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「だからこっちにまでかかわられても困るんだよ」男の低い声が聞こえる。
「そうでなくても、今度の改修工事をうちが……T建設が取りこぼせば当分大きな仕事は入らないんだ。なのにこの間の欠陥リフォームで華風組がいい顔をしないんだよ」
「そんな冷たい事をいわないでくれよ。こっちは逃げ切れるかどうかの瀬戸際だってのに」別の男が情けない声をだす。
「そもそも俺が盗んだ車を売った金が無かったら、T建設はとっくにつぶれていたじゃねえか。アンタ、親父さんの会社なんて継がない方が良かったんだよ」
「仕方ないだろ。親父が急に死んじまったんだから」
「どうせあの欠陥リフォームだって、俺からの金が入らなくなって、無理な真似した挙句の事だろう? だったら全く関係が無いとは言えないじゃないか。それを一部の従業員だけ入れ替えて自分は知らぬ存ぜぬじゃ、ずるいぜ。なあ、当面の逃走資金でいいんだよ。逃げきったら倍にして返すぜ。用立ててくれよ。俺だってまさか人を轢くなんて思ってなかったんだよ」
「中学生のガキだって言ったな。こういう時の警察はしつこいぜ。子ども一人轢き殺してるんだからな」
ここまで聞いて沖は体に冷や水を浴びたように感じた。
こいつが俺の娘を殺したのか。しかもとことん逃げるつもりで金の無心をしている。すっかり沖は逆上してしまった。
「お前が娘を殺したのか!」何も考える間もなく、沖はひき逃げ犯達の前に姿を現した。
「何だ? てめえ?」
男二人の視線にさらされて、沖はようやく我に帰った。
大の男二人を相手に丸腰で、携帯一つ持っていない自分。しかもここは裏口に近く人気のない場所だ。
沖は慌てて外へ向かって駆け出した。
美羽と由美がこてつの散歩をする時、実は御子も、こっそり後を付けようと思っていた。
見守ろう、と頭では考えるもののあれこれ心配してしまうよりは自分の目で確かめたくなったのだ。
ところが今は、礼似はこてつ組の仕事で仲居の仕事が留守がちになっていたし、土間も組長の仕事が忙しくなっているらしい。
自分が美羽を心配しているのはごく個人的なこと。仲居の仕事をあまりいい加減にも出来ないしなあ。
こんな時、いつも便利に使われてしまうのが……ハルオである。
本来ならハルオにもたこ焼き屋の仕事があるのだから断ることもできるのだが、そこは人のいいハルオの事。
「お、俺もあの子の事は、し、心配してるし。す、少しくらいならかまわないよ」と言ってあっさり引き受けた。
そんな訳で、その日もハルオは美羽達の後を付けていた。
実はハルオは尾行が一番得意なのだ。すばしっこさと気配を消して行動するのが上手いので、これでもっと度胸が付けば腕っ節も上がるだろうと組長達もあれこれ試したが、気の良い、お人好しな性格はついに変わることなく、おまけに自分に自信を持つのが大の苦手のようだった。
良平の様になりたいという憧れは持っていても、木刀はおろか、竹刀の一つも振る気になれない。ましてや刃物、ドスなどもってのほかだ。
そんなハルオでも組長は気にせず育ててくれたし、組員達も理解してくれている。それが解っているだけにハルオはこういった細かな雑用をむしろ喜んで引き受けている。
いつもなら自然豊かな公園などに足を向ける二人だが、今日は街の中心部へと来ていた。買い物でもするのだろうか?
やはり、由美は美羽やこてつと別れて大きなショッピングセンターの中へと入って行く。シティホテルの前にある巨大施設だ。どうやらこてつを連れては入れない店に立ち寄っているらしい。
美羽とこてつはショッピングセンターの前にあるベンチに座って由美を待っているようだ。美羽だけではなくこてつまでもがベンチに座ってしまい、なでてほしいと催促しているのを通り過ぎる人々が笑って見ている。平和な光景だ。
ところが突然、こてつがホテルのわき道に向かって走り出してしまった。美羽が慌てて後を追って行く。ハルオもそのあとを追った。
みるとホテルの裏口らしき所から、男が駆けて来る。こてつと美羽に気付いた男が
「来ちゃだめだ! 逃げろ!」
と叫んでいる。すぐ後ろから別の男達が追って来た。
こてつが火が付いたように吠える中、追われていた男はとらえられ、後から来た男に美羽も捕まってしまう。
「犬が吠えてやがる。早く中へ!」
そういいながら、男達は二人をホテルの裏口へと連れ去って行く。
なんだ、なんだ? 一体何がどうなっているんだ?
ハルオは訳が解らぬまま、二人を追ってホテルの中へと入ると慌てて御子に連絡を取る。
「たたた、大変だ。み、美羽がさらわれた」
「美羽が? どうして? 誰に?」御子も唖然とした声を出す。
「お、俺だって、わ、解らないよ! な、何が、ど、どうなってんだか? と、とにかく、あ、後を追ってるんだ。ほ、他の男と、い、一緒にさらわれて、シ、シティホテルの裏口に入って行った」
「解ったわ、すぐにいくから、そのまま美羽の後を追って」
そう言われて追ってはみるものの、会話をしている隙に美羽達の姿を見失ってしまったようだ。
しまった。どこかの部屋に入られたのなら、探し出すのは厄介だぞ。
そう考えていた時、いつの間にか足元にこてつが寄り添っているのに気が付いた。
「おまえ、美羽の匂いが解るか?」
こてつはハルオを見つめた後、臭いを嗅ぎながら二人が連れ去られた方へと進んでいく。ハルオもそのあとについて行った。