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「ここで……いいのかな」
こてつ家の大きな門前で、美羽は戸惑っていた。
随分大きな屋敷だ。作りは社会科見学で目にした武家屋敷にそっくりで、一見個人の住宅には見えなかった。
門から庭を覗いて見るが、庭も大きくて立派そうだ。
真柴組長に菓子折を持たされ、ここへ届けるように言われた時は
「こういうのを一宿一飯の恩義って言うんでしょ」と、軽くふざけながら気軽に引き受けたが、こんな屋敷だとは思ってもみなかった。
恐る恐る門をくぐり、立派な引き戸の玄関前に立ったが、呼び鈴の場所が解らない。仕方なく引き戸に手をかけてみるとするすると戸が開いてしまう。
「随分、不用心な家だな」
半ばあきれながらも美羽は玄関の中に入った。
すると、いきなり度肝を抜かれた。
玄関の正面には大きな角を生やした鹿の首が掛けられていた。
その下には様々なはく製や、焼き物、大きな壺や巨大な木の彫り物などが所狭しと並んでいた。
「ここ、博物館じゃないよね」美羽は思わずつぶやいた。
その瞬間、目の前にあったはく製が動いたような気がして、美羽は悲鳴をあげそうになったのだが……
はく製じゃない。なにこれ? たぬき?
それは良く見ると柴犬だった。床に根付きそうなほどどっしりと座って、丸い身体の上になんともユーモラスな満面の笑みが乗っている。この姿にみの笠と酒瓶を添えたら信楽焼の狸にそっくりだ。
本来、箸が転がってもおかしい年頃。さっきまでの緊張の裏返しか、美羽は思わず笑い出してしまった。玄関に明るく美羽の笑い声が響く。
「面白い子」美羽は笑いながら柴犬をなでてやる。すると
「どなた?」と声をかけられ、自分の目の前に品の良い女性が立っている事に気が付いた。由美だ。
「あ、あの、あたし」とっさの事に美羽はどぎまぎした。
「あたし、真柴さんに頼まれてお使いにきました。これ、どうぞ」
美羽は両手を突き出すようにして菓子折を差し出した。
由美は少し驚いた顔をしたが、すぐににっこりとほほ笑むと菓子折を受け取る。
「それは御苦労さま。せっかくだから上がってジュースでも飲んでちょうだい。タエさん。ジュースの用意をして」と、奥の方に向かって声をかける。
「どうしたの? 早く上がって」
笑顔の由美に促されて、美羽は魂でも抜かれたかのように屋敷の奥に入っていった。
「さあ、氷が解けない内に遠慮なくどうぞ」そう言いながら由美がジュースを進めた。
「はい……ありがとう」と美羽はうなずいたが、正直驚いた。
見ず知らずの女の子が突然訪れて、ジュースを進めるのだからてっきり市販品だと思っていたら、しぼりたてのオレンジジュースが出て来た。横にホームメイドのマドレーヌまで添えられている。
「実はね。さっきから少し浮き浮きしているの。この家にあなたみたいなお嬢さんが訪ねてくるなんて何年ぶりかしら? 訪ねて下さるのは私より上の男性客ばかりなのよ。だから嬉しいわ。遠慮なくくつろいでね」
知らない家に来ていきなりくつろげと言われても。
美羽はそう思ったが、目の前で本当に嬉しそうにされるとなかなかそうも言えなくなる。すっかり自分のペースを崩されてしまった。横ではさっきの柴犬が笑っている。
(変な家だなあ)
そう思いながらも美羽は由美の顔を見てぼんやりと考える。
上品で優しそうな感じの人だ。やわらかいしぐさ、優しげな声。周りを包むふんわりとした空気。テレビドラマのお母さん役で出てくる感じの人。
ふいに、自分の母親を思い出した。
普段は思い出すどころか、目の前に居ても顔なんて見てやしないのに。
怒りであからむ顔。狂気じみた瞳。いきなり飛んで来るグラスや灰皿。どなり声。
「あんたは父親にそっくりだ」と言うお決まりの台詞。あたしだって好きで似た訳じゃない。
突然、鼻の奥がツンとした。涙がにじむのが解る。
やだ、まずい、みっともない。
頭ではそう思うものの、涙がたまって行くのが解る。我慢しようと意識すると余計にたまるみたいだ。涙のこらえ方を忘れてしまったのだろうか? そう言えば泣きたくなる事なんてもうずいぶん無かった気がする。
この家に来てから、すっかりなにかがおかしくなってしまった。
ついにぽたぽたと熱い水滴がひざに落ちる。こてつが横にすり寄ってくる。生きた動物の持つ暖かなぬくもり。
爽やかなオレンジと、甘いマドレーヌの香り。庭から吹く心地よい風。火照る頬に心地いい。
気が付くと美羽は由美に抱き締められていた。暖かな胸のぬくもり……
(もう我慢できない)
そう思った途端に、美羽は号泣した。大きな声でワンワンと泣いている。
部屋に入ってきたタエがその姿を唖然と見つめていた。