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2:桜の下のバイオリン奏者

 桜が花を咲かせた。部屋から見える桜は、隣の屋敷のものだった。

 隣の屋敷の主は、望月家の病弱なお嬢様、(かなで)の専属の医者だ。桜田先生という彼は、実に穏やかな性格をしていて、外見からして優しい人だった。奏は彼を気に入っていた。

 昨日まで、蕾だったはずの桜が目を覚ました今日にはもういくつも花を咲かせていた。

 早く目を覚まして、その花が開く姿を見てみたかったなと、日が高くなってしまった今に起きた自分を少しだけ呪った。いくら昨日体調を崩していたからって、こんな時間に起きることはなかったな。きっと、母様は奏の体を案じて起こさなかったのだろう。

 桜から視線をずらし、奏は布団から怠そうに出る。眠りすぎたせいか体が重い。しかし、調子はとてもいい。

 汗臭い浴衣を脱ぎ捨て、新しい着物に袖を通す。この間出かけたときに、母様が買ってくれたものだ。淡い青地の花柄の大人っぽい着物。奏は、それを着付けると自分で髪を梳く。身だしなみを整えるのは一人でできるし、自分でするのが当たり前のことだと考え、奏は小さい頃からお手伝いの手をかりなかった。

 故に、まだ八つになったばかりの奏は一人できちんと身支度を調えるようになっていた。

 髪を結い上げる前に、たまらなくなって奏は全身を大きな鏡に映す。

 気に入った着物を着ている自分を見てみたかった。人が袖を通して見ると、この着物はどのように見えるのか、袖を通した時から気になってしょうがなかった。

 確かに、期待通りの美しい色に柄。帯も申し分ない。しかし、幼い奏が着る分には少し、大人っぽすぎた。奏とは少し、不釣り合いで不格好にみえた。

 奏は着物や浴衣が大好きだった。袖を通すのも、鑑賞するのも、選ぶのも、見て回るのも。しかし、病弱故にあまり外へは見に行けない。だから、たまに出かけるその日には、店という店をいやと言うほど見て回り、じっくり鑑賞して、胸を射貫かれたものは必ず手に入れる。

 出かけられる時間は限られている上に、本当に希なことだった。大半の着物に浴衣は奏の選んだものだったが、それ以外は、母様が遠出をしたときや奏の体に合うものが少なくなった時に買ってきたものだった。

 別に、不満はない。色、柄、帯。どれも申し分のない一品の上に流行のものだった。しかし、奏の胸を射貫くものとは違った。母様が買ってくるのは、色がはっきりしているものだった。奏は、武家屋敷を思わせるような古風な色合いだと思った。紺やら藍やらといった色だった。

 しかし、奏が好んだのは上等な品かどうかではなく。流行がどうとかではなく。自分が好きな淡い色のものを選んだ。柄もさりげないもの。シンプルと言えばそう見えるかもしれない。しかし、そういうものばかりに胸を射貫かれていた。

 似合わないことに少しがっかりした奏は、袖をいじった。

 ふと、糸が震える音がした。これは、この前聞いたバイオリンという楽器の音ではないか?上品で素朴で柔らかい悲しいような音。

 まるで何かに取り憑かれたかのように、奏はふらりと廊下から外に出た。靴をすら忘れていた。

 さすが良家の屋敷というのか、庭は広くジャングルのようにたくさんの植物が植えてあった。大半を奏は何かを知らない。そして、確かこの先に待っているのは、屋敷と屋敷の境を示している薄い塀があったはず。

 それでも、音の聞こえる方へと奏は歩を進めるだけ。

 ぎこちないこの音に奏は、惹かれていた。まるで、見えない糸に絡め取られたように。

 ついに、奏は塀のところまで歩いてきた。やはり、薄い壁が歩みを妨げる。それでも、どうにかそれを越えようと試行錯誤をする。塀を跳び越えようにも、高い上にほとんど寝たきりの奏には無理だった。それなら塀を叩き壊すことも考えたが、体力がない。

