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3:四年目の誕生日

 今年も桜の花が散った。他の桜はまだ咲いているのだろうか。それとも、すべて散ってしまった?桜田の屋敷の桜しか知らない奏には、わからないことだった。

 散ってしまった桜は、葉桜といっただろうか。薄桃色の桜もそれはそれは趣があって美しいが、緑に変わってしまった桜も違う趣があって綺麗だった。そうだな。薄桃色の桜が柔らかい綿菓子だとすると、緑の桜は瑞々しい野菜だろうか。

 お腹がすいているのか、どうもたとえが食べ物になってしまう。

 奏はお腹に手を当て、首をかしげた。朝ご飯は食べたはずなのに。お腹が鳴ってしまったらどうしよう。彼の前でそん なことになったら、恥ずかしくて逃げ出してしまうな。

 小さくため息をつく。そんな音は、バイオリンの音色でかき消されてしまって、奏の耳には届かなかった。

 やはり、どんな音も彼のバイオリンにはかなわない。

 ここは彼のお父様のお屋敷で、彼がそこにいることは当たり前で、幾度となく見てわかっている。それなのに、ここまで歩いてくるうちに彼のバイオリンが耳に届き、そこに彼がいるとわかるのはとてつもなく胸を温かくしてくれる。

 この間まで宙にいた薄桃色は、今は地面にいてまるで絨毯みたいだった。

 木の幹に手をついて、静かに演奏している彼を見つめる。この角度では、後ろ姿だけが見える。

 まるで、違う世界に来てしまったような気分。幾度となく感じているのに、飽きない。

 彼の弾く曲はほとんど覚えている。曲名とか詳しいことは知らないけれど、口ずさめるぐらい好きで覚えてる。その日の、気分で同じ曲なのに少し聞こえ方、イメージが変わってしまうけれど。

 案外、彼ってわかりやすいのかもしれない。

 今日の曲は、知らない。初めて聴く曲だった。

 コツンと桜に体を預けながら、バイオリンの演奏に酔いしれる。

 この曲のイメージを読み取りたくて、目を閉じようとうつむいた。

「そこで寝ると風邪をひいてしまう」

鳴り止んだバイオリン。無愛想な声に、奏ではギョッとして閉じかけていた目を開いた。

 長めの前髪でよく見えない、真っ黒な桜田の目が奏を射貫いている。

 慣れない。彼のまっすぐな目で見つめられるのは、まったく慣れない。どうしていいのかわからなくなる。

「寝るつもりなんてないわ」

「目を閉じているから、てっきり」

桜田が差し伸べてくれる手。そんなとこにいないでこっちに来ればいい。という表れ。これが素なのだから、困ってしまう。

 ロマンチストなのかそうでないのかも、曖昧でちょっとむっとしてしまう。けれど、それが桜田で、可愛いところだなって思ってしまう。

 自分って、おかしいだろうか?奏はそんなことを思ってしまう自分が、若干怖かった。

 差し伸べられた手に自分の手を重ねるのは恥ずかしくて躊躇われた。しかし、重ねずにはいられない。

 すると、ぎゅっと強く握りしめられてぐいっと引っ張られた。もちろん奏の体はバランスを崩して、引っ張られた方に倒れるように進む。手は完璧に桜から離れる。かわりに、膝が地面につく。勢いのまま転んだのだ。手を強く握ったままの桜田は、何をしているのかと言うように、眉を寄せ見下ろしていた。

「大丈夫か?いったい、何をしている?」

「私が言いたいわ」

桜田がいったい何がしたかったのかわからなくなる。普通こういうときは、自分の胸に引き寄せるところではないのだろうか。地面に転ばせるんではなくて。そこから、いい雰囲気になって、頬を染めてだとかじゃないのだろうか。もし、転んでしまったとしても、心配してまた手を差し伸べて立たせてくれるのではないのだろうか?確かに心配はしてくれたけど、二言目はないのではないだろうか。しかも、まったく助けてくれよともしない。その上、まだ手を離してくれない。立つときにちょっと邪魔になると思うんだよね。

