第十章 歪む日常(2)
殺幻鬼ナハト。
それが裏切り者の名前だった。
≪幻影の翼≫の最後のメンバーにして、仲間に刃を向けた憎むべき反逆者。ヘキサの所属していた≪幻影の翼≫壊滅の元凶とも呼べる人物である。
動機は不明。経緯も不明。理由もわからない。ただ事実として彼は≪幻影の翼≫を快く思っていないプレイヤーたちを先導し、≪幻影の翼≫のホームを強襲。村ごとホームを焼き払い、ヘキサの楽しかった日々を破壊した。
そう楽しかった。散々渋ってはいたが、最終的にアイリの誘いに乗って良かったと、密かに自分を褒めた。アイリ。カイト。カシス。リンス。クイナ。リコ。――ナハト。メンバーの数は少なかったが、ヘキサにとってはそれだけで十分だった。
恥ずかしくて口が裂けても言えないが、ヘキサは彼らとの出会いで満たされていた。不可思議なこのゲームをやっていた価値があったと思ったのだ。
この日々がずっと続けばいいのにと、ガラにもなく感傷に浸ったときもあった。それをナハトは完膚なきまでに粉砕した。
脳裏に刻まれた光景は見回す限りの赤。炎の赤。村を焼き尽くす紅蓮の炎。肌を炙る熱と濃密な血の匂い。それがすべてだった。
クイナを庇い最初にリコが死んだ。その後を追うようにクイナも殺された。リンスを守り負傷したカシス。二人はヘキサがなんとか安全圏まで逃がしたが、代償としてアイリが襲撃者の手によって逝った。最後にカイトが恋人を殺した犯人と相打ちで死亡。
こうしてゲームをクリアしようと約束しあった仲間は、≪幻影の翼≫の日々は拍子抜けするほどあっさりと幕を閉じた。
もう戻らない日々。楽しかった”今”は”過去”で、取り返すことも不可能。しかも、それはヘキサだけではなく、樋口友哉の生活をも蝕んだ。
カイト――否、速水徹との別れ。
偶然から互いがファンシーをプレイしている身だと知ったあの日。転校しても一緒に遊ぼうと言ってくれた友達は、アバターの死亡を切っ掛けに”友達”から”ただのクラスメイト”に変わり、会話することは二度とない。
箱庭世界で損失した居場所と仲間。現実世界でいなくなってしまった友達。そんなの――許せるはずがないだろう?
濃紺の外套を引き千切るようにして脱ぎ捨てる。空中で腰の鞘から剣を抜き放つ。夕日を反射する刀身を振り上げて、眼前に迫る怨敵目掛けて怒りのままに剣を叩きつけた。
目の前で赤い衣が翻る。軽やかにステップを刻むナハトの身体が駒のように反転し、振り下ろされた剣は空を斬り地面を粉砕した。
ヘキサの怒りを反映した一撃に、刀身が根元まで地面に埋まる。夕焼け空に轟音が響き、砕けた石の破片が飛び散った。
白髪の少年の凶行に疎らにいる人々が唖然とした表情で固まるが、それも一瞬の間だけだった。すぐさま悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように、周囲から人影が一斉にいなくなる。あっという間の出来事だった。
その場に留まったのはヘキサとナハト。緊迫した空気を肌に感じながら動向を覗う、カシスとリンスだけである。
「おいおい。いくらなんでも早漏すぎるだろ。早すぎると女に嫌われるぜ?」
「っざけろ、糞野郎ッ!!」
劈くような怒号が軽口を掻き消す。
石畳みに打ちつけた右足を軸にして身体を反転させる。剣を手元に引き戻すのと同時に、鋭い孤を描かせ剣先を跳ね上げた。
金属同士をぶつけ合う甲高い音が反響した。殺意を乗せた一撃はしかし、ナハトが手にした大鎌に受け止められていた。
いつナハトが武器を手にしたのかわからなかった。まるで手品だ。いきなり大鎌が出現したようにしか見えなかった。
「ナハト……!!」
攻撃を軽々と防がれて尚、ヘキサの敵意が納まることはなかった。彼の敵意を象徴するかのように、手に持つ肉厚の刀身に赤い光が絡みつく。
「そうカリカリしなさんなって。カルシウムが足りてないんじゃないか。牛乳飲めよ、牛乳。健康にもいいんだぜ?」
抜き身の刃物のような鋭い殺気を向けられているのにも関わらず、ナハトの飄々とした態度が変わることはなかった。
ギチギチと噛み合う刃と刃の接点で火花が散る。ナハトからの圧力が増した。ヘキサも負けじと柄を強く握る。互いの力は拮抗し合い、交差する刃はピクリとも動かない。