 ついに考えが行き詰まった奏は、ふと植物に隠れるようにひっそりと存在している穴を見つけた。

 植物をよけるのは容易かった。

 しゃがみ込んで穴を覗く。隣の屋敷の庭につながっているのがわかる。足下にはまばらに薄桃色。散るには、まだ早いだろうに。

 老朽化のせいであいてしまったのだろうか?その穴は、四つん這いで通り抜ければ背中にかなりの余裕のある穴だった。しかし、問題は横の幅だった。せっかくの着物に傷がつきそうなほどに狭かったと言うのが、奏の感想。しかし、実際はそんなの気にしなくていいぐらいの若干の余裕があった。

薄い塀をくぐり抜けた奏は、着物についた汚れを払う。まだ、バイオリンの音は響いていた。

 顔を上げた奏が見たものは、大きな桜の木だった。これがいつも部屋で見ていた桜だと気づくのに時間はいらなかった。まるで、空に花を咲かせているような大きくて綺麗な桜。

 それに見ほれていたかったが、奏はバイオリンの音を辿ることを続けた。

 そうしていくと、足は桜の方に向かっていた。今日は風が弱いおかげか、花びらを散らすことをしていなかった。

 すぐそこに迫っているバイオリンの音。ついに手を桜に触れ、裸足で少し出ている太い根を踏みしめた奏。

 そして、ひょっこりと顔を反対側に覗かせる。

 風向きが変わる。ほのかに桜が舞う。

 真っ黒な髪の男の子。見慣れない洋服。凛とした顔。

 奏は、バイオリンの音もそうだがそれを奏でているその少年に見ほれていた。

 耳も目も彼を選んでいた。

 ふと、バイオリンの音がやむ。閉じられていた目がゆっくり開かれる。

 真っ黒い目。肌以外すべてが黒いその少年の視線に射貫かれた奏は、どきっと胸がなった。歳は、奏より少しばかり上ではないだろうか?

「あんた、だれ?」

バイオリンの音に劣らないぐらいに、澄んだ声。

 奏ははっと我に返った。しかし、言葉が見つからない。しばらく、目を泳がせる。

 そして、幹に手をしっかりつけて放った言葉はこんなものだった。

「ずいぶんと下手なバイオリン。昨日聴いたバイオリンは、もっと上手だったわ」

しまった。思わず、そんなことを口走ってしまった。

 確かにぎこちない音ではあったけれど、ひどいものではなかった。実際、奏はこの音に惹かれてここに来たのだから。

 自分がしてしまった失敗に恥ずかしくなり、奏は額を木の幹にすりつけた。謝罪の言葉すら喉から出てこない。何かを言おうとすれば、また失敗してしまうような気がして。

 そのことから、さらに額を強く押しつける。しかし、さらに自分がいやになって、額を叩きつけたくなって、少し幹から離した。

 その隙に、幹と額の間に割って入ってきた手。それに気づいたときは、時すでに遅しで勢いをつけた額はその手に直撃したのだった。彼は少し顔を歪めた。

 若干鈍い音がした。

 やってしまったと、パニック寸前だった。焦った。また失敗してしまった。

 恐る恐る顔を上げると、さっきの少年が何事もなかったかのような表情でたたずんでいた。

「あ、もうしわ…」

「怪我をするから。あまり近づいてはいけない」

奏の言葉を遮った少年は、軽く奏を抱きかかえ桜の木から遠ざけた。

 いったいいつからここにあって、いつから使っていないのかわからない椅子に降ろされた。アンティーク調のその椅子を奏は気に入った。

 そして、今自分が裸足なのに気がつく。慌てて足の裏を確認すると、運がいいのか汚れてはいたが傷は一つもなかった。

 ひんやりとした手が、額に当たる。突然のことに驚いたが、その冷たさに、気持ちよさを感じていた。

「痛くないか?怪我は見あたらないが」

前髪を掻き上げられて、じっと額を見られる。近い顔に、自分のしたこと。その他諸々のことが理由で奏の体温は、どんどん上昇した。そして、そうなっていくと額にある手の冷たさが気持ちよくなっていく。

