4:望む未来を
あれから、時は流れた。本当に水でも流れていくかのように、止めることもできずただ、目的もなく流れていった。
時というものはどうしてこんなにも無情なのだろう?大きいことが変わってしまったのに、いつものように過ぎていくばかり。過ぎるだけで、なにも解決をしてはくれたわけではなかった。
時が過ぎれば、忘れると思った。解決するのだと。奏の考えはどうやら甘かった。時に頼ってはいけなかった。気づいたときにはもう遅くて。忘れられるどころか、存在は大きくなっていくばかり。まるで、傷のように、放っておいて悪化してしまい痕になってしまった。
忘れてしまうこともなくしてしまうことも、悲しくて辛いことなのに、覚えていることも辛い。彼の声、瞳、ぬくもり、言葉、息づかい、癖、優しさ。全て、奏は覚えていた。忘れてしまいたいのに、なくしてしまいたくないもの。
全て、なかったものにしてしまえたらと、この辛さから逃げようとした。しかし、彼を閉ざそうとするたびに、思い出が、彼が溢れて、扉は閉まることを知らないでいた。
廊下を静かに歩きながら、聞こえてくるバイオリンの音に背を向けようとつとめた。
毎日、彼のバイオリンは奏の耳に届いた。頭で考えていることを裏切り、五感は彼を選ぶ。まだ、あの場所に呼ばれている気がする。しかし、奏はそこには行けない。もっと、前なら会いに行っていたのかもしれない。
部屋に一歩踏み入れた瞬間、崩れるように座り込んだ。ふすまを閉めていないから、背中に日の柔らかいぬくもりを感じた。
手で両方の耳を塞ぎ、目をきつく閉じた。なにも見たくない、聞きたくない。叶わないとわかっている夢を見ていられるほど、強くない。
それなのに今でも、彼が愛おしいと、恋しいと。こんなに、望んでる。
それがいけないことなんて、思わなかった。思いたくなかった。
現実はどこまでも無情。
響くバイオリンの音。浮かぶ桜の情景。
はっとして、奏は目を大きく開けた。あの情景を見てしまったら、彼を思い出すことになってしまう。思い出す?おかしな言い方だ。忘れてはいないのに。
言うことを聞かない体を懸命に動かした。髪でも梳いて、考えを頭から消したかった。這うように化粧台にたどり着く。
特に乱れが見えない髪のかんざしを抜く。パサッと長く黒くつやのある髪が落ちる。
どうしてか、震えている手に持っているかんざしを置く。櫛をとるために。
薄桃色のかんざし。この間、母様から唐突にいただいたもの。この前の催し物のの時につけなさいと言われた物だった。ガラスででもできているのか、透き通っている。奥の景色が見えるわけではないが、透明なかんざし。そういう石なのかガラスなのかは奏にはわからなかった。しかし、桜だということはわかった。
-ほぅ。あれが噂の桜の君か。確かに桜の化身の様に美しい-
いまだにかんざしを握っている手に力が入る。そっと顔を鏡に映す。
桜の君?桜の化身だって?
あざ笑うかのように奏は顔を歪めた。そこに、桜の化身なんかいなかった。
桜の化身は彼のことを指す。桜は奏よりも彼の方が似合う。
すっと、桜に目を移す。眩しいほど、桜は咲き誇っていた。あそこだけ、まるで違う世界に見える。それぐらい、あの桜は夢なのだ。現実ではない。
今も耳に届く、綺麗で儚くて悲しくて、愛おしいバイオリンの音が。ずっと変わらない音。
それなのに、奏の世界はたった数ヶ月で大きく変わってしまった。
あの時聞いたこの曲は、こんなにも変わらないのに。
今ならわかる。彼が言ったことも、あの情景の意味も。見た2人は、奏たちだった。
-惜しいな。朔財閥が手を出してなかったら、私の息子に……-
-朔財閥が今、一番力を持っているんじゃないか?そんなとこと、誰も張り合いたくないよな-
-しかし、御曹子があれだろ?いささか、桜の君が可哀相ではないか?-
朔財閥。奏もその名は耳にしたことがある。詳しいことは知らないが、一代で偉業を成し遂げ、一気に頂点に君臨したと。兄様がつまらなさそうに、そうつぶやいていた。
奏はいつか、そこに嫁ぐんだ。
世の中からすると、奏は羨ましい存在なのだろう。
そんなに羨ましいなら、あげる。いらない。いらないのに、どうして。
