第二章 迷宮攻略のススメ(3)
時刻は午後六時。ちょうど夕食の時間ということもあり、酒場は空腹を満たそうとするプレイヤーたちで繁盛していた。
がやがやとした喧騒で賑やかな店内の片隅で、ヘキサとデュランは二人がけのテーブルに腰かけて食事を取っていた。
熱せられた鉄板の上で、一口サイズに切られた肉がじゅうじゅうと美味しそうな音を発している。漂ってくる匂いに食欲がいっそう増進された。
ヘキサはフォークを肉に突き刺すと、無我夢中で口に運ぶ。塩と胡椒で濃い目の味付けをされた肉は、いまの彼にとって最高のごちそうだった。
「おいおい。ちょっとは落ち着いて喰ったらどうだ。そんなに慌てなくたって、誰も取ったりしないって」
対面に座るデュランが肉を貪るように食う、ヘキサに苦笑しながら言った。
肉ばかりを頬張るヘキサとは対照的に、彼は樽に注がれた林檎ジュースを飲みながら、パンやサラダを食べていた。
ヘキサは三皿目を完食すると、空になった皿の上にフォークを置いた。
樽の林檎ジュースを胃の中に流し込み、ようやく一息吐けたように思えたが、まだ食べ足りなく感じた。
自分でも呆れるほどの食欲だった。
元々、自分はこんな大食漢ではなかったのだが、この世界にきてから大量に食べるようになった気がする。
「そりゃ方術は生命子を消費するからな。燃費が激しくなった分、それを補おうと大食いになるのは仕方ないさ。俺だって大技を連発した日は、めちゃくちゃ食べるぜ」
「すみませーん!」
「って、おい! 人の話を訊けよっ」
手を上げて店員を呼ぶ。
すると他の席に料理を運んでいた三つ編みの女性が、彼の声に反応して、こちらに駆け寄ってきた。
「はーい。注文ですかー?」
「これと同じのをひと……いや、二皿ください。それとジュースもお願いします」
「わかりました。すぐにお持ちしますね」
店員を後ろ姿を見送っていたヘキサだったが、ふと視線を白髪の少年のほうに移すと、呆れたような半眼と目があった。
「どんだけ食うんだよ、お前」
「あはは。久しぶりの肉だったから……その、ついね」
普段、ヘキサは食事を宿屋の備え付けで済ませていた。理由は安いからだ。とてもではないが、いまの彼の財政事情ではこんな店にはこれない。
すでに喰っているだけで、実に一週間分の食費を超えていた。ちなみにここ料金は、またもやデュラン持ちだったりする。
最初は遠慮して控えめにしようと決めていたヘキサだったが、久しぶりのごちそうを前にして、あっさりとタガがはずれてしまったのである。
宿屋の食事が不味いというわけではないが、やはり安めの価格設定の分、味の質が落ちるのは仕方がない。
「ほい。お待たせ」
ほどなくして、ヘキサの目の前に追加の鉄板が置かれる。熱い鉄板で焦げる肉の香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとう」
「いえいえ。でも、食べすぎには注意してね」
空の樽に林檎ジュースを注ぐと、ポケットから栗に似た木の実を取りだして、ヘキサに手渡した。
「これは……?」
「私からのサービス。食後に食べてね。胸がすっきりするよ」
「あ……どうも」
ぽかんとするヘキサにくすりと笑い、三つ編みの店員は別の客の注文を聞きにいった。
しばらくの間、木の実と彼女とを交互に見ていたヘキサだったが、デュランを見やるとぽつりと言葉を洩らした。
「ねえ、デュラン」
「ン? なんだ?」
「……彼女たちって、NPCなんだよね?」
NPC――ノンプレイヤーキャラクター。
なにかしたの役割を背負わされた、魂を持ち得ない人形。構築された世界を成り立たせる要素にして、舞台を盛り上げる演出装置の一つ。