「ええ。大丈夫よ」

「でも熱いな。冷やさないといけないか」

「大丈夫よ!」

この暑さはぶつけたためのものでないのだから。

 今にでも氷をもってこようとする彼の手を掴む。すると、その手は、若干熱を持っているような気がした。

 そうだった。彼の手は、奏の手の下敷きになったのだった。

 申し訳ない上に恥ずかしい。

「あなたこそ大丈夫なの?手が熱いわ」

「俺は大丈夫。それより、額を冷まさないと…」

またもや去っていこうとする彼。だから、もっと強く握ってやる。少し、彼の眉がよる。やっぱり痛いんだ。

「もう治ったわ」

「本当か?」

奏の前にしゃがみ込み、また額に触れる。ひんやりした手が、やはり気持ちいい。

 思わず笑いがこみ上げてしまった。きっと、この小さい笑い声は聞こえただろう。奏を見上げる彼の顔がなんだというように歪んだ。

「あなたって、優しいのね」

「なぜ?」

そっと、額に当てられていた彼の手に、自分のそれを重ねた。

「だって、手が冷たい。手が冷たい人は、心が温かいらしいわ」

それは、根拠のない迷信のようなものだった。

「…じゃぁ、あんたは心が冷たいのか?」

「え?」

「手が温かいから」

言い出したはずの奏は自分が不利になった。その上に言葉に詰まった。

 確かに、そういうことになる。でも、自分が心が冷たい人になるのはいただけない。

「それは、その…」

その次はやはり続かない。何を言っても矛盾してしまう。どうにもできないまま、慌てている奏をよそに、手の冷たい彼はおかしそうに小さく吹き出した。

 彼が笑った。さっきまで、あんなに無表情であまり表情を変えることをしなかった彼が笑った。奏は思わず目を丸くした。その顔をじっくり見ていた。

 しかし、それは一瞬で元の顔に戻ってしまった。なぜこっちをそんなに見るんだと言いたそうに、眉を寄せた。

「だって、笑ったのだもの」

彼は、もっと眉を寄せた。まるで、拗ねたような顔。

「俺が笑うのが、そんなに珍しいのか?」

「だって、あなたが笑ったの初めて見たのだもの」

彼の手から離れた奏の手は、彼の頬をつねった。片方だけではあきたらず、もう片方の方もつねる。

 ぷにっと柔らかい感触とさらさらした綺麗な肌に、奏はどうしてか至福な気分がした。思わず顔がゆるんでしまう。

 すると、つねられているはずなのに彼は笑った。

「俺は、あんたのその顔がおかしいと思う」

「まぁ、ひどい。女の子にそんなことを言うの?」

「ひどい?」

とぼけているようには見えなかった。しかし、とぼけている方がいいような気がする。

 何のことだとでも言いたそうな、きょとんとした彼の顔には悪意のひとかけらも見えない。

「褒め言葉のつもりだが」

「どこが?」

けなされた気はするが、褒められた気はしない。いったいどこをどのように褒めた?

 奏にはまったくわからなかった。

 しかし、悩んでも仕方ないと目の前で真剣に悩んでいる彼を見て、奏はあきらめた。きっと、彼自身もわかってないに違いない。

 あぁ、なるほど天然か。そう気づくのには時間が必要だった。

 ふと、額から手がもうないことに気がついた。少し、残念な気がした。というか、残念としか思わなかった。

 そして、いつから握っていたのか彼の左手にあるバイオリンが目に入った。そう言えば、自分はバイオリンに惹かれてここまできたんだと気がついた。

 奏の思っていることを知ってか知らずかわかれないけれど。視線に気づいた彼は、ひょいっと奏でによく見えるように軽く持ち上げる。そして奏を覗く顔は第一印象とは少し違う、かわいい顔をして首をかしげていた。まるで、犬のようだ。

