第十一章 霧夜の怪異(4)
思考が切り替わる。いまこの場に存在するのは学生・樋口友哉ではなく、箱庭世界の探索者であるマンイータ・ヘキサに他ならない。
視界の焦点が定まり、自身を取り囲むリザードマンの動きが手に取るように判る。右手の柄がよく馴染む。本来、単なる仮想世界の産物であるはずのローゼンネイヴェは、現実世界で金属特有の硬質な輝きを放っている。
友哉が滑るように身体を前にやる。斜交いに振られる剣を弾き、上体が泳ぎがら空きの蜥蜴男の胴体に刀身を叩き込む。
やはり血は出ず、吹き出した燐光に淡く照らされて、蜥蜴男は断末魔と共に割断。三次元が二次元に。厚みを失った緑鱗の痩身が硝子みたいに砕け散った。
まずは一匹。降り注ぐ光の残滓を纏い、彼は次なる標的に足を踏み出す。リザードマンを睨みつける目つきは鋭い。姿はそのままだが友哉は完全に、ヘキサに切り替わっていた。
左右からの剣をバックステップでかわす。間髪いれず懐に潜り込み剣を一閃。闇夜に軌跡を閃かせる肉厚の刀身は不気味なほどあっさりと蜥蜴男を両断し、翻る切っ先が右腕のない蜥蜴男の首を跳ね飛ばした。
風を唸らせ迫る尻尾を剣の一振りで切断する。苦痛にのたうつ蜥蜴男に回し蹴りを喰らわせると、異形の痩躯が中空に浮かんだ。放物線を描き吹き飛ぶ蜥蜴男は、公園の中央にある時計台に激突した。
まるで車の衝突事故だ。白い柱は半ばから折れ、崩れ落ちる時計台が緑鱗の痩躯を押し潰した。瓦礫の隙間から溢れた燐光が宙に浮遊する。
リポップし続けていたリザードマンは、その数を瞬く間に減らしていく。増殖が止まったわけではない。こうしている間にも霧に包まれた公園では、新たなリザードマンが『生産』され続けている。それにも関わらず数が増えるどころか減っている理由は明白だった。
友哉の殲滅速度が、リザードマンの増殖速度を超えているのだ。
最初は一匹の『生産』時間に対して一匹の討伐だったのが、二匹になり三匹になり、いまや一匹が『生産』される間に四匹は屠っている。
二十、二十一……ッ!
声には発さずに砕け散るリザードマンをカウントする。緑鱗の蜥蜴男が光の残滓に変わるごとに、瞬く粒子が中空を乱舞して弾ける。
耳障りな雑音を駆逐するべく、剣を振り続ける友哉。剣が霧の闇夜に閃く度に、金属音が響き、淡い燐光と火花が飛び散る。彼の周囲には大量の幻光が乱舞し、それはどこか幻想的で現実のモノとは思えない光景であった。
それも当然か。相対するは、異形の緑鱗の痩身の群れにいまの時代、博物館でしかお目にかかれない無骨な片手剣を振るう少年。両雄ともこの世ならざるモノであるが故に、異質な光景になるのはむしろ当然といえる。
今宵、この公園は常識より乖離した異界と化していた。
剣先から発生した衝撃波が這うようにして、リザードマンの動きを牽制する。正面のリザードマンを猛烈な突きで仕留めると、振り向きざまに背後から襲いかかろうとしていた蜥蜴男を袈裟斬りに始末した。
振り下ろされた剣が緑色の鱗を上から下に切り裂き、翻った刀身が蜥蜴男の首を一刀で跳ね飛ばした。高々と宙に舞った緑鱗に覆われた蜥蜴の頭部は、地面に落ちるよりも早く光の粒子になって消滅する。
いつの間にやらひしめき合っていた蜥蜴男の群れは、ついには前方にいる一匹のみになっていた。――否、違う。残る一匹の蜥蜴男は金属の軽装鎧を纏っていた。鱗も緑からくすんだ赤茶けた色に変わっている。リザードマンの上位種、レッドリザード。レベルも二十五になり、強さも格段に上がっている。
「ああ、これはちょっと……いや、かなりマズいなぁ」
ピリピリと肌を焼く殺気に友哉は小さく舌打ちした。
頬を伝う汗が顎から地面に垂れた。過剰な運動に発汗する身体は異常に熱く、頭の奥で鼓動する心臓の音が反響している。
リザードマンとの戦闘でわかったことがある。強さのモノサシをヘキサ基準にして考えた場合、いまの友哉は大幅に――見る影もないほどに弱体化していた。
感覚的なモノで大雑把な数値になるが、レベル換算でリザードマンと同等くらい。15レベル前後といったところだろうか。
おまけに方術も<衝波>や<息吹>などの初歩的なモノしか使用できそうにない。それ以上の方術を発動しようとしても、形をなさずに霧散してしまうのだ。
