第十一章 霧夜の怪異(2)
白乳色の霧によって遮られた視界。まるで母親から逸れた子供のように、ふと胸に湧いた寂寥感に友哉は、弾かれたように動きだした。
障害物がないのを慎重に確認しながら、一歩一歩確かめるように足を進める。とてもではないが、怖くて普通に歩けそうにない。
「……と、とにかく早く家に帰ろ、――!?」
瞬間、背筋に例えようのない寒気が走った。
「な、な、なん、だ……これ……?」
歯の根が噛み合わない。全身の毛が逆立っている。まるで極寒の地に裸のまま放り込まれたようだ。寒気が止まらない。
一秒でも速くこの場を離れなくては。さもないと、
「死ぬ?」
理屈ではない。本能がそう全力で警鐘を鳴らしている。この場にいたら死ぬ、と。死にたくなければいますぐ逃げろ、と。
だが、足が動かない。蛇に睨まれた蛙のように、指先を動かすことすら叶わない。ただ言い知れぬ悪寒に、身体を震わせるしかなかった。
「は、早く逃げ……!?」
目が合った。
濃霧の向こう側。自分の身長よりも高い位置に、二つの赤い光が浮いている。目だ。何故かそう確信した。
赤い双眸が、こちらをじっと見ている。低い唸り声が耳朶を打った。続いて地面が縦に揺れた。白濁した濃霧にぼやける影が大きくなる。こちらに近づいているのだ。
「く、来るな」
揺れは止まらない。影がだんだんと濃くなっていく。友哉の頭上が黒く覆われた。そして眼前の闇がぱっくりと割れて、友哉を――。
「伏せて!」
閃光が炸裂した。
立ち込める霧を切り裂く一閃が、前方にいるモノを怯ませた。グルルルッ、と警戒を露にした唸り声が霧の中に響く。
「ぼさっとしない! いまのうちに逃げなさい!!」
唸り声に被さる鋭い声。その一喝の命じるままに、友哉は無我夢中で走りだした。霧に覆われた町を全力で駆け抜ける。視界を塞がれたに等し状況のため、彼は周りにあるモノに身体をぶつけ、ときには何度も転んでしまう。
その度にすぐさま立ち上がると、一心不乱に足を前へ前へと走らせる。自分がどこを走っているかもわからなかった。ただそうしなければ死んでしまうというように、強迫観念に突き動かされていた。
しかし、帰宅部で普段から運動もしていない高校生の体力などたかだか知れている。そうこうしないうちに限界が訪れ、まともに呼吸することすらままならなくなった。
ふらふらと覚束ない足取りで、がっくりと膝をついて四つん這いになる。ぜいぜいと整わない息は荒く、心臓が爆発しかねないほど脈打っていた。
滝のように流れる汗が地面に吸い込まれていくのを見ながら、友哉は回らない頭をそれでも無理やり働かせながら考えた。
「……いったい……なに、が……なんやら……さっぱり……わか、らない……はあっ」
いや、考えようとしたが、実際はなにも考えることができなかった。思考は恐怖と疲労から真っ白で、脈絡のない事柄が脳内をぐるぐると巡っている。
まさに混乱状態だった。あの巨大な影はなんなのか。不気味な光る双眸を思い返しただけで、吐き気を抑えることができない。
それに自身の窮地を救った若い女性の声。彼女はどうなったのか。自分と同じように逃げたのか。それともあの巨大な影と戦っているだろうか。っというか、そもそも誰なのか。
いま自分が置かれている状況が欠片も理解できない。できるほうがどうかしている。僕は平々凡々とした学生なのだ。
ぐっと握りしめた手の痛みに眉をひそめる。転んだときに擦ったらしい傷から血が滲んでいる。膝をついたまま面を上げると、ブランコやジャングルジム、シーソーなどの遊具が見えた。この場所には見覚えがあった。近所の公園である。
どうやら局所的に霧の濃度が薄くなっているらしい。公園に発生している霧は薄っすらとした程度だった。