「これが、どうかしたのか?」

「あ、その、部屋から聞こえたから」

「そうか」

なぜか、悲しそうにバイオリンに視線を落として、今度は後ろの桜を振り返った。それが何を意味するのか奏にはまったくわからなかった。そして、奏に視線を戻す。

「悪かったな。明日からは聞こえないように、場所を変える」

「え?」

奏はまたもや目を丸くした。

 彼はどうしてそんなことを言うのだろう?奏は、このバイオリンに惹かれたのに。

 このままでは、明日には聴けない。それは避けたい。

「別に、あなたのバイオリンが嫌いなわけではないわ。場所を変えるなんてしないでちょうだい」

「でも、下手だって」

「それは!」

忘れていた恥ずかしさが、蘇る。

「その。勢い…のような感じ、です」

怒っただろうか?奏は恐ろしくて、彼を直視できないでいた。

 本当に悪気なんて、これっぽっちもなかった。本当に勢いで、とっさに口から出てきた。そんな感じでしかなくて。

 気にしていないように見えたのに、こんなにも根に持っていたなんて。後悔と恥ずかしさから、また変な行動にでてしまいそうだった。

「別にいい。下手なのは事実だからな」

服が汚れることを気にしないのか、彼はその場にすとんと腰を下ろした。そして、空を仰ぎ見る。まるで、かごの鳥が自由を求め、かごをつつくかのように。

「バイオリンに憧れて始めたはいいが、独学では限度がある」

「それなら、先生をつければいいじゃない」

奏も椅子から降りて、地面に腰を下ろす。彼の隣に。近くにいけば彼の気持ちがもっとわかるかもしれない。今日着ているのが、真新しいあんなに汚れるのを気にしていたものだと、奏はすっかり忘れていた。

「親が反対する。俺は、跡取りだから」

奏にはよくわからなかった。跡取り息子だから、何だというのだろう?どうして、好きなことができないのだろう?大人になれば、自由になれるのに。自分がどこの誰で、どこの家の出身かも関係なく。

 奏はそう信じていた。

「あなたは、家を継ぐの?」

「当たり前だろ」

何を言っているんだとでも言いたそうな彼の顔に、奏は少しむっとした。そして、やはり彼の言っていることが理解できなかった。家を継ぐかどうかは、自分で決めるのではないのだろうか。彼は、まるで、義務、鎖のように言った。

 首をかしげることしか、奏にはできなかった。

「それなら、私が先生になってあげる」

「え?」

「知識はないけれど、一人で練習するよりいいわ」

名案だと思った。しかし、彼はそうでもないのかやはり眉を寄せていた。

 奏はそんな反応をされて驚いてしまった。彼はもちろん喜んで賛成するものだと思っていたのだから。

 奏の思い込み?

「あんたが、俺のバイオリンを?」

「え、ええ。そうよ。不満かしら?」

きょとんとしたような顔をして、じっと奏を見つめる。あまりにも熱心に見るのもだから、奏は頬を赤く染めて視線をそらした。

 そんなに見つめなくてもいいじゃないか。言いたいことがあるなら言えば済む話だ。なんとなく奏は自分がおかしなことを言ったのだと自覚した。

 いやならいやと言えばいい。だめならだめと早く言って欲しかった。

「そうか」

そうつぶやくと、彼はゆっくりと立ち上がった。

 怒ったのだろうか?呆れたのだろうか?

 奏の胸はこれ以上ないぐらいに大きく早く鳴っていた。

 桜の木の下までいくと、彼はバイオリン弾き始めた。

 奏の惹かれた、あのぎこちない澄んだどこか悲しい音色が響く。一瞬にして、世界が変わったような気がした。奏の世界の色合いが変わった。そんな感じがした。

 早く散らないかとしか思っていなかった、満開の桜をこんなにも綺麗だと思ったのは初めてだった。

 奏はただこの世界に酔いしれることしかできないでいた。バイオリンの音に聞き惚れて、バイオリン奏者に見とれていた。

 なんの曲かは知らなかった。しかし、どこか悲しい。それを感じ取れた。

 演奏はいやでも奏者の感情を表すものだろうか?

 この前聴いたバイオリンと違って、心に響く。

 技術的にはこの前聴いた、どこかの財閥の息子が弾いていたバイオリンが上だった。しかし、心に響くものは全くなかった。心が、こもっていなかったからだろうか?