 奏が握られている手の力を抜いたというのに、相変わらず手はつながったまま。

 天然と言うだけで片付けていいだろうか。悪意しか感じない。いや、悪意なんて彼にはないんだろう。それじゃ天然かというと、奏は納得をしたくなくて否定。

 仕方なくそのままで立ち上がる。

「あなたのせいで着物が汚れてしまったわ」

膝のあたりに、綺麗な着物の柄に不釣り合いな土がついていた。転んだのだから、当たり前なのだけれど。

 やっと手を離してくれた桜田は、奏の正面にしゃがみ込んだ。今度は何をする気だと少しだけ、後ずさる。

 桜田は、ばしばしと膝のあたりをたたき出した。少し痛い。

 彼がついた土をとってくれているのだとはわかったが、もう少し力の加減をして欲しい。

 しかし、その手を振り払うことも止めさせることも、文句を言うこともしなかった。

 だって、これは彼の優しさ。

「あなたって、不器用なのね」

そう。ただ、彼は不器用なだけで。

 彼の不器用な優しさは、胸をくすぐる。本当にくすぐったい感じがする。

 払い終わったのか、彼は立ち上がる。そのとき見えた表情は、眉を寄せて難しい顔をしていた。考え事をしているのはわかる。しかし、彼がこんな表情で考えていることはいつもろくでもないことだった。

「手先は器用な方だ。着物のほころびは自分で縫うからな」

ほらね。ろくでもない。良くあることなのに、いまだにがっくりさせられる。何だろう?力が一気に抜けるみたいに、肩が首が落ちる。

「手先の器用さの話はしていないわ」

彼のいいところなのか悪いところなのか、彼は言葉をそのまま受け止め解釈する。だから、遠回しに言っても通じない。直球勝負しかない。しかし、それだと、ロマンスといっただろうか、それが足りない気がする。

 というより、自分は直球しか受けないくせに、彼の発言はたまに遠回しというかよくわからないというか、とにかく変化球、もしかしたら、魔球かもしれないのだ。

 ときおり、彼が何を考えているのかわからない。彼と出会ってもう四年も経つというのに、名前すら教えてくれない。

 こんなに近くにいるのに、まだ遠い。

「他に器用とは何があるんだ?」

奏はこんなに思い悩んでいるというのに、桜田はまだそんなことを考えていた。実にうらやましい。

 奏はそんな桜田にすこし苛ついた。彼は自分のことなんか考えてないって、勝手に思い込んで。

「もういい。桜田は何にもわかってないのね」

ふくれっ面で桜のそばに座り込む奏。背中を幹につけて、膝を抱える。

 自分が何をして、奏がこんなに不機嫌なのか桜田は目を泳がせながら考える。理由だと思われることを、すぐに思いついた。そうか、確かにそれは拗ねてしまう。

 桜田は奏の前にしゃがみ込むと、奏の頭に手を乗っけた。やはり、不器用なのか力の加減ができていない。

 何事だと、目を丸くする奏。頭に乗っている手は乱暴に左右に動く。どうやら頭を撫でているらしい。この乱暴な撫で方には覚えがある。もう幼い頃の記憶だけれど、父様もこんな乱暴な撫で方をしていた。

 せっかく梳いた髪がぐしゃぐしゃになったと、当時は怒ったのも覚えている。

 今は、髪なんてどうでもいい。乱暴でもこの行動が幸せにしてくれた。嬉しくて嬉しくて、さっきまで怒っていたことを忘れていた。

「12歳。おめでとう」

「え?」

想像もしていなかった言葉に顔を上げる。視界に入ってきた彼が、穏やかに微笑んでいた。思わず、視線をそらしてしまう。

 いつも思うが、たまに見せる綺麗なほほえみはずるいと思う。しかも、この世とは思えないぐらい綺麗。ずるいにもほどがある。

「誕生日だろ。すぐに祝ってやれなくて、悪かった」

なるほど、そういうことか。残念だけど、拗ねた理由は違うんだよね。

 奏は思わず笑ってしまった。

 彼が奏のことを考えてないなんて、嘘っぱちも嘘っぱち。ちゃんと考えてくれているし、覚えてくれてる。

 やはり彼は、不器用。でも、その不器用な優しさが心地よくて、幸せで。考えていることはろくでもないことが多いけれど、それでも彼はちゃんと彼なりに考えてくれる。

「ありがとう」

一生彼にはかなわない。そんな気がした。

「もう、四年になるのね。あなたと出会って」

奏の隣に片膝をたてて座る。彼の左手には、バイオリンが握られていた。

 力が抜けたようにだらしなく、桜田は空を仰ぎ見た。コツンとつむじが桜の木に当たる。

 彼はよく、空を仰ぎ見る。視線の先にはいったい何があるのか、隣で幾度となく辿ったことがある。しかし、そこにはいつもただ広い自由な空があるばかりだった。

 桜田の前髪が左右に垂れ落ちて、いつもはよく見えない瞳が現れる。どこまでもまっすぐで曇りのない、真っ黒い瞳。奏は、その瞳が大好きだった。見つめられるのは苦手ではあったけれど、その瞳をいつまでも見つめていられそうだった。