ネットゲームをよくやっているヘキサからしたら、おなじみの存在ではあるが、ファンシーのNPCたちは文字通りの別格だった。
この世界の人々は、十万人のプレイヤーを除くすべてが、NPCたちである。
街で暮らす住人も、マリーゴールドの職員も、当然ヘキサに木の実をくれた三つ編みの店員もNPCである。しかし、はたして彼らをNPCと一言で括ってしまっていいのか、ヘキサは前から疑問を抱いていた。
あまりにも挙動が人間ぽいのだ。はじめにNPCだと知らされていなければ、ヘキサは彼らを自分と同じプレイヤーだと認識していただろう。
いまだって半信半疑の部分が大きい。一人ひとりに人格があり、確立した意識がある。少なくともヘキサは、彼らと言葉を交わしてそう感じた。それに、彼が贔屓にしている道具屋の主もNPCなのだ。
NPCをただの部隊装置だと決め付けることは、必然的に『彼女』もそうなるわけで。それがヘキサをたまらなく嫌な気持ちにさせるのだった。
「まあ、お前の言いたいことはわかる」
物言いたげな表情をする黒髪の少年に、デュランは酒場を見回した。
両手に料理を持ち、テーブルの隙間を縫うように歩くウェイトレスの顔は明るく、いきいきとした姿は、とてもではないが作り物とは思えない。
そもそも彼女たちの正体を知る者はいないのだ。
最初からこの世界に存在した彼ら。それをよくわからないから、とりあえずNPCと呼ぶことにしたのはプレイヤーなのだから。
「いや、でも……一つあったな」
中身を飲み干した樽をテーブルに置いて口元を拭う。
「なにが?」
「噂だよ。あいつらの正体は――」
と、そこまで言って彼は口を噤んでしまった。そして、「やっぱりやめた」と言うと、さきほどの店員にジュースの追加を頼んだ。
「ちょっと。そこまで言っておいてやめるのかよっ」
「いいんだよ。どうせつまらない噂なんだから。都市伝説とか怪談とかその類の、聞くからにうそ臭い話さ。わざわざ改まって話すことでもない」
何故かムスッとしながら言うと、注がれたジュースを一気に飲み干す。
「NPCなんて言ってはいるが、本当のところは不明もいいところだ。そもそもNPCって言葉も、『一期生』の連中がかってに名づけたんだしな」
「……一期生。確か最初にここにきた十万人のことだっけ?」
「ああ、そうだ。流石にお前も知ってるだろうけど、この世界の単位で一年後ごとに、その一年間で出た欠員が補充される」
それはアカウントの一文字目でわかるようになっている。最初の年が『A』。次の年が『B』という具合だ。
「俺は二年目からのスタートで『二期生』。ヘキサは今年からだから『四期生』だな」
ヘキサのアカウントはD000154。
これは四年目の154番目に登録されたことを表しているのである。
「『一期生』か。……きっと強いんだろうね」
「古参だからな。そりゃ強いさ。ある意味、基礎を作った連中だからな」
この世界で使われている様々な用語は、『一期生』が自分たちのわかり易いように、馴染みのあるネットゲームから引っ張ってきて、流用しているモノが大半である。
それがいまも定着して使われているのだ。
「なんにせよ、あんまし考えすぎないほうがいいぞ。答えなんてでないんだからさ」
「それはそうだけど」
時々、どう接していいかわからないことがあるのだ。
「まあ、普通に接すればいいじゃないか? 意識するとろくなことにならないからな。俺はそうしてるぞ」
「そうだね。……うん。そうする」
結局はそこに落ち着くわけだが、こういうのは結果よりも過程が大事だと、意味不明な弁解を自分にする。
「……なに言ってるんだか」
ぼそりとつぶやく。