 知らないうちに、奏の目から雫が次々と流れていた。

 演奏していた彼は、それを見て手を止めてそれに見ほれていた。綺麗な涙。どうして泣いているかは知らないけれど、とても綺麗だった。

 目を見開いて彼がこっちを見ているいるから、何事かと思って奏は頬に触れる。指先がほのかに濡れた。

 泣いていることに気づいた奏は、手でごしごしと目をぬぐった。自分がどうして泣いているのか、奏ではわからなかった。

 ぼーっとしていた彼ははっと我に返って奏のそばによる。いかんせん、その涙をぬぐうための布を持ち合わせてはいなかった。

 そばにいることしか、できなかった。

「どうした?」

どうしていいのかわからずに困惑しているのがわかる。それを見た奏は思わず笑ってしまった。第一印象と違いすぎる彼の一面は、見ていてとても楽しいものだった。

「涙が出るほど、いい演奏だったわ。また、聴かせてね」

笑顔になった奏を見てほっとしたように、彼は柔らかくほほえむ。それは、綺麗に。

「次は泣かないでくれよ。先生」

「先生?」

今度は奏がきょとんとする番だった。先生とはいったいなんだ?

「あんた、俺のバイオリンをみてくれるんだろ」

合点がいって、はにかんだ。

「先生なんて、そんな偉いものじゃないわ」

すっと片手を差し出す。彼はそれを疑問そうに眺める。

「私は(もち)(づき)(かなで)。あなたは?」

やっと差し出された手の意味を知った。しかし、彼はそれを握ろうとしなかった。すっと、目をそらすばかりだった。

(さくら)()

「それは知っているわ。下の名前は?」

桜田は黙るばかりだった。名前がないわけがない。それなら、なぜ答えない。答えられない理由があるのだろうか?

 ふと、奏は時間が気になった。ここに結構な時間、いた気がする。

 さっと血の気がひく気がした。いくら前日具合が悪くても、次の日は午後のお稽古はしなくてはいけない。きっちり一時には部屋で身支度を調えて母様を待たなくてはいけない。もし、それができていなかったら。

 そこまで考えて、奏は頭を振って勢いよく立ち上がる。

「明日も来るわ」

まるで嵐でも去るかのように、奏は来た道を戻った。

 さっきまでの逢瀬の余韻に浸る余裕なんて、彼女にはなかった。

 桜田を振る向くことも、できなかった。


 やっとの思いで、部屋まで戻り母様がまだ戻っていないことに安心する。そして、急いで着物を変える。膝のところに土がついているのを見られたら、なんて言われるかわからない。

 焦る気持ちを落ち着かせながら着付けていく。焦ったままだと、早くできることも手間取ってしまう。脱いだ着物を無造作に引き出しに詰め込む。あとで、母様に見つからないようにお手伝いの斉藤さんに洗ってもらおう。

 着付けが終わると、次は髪を結い上げなくては。櫛をとり、鏡の前に座る。梳いていくうちに髪から、桜の花びらがはらりと背中を伝って床に落ちる。余裕のない奏はもちろん気づかない。

 そして、かんざしを差し込んだ奏は、間に合ったとほっと胸をなで下ろした。

「今起きたのかい?ずいぶんと焦って」

背後から聞こえる、凛とした声に肩を震わせる。

 胸に手を当て、奏は自分を落ち着かせる。そして、社交的な笑顔を作り、体ごと振り返る。廊下に立っている、それはそれは綺麗な女性に向けてお辞儀をする。おしとやかに上品に。

「おはようございます。母様」

「おはようございます」

にっこりとした顔の彼女は、腕を組み部屋に入ることなく廊下に仁王立ちをしたまま。

 下げていた頭をゆっくりと上げる奏。目に映るのは、地味な色の着物を着ている母様。いつ見ても、奏のような子供を持っているようには見えない若々しさだった。顔立ちも、目が切れ長の美人だった。良家の奥方より、艶やかな着物を着て花魁をやっている方が様になっているような気がした。失礼かもしれないけれど。しかし、春だというのに、秋を思わせる山吹色の着物は少し彼女には不釣り合いなような気がした。花魁にならなくていいから、艶やかな着物を着てはどうだろうか。奏は心の中で、母様に提案した。