「四とは、不吉な数字だな。なにか悪いことが起こるんじゃないか?」

「縁起でもないこと言わないでよ」

せっかくのいい気分が台無しだと、奏は頬を膨らませた。そんなのお構いなしに、桜田は惚けた顔のまま空を見ていた。

 いったい彼は、なにをそんなに見ているのだろう。

 奏も同じように空を仰ぎ見てみるが、やはりそこには空しかなかった。どこまでも広くて自由で眩しい空が。緑に変わった桜がその端に映っていて、マシュマロのような雲が浮かんでいるだけ。

 奏にはいつまでも空を見ていることはできなかった。すっと視線をそらして、彼を見る。

 やはり空をじっと見ている瞳。その瞳が彼のすべてを映しているように見えて、目が離せない。彼をもっと知りたくて。

「そういえば、あんたはなにが欲しい?」

突然こっちの方を見るものだから、奏は驚いて顔ごと思いっきり視線をそらした。見つめていたなんて、知られたくない。でも、こんなに大げさにそらしたら、感のいい人は気づくだろう。桜田はどっちだろう。勘がいい方?悪い方?いや、どっちにしろこんなに視線をそらされていい気持ちになる人なんかいない。

 もう済んでしまった出来事。奏はものすごい後悔と恥ずかしさにおかしくなりそうだった。

 そんな奏をもちろん知らない桜田は、時に気分も害したわけでもなく、ただただ奏の行動を疑問に思っていた。

 落ち着くの、なにもない風に振る舞えば大丈夫。奏は自分にそう言い聞かせる。もちろん、落ち着くわけない。もっと混乱した。

「どうかしたか?」

「た、誕生日の贈り物よね!なにがいいかしら」

のぞき込んでこようとする桜田を阻止するように、奏は話を変えた。といっても、この話をしていたはず。そらしていた覚えもない。

 しかし、不思議だ。こんなこと彼に聞かれたのは初めてであった。いや、まあ、初めてというわけではないけれど。彼と迎える最初の誕生日は聞かれた。しかし、それからは聞かれていない。いつも、事前に準備していてくれた。洋物の菓子であったり、和物の菓子であったり。今思えば、彼から貰う贈り物は、ほとんどが菓子であった。彼は時折、ふとしたなにもないときにも贈り物をくれる。それも、やはり菓子。時折、櫛であったり髪飾りであったりもしたけれど、やはり菓子であることが多い。

 別に不満はない。彼からの贈り物はどれも目を引くものだし、とても満足できた。

 だから、彼からのものならきっと不満なんてないだろうと思う。それなのに、今更なにが欲しいかと聞かれるのは違和感があった。

 彼が奏の誕生日を忘れていたわけないだろう。彼は真面目な人間な上に、記憶力は常人よりよかった。奏が物忘れが激しいと思ってしまうくらいに。

「あなたが、用意していないなんて、珍しいわね」

さっきの混乱のせいで頭が回らない。故に、考えたことがすぐに口から出てしまう。

「いや、その…」

彼には珍しい歯切れの悪い反応。何事かと、彼を振り返る。今まで視線をそらしていたことを再確認して、少しばつが悪い。

 桜田は困ったような顔をして、バイオリンを見つめていた。バイオリンがどうしたのだろうか?

「用意はしていたのだが…」

歯切れが悪いな。用意していたならいいのに。それをくれればいいのに、どうしてそれを出さないのだろう?しかも、他のものを贈ろうとしている。そんなに用意したものがおかしなものだったのだろうか。菓子なら、潰れてだめになってしまったとか?落としてしまったとかだろうか。そうだとしても、なにを用意していたのか知りたい。そして、なぜだめになってしまったのかも知りたい。

