第十一章 霧夜の怪異(1)
切り替わった視界に、樋口友哉は顔をしかめた。いつもの如く襲ってくる記憶の濁流に身を任せ、座っている自室の椅子に体重を預ける。
なにもする気にならなかった。ぐでっと身体を弛緩させて、なにをするワケでもなく、ただぼんやりとした目で天井を見上げている。
理由はいうまでもない。
先程のファンシーでの出来事のせいだ。ナハトが姿をくらました後、矢継ぎ早にリグレットたちに謝罪した友哉は、制止を振り切り逃げるようにログアウトしたのだが。
情けない。情けなすぎる。
対応が最悪なら対処は最低。ちょっと挑発されたくらいでムキになって、リンスとカシスに迷惑をかけてリグレットとの約束まで破った挙句の果てに、暴れるだけ暴れて逃走とか。盲目で愚劣な自己の行いにため息すらでてこない。
あのとき一緒にいたカシスたちのことなど頭から完全に抜け落ちていた。完全にナハトだけに意識がいってしまい、彼女たちが戦闘に巻き込まれる危険性など考慮していなかった。考えようともしなかったのである。
おまけに街まで盛大に破壊した。これではどちらが悪党だがわからない。否、なんの罪もない一般市民からしたら、間違いなく悪者は自分だろう。
日常を脅かすプレイヤーキラー。二代目マンイータ。殺人鬼Aの後継者。きっと今頃『掲示板』で大騒ぎになっているであろうことは想像するに容易かった。またあることないことで盛り上がり祭りになっているはずだ。
拠点となっている大都市なので、速やかに復興はなされる。しかし、問題はそこではない。被害者は一体どれだけ出たのか。いや、怪我人だけで済めばまだいい。それこそ死者でも出ようものなら、自分はどうやって詫びればいいのか。
ダメなのだ。頭に血が上るとなにも考えられなくなる。目の前のことだけに意識が持っていかれてしまうのだ。特にあの手の連中にはそれが顕著に現れる。そして我に返ったときにはすでに手遅れ。自分の行為に後悔する。その繰り返しだ。
「……ちょっとは自重しろよ、僕」
天井に吸い込まれる独白も寒々しい。
どうせまた同じことをするくせに。結局、心の底から自重する気などないのだ。だから何度も同じ失敗をしてしまう。
「駄目だ……外でも歩いてこよう」
このままではどこまでも気持ちが沈み込んでいく気がして、友哉は髪をがしがしと掻くと立ち上がった。気分を入れ替えるべく散歩に行こうとし、階段を下りた彼はばったりと妹の樋口奈緒と鉢合わせしてしまった。
普段なら妹に気後れしてしまう友哉だったが、いまはそんなことなど気にならない。立ち止まった彼女から視線を切り、無言で横をすり抜ける。
「ちょっと待って」
と、声が聞こえたのと同時に腕を掴まれた。思いがけない彼女の行動に振り返る。こちらをじっと見る奈緒と目が合った。
「……なにかあった?」
「なにかって……なにが?」
質問の意図がわからずにきょとんとする。会話がし辛いとか気まずいとかではなく、本当に呼び止められた理由がわからなかった。
「顔色が悪いわよ。……青白くて気持ち悪い」
これはまた辛口な評価だ。口調こそ不機嫌そうだが、わざわざ呼び止めるくらいだ。どうやら心配してくれているらしい。
「その言い方は酷くない? ……少し気分が悪いだけだよ。外でも歩いてれば直るから。心配してくれてありがとう」
「だ、だれが心配なんて、あ、まだっ」
やんわりと腕を掴む彼女の手を放す。玄関のドアを開けると冷たい風が家の中に入り込んでくる。尚もなにか言いたげな奈緒を残し、ぶるりと身体を震わせて後ろ手にドアを閉めた。一度だけドアを見やり、目的もなく歩きだす。
「……はあっ」
友哉は夜空を仰ぎ、肺の奥から息を吐く。
冷たい夜風は心地よかったが、落ち込んだ気持ちまでは晴らしてくれなかった。人通りのない夜道をトボトボと重い足取りで歩きながら、どうしたモノかと思考を巡らす。
考えなければいけないことは色々ある。
自分が盛大に壊してしまった街は気掛かりだが、ファンシーにログインしなければ現在の状況は不明なので、それまでは一端、頭の片隅に置いておくことにした。