「おや?あの着物を着なかったのかい?あなたなら着ると思ったんだけどね」

「あの着物は…」

奏は言葉が出てこなかった。どうにかして何か考えなければ。

「似合わなかった。なんてことはないだろう?あたしの娘なんだから」

どきっとした。着替えた理由ではなかったが、図星ではあった。

 母様は部屋に入ってくると、奏の前にしゃがみ込んだ。若干冷や汗をかいている奏の顎を掴み、自分によく見えるように顔を上げさせた母様。

「あんたはあたしに似て、美人だからね。目だけはどうしてだか、似なかったがね」

母様は切れ長の目。しかし、奏の目はぱっちりと大きな目をしていた。それ以外は、実に似ていた。しかし、それだけで、顔の印象は大きく変わってしまう。母様は、その目が少し気にくわないようだった。

 しかし、お稽古の時の母様は鬼のように怖いけれど、普段はとても優しくて穏やかに笑いかけてくれるから、嫌われてはいないとわかる。奏は母様が大好きだった。優しくて綺麗で強い母様にあこがれを抱いていた。

 母様がお稽古の奏に厳しいのは奏のため。母様がこんなに強い人だから、幼い頃に父様を亡くした奏も奏の兄もしっかりとした人間に育つことができた。

 奏は母様のような立派な人間になりたくて、厳しいお稽古も嫌いにはなれなかった。たまに、辛いと泣き言を吐くこともあるけれど。

「母様。こちらですか」

「そうだよ。何か用かい?」

廊下から現れた、奏の大っ嫌いな兄様。兄様はとにかく奏の悪口を言ったり、からかったりする。それに、無視をするのだ。だから嫌い。

 しかし、顔が大好きな父様ととても似ていた。幼い頃の、うっすらとした記憶の中の父様だけれど。

「俺は仕事の関係で出かけます」

「今日は休みだろ?」

「急用で。何かいるものはありませんか?帰りに買ってきますんで」

「それじゃ。お塩を頼んだよ。なくなりそうでね」

「わかりました。それでは、いって参ります」

「いってらっしゃい」

それだけの業務のような会話。兄様は一度も奏に目を向けなかった。存在を知らなかったような、そんな感じだった。

 それだけなのに、奏はむっとした。

 父様がなくなる前は、こんな兄妹関係ではなく。もっと仲のよい兄妹だったはずなのに。

 どうして、兄様は奏に冷たくなったのだろう。もう長い間追究してきたこと。結局今までわからずじまいで。ただただ、兄様が苦手で嫌いになっていくばかりだった。

 軽く頭を下げて去っていく、兄様の足音が小さくなって、消えた。

「さて、お稽古だね」

母様は立ち上がる。奏も急いで立ち上がる。ちらりと、桜の木に目を移す。もうバイオリンの音は聞こえない。しかし、彼は確かにそこにいた。今もいるだろうか。明日もいるだろうか。

 ちらりと見るだけのつもりだったのに、奏は知らないうちに熱心にそれを見ていた。

 そんな奏の頭を、ぱしりと手のひらで母様は軽く叩く。

「ぼーっとするんじゃないよ。さぁ、ささっとする」

はっとして、廊下を早足で移動する。

 その後ろをゆっくりのんびりついて行こうとした母様は、床に落ちているうす桃色の花びらを見つけた。

 それは、さっき髪を梳く際に奏が落とした桜の花びらだった。母様は拾った花びらと、隣の屋敷にある桜の花びらを見比べた。

 この屋敷には、母様の趣味でたくさんの植物が植えられているが、桜の木はなく。近場には、隣の屋敷のもの。

 そう言えば、桜田先生のところに息子が二人いたはずだと母様は思い出した。そして、下の方は奏と同じくらいで、確か二つ年上だなと微笑んだ。

 今まで箱入り娘で、ろくに友達がいなかったあの子に友達ができるかもしれないと、嬉しかった。

 あの子は、良家の娘になんか生まれてきてしまった、かわいそうな子だから。自由な今のうちに友達を作って楽しい思い出を作っておくのもいいだろう。

 成人を迎えてしまったら、あの子は…。


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