「それなら、それを頂戴」

意地悪く笑う。彼に困らせられることはあっても、彼が困ることは滅多にない。そういうときは仕返しとばかりに意地悪をしなくては。奏はわくわくしていた。

 常に無表情というか、締まりがないくて考えが現れない彼の顔は、これでもかというばかりに困っていた。唇をきつく結んで、眉を寄せていた。今に冷や汗まで流れてくるぞ。そんな顔をしていた。珍しくてもっと奏ではわくわくした。

 贈り物なんか、なくてもいいかもしれない。これが見られただけで満足。

「仕方ない。気に入らなくても、文句は受け付けないからな」

「保証はできないかな」

私の嘘つき。

 奏では心の中でつぶやいた。保証もなにも、気に入らないなんて今までになかったし、彼からの贈り物を気に入らないわけない。彼からの贈り物なら何だって嬉しい。

 すっと立ち上がった桜田。贈り物を取りに行くのだろうか?

 しかし彼はそれはせずに、じっと奏を見ると向かい側にあるアンティーク調の椅子を指さす。いつの間にかバイオリンを聞くときの特等席になっていた場所。どういうことなのだろうと奏が首をかしげると、桜田は顎で行くように促した。

 理由はわからないけれど、彼がそういうのだから行くしかないのだろう。奏はのろのろと椅子まで歩く。たった一日、いや、それ以下の時間座っていなかっただけなのに、椅子には草が乗っていて綺麗とは言えない状態だった。

 今更だけれど、着物が汚れるのはいやなのでさっさとそれらを払い落とす。

 これで座れると一息ついたとき、後ろから糸の震える音。よく聞き慣れた、バイオリンの音が聞こえた。

 驚いて振り返ると桜田がバイオリンを奏でていた。不思議。もうすべて散ってしまったはずなのに、薄桃色が宙を舞っている。

 目の錯覚?それとも、このバイオリンの音、曲のイメージ?

 とても美しかった。

 いつもは無表情、というか、締まりがないような顔が、バイオリンを奏ているときは凛と澄んでいる。きりっとしているとはちょっと違う気がするけれど、そういう感じなのだ。

 どう言っていいのだろう。今の彼を表現する言葉はあるのだろうか。

 桜。舞い散る桜なんかじゃない。空に咲き誇るうす桃色の桜だ。

 今の彼をたとえる言葉。こんなのじゃ、まだ足りない気もするけれど、奏の知っている言葉ではこれが精一杯だった。

 椅子まで歩いて行って、汚れを落としたのに、奏はそれに座らずに立ったまままぶたを閉じた。

 初めて聞いた曲。いや、それは嘘か。さっきも聞いた。桜に寄りかかって。明るくて、品があって、美しい。それなのに、どこか悲しい。そんな曲。

 瞼を閉じると、鮮明に曲のイメージが映し出される。

 どこまでも澄んだ空。それに溶けるように咲き誇る大きな桜。それなのに、宙に舞っている薄桃色。

 2人の男女。奏には想い合っている2人に見えた。

 その間を隔てる薄い壁。重なり合う手を、邪魔している。重なり合っているように見えて、重なることのない互いの手。そばにいるとわかっているのに顔さえ見えない。こんなに近くにいるのに、どこか遠い2人。

 こんなに薄いのに、決して崩れ落ちない壁にもどかしさを感じる。

 どうして?こんなに綺麗な曲なのに、こんなに悲しいなんて。

 桜田が奏でてくれるバイオリンなのに。

 どうしてだか、まぶたを開くことが怖かった。開いたときに、桜田がいなかったら?そんな不安がよぎる。バイオリンの音が聞こえているのだから、いないわけがないのに。

 そっとまぶたをあげると、葉桜の下でバイオリンを奏でている桜田がいた。

 糸の震える音。綺麗で、どこか儚げ。奏の胸をこんなにも締め付けて、世界を震わせる。 あの見えてしまった、情景のせいだ。目の前にいる彼が遠く感じられるのも。どこかに行ってしまうのではないのかという不安も。

 ほっとしたはずなのに、こんなにも不安。

 奏は駆け出さずにはいられなかった。

 桜田が演奏を止めるのが早いか、奏は桜田の胸に飛び込んだ。

 自分がどうしてこんな行動に出たのか奏もわからなかった。ただ、不安だった。こうしてみると、幸せになった。それなのに、今度は怖くなった。

「どこにも行かないで。そばにいて」

そう言って彼の服を強く握りしめる。ぎゅっと。離れないように。

 奏が思っていることを口に出してみると、それは訳のわからないものだった。

 桜田は一言もどこかに行くとも、二度と会えないとも言っていなかった。どうしてそんなことを言われるのか、桜田にはきっと訳がわからないだろう。それでも、奏はずっとくり返すばかりだった。まるで、もの分かりの悪い子供のように。