お酒は飲んでいないのはずなのに、テンションが妙な方向に飛んでいる。久しぶりに他人と一緒に食事しているからか。
気分が高揚しているのが自分でもわかった。
「それよりも、明日から厳しくいくからな。喰った飯の分はビシビシしごいてやるぞ」
「ええ!? なに、それ……!」
とりあえずいまはこの時間を楽しもう。デュランとくだらないやり取りをしながら、ヘキサは密かにそう思った。
日が落ちても酒場から人が絶えることはなく、箱庭の世界の夜が静かに深けていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
振り下ろされた刃を紙一重でかわす。
耳元を通過する金属の圧力に背筋を冷やしながらも、続けて真横に薙ぎ払われた剣から逃れるべく、後方に大きく飛び退いた。
空振りした刀身が石の壁を抉り、砕けた破片がぱらぱらと床を叩く。
ヘキサは大剣を器用に旋回させ構えると、対峙するソレの挙動に全神経を集中させた。
纏ったぼろぼろの布切れの隙間から見える白い骨。両肩からはもう一組の腕が生えている。虚ろな眼孔の奥。骸骨の双眸に宿る赤い光が、自身の領域に侵入してきた無礼者を不気味に見下ろしていた。
ヘキサの視界に映る骸骨のモンスターには、黒いカーソルが重なっていた。二重円の上には、レッドアイと表記されている。
赤い瞳――レッドアイ。それが現在黒髪の少年が戦っている、10界層のボスモンスターの名前である。
「っく。――流石に強いな」
時期尚早だったか。そんな弱音がちらりと顔を覗かせる。
10界層は初心者にとって第一の壁だといわれている。この界層をクリアすることで、ようやく初心者から一人前の探索者として認められるわけだ。
レッドアイは多腕をかざすと目を瞠る俊敏さで、ヘキサに向かって突進してきた。
空気を切り裂き振り下ろされた剣をヘキサは大剣で受け止める。重い一撃に身体が軋み、足元の床にヒビが入る。
噛み合う刀身の悲鳴に、強引に剣を振り抜くと、迫る横殴りの刃を掻い潜る。懐に跳び込み剣を振るおうとし、背筋を走る悪寒に制動をかけ、必死の思いで横に飛び退った。
死角からの一撃が髪の毛の先をかすめる。
地面をごろごろと転がり、骸骨剣士から距離を取り立ち上がると、黒い瞳が油断なくレッドアイを見据えた。あのまま突っ込んでいたら、いまごろどうなっていたか。脳裏を巡る予測に、柄を握る両手が汗で滑った。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。緑が豊かだったフィールドとは異なり、灰色の石で構成された回廊は、いかにも迷宮然とした場所だった。
ヘキサが立っているのは、その10界層回廊の最深部。目の前の骸骨剣士を倒せば、このこの界層をクリアし、次の界層への扉が開く。
だが、それは早々簡単なことではないと、彼はその身をもって知った。黒髪の少年の思考を反映して、視界に小さなウインドが表示される。
小窓にはレッドアイに関するデーターが表示されている。レッドアイの詳細情報一覧である。10界層を攻略するにあたって、ボスを含むこの界層のモンスターのデーターを、あらかじめインストールしておいたのだ。
外見通りレッドアイはアンデット系統のモンスターであり、本体属性は闇と霊の二重属性である。アンデットらしく光属性が弱点のようだが、ヘキサ自身が魔法を使えないため決め手に欠けている。
武器は四本の腕にそれぞれ持つ、剣から繰り出される斬撃で、魔法的な攻撃手段を持たないことが救いだったがその反面、物理攻撃力と防御力が10界層のモンスターとしては突出していた。骨の癖に重たい攻撃は正面から食らえば防ぐのがやっと。反撃に回せる余力はなかった。
