第十章 歪む日常(5)
「ふざ……け、んな……ッ」
なんでお前にそんな顔をされなきゃならないんだ。張り合いがない? なんだそれ。ふざけんな。人を舐めるのも大概にしろ。
遠ざかる後ろ姿を睨みつけながら、小刻み震える右腕を腰のポーチに伸ばす。がさがさとポーチの中を漁り、取り出したのは赤い色をした結晶体だった。
赤い結晶体はレッドジェム――通称、赤石と呼ばれている『ジェムシリーズ』の一つ。使用者のHPを最大まで回復してくれるアイテムだ。
需要が転移石と並んで多いため、価格は『ジェムシリーズ』の中では高めになっている。ポーションとは違い一瞬でHPを全回復できるので、緊急時の回復手段として重宝されていて、ソロやヒーラーのいないパーティの必需品と言っても過言ではない。
欠点は価格の割りに使い捨ての個人用であり、なおかつ他人に対して使えないことだ。必ずレッドジェムを持った状態で使用しなければならないので、自分を対象にしか効果を発動できないのである。
「リリース。ヘキサ」
呂律の回らない調子でトリガーボイスを口にする。
手の中で明々する赤石が砕け散り、空っぽだったHPバーが満タンまで回復した。キラキラとした燐光を散らしながら、ふらふらと酔っ払いのような足取りで立ち上がる。
HPは全回復していても、鉛のような倦怠感までは拭いきれない。喉元まで込み上げてきた吐き気を堪えて、大鎌を拾って戻ってきたナハトをねめつけた。
「ナハ、ト……ッ」
「おうおう、威勢がいいことで。そんだけ吠えられればとりあえずは大丈夫そうだな」
あえてHPを回復させたのだろう。白髪の少年の頭上に表示されたHPバーを眺めながら、担いだ大鎌の柄で肩をトントンと叩くナハト。
「ま、そこそこは楽しめた。……そろそろ外野がうじゃうじゃ沸いてきそうだし、今日のところはここまでだな」
言って、踵を返すナハト。あっさりと立ち去るとする彼の姿に、ヘキサの口から獣の唸りじみた声が零れた。
「ふざけるな。待てよ。なにバックレようとしてんだ。まだ勝負は終わってない。続行だ。さっさとかかってこいよっ」
「あのなぁ、冗談はよせ。……お前、まさかそんなザマで俺に勝てるとか思ってるワケ? そりゃいくらなんでも無茶だろ」
立ち止まったナハトが億劫そうに肩を竦める。
未だにHPが七割以上あるナハト。対してHPこそ全快してるが、見るからに消耗しているヘキサ。戦闘を継続したところで勝敗の行方は明らかだった。
「だからって、退けるかよッ!」
これが他の誰かならいい。撤退することに異論はない。だが、目の前にいるこいつだけは別だ。逃げるなんて論外で、交戦以外の選択肢などありはしない。
それにこいつからは奪い返さないとならないモノがある。絶対に奪い返すと誓った以上、空手で後退などできるはずがない。
「奪い返すね。……ひょっとして”これ”のことか?」
知らず声に出ていたらしく、ナハトは懐から一枚のメダルを取り出した。メダルを目にした瞬間、ヘキサの瞳孔が収縮した。
鈍い光沢をした真鍮色のメダル。『忘れな竜の聖杯』に必要な一枚であり、ヘキサにとってはそれ以上に価値があるモノだ。
メダルの両面には落書きがされている。わざわざ消えない魔法のマジックで書かれたそれは、本人曰く猫と犬らしいが、どう考えても新種の怪物にしか見えなかった。
≪幻影の翼≫アイリの形見。彼女の落書きが残されたメダルを見やり、ヘキサは全身を熾りのように震わせた。
「返せよ。それはアイリの――≪幻影の翼≫のモノだ。……お前が……裏切ったお前が手にしていいモノじゃないんだよ!!」