 状況はわからないが、こんなに奏が辛そうなのは心が痛む。突然、どうしたのだろう。

「今、そばにいるじゃないか」

どこにも行くなんて桜田にはない。今だってそばにいる。奏を突き放したことなんかあっただろうか。こんなに大切に思っているのに、どうして不安にさせてしまったのだろう。

 儚げな桜の枝のような奏。下手に扱うと散ってしまいそうで、こちらが不安になる。

 奏がそっと顔を上げる。泣いていたのか、頬が濡れていた。大きな目も潤んでいた。

 本当に、この子は綺麗に泣く。

「ずっとよ。あなたがいない生活なんて、いや」

俺だって…。

 喉まで出ていた言葉。しかし、口には出さずに飲み込む。

 ユルサレナイ。

 どんなに望んでいても、それは願ってはいけない。考えてはいけない。

 桜田は、答えられない自分がもどかしかった。しかし、それ以上に、なにも言ってくれないことに奏は切なかった。

 奏の目がすっと細められる。その端から、今にでも雫が溢れてしまいそうだった。

 その目はじっと桜田を見据えていた。彼の考えを、彼の心を知りたくて。もう、何年も一緒にいるというのに、彼はまったく心を触れさせない。核心を絶対に見せない。名前だって、まだ教えてもらっていない。

 奏がいくら手を伸ばして触れようとしても、届かない。

 そう、さっきの情景の2人のように。

 残酷だ。お互い、こんなに求めているのに。お互いが残酷だ。

「あんたは良家の娘だ。近いうちに、いい家柄のところに嫁ぐんだ」

そうつぶやいた桜田の声は、張り裂けそうなぐらいに苦しそうだった。言葉はこんなに拒絶を示しているのに、行動はその逆だった。震えている腕。指先までも震えていた。なにももっていない手は頭、バイオリンをもっている方は背中に。ぎゅっと壊れそうなものを強く抱きしめるように、奏は桜田に抱きしめられていた。頭を押さえられていて、彼の顔を見ることができなかった。

 しかし、桜田がこんなにも近く感じられた。こんなにも苦しいのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

「私は自由になるのよ。そんなところになんか、嫁がない」

ずっとそう信じてきた。大人になれば自由になって好きなことができるんだって。

 どうして桜田がそんなことを考えるのか、奏にはまったくわからない。

 奏はずっと桜田のそばにいる未来しか考えられない。それ以外の未来なんてなくていいのに。桜が散って歳を重ねるたびに、鎖は千切れていっている。そのはずなんだ。

 桜田さえいればいい。桜田が一流のバイオリン奏者になって、奏はそのそばにいて。

 おかしいところなんかないはずなのに。どうして、うまくいかないの?

 どうして、私が好きでもない人のところに嫁がないといけないの?奏には疑問に思えない。母様がそんなこと許すわけがない。

 良家の娘だから何?私は望月奏。自分でしかないのに。

 まるで、だだをこねている子供のような気持ちになった。

「嫁ぐならあなたのところよ」

耳元で、はっと息をのむ音が聞こえた。

 どうして、そんなに辛そうにするの?こっちも辛くなってしまう。

 拒絶もしなければ、突き放しもしない。彼の気持ちが、またわからない。

 どうして、なにも言ってくれないの?

 彼の沈黙が痛い。

 どうして?どうして?奏は口癖のように、心の中でつぶやいていた。どうして、と。

 突き放して欲しくなんてない。彼のそばにずっといたい。しかし、それが彼を傷つけているのならいっそ、突き放して。そう願ってしまう、ずるい自分がそこにいた。

 彼が傷つくなら、私が傷つくのに。奏は、悲しいことを考えるばかりだった。

 どうして今日はこんなにもいつもと違うのだろう。いつもは彼のそばにいるだけで温かい気持ちになれて、安心できたのに。

 不安。悲しい。辛い。

 どうしてしまったのだろう。

「帰ってくれ」

初めての拒絶。頭が真っ白になった。涙さえ出ない。ゆっくりと離れるぬくもり。

 奏の見開かれた目には、下唇を噛みうつむく桜田が映った。握られた拳が震えている。そのままではいつか血が出てきてしまう。止めさせようとその手を自分の手で包み込みたいのに、できない。彼のそばに寄ることさえ、できない。

