知らされた。いつこんな風にさらっと言ってのけるかわかったものじゃない。

 お屋敷の中で一番安全そうに見えて、一番危険だったなんて。

 綺麗な花を咲かせているのに、その茎には棘がありさらに毒が塗ってあるようなもの。もしくは、綺麗な人食い花。

「斉藤さん……。着物のことなんだけど、誰にも言ってないよね」

心配だ。ものすごく。この人なら、さっきのようにさらっと言っていないと、肯定できない。もしかしたらがある。信じていたのに、こんな裏切りがあるとは思っていなかった。

 もしばれていたのなら、説教なんて生半可なもので収まらない。もう二度と、あの桜を、夢を見ることは出来ないだろう。

 でも、母様がそんな酷いことをするだろうか。母様はきっと、そこまで非情なお方ではないだろう。そう信じている。でも、兄様は?お家のために何でもする兄様ならどうする?お家のために利用できる自分を閉じ込めるだろうか?

 あの優しい兄様がそんなことをするはずがない。いくら、無関心になったとはいえ、兄様は兄様。非情ではない。優しい兄様だ。奏はそれを知っている。

 奏は、一瞬でも兄様を疑ってしまった自分を叱る。

「誰にも言うわけありませんよぉ。秘密は守る人間なんですぅ」

胸を張る斉藤さん。実に信用性に欠ける発言だと、肩が下がる。がっくりきた。腹を空かせた虎が兎を目の前に、あなたを食べません、なんて言っているのと一緒。信じられたものじゃない。

 しかも、その虎はさっきしでかしたことに気がついていない。犠牲になった兎を見たあと、もう一匹の兎は虎を信じられるわけもなく、後悔しか残らない。

 喉まできたものは、口さえ開けば言葉となって出てきてしまうだろう。

 幸い、斉藤さんに紅を塗ってもらっている奏は、言葉を発することが出来なかった。助かったのだろう。斉藤さんを傷つけないあたり、本当に助かった。

「出来ましたよ」

斉藤さんの手からようやく解放された奏は、ちらりと自分の姿を鏡で見る。

 思ったことは、ただ一つ。

 誰?

 鏡に映った女性は、自分の動きに合わせて同じ動きをする。しかし、その姿は自分ではない。知らない人。別に、顔が変わるほどの厚化粧というわけではない。寧ろ、化粧をしているのか疑うほどの薄化粧であった。

 それなのに、鏡に映っている彼女が、自分であるなんてわからなかった。自分なのだと認めることが出来なかった。

 綺麗だとも、思えなかった。

 お面。人形。飾り。そんな風に見えた。なんの感情も表さない、物。どこまでも、虚ろだった。

 鏡を見たまま動かなくなった奏を、斉藤さんは猫だましで引き戻した。


 屋敷がここまで暗く冷たいと思ったのは初めてだった。父様が亡くなったときでさえ、暖かさがあった。なにも聞こえない。鳥の声も、虫の声も、人の声も、自らの鼓動も。

 開け放たれたままの襖。珍しく礼儀の正しい斉藤さん。奏の斜め後ろでお辞儀をしていた。奏に向けられる三人の目。一つ目は複雑そうな。二つ目は感心したような。三つ目は気持ちの悪い、うわべだけの笑顔。お辞儀もせず、そこに立っていることだけで精一杯な桜の君。

 夢は見るもの。現実は叩きつけられるもの。

 夢は変えることが出来る。現実は変えることが出来ない。

 夢は覚めることが出来る。現実は逃げることが出来ない。

 信じていた未来が、全てが、音を立てて崩れていった。そんな気がした。

 めまいがする。

「久しぶりですね。覚えていらっしゃいますか?(はじめ)(あきら)と申します。朔財閥の。覚えていなくとも無理はありません。幼い頃に一度だけ、ほんの少しだけお会いになっただけですから」

朔財閥。朔明。不気味なまでに感情のない笑顔。

 大人はあの笑顔に騙されていた。無邪気な笑顔に見えた感情のない笑顔。

 奏はあの日聞いた、バイオリンの音を思い出した。

 音であって曲でない。弾いているだけであって奏でていない。あの誰もが絶賛したバイオリンの音を。

「覚えでおりますわ。バイオリンを聞かせていただきました」

素晴らしいバイオリンといわなかったのは、それでも奏であったから。

 しかし、笑顔でそんなことを言えたのは、きっと今の奏が奏でないから。

 今の奏は、望月奏。望月家の娘。良家の娘。誰もが欲しがった、桜の君。

 奏ではない、奏。

 化粧というお面が必要だったのは、そのためだったのだろう。

 そうか、あの鏡に映っていたのは桜の君。

 はじめまして。

 胸の中で奏は、桜の君に挨拶をした。

 そして、桜の君はお嬢様の物腰で襖を閉めた。

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