それでも怒涛の攻撃を隙をつき、なんとか右腕を根元から切断し、さらに左肩から生えた腕の手首を砕くことに成功していた。
もっとも、代償としてこちらは持ち込んだ切り札である光属性付加の魔法薬を消費してしまい、残るのは手に持っている一本だけだが、それも危険域に突入したレッドアイのHPを見れば、そのかいもあったというものだ。
後一歩で倒せる。そんな考えが脳裏に浮かんだが、彼はすぐにその甘えた考えを首を振って否定した。
HPの残量を過信するな。それが白髪の少年がまず、はじめに言った言葉である。
対象のHPが視認できるメリットは大きい。ペース配分もあらかじめ決められるし、対象が倒れるタイミングも検討できる。なによりもHPが見えるということは、モチベーションを維持する重要な要素になる。
確かにHPバーを削りきれば相手を倒せる。それは揺るぎない事実ではあるが、このHPバー自体が曲者なのだ。過信は慢心に繋がる。これはゲームではあるが、もう一つの現実でもあるのだ。
画面越しに操作するキャラクターで、機械的に武器を振り下ろしさえすれば勝てるネットゲームとは違う。一撃一撃が同じダメージを与えられるワケではない。こちらにしてもHPがゼロになる瞬間まで、全力で戦えはしない。傷を負えば動きだって鈍るし、状態異常にかかれば例えHPが満タンでも戦闘不能になってしまう。
そもそもHP的には全快でも、疲労が蓄積していれば集中力も乱れ戦闘すら覚束ない。ホーンベアとの戦闘がいい例だ。
故に、HPがゼロになるまでは、決して油断するな。気を抜くな。全力で戦え、と白髪の少年はヘキサに強く言った。
曲線を描くポーションの瓶とは違い、菱形の瓶には無色透明な液体が満たされている。
ヘキサは親指で透明な硝子栓を弾き、小瓶の中身を刀身にぶちまけた。すると鉛色だった刀身が仄かに発光し、水面の波紋のように光を散らす。
「赤字覚悟の大盤振る舞いだ。これで倒せなきゃ嘘だろッ」
武器に一定時間属性を付加する魔法薬は高価かつ貴重品で、そうそうお手軽に使える代物ではないのだが、状況が状況だけに出し惜しんでいる場合ではない。
ヘキサは空になった瓶を捨てると、剣を振り上げるレッドアイに斬りかかった。
頭の中で行使する方術のイメージを思い浮かべて剣先を翻す。連想したイメージ通りに振るわれる剣から放たれた赤い衝撃波が、骸骨剣士に命中して炸裂した。
砕けた骨の欠片が宙に散り、衝撃でレッドアイは蹈鞴を踏んで後退する。間髪入れずに接近し、追撃の刀身を叩き込む。
光の属性が付加された一撃は効果絶大で、斬撃を見舞った箇所からは白煙が上がり、炭化したように黒ずんで剥離する。
カタカタと顎を鳴らし、双眸の赤い光がチカチカと瞬く。怒りを込めて振り下ろされた左手の剣はしかし、黒髪の少年の身体を捕らえることはできなかった。
空振りして空しく床を叩く剣。
瞬発力はレッドアイよりも、<息吹>で強化したヘキサのほうが上だ。彼は踏み下ろした足を軸に、身体を反転させて掲げた大剣を、渾身の力で骨の左腕に振り下ろした。
柄を伝わる鈍い手応え。直後、刀身が食い込んだ箇所を中心に、ピシリと乾いた音が聞こえたかと思うと、レッドアイの左腕が半ばから断ち割れた。
異形の咆哮をフロアに響かせて、残された右肩の腕の剣を出鱈目に振り回すレッドアイ。だが、そのときにはヘキサはすでに、骸骨剣士の攻撃範囲から離れていた。
好機とばかりに翻る刀身から放たれた<衝波>が、無防備になったレッドアイの顔面に命中。骸骨の半分を砕き割った。
方術には二つの発動方式がある。
それが発音式と思考式であり、いままでヘキサは使用していたのは発音式のほうだ。稀に思考式で使用したこともあるが、緊急時における偶発的なものでしかなかった。