 さっきは拒絶されてもいいと思っていたのに、いざそうなるとこれ以上ないくらいに辛い。辛くて辛くて、身が裂かれるような、そんな感じ。

 世界が歪む。頬は濡れていない。雨も降っていなければ、世界も終わっていない。空は快晴。とても澄んだ青空だった。皮肉。こんなに辛くても世界はいつも通りに動いている。

 帰れと言われたのに、足が動かない。ここから去りたくない。体はそれがわかっていた。頭とは裏腹に、心に忠実だった。

 沈黙。なにも、本当になにも聞こえなかった。

 鳥のさえずりも、虫の鳴き声も、呼吸の音さえ。全てが失われた世界に立っていた。

 桜田が背を向ける。乾いた足音が響く。

 小さくなっていく背を、見つめるしかない奏。

 呼び止めたいのに、その術がわからなくて。

 叫ぶ名前さえ、知らなかった。


 ―にいさま。この子のなまえ、なんていうの?―

小さい頃の思い出。兄様が怪我をした小鳥の看病をしていたときの記憶だった。

 どうして、今思い出すの?

―さあね。俺にはわからない―

―なまえをつけてあげないの?―

飼っているのなら、動物に名前を普通はつけるものだ。

―つけないよ―

―どおして?―

質問ばかりする奏に、兄様は苦笑いした。

―名前を呼んで愛着がわいてしまったら、離れがたいだろ―

小さい奏でもわかるぐらい、兄様はその鳥を気に入っていて、その鳥も兄様になついていた。ずっと、飼うものだと思っていたのに。

―にいさまのなのに―

―俺のじゃないよ。怪我が治れば、この子は自分の巣に帰ってしまうからね―

ちちちっと兄様の手の上で、鳥がかわいらしく鳴いた。居心地が良さそうに。

 しばらくして、その取りの怪我は治り、空に飛んでいった。

 兄様と一緒に世話をしていた奏は、去っていく鳥を見て泣いたものだ。名前がなくともあの子との生活がいつの間にか当たり前になっていて、それがなくなるのは寂しいものだった。

 あの子は今どうしているのだろう。あれ以来、姿を見せない。


 あの後、奏はどうやって自室まで来たかの記憶がない。目を覚ましたら、布団に寝かされていた。目に映るものは見慣れた天井。心配そうにのぞき込んでくる母様の顔。手が温かい。母様がぎゅっと強く握っていてくれている。

 なにがあったのだろうか、桜田先生までいた。桜田と同じ真っ黒い髪を一つに束ねた、眼鏡の彼はいかにも医者って感じをしていた。やんわりと微笑む顔は、いつぞや見た桜田のものと少し似ていた。しかし、それ以外はまったく似ていない。顔の作りとか外見的なところはまったく。きっと桜田のそれはお母様に似たのだろう。他の、雰囲気などがどこか桜田に似ているものがある。親子なのだから、当たり前なのだろう。

 どうして自分が寝かされているのか、桜田先生がお見えになっているのかわからない奏は、体を起こそうと腕に力を入れた。しかし、どうしてかうまいこと体が起きない。いつの間に、こんなに体力がなくなったのだろう?奏は桜田先生と母様の助けがあって、やっと上半身を起こすことができた。いったい誰が着替えさせたのか、奏の服装は寝間着になっていた。

「気分はどうだい?」

「いつもと変わらないわ。私、いったいどうしたの?」

母様は少し、眉を寄せた。それは、いったいどういう意味なのだろう。ぼんやりした頭ではとうていわからなかった。今日はわからないことが多すぎる。

 ふと、もうどれだけ経ったのかわからないが、別れた桜田の後ろ姿を思い出した。

 橙色に染まった空と同じように、葉桜も柔らかい橙色に染まっていた。バイオリンの音は聞こえない。

 もう、聞くことはできないのだろうか?このまま終わってしまうのだろうか?