「だったらどうする?」
むろん、必ず奪還する。それこそがいまは亡き彼女たちに、遺された自分ができる唯一のことだと思うから。
「どうやって?」
<畏吹>では届かなかった。なによりも再使用はしばらくできない。方術は駄目。連結剣も駄目。手元にある手札では状況を打破するには足りない。
「だったら――」
手札がないのなら手札を作ればいい。小手先の業が通じないのならば、圧倒的な”暴力”で捻じ伏せるだけだ。
――それは金輪際、なにがあっても絶対に使用しては駄目よ。
いつの日か、黒髪の少女に警告された言葉が脳裏に浮かぶ。だが、それも白髪の少年を押し止めるには不十分だった。
「……なにをするつもりだ?」
「さて、なんだろうね。……当ててみろよ」
空気が変わった。圧迫感が一気に膨れ上がった。白髪の少年の雰囲気の変化を察したのか、仮面の道化師の軽口が止まる。
軽い仕草で剣を頭上に掲げて、上から下に真っ直ぐ剣を振り落とす。その動作だけでHPの七割以上が”持っていかれた”。
全身から力が急速に抜けていくのが実感できた。底に穴が開いた湯船のように、生命子が吸い上げられていく。
緑から黄色。黄色から赤へとHPバーの色が変化する。満タンになったばかりのHPが急下降し、再び危険域に突入すると減少が止まった。
振り下ろした剣先の軌跡に沿って、中空に一筋の亀裂が生じた。刻まれた亀裂は範囲を拡大すると、空間を硝子の如く破砕させた。
空間の境目の奥。光が一切ない闇の奥底から、いままでに感じたことのない猛烈なプレッシャーが迸っている。それは鬼火にも似た仄暗い輝きだった。煌々と輝く血色の三つ目が、隙間の奥からこちらを覗うようにじっと見つめている。
ナハトの頬を自然と汗が伝う。空気が重く沈んでいる。ピリピリと粟立つ寒気に彼は、軽薄な笑みを浮かべながらも無言で獲物を構えた。
蠢き闇が胎動する。
亀裂の奥に棲む三つ目が、ゆっくりとした緩慢な動作で身動ぎし、それだけでまるで暴風雨に晒されたかのように、周囲の建物がひしゃげるように倒壊した。
三つ目はまだ実体化していない。こちらの世界に顕現する余波だけで、物理的な破壊をもたらしているのだ。
「おいおい。お前マジでなにをやらかしやがった。つーか、なんだそれは? そんなヤバゲなモンどこで手に入れやがった」
存在としての格が違う。文字通りの別格。過去に遭遇したどの脅威よりも、それが放つ威圧感は桁違いで剣呑だった。凝縮された敵意が荒れ狂う。
それはアビリティでもスキルでもマテリアルでもない。本来ならばこの世界に存在しないはずの例外。失われた神秘に具現。システムの根幹から逸脱した『裏技』に他ならない。
剣先で赤の道化師を指し示す。定められた目標に膨れ上がる威圧が呼応する。地鳴りじみた振動が大気を揺さぶり、轟音が断末魔の如く響き渡る。
「慈悲なく容赦なく満遍なく。生ある限り破壊しろ」
冷徹な宣告が下される。一度、こちら側に具現化すればあらゆるモノを”暴力”で粉砕するであろう破壊が、夕暮れ時の街に顕現する。
「アドラ――」
――その刹那、
「頭を冷やしないさ。この大馬鹿者が」
白髪の少年の頭上から大量の水が降ってきた。冷水を頭から引っかぶり、余りの冷たさに声もなく身体を硬直させてしまった。
全身を貫く冷気に束ねられた集中力が一瞬で切れた。顕現する直前の威圧が残滓すら残さずに霧散し、夕焼け色に染まる街に静寂が訪れる。
陽炎のように消滅する気配を感じながら、振り返ったヘキサが見たモノは、置いてきぼりを食らった二人の少女と、胸の前で腕を組む黒髪の少女の姿だった。