発音式はその名の通り、方術の名前を発音することで使用出来る形式だ。条件が名前を言うだけなので、初心者にも簡単に使用ができる。
だが、知能のないモンスターが相手ならともかく、対人戦で発音式を使うということは、自分でこれからどんな攻撃をするのかを相手に教えるようなものだ。
それでは勝てる試合も勝てはしない。なによりも発音しなければいけない関係で、どうしても方術の発動にタイムラグが生まれてしまう。
そこで登場するのはもう一つの方式である思考式だ。
思考式は方術の使用イメージを思い浮かべ、脳内トリガーを引くことで発動する形式である。相手に使用する方術を悟られず、また発音式に比べて発動が早い。
とはいえ、この攻撃モーションを連想する作業が曲者なのだ。イメージが足りないと方術が発動せず、逆に格好の的になってしまう。
慣れないうちは、十回に一回発動すればいいほうだろう。まして戦闘中となれば、当然相手の存在も視野に入れなければならない。
敵の動き。ときには仲間の動きも頭に入れながら思考式を使うのは、存外に神経を削る。思考式を使いこなすには高い技術と集中力が要求されるのだ。故に、思念式は上級技術とされ、トッププレイヤーの仲間になるための必須技術となっている。
この一ヶ月半の朝から晩までの反復練習により、<衝波>と<息吹>に関しては常時思考操作による発動が可能となるレベルまで達していた。
白髪の少年はこうも言っていた。
アバターの性能を決める要素は四つ。
ステータス、スキル、アビリティ。そして、アバターの”中身”。俗にプレイヤースキルと呼ばれるモノだと。
いくらアバターの性能が高かろうが、それを操るプレイヤーの性能が低ければ意味がない。ハードとソフトの性能は吊り合ってこそ、十全に戦うことができるのである。
「僕もそう思うよ!」
三本の剣を失い、度重なる攻撃に晒されて、レッドアイの動きは明らかに落ちていた。隻眼になった赤い瞳が、切れかけの豆電球のように明々する。
床を蹴って肉薄する。
薙ぎられた剣の側面を打ち、がら空きになった懐に跳び込み、上から落ちてきた骨の腕にヘキサの動きが止まった。
手首を砕いた左肩の腕である。レッドアイは腕そのものを鈍器代わりにしてきたのだ。武器が持てないことで、完全に彼の意識から外れていた一撃だった。
それでも咄嗟に剣を翳して防ぐが、無理な体勢から防御したことで身体が横に大きく揺らいだ。 レッドアイは剣を手元に引き戻すと、動きの止まったヘキサ目掛けて、切っ先を真っ直ぐ突き出した。鋭利な刃が彼の身体を貫く――その刹那、黒髪の少年の姿が掻き消えた。
内力術式<俊転>。ヘキサを貫くはずだった剣は脇腹を裂くにとどまり、逆に彼の突き出した剣が、赤い隻眼を深々と抉った。
「――あああああああッ!!」
気合一閃。方術を切り替える。
内力術式<剛力>。
両腕に万力を込め、そのまま剣を下に落とす。聖なる光を宿した刀身が、抵抗など一切関係なく、骨の身体を縦に割った。レッドアイの動きが静止し、次の瞬間、HPを失った多腕の骸骨剣士の身体がぐらりと傾いて砕け散った。
生命子の輝きに変換されるレッドアイの遺骸を確認し、ようやく勝利を実感できたヘキサは、張り詰めていた緊張の糸が切れた様子で、その場に倒れてしまった。
もはやお約束のように軋む身体にため息を吐き、ポーチから取り出したポーションを一気に飲み干す。回復薬の効果で和らぐ全身の痛みと、脇腹の傷口がふさがっていくむず痒さに、顔をしかめて我慢する。
と、そのとき黒髪の少年しかいないはずの空間に音が響いた。パチパチと響く乾いた音。拍手である。
