第九章 兆しと翳り(3)
がやがやとした喧騒が耳朶を打つ。室内に映し出された映像は、行き交う人々で賑わうどこかの町の光景だった。
「ここはどこだ……?」
「ハニミア。21界層の片隅に”あった”町だよ」
きょろきょろと視線を左右に走らせるヘキサの独り言に、同じように展開された立体映像を見回しながらクライスが答えた。
ハニミア。聞いたことのない町の名前――否、違う。微かにだが聞き覚えのある名前だ。それは一体どこでだったか。
「あ、思い出したっす」
記憶をひっくり返していると、カシスがぽろりと零した。吊られるようにして、リンスが彼女の言葉の続きを口にした。
「私もです。ハニミア。いまはもう存在しない廃墟。重要ではない町が破壊された場合、復興されずに放置されると知ったはじめての事例」
そして、と言葉を切り、
「Aがはじめて表舞台に姿を現した町です」
『ねえねえ。ちゃんと撮れてる?』
リンスの言葉に重なる声があった。
同時に映像の視点が町並みから横にズレ、街灯の傍に佇む少女を映し出した。腰に細剣を吊るした少女がひらひらと手を振る。
『うん。バッチリ映ってるよ』
『よかった。それ高かったんだからね。ちゃんと撮ってよ』
どうやら細剣使いの少女が話しかけているのは、記録石で撮影しているプレイヤーのようだ。撮影者の声は少年のモノで、雰囲気から察するに恋人同士なのだろうか。
映像の中では恋人の仲睦まじいやりとりがなされている。てっきりAが出てくるのかと思っていただけに拍子抜けした気分だった。
『今日はどうする。私は新しい武器の材料集めに行きたいかな』
『うーん……そうだね。そうしようか。後はなにが必要なんだっけ?』
『フェアリービーの霊針とグロウカスの甲殻。資金はもう用意してあるから、後はそれだけあれば十分よ』
『その二つならまずはグロウカスのほうを片付けてから、フェアリービーを狩りに行ったほうが効率的だね。上手くいけば今日中に素材を集めれそうかな』
楽しそうだった。充実しているといってもいい。二人の会話からはファンシーを、本当に楽しんでいるのが伝わってくるようであった。
眩しいモノを見るかのようにヘキサは目を細めた。その在り方はかつて白髪の少年が憧れていたモノ。自分もそうでありたいと願った形そのモノでもあった。
『うん。それじゃあ――あうっ!?』
記録石の持ち主のほうを見ながら走ったため、細剣使いの少女は不意に現れた人物にぶつかってしまった。ぶつけた鼻を手で押さえながら、正面に立つ人物に声をかけた。
『ごめんなさい。怪我は――』
ありませんか、と言葉を繋げることができなかった。
ズンと肉を食い破る金属の鈍い音がした。鮮血の赤よりも目に突き刺さる紅い刃。見ると彼女の背中から、濡れたような光沢を帯びた真紅の刃が生えている。
細剣使いの少女も彼女の恋人も凶行を目撃した人々も、なにが起こったのか理解できずに、そのまま凍りついたように固まってしまった。
それはヘキサたちも例外ではない。突然の自体に対処できなくて、映像の人々と同じように身動き一つせずに息を呑んだ。
『え――あ――な、に』
身体を貫く肉厚の刀身が、少女を軽々と持ち上げる。目に焼きつく真紅の尾を引き、翻った刃が彼女を切り裂いた。
少女の輪郭が崩れる。形を失う身体を作っていた生命子が、淡い燐光を発しながら螺旋を描いて青空に立ち昇った。
奇怪なプレイヤーだった。
黒髪に黒衣。黒を纏ったプレイヤーの右手には、血に濡れる紅の大剣。顔には白に黒で模様が彫られた仮面がつけられ、表情が一切わからず幽鬼じみた立ち振る舞いを、よりいっそう彼の存在を不気味にしている。
黒衣のプレイヤー。後に殺人鬼Aと呼ばれるPKの鮮烈なデビューの瞬間である。
『き……キャァァァァァァァァ!?』
悲鳴を切っ掛けにして、硬直から開放された人々が一斉に動きだす。それは死んだ少女の恋人も同様だった。
『あ、あ、あ……ナギサ!? そんな……そん――うああああああっ!?』