公園から家までは歩いて十分ほどだが、正直さっきのいまでもう一度あの濃霧の中を突っ切る気にはなれなかった。公園の外を覆う白乳色の霧を見やり、のろのろと起き上がると友哉は大きく深呼吸した。
まずは体力を回復させよう。話はそれからだ。ひょっとしたらその間に霧が晴れるかもしれないし。楽観的だとは思うがそう考えずにはいられなかった。
水飲み場で傷を洗い、自販機で缶コーヒーを買うと、ベンチに腰を下ろした。力の入らない右手でプルタブを空けて、中身をぐいっと喉に流し込む。
ぷはっと息を吐き、頭上を見上げた。
広がる霧の向こうには薄い月明かり。ぼんやりとした眼差しで月を仰ぎ見る友哉。公園の中はとても静かで、さっきの騒ぎが嘘のようであった。
「……本当に、勘弁してくれ」
手の中で缶がへこむ。自分がいったいなにをしたというのか。こんなワケのわからない目に合う云われはない。仮想ではともかく現実では真っ当に生きているつもりだ。
苛立ち紛れに手に持つ空き缶を、ベンチ横のゴミ籠に投げ捨てようとして――友哉は異変に気がついた。
公園を包む霧が濃くなっている。慌てて周囲に目をやると、いつの間にか公園は霧雨のような乳白の霧に包まれていた。
心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が止まらない。背筋がチリチリと灼ける。風景はそのままに、雰囲気が一変していた。霧が出ている出てないではない。明らかに世界が異質なモノとごっそりと入れ代わっていた。
「冗談でしょ……?」
吐き出される声は恐怖に震えている。
慄き後退った友哉の背後で、がさりと物音がした。口の中で小さく悲鳴を洩らし振り返る。ベンチ裏で伸び放題になっている雑草や木を掻き分けて、『なにか』がこちらに向かってきている。
硬直して動けない友哉の耳朶に、低い唸り声が聞こえてきた。
野良犬? 『なにか』をそう判断した友哉だったが、その直後に自分の判断を撤回しなければならなくなった。木々の間から『なにか』がひょっこり姿を見せた。その『なにか』の正体を友哉は知っていた。
――リザードマン、だ。
ひょろりとした細身の二足歩行の蜥蜴。黒ずんだ布切れを緑色の肌に巻きつけ、右手には錆びついた片手剣を握り締めている。ぎょろりとした濁った瞳を揺らし、歯の間からだらだらと唾液を垂らしている。
それを見間違うはずもなく――千界迷宮の低層に生息する下級モンスター、リザードマンそのモノだった。
「――いやいや。そんな馬鹿な」
友哉は目の前の爬虫類に思わず半笑いしてしまった。笑うしかなかった。それ以外、目の前の悪夢に対抗する手段を持ち合わせていなかった。
だが、それがいけなかった。
リザードマンの動きが一瞬だけ止まり、ぐるりと緩慢な動作で友哉のほうを振り返った。爬虫類特有の無機的な瞳孔が、眼前の少年の姿を捉えて萎まった。
二足歩行の蜥蜴は小首を傾げると身を丸め――棒立ちの友哉目掛けて跳躍した。
闇夜を疾る白刃。上空から落ちてくる刃を、呆けた表情で立ちつくす友哉が避けられたのは、偶然でしかなかった。
生命の危機に無意識で一歩後退った拍子に、転がっていた石ころを踏みつけて転倒したのだ。結果的に少年は命を救われることになった。友哉の首を跳ね飛ばすはずだった剣は、彼の髪の毛先をかすめると勢いあまって地面を叩いた。
尻餅をついた状態で空を仰いだ友哉とリザードマンの目があった。無機的な琥珀の瞳が彼を見下ろしている。それは無色だった。なんの感情も宿していない人形の目。
死んでいた。生きているのは運がよかっただけ。しかしそれも時間の問題だ。この場に留まっている限り、待ち受けているのは確実な『死』だった。