 それを見続けることは、とても辛かった。しかし、目が離せなくて。離してしまったら、消えてしまうんじゃないかと不安になった。どうして、そんなことを思うのだろう。桜の木が一瞬にして消えるなんてあり得ないのに。

 私は桜の木になにを見ているのだろう。

 そんなのわかりきってる。あそこは、私と桜田の空間、世界だった。だった…。きっと、もう過去のことなんだろう。認めたくはないけれど。

 すっと、視線を落とした。ぎゅっと布団を握りしめていた。

 さっきまで、桜田との時間こそが現実で、こっちが夢のように思っていたのに。

「俺は、仕事に戻りますよ」

背景と同化するように座っていた兄様が、すっと立ち上がった。距離が遠かったせいか、本当にいたということに気がつかなかった。

「倒れたと聞いて、てっきり危篤かと思いましたけど」

兄様は鼻で笑った。さすがにむっとする。兄様はいつでも嫌みくさい。こんな時で嫌みを言うなんてと、奏は兄様を睨みつける。

 いくら奏が睨みつけても、兄様は奏を視界に入れようとはしない。見る価値もないと言われているような気がして、もっと視線は鋭くなる。

「不吉なことを言うんじゃないよ」

「母様。俺は心配したんですよ」

嘘つき。奏はそっぽを向いた。昔の兄様なら心配してくれただろう。でも、今の兄様が心配するなんてあり得ない。今の兄様には奏なんて存在していないのだから。

 そうだと思うと、急に胸を締め付けられるような苦しさに襲われた。

 毒を吐くだけ吐いて兄様は立ち去ろうとした。最後の最後まで奏のことを見ようとはしなかった。

 兄様の、昔の兄様の面影がこんなにもなくなるなんて。

「あの子を嫌いにならないでおくれよ」

心配そうに兄様が去っていった廊下を見ている母様。奏はなにも答えられなかった。

 兄様を好きにはなれない。あんなに、意地悪なんだもの。でも、嫌いかと言われるとそうですなんて言えなくて。だから、嫌いにならないでなんて言われても、なんて答えればいいのかわからない。

 奏の中での兄様はどういう存在なのか、奏は兄様のことをどう思っているのかわからない。好きと嫌いの中間なんて、きっとないのだから。中間である方が酷い。普通なんて、なんとも思っていないのと同じ。いてもいなくても、同じことなんだ。

 兄様の中の奏という存在は、きっと中間なんだ。

 あの態度、言動。そうとしか思えない。だから、奏は兄様とうまくやっていけない。

 そう考えてしまうと、兄様ともう昔みたいに仲良くできないと自分で決めつけているみたいだ。ため息をつきたくなったが、今、部屋には桜田先生がいるので止める。

「そんな顔をしていると、治るものも治らなくなりますよ」

よほど暗い顔をしていたのだろう。桜田先生が眉を下げている。いつも穏やかに微笑んでいる桜田先生が、そんな顔をするのは珍しい。いつも安心させてくれる、そんな風に笑っているのに。

 そういえば、父様の病気を診ていたのも桜田先生だった。なにも話さなくても桜田先生には、この家のことはわかっているのだろう。奏よりも奏の体のことの知っているだろうし、奏より家族のこともわかっているだろう。客観的に見ると、きっとわかりやすいんだろうな。桜田先生はずるい。桜田先生は大人で、いろんなことを知っていて。ずるい。なにもなくても桜田のそばにいられるし、桜田のこともきっと奏よりわかっているのだろう。

 奏は桜田先生が羨ましくて、なにも知らなくてわがままでなにもできない自分が悔しかった。

「お腹はすいていないかい?かゆでも作ってくるかね」

お願いしますと桜田先生に言って、母様が立ち上がった。いつもはあんなに厳しいくせに、今はこんなに優しくしてくれるなんて。そう母様をからかおうとしたけれど、やめておいた。母様のあんなに嬉しそうな顔を崩すことないと思って。なにがそんなに嬉しいのか、母様は本当に子供みたいに無邪気というか、かわいらしく微笑んでいた。

 こんなに可愛くて若い人が奏の母様なんて、少し疑ってしまう。

 ぱたぱたと忙しそうに去っていく足音に、くすぐったい気持ちになって思わず吹き出した。母様は本当に心配性の優しい人なんだから。

「ああ。笑顔はなににも勝る良薬ですよ」

桜田先生も穏やかに嬉しそうに微笑んだ。みんな、どうしてそんなに心配性なんだろう?体は弱いけれど、そんなに大きな病気をした覚えはないのに。母様が奏に隠していない限り、奏は大きな病気をしていなかった。