端的に言って現実逃避以外の何物でもないのだが。なんにせよ他にも解決しなければならない問題があるのだ。
「思いっきり逃げちゃったからなぁ。明日からどんな顔して会えばいいんだ」
まずはそれだ。静止を振り切って、なりふり構わず逃げ出したのだ。今後の関係を絶つというなら話は別だが、そうでないのならばまったくもっての悪手。後先を考えていない勢いだけの行動である。
「きっと怒ってるだろうなぁ。……そりゃ怒るよな。怒らないワケがない。ああもうっ。なんで逃げちゃったんだろ、僕……」
リグレットたちは遁走する自分をどんな目で見たのか。それを考えるだけで欝になってしまいそうだった。いや、実際になっている。
「ただでさえ対人スキルが低いっていうのに、どう対処すればいいんだ」
問題は他にもある。結局、ナハトがなんの目的があって姿を現したのか。問答無用だった自分のせいもあるが、なに一つとしてわからずじまいだった。
そして、彼が最後に言い残した言葉。
「ライラ。ライラ。――ライラ、ね」
何度もその名前を舌の上で転がす。
やはり聞いたことの名前にしかし、脳裏を過ぎる微かな残影があった。ズキズキと疼くような鈍い頭痛に、頭を押さえて顔を歪める。
まただ。どういう理屈なのか。その名前を口にすると頭痛に襲われるのだ。最初のような目も眩む激痛ではないが、頭の芯から響く鈍痛に嘆息する。
「本当に。なんなのかな、これは?」
むろん、彼の疑問に答える者はいない。ため息と共に吐き出された独白は、誰の耳にも届くことはなく大気に解けて霧散する。
「――悩みごとかな、若人よ」
そのはずだった。
不意に響いた声色に振り返った友哉が見たモノは、電柱の傍に立つ『不審人物』であった。切れかけの街灯がその人物を暗闇に照らし出す。
一言で述べるなら異様だった。長躯にフード付きの真っ白なローブを纏わせ、両手に古めかしくて大きな革張りの本を抱えていた。
「なに。悩むのは若者と特権じゃて。大いに悩むがいい」
フードを深く被っているため、影になった表情はわからない。年寄り臭い話し方に反して声は若々しかった。声色は中性的で性別も判断できない。
もしこれがファンシーならばそうは感じなかったはずだ。あちらなら目の前のような格好などいくらでも見かける。だが、ここは仮想ではなく現実である。
完璧なまでの不審人物。もし警察に見つかれば確実に職務質問されるに違いない。怪しすぎてワザとやっているのでは、とすら思えてくる。
「……あの、どちらさまですか?」
正直、無視して速やかに撤退したい友哉だったが、気がつくと何故かそう声をかけていた。自分でも、あれ? と内心で小首を捻る。どうして自分は、こんな見るからに怪しい人物に話しかけているのだろうか、と。
「わしかね? わしは、ほれ……見てのとおり、ただの一般市民じゃろうて」
あんたみたいな一般市民なんているか。反射的に声に出しそうになったが、喉元までせり上がった時点で辛うじて堪える。
「ああ、そうですか。……もう遅いから早く帰ったほうがいいですよ」
強引に話を打ち切る。話しかけたのは気の迷い。早口で一方的に告げると、踵を返して立ち去ろうとし、
「お主こそ早く帰ったほうがええぞ。今宵のような”霧の夜”は、なにか不吉なことが起きる前触れじゃからな」
奇怪なことを口にした。
「はい? 今日は霧なんて出て、な……!?」
異変が起こったのは、友哉が足を止めたその瞬間だった。
視界が白く濁っている。霧だ。いつの間にか周囲には霧が発生していた。伸ばした手の先が見えない。かなりの濃霧だ。
「なにこれ。……霧? でも、どうして」
首を巡らした友哉は困惑した様子でつぶやいた。
ここまでの濃霧を見たのは初めてだ。ついさっきまではなんともなかったのに。霧とはここまで急に発生するモノなのだろうか。
「あの! これって、なん――って、あれ。いない!?」
視線をローブの人物に戻すが、そこにはすでに誰もいなかった。点滅する街灯の明かりが、霧に紛れて微かに明々している。
ぽつんとただ独りだけ。
呆気に取られる友哉は霧の中に取り残されてしまった。