友哉に内在する生命子の量が、方術を発動できる最低値を満たしてないのだ。MP不足ならぬHP不足である。
いまの自分の戦闘能力は初心者に毛が生えた程度。リザードマンクラスならばともかく、レッドリザードを相手にするのは荷が重過ぎる。だからといって、逃げるのは論外だ。絶対に逃がしはしない、と突き刺さるような鋭い殺意が如実に物語っていた。
「やっぱり、やるしかない――か」
手札が貧弱ならば切り札もない。盾もなければ防具もない。あるのは右手の剣が一本だけ。ヘキサに比べて余りにも頼りなかった。酷い弱体ぶりに思わず笑いが零れてしまう。だが、例えそうであったとしても彼の答えは決まっていた。
「行くぞ。覚悟しろ、蜥蜴野郎」
友哉とレッドリザードは同時に地面を蹴った。
レッドリザードは雄叫びを轟かせると、大ぶりの剣を頭上に掲げて、友哉目掛けて突撃してきた。彼も怯まない。半端な小細工は逆効果。正面から迎え撃った。
霧に霞む火花が散る。刀身を伝わる衝撃に剣を落としそうになるが、歯を食いしばり堪ええて、斜交いの振り下ろしを跳ね上げた剣先で弾く。
そのつもりが、剣の軌跡をズラすのが精一杯だった。ジャケットが防具として機能するワケがなく、肩口を抉るようにして切っ先が下に落ちた。
発生した熱に表情を歪める友哉。僅かに硬直した隙を突き、小さく螺旋を描き剣がレッドリザードの手元に戻る。
続けざまの突きを辛うじていなせたのは、運が半分と感に基づく条件反射の賜物だった。脇腹を浅く裂く金属の感触に、肌が粟立ち怖気が走った。
硝子を擦るような不快な音の連なりが耳朶を打つ。
剣速が上がる。追い縋る友哉を嘲笑うかのように、レッドリザードの振るう剣の速度が上がり、瞬く火花の量が多くなっていく。
それにつれて友哉とレッドリザードの中間で弾けていた火花が、緩やかにだが彼のほうへと傾いていく。猛る剣戟に友哉の対応が追いついていないのだ。
レベル差が10はあるのが響いている。それともう一つ。なまじ感覚がヘキサのそれに切り替わっているため、普段とのイメージの齟齬に苦しんでいた。
本来ならば防げる攻撃が防げない。容易く反撃可能な一撃を逸らすのがやっとで、こちらの攻撃を挟むチャンスがなかった。鋭敏化する思考に肉体が悲鳴を上げている。無茶な機動に軋む身体に苛立ち、焦燥感に苛まれながら友哉は剣を振るう。
致命傷こそ避けてはいるが、彼の全身には細かな傷が無数に刻まれていた。一つの傷は小さくても、数が多ければ大量出血は免れない。
赤色に染まる衣類の不快感に眉をしかめる。発熱していた体温が急に下がり、血を吸いぐっしょりと濡れた服が重たく纏わりつく。
リザードマンとの戦闘ではなんとか誤魔化せていた問題が、一気に噴き出してきた形である。思考と肉体の差異。噛み合わない矛盾。窮地に追いやられながらも友哉は諦めない。
――足りない。
なにもかもが不足している。ヘキサの能力値の一割――いや、欠片程度でもいい。一割のさらに一割さえあれば、この窮地など簡単にひっくり返せる。
――故に、搾り出せ。
偶然か必然なのか。一度できたのならば、もう一度できない道理はない。意志によって反転させろ。近くて遠くにある片割れを、己の肉体に手繰り寄せろ。
金属音が変化した。鈍い音が澄んだ音に変わり、甲高い激突音が空気を震わせる。ジャリと砂を削る足音は、レッドリザードが一歩後退した証拠だった。
無心で振るわれる剣は加速し、霧に鋭い孤の軌跡を残して奔る。レッドリザードの上半身が大きく揺さぶられて、知らずまた一歩と後退った。
一太刀ごとに剣閃が鋭さを増す。否、この場合は”近づいている”と表現すべきか。白髪の少年に。自らの半身に。ヘキサに。少しずつイメージの齟齬が埋まっていく。頭の中に焼きついているモーションに、身体の動作が二重写しに輪郭をブレさせる。
亀よりも遅い歩みでしかし、確実に友哉は脳裏に浮かぶ背中に近づいていた。幻でしかない存在に自身を重ねはじめていた。
友哉は自覚していないようだが、すでにその動きは常人には模倣不可能な域に達している。仮想の世界だからこそ許される動作を、彼は現実で再現して見せていた。
活動報告にも簡単に書きましたが、打ち切り完結させるかもしれません。
現実生活が笑えない。