いくら褒められても嬉しくなかった。知らないたくさんの誰かじゃなく、想っている人に言われたいのに。
自分が世間でどんな評判なのか、この前痛いほど知らされた。知りたくない。知りたくなかった。
朔財閥の様な金持ちの家に嫁ぐためにがんばっている令嬢も、たくさんもいるんだろう。でも、奏は違う。ただ、母様が喜んでくれるから。母様が大好きだから。それだけだったのに。
あの桜が散って、大人になって、そうすれば自由になって好きなことができると思ってた。
今は、大人になることがただ怖い。
すっと頬に何かが伝った。
アイタイ。
奏の足の足の裏は、短い草が生えている地面を踏みしめていた。奏の体は心の操り人形になっていた。嘘をつくことも、隠し事もできない。戸惑った。でも、歩を進めるたびに心はすっと軽くなって満たされていく。
着物の着崩れも、髪の乱れも気にせずに駆けだしていた。
彼への道を間違えることも忘れることもあるはずがなかった。夢へとつながる穴は、以前に比べて小さくなったような気がした。
ああ、薄桃色がひらひらと舞っている。今年も、もうすぐ散ってしまうのね。
木のざらざらした感触に行き当たるのはすぐだった。
彼がすぐそこにいる。バイオリンの音も、すぐそこに。そこに、いる。
すっと開かれた黒い瞳。白い肌。制服なのだろうか。真っ黒い洋服。
あの時と変わらない綺麗な世界。温かな気持ち。穏やかな気持ち。彼しかいないという気持ち。
風が揺れる。全身で受け止めるぬくもり、もう一つの鼓動。息づかい。どちらともなく、抱きしめた。
「奏」
彼に初めて名を呼ばれた。それだけなのに、胸が温かくなった。嬉しくて幸せで、ちょっとくすぐったくて。悩んでたことが溶けて消えてしまえるような、そんな気がした。
夢を見ているのでは?そう疑ってしまう自分がいた。
でも、夢ならばどうして彼がこんなに近くに感じられるの?ぬくもりも心も全て。こんなにも心が揺れ動くの?嬉しいのに悲しくて。幸せなのに辛くて。安心するのに不安で。
それは、夢じゃなくて現実だから。これも、現実なんだ。夢ではなく、今という現実。
もう離さないで。二度と離れないで。もう離さない。離したくない。このまま2人で 薄桃色の花びらになって消えてしまってもいい。
これは、本当に願ってはいけないことなの?
どうか、これが現実で永久につづきますように。夢ならば、覚めませんように。
腕の中にいる彼がこんなにも愛しい。腕に力を入れて強く強く抱きしめる。彼も同じように抱きしめ返してくれる。奏は彼の胸に、桜田は奏での首元に顔を埋めた。
あなただけ想って生きていたい。そのためなら、なにもかも捨ててしまってもいい。
それは………
ユルサレルノ………?
薄桃色の雪に包まれるように2人は横たわっていた。見たくないものを見ないように目を閉じて。自分の気持ちさえわかっていればいい。そして、それが伝わればいい。2人の手はきつくつながれていた。
幸せそうな恋人。そんな風に言えるのだろう。この場面だけを見るならば。
本当にそうならば、どれだけいいのだろう。奏はうっすらと瞳を開き、彼を見つめる。
眠っているような穏やかな顔。すぐそこにいる。桜の君。本当にその言葉が似合う人。奏は微笑んで、つないだ手に力を入れた。彼の目蓋は少しも動かない。本当に寝てしまったんじゃないのかと思った。もう、目を開けないと決め込んだのかもしれない。
そうだよね。こんな現実は見たくない。夢だけを見ていたい。
そっと、彼の髪を梳く。さらさらして、そこらの女の子よりも綺麗な髪。いつまで、こんな子供の戯れみたいなことができるんだろう。いつか、こんな風にふれあえない日が来るのだろうか。
すすっと、手を頬の方に持って行く。柔らかくてさらさらして暖かい肌。
「いつか、バイオリン奏者になってね。一流のよ。そうして、私を連れて行って」
夢のような願い。奏のもっとも望んでいる未来。
現実がどうであろう、奏は願い続ける。それしかできないのなら望み続ける。
聞こえているくせに、寝たふりを続ける桜田。
そんなのお構いなしに、優しい声で奏は言葉を紡ぐ。
叶わないとわかっている未来を。唯一願う未来を。
「私のそばにずっといて。バイオリンを、あの曲を奏でていて」