視点が変わる。放り投げられ地面を転がる記録石に、奇声を上げて黒衣に切りかかるプレイヤーが映った。おそらく彼が殺された細剣使いの恋人なのだろう。
地面を蹴る。大上段からの振り下ろしはしかし、Aになんら痛痒も与えられなかった。刃は黒衣の表面に弾かれてピタリと止まっていた。
大剣が一閃される。未だ宙を滞空する少年の首が跳ね飛んだ。持ち手を失った剣が乾いた音を立てて地面に落ちた。
ぐるりと怠慢な動作で首を巡らし、黒衣の魔人が行動を開始する。
無造作に腕を振るう。振り下ろされた大剣から発生した黒い衝撃波が、地面を砕きながら逃げ惑う人々に牙を剥いた。
粉塵が舞い上がる。人を纏めて薙ぎ払った衝撃波は、威力を落とすことなく直進して、噴水を砕くとその先の建物に大穴を穿った。崩壊する建物の下敷きになった人々の悲鳴を掻き消し、凄まじい轟音が広場に木霊する。
大剣が真紅の軌跡を描く度、次々に命の灯火が儚く散っていく。穏やかな町は一変し、黒衣の魔人によって地獄と化した。
プレイヤーの中には暴れるAを止めようと、武器を構えて彼に立ち向かう者もいた。だが、無駄だった。時間稼ぎにもならない。
まるで片手で小蝿を払うかのように、Aはプレイヤーたちを一刀の下に両断して見せた。防具は防具としての意味を成さず、千切れた上半身が血を撒き散らしながら宙に跳ねた。
目を見開いたまま事切れたプレイヤーの頭が、Aの足にぐしゃりと踏み砕かれた。ぐちゃぐちゃと粘着質の音をさせながら、血みどろになった広場を闊歩する。
真紅の残影。黒い残滓。Aがもたらした惨劇に混じり、淡い粒子の輝きが宙に漂う。
黒衣に刈り取られ散華する命の輝き。浮遊する生命子がすべてAのほうへと引き寄せられて、彼の身体に残らず吸収されていく。
『――くふっ』
ぞわりと背筋に寒気が走った。仮面による効果なのか。機械音じみた電子音が不快に響いた。暗く淀んだ声が耳にこびりついて離れない。
『くく。くくく……あはははは――はははははははは。あはははははははははははははははっははははははははははははっはははははははははははっははは――ッ!!!!』
笑う。哂う。嗤う。
濃密な黒い波動を撒き散らせ、黒衣を纏う身を捩じらせて、狂ったようにAは笑う。人としての螺子が外れてしまったかのような歪な笑い方だった。
悪夢じみた光景にヘキサは絶句してしまった。
なんだ。なんだ、”これ”は?
声が霞む。いつの間にか喉がからからに渇いていた。黒衣の姿が認識できない。否、認識することを彼自身が拒否していた。
これがA。他者を喰らい己の糧とする殺人鬼。複数いる凶悪なPKを押し退け、歴代の中でも最狂と揶揄されるプレイヤーキラー。
Aと話し合うのは無駄。なるほど。そのとおりだ。リグレットとクライスの言ったとおり、これと話すなど自殺行為でしかない。
とても正気とは思えない。映像からでもわかる。こいつは駄目だ。いままで頭のおかしなプレイヤーを何人も見てきたが、Aと比較すれば真っ当だと断言できる。人を構成する上で大切ななにかが抜け落ちてしまっている。
理屈ではなく直感で。映像越しですら如実にわかるほど、彼を覆う空気は死臭と狂気に満ちている。文字通り狂っているとしか考えられなかった。
なによりも自分は、いままでこんなモノと同一視されていたというのか。頭がくらくらとする。了承できない事実に吐き気すら感じた。
それと同時にある違和感を覚えた。言葉として吐きだせない悪寒に身体が震える。
胸騒ぎが止まらない。本能が最大音量で警鐘を鳴らしている。あれはヘキサにとって致死量の殺意。決して交わってはいけない原罪だと。
意味がわからない。理解に及ばない感情ではあったが、白髪の少年はこのとき確かに、そうした表現しようのない感覚に苛まれていた。
哄笑しながら大剣を振り回すA。町が破壊されていく。青い空を血飛沫に染め、平穏な日常を地獄に塗り替えられる。
プツン、と唐突に映像が途切れた。その場に残されたモノは、脳裏を過ぎる白黒の仮面と沈痛な静寂のみだった。