「――っ、ああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」
裂帛の気合いが迸る。拮抗が一瞬だけ崩れたのをヘキサを見逃さなかった。交わる刃をそのままに身体ごとナハトにぶつかった。
密着状態のまま足を止めずに押し倒す勢いで突進する。足が地面から浮いたナハトの身体が、背中から建物の壁に叩きつけられた。のみならず、そのまま壁をブチ破ると室内の家具を薙ぎ払いながら、反対側まで押し込まれ壁を粉砕。再び外に叩きだされた。
もうもうと辺り一面に瓦礫の破片と砂埃が舞う。立ち込める煙幕を突き破り飛び出すナハト。街灯の上に着地すると、眼下の砂煙を見下ろしながら、服についた汚れを手で払った。
「あーあ。埃まみれじゃねぇか。高かったんだぜ、これ」
ぱんぱんと服を叩き、頭上に射した影に間髪入れずに跳躍した。空から降ってきたヘキサは身体を一回転。赤い軌跡を刻む剣が街灯を粉砕する。
地面に散乱する硝子片を踏み砕き、ナハトの後を追いかけて跳ぶ。一足で五階建ての建物の屋上まで到達する。屋上の端に立ってこちらを見上げる少年目掛けて、降り抜いた刀身から発生した衝撃波が牙を剥いた。
「あらよっと」
緊迫感に欠けた軽い調子の声は、瓦解する建物の崩落音に呑み込まれた。崩れ落ちる破片を器用に飛び跳ねながら、やれやれと言いたげに嘆息してみせた。
「おいおい。加減しろよ……。ってか、外力術式の狙いが激甘なのは相変わらずだな。ちゃんと狙えよ。街ぶっ壊しまくってるぞ」
ムカつく言い方だが話の内容は正しい。
魔法にもいえることだが、方術には相性がある。
外力系が得意なプレイヤー。内力系が得意なプレイヤー。あるいは特定の方術のみ異常に相性がいいプレイヤー。本人の特性により色々だ。
そして、ヘキサは内力系に傾倒した使い手である。反対に外力系の操作を極端に苦手としている。彼が使う外力術式が、精密性を必要としない単純な”生命子の放出”に重点を置いているのはそのためである。
故に外力術式の乱用は、この場のヘキサの行動としては悪手に他ならないのだが、
「黙れ!!」
聞く耳持たずとはこのことだ。
いまのヘキサにはナハトの言葉すべてが、不快で耳障りに反響する雑音としか聞こえていない。それどころか、現在進行性で自分が破壊している街にも、一欠けらの注意すら割かない。
割こうという意識がないのだ。目の前で赤い布を見せられた闘牛のように、ヘキサの視界には愉快気に口の端を歪める仇敵の姿しか映っていないのである。
破壊音に次ぐ破壊音。炸裂音がより大きな炸裂音に上塗りされていく。爆音が重なりすぎて、もはやどこか発信源なのかわからなくなってしまっている。
「くそ。くそ、くそっ、くそ……!!」
苛立ちに荒々しい罵りが溢れる。
お互いのHPは未だに満タン。HPを基準にするならば拮抗状態と呼べるかもしれないが、精神的に優位に立っているのがどちらかは明らかだった。
当たらない。掠りすらしない。斬戟のことごとくが空を切り、ナハトの身体に触れることすらできない。それも当然だ。頭に血が上りすぎて、すべての動作が大雑把になっている。大振り上等のテレフォンパンチなど、当たるほうがどうにかしている。これでは風車だ。
何度目かの空振り。生命子の残滓が広場に飾られたモニュメントを破壊し、渦を巻く旋風が憩いの場である噴水やベンチを粉砕する。
暴れまわるヘキサの姿は奇しくも、先程の映像で見たAに瓜二つだった。本人が誰よりもAを疎んでいるだけに皮肉な話である。
地面を削りながら跳ね上げた剣先が最小の動作で避けられ、続けざまに翻った刀身は眼前に掲げられた大鎌に遮られた。
赤い瞳と真鍮の瞳。キリキリと軋む刃越しに互いの視線が交差する。己の瞳に映る白髪の少年の姿に、ナハトは肩を竦めると軽薄に笑った。
「おーおー怖い。怖い。なんつー顔してんだ。ガキが見たら泣くぞ。……これはゲームなんだぜ? ゲームならゲームらしく、面白おかしく笑ってろや」
「ゲーム……? 笑え、だと?」
ああ、楽しんでたさ。面白かったよ。断言したっていい。あれほど心地いい時間は早々ない。でも、それを壊したのは――俺から≪幻影の翼≫を奪ったのは――
「お前だろが――ッ!!」
ぐつぐつと煮だった頭が沸騰する。身体から溢れる生命子の輝きが弾けるように瞬き、次の瞬間、爆発する閃光にナハトの長身が背後に吹っ飛ばされた。