突然の拍手にしかし、ヘキサは特に驚いた素振りもなく、床で横たわったまま顔だけを傾けて、拍手のする方向を見やった。
「10界層クリアおめでとう。これでヘキサも初心者卒業だな」
視界に映った白髪の少年はそう言うと、拍手を止めてこちらに歩み寄ってくる。
言うまでもなくデュランである。今回のボスモンスター攻略に挑むにあたり、万が一の自体に備えて、ヘキサの背後からついてきていたのだ。
もっとも、攻略中ずっとヘキサには、彼の気配を感じることができなかったわけだが。同じフロアにいたレッドアイも、最後までデュランには気がついていなかった。
レベルとスキルのおかげとデュランは言うが、相変わらず実力の底が見えない。
「会った当初とは見違える動きだったぜ。……最後のほうはちょいとばっかし危なかったけどな。一瞬、飛び出そうか迷ったぞ」
デュランの言葉に苦笑する。
結果的に勝てたからよかったものの、戦闘の内容は彼の言葉とおり、まさに紙一重で僅差の勝利だった。
<俊転>と<剛力>は<息吹>からの派生方術。
全身を平均的に強化する<息吹>に対して、<俊転>は脚力を<剛力>は腕力といった感じで、身体の一部分の強化に特化した内力術式である。
これらの方術は体得してから日が浅く、思考操作の成功率は五割を切る。それが二回連続で成功するとは、どうやら天は自分を見放していなかったようである。
「はは……まあ、運も実力のうちってな。なんにせよ勝ちは勝ちだ。もっと素直に喜んでいいと思うけどな」
そこまで言って、デュランはヘキサの背後を指差した。
「ほれ。早くそこに落ちてるアイテム拾って、11界層に行こうぜ?」
「わかってる」
促されて立ち上がると振り返る。
さきほどレッドアイが消滅した場所には、いまだに光の残滓が燻り、渦を巻く燐光の中心には、床に突き立つ剣があった。形状から察するに、カテゴリーはおそらく大剣。
レッドアイからのドロップアイテムである。新規入手アイテム枠に自動で回収されないのは、機能を強化していないためだろう。
通常、モンスターが落とすアイテムは、魔石か素材のどちらかなのだが、一部のモンスター――主にボスクラス――からは、稀に武器や防具などの武具を入手できるときがある。
それらの武具は入手した界層のモノより高い性能値を示し、ときには武器固有の能力を秘めていることもある。そのため一種のステータスシンボルのような扱い方をされる場合もあるのだ。
ヘキサは剣に近づくと、柄を掴んで引き抜いた。思いのほかあっさりと抜けた大剣の刀身はずっしりと重く、武器特有の妖しげな引力を感じさせた。
わくわくしながら、試しに刀身を指先で叩いてみるが、出現するはずの武器詳細の画面が出てこない。
おそらく未鑑定品だからだろう。どうやら性能を確かめるのは、街に帰ってからになりそうだ。仕方なく手に入れた大剣をカード化する。
「へえ……なかなかよさそうな剣じゃないか。鑑定が楽しみだな」
「うん。早く行こう」
背中越しに自分の手元を覗き込むデュランにそう言い、ヘキサはカードからフロアの中央に視線を移した。そこにはレッドアイが健在だったときにはなかった、正八面体の透明な結晶体が浮遊していた。転移結晶である。
ポータルは各界層のマップや街に設置されていて、プレイヤーはこの物質を使用し、他の転移結晶の設置場所まで、瞬時に移動することが可能なのだ。
特性によってポータルの種類はふたつある。
行き先の指定型と固定型の二種類であり、これは後者。次層の拠点都市への一方通行のポータルである。
彼らはポータル近づくと、表面に触れた。つるりとした硬質な感触を手の平に感じた瞬間、転移特有の浮遊感に包まれ、二人の姿は回廊から消失した。