 実際、生死だって彷徨ったことなんかない。

 みんなが大げさだから、昔、自分は大きな病気を持っているのではないかと思った。朝には起きられないのではないのかと思って、夜も眠れなかった。ついには母様と桜田先生に詰め寄ったぐらいだ。私はどんな重い病気にかかっているのか、いつまで生きられるのかと。

 実際、桜田先生と母様が言うには、重い病気にかかっているわけではなかった。ただ、人より体が弱いだけだと。父様の病気が感染するものだったから、もしかしたらと思っての配慮だと。

 それを知ったときは、本当に恥ずかしくて、情けなくて。

 ずっと昔の恥ずかしい出来事を思い出した奏は、そのときの恥ずかしさも思い出して体中が熱くなった。じっともしていられなくて、今にでも布団の中に潜り込んで、その記憶を闇に葬り去りたい。

 思い出すなんてどうにかしているとしか言えない。

「顔が赤いですね。熱が上がってしまったのでしょうか?風邪が悪化してはいけない。今、冷やすものを貰ってきますね」

慌てた様子で立ち上がろうとする桜田先生。どうやら、顔が赤くなったのを熱と勘違いしたようだ。区別がつかないなんて、本当にお医者様なのかと少し心の中で悪態をついた。お医者様だからの対応だろうとも思うが、勘違いされて苦い薬を飲ませられるのもいやだし、まるで奏が仮病を使っているみたいなのもいやだ。

「大丈夫です!」

もう立ち上がりかけている桜田先生の手を掴む。冷たくて気持ちいい。

 すとんともう一度座り直した桜田先生は、じっと掴んでいる奏の手をじっと見る。風邪が悪化したわけではないのに、体温は上昇。

 照れるというか、恥ずかしいというか、とにかく奏はいろいろと混乱していた。さっき思い出したこともだし、とっさに桜田先生の手を掴んだこともだし、その手をじっと見られることもだし。とにかく、風邪のせいかボーッとする頭では処理できなかった。

 すっと手にもう片方の桜田先生の手が乗る。奏の手は桜田先生の両手に包み込まれたというわけで、逃げられなくなってしまった。確か、手首で脈を測るわけで、心臓がばくばく言っているのがわかってしまう。その恥ずかしさからまた熱が上がるわけで。いろいろと、悪循環している。

 循環を止めたくても止める術を知らないし、簡単じゃないこともわかっている。

「手がこんなに熱いじゃないですか。やはり、冷やさなくてはいけませんよ」

「もう元気ですから、大丈夫ですよ!」

元気だということをわかってもらえるように、元気な笑顔を見せる。これで信じてくれるならありがたいのだけれど、そううまくいくものじゃない。

 手を捕らえたままの桜田先生は案の上、心配そうに奏の顔をのぞき込んでくる。ここでひるんでは元も子もないぞと自分に活を入れる。元気な笑顔を必死に維持をする。

 しかし、それは簡単に崩れる。

 だって、桜田先生の顔、それだけじゃない背景まで、桜田と初めて合ったあの時に重なって見えたのだから。桜田が額を冷やしてくれようとしたときに。

 あの時も、こんな感じだったなと懐かしくなって笑顔が違う笑顔に崩れる。

 それを見た桜田先生は驚いたみたいだけど、作り物じゃない元気な奏の姿を見て安心したようだ。

 手がそっと離される。なんだか恥ずかしかったけど冷たくて気持ちのよかった手が離れた。あの時の桜田の手も冷たくて気持ちよくて、離れがたかった。

「桜田先生も、心が温かい人なのですね」

桜田にも言ったこと。迷信だとか、そんな気はしなかった。事実、心が温かかったから。本当に不器用だったけれど、優しくて優しくて。

「なんですか?それは」

桜田先生は大人のくせに、かわいらしく首をかしげた。それはもう、小動物みたいに。

 桜田と違う反応。わかっていたのに。いくら親子だって違う人なんだから。他人に、彼を探してはいけない。いくら、もう会えないからといって、そんなことはいけない。

 ここが現実で、あそこは夢。

 夢はいつか覚めるもの。覚めてしまったら、同じ夢は見られない。忘却するだけ。

 夢で生きていくことなんてできない。

 夢は夢でしかない。現実で生きていくことしか、できない。

 いくら望んでも。

 でも、望んで叶うのなら、いくらだって望めるのに…。

 もう会えないだろう、桜の人。

 現実で、生きていかなくてはいけない。いつまでも優しい夢に浸っていてはいけない。


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