第九章 兆しと翳り(1)
これでやっと眠れる。
それが老人の最後の言葉だった。
ダンジョンを脱出したヘキサたちから飢魂の水晶球の破壊報告を聞き、依頼者である老人はゆっくりと目を閉じた。安らかな顔で二度と目覚めない眠りについた老人に、ヘキサはなんとも言えない感情を抱いた。
この世界の住人であるNPCは、プレイヤーと判別がつかないほど精巧ではあるものの、その行動基準には一定の規則が設けれている。
NPCに共通する規制として、言語に制限を加えるフィルターがあるが、他にもNPC毎に特殊な規則が課せられている場合がある。
この老人がいい例だ。クエストをクリアするプレイヤーがでるまでは、他の場所に移動することすらできず死ぬことすらできない。
ここまでくるともはや一種の呪いとすらいえる。ヘキサたちは老人の呪いを解いたと言えるのかどうか。人によって意見がわかれるところだろう。
そもそもNPCとはなんなのか。解答できる者はいなく、正解を確かめる手段もない。彼らは本当にただの人形なのか。
それとも――
「――ヘキサ。ちょっと聞いてるの?」
と、そんなことをぼんやりと考えていたヘキサは、リグレットの声にふと我に返った。横を見ると嘆息する彼女と目が合った。
「ゴメン。聞いてなかった。……えっと、なんだっけ?」
「まったく。”あれ”を止めなくてもいいの?」
”あれ”とリグレットが指差す先に視線をやると、そこには二人の少女に囲まれて、おろおろとする眼鏡の青年の姿があった。
「確か以前にここを訊ねたときは、ヘキサ様とは会っていないという話だったと記憶していますが? これはどういうことでしょうか?」
「分かり易く説明してくれっす」
「ふ、二人とも冷静になりたまえ」
声を荒げるカシスと虹彩の失せたリンスに攻め寄られて、クライスは普段見せることがない焦り具合で、必死に二人を押し止めようとしている。
「私たちは冷静っすよ。ねえ、リンス?」
「ええ、そのとおりです。いまなら指の一本や二本、平気でへし折れそうです」
「そ、それは冷静とはちょっと違うのではないかな!? とにかく深呼吸しよう。そこからはじめようではないか!」
こんなに慌てている彼の姿は、はじめてかもしれない。なんにせよこのままにしておけないと、ヘキサはクライスとカシスたちの間に割って入った。
「はい。そこまでだ。二人ともストップ。クライスさんには俺のほうから頼んだんだ。俺のことは誰にも話さないでくれって。クライスさんは俺との約束を守っただけ。……責めるなら俺にしてくれ」
言って苦笑いするヘキサ。彼女たちが自分の所在を明らかにするために、クライスの下を訪れるのは予想していた。
だから先回りして彼には、例え相手がカシスやリンスだったとしても、自分のことは内緒にしてくれと言っていたのだ。最初は渋っていたクライスも最後には了承し、いままで律儀に守っていてくれたというワケである。
「……ふん。仕方ないっすね」
「ヘキサ様がそういうのならば」
不満顔ではあるが一応は納得してくれたようだ。クライスに詰め寄っていた二人は身体を離すと、しぶしぶながらも頷いた。
「すみません。大丈夫ですか?」
「ああ、ヘキサ君。助かった。もう駄目かと思ったよ。……危うく彼女たちにボコボコにされるところだった」
「いやいや。流石にそれはないですって。それにカシスはともかくリンスはそんなことしませんよ。暴力が大嫌いな平和主義者ですから」
なにせ剣と魔法の世界で、わざわざ”歌”を選択するくらいである。≪幻影の翼≫がまだ存在していたときは、彼女が癖のあるメンバーの緩衝材だったと言ってもいいくらいだ。
「基本的にはそうなのだろうがね。……どうやら君が絡むときは別らしい」
後半は誰の耳にも届かないように、ぼそりとか細い声でつぶやく。どんな人間でも地雷はあり、リンスにとってそれがヘキサなのだ。
こちらを見ながら小首を傾げる白髪の少年にため息を吐き、首を振って気持ちを入れ替えると、クライスは本題を口にした。
「それで今日はなんの用なのかね。君が昼間に顔を出すなんて珍しいではないか」
クエストをクリアし老人から報酬を受け取った後、ヘキサたちはその足でクライスのところに直行していた。彼に訊ねたいことがあったのだ。
リグレットが洩らした”アンノウン”についてである。ダンジョンを脱出してヘキサたちは当然、アンノウンがなんなのか説明を求めた。
それに対して黒髪の少女の答えは、自分よりもクライスのほうが詳しく知っているというものだった。というわけで、ヘキサたちは全員で彼の店にやってきていた。
それが何故かカシスとリンスがクライスに不満をぶちまける展開になったのだが、それはご愛嬌といったところだろうか。
被害者である眼鏡の青年からしたら、不幸以外の何物でもないわけだが。
「それに加えて、まさかカシス君とリンス君が一緒だとは驚きだ。あれだけ頑なに拒んでいたのに。一体いつの間に仲直りしたのだね」
仲直り。それは中々言い得て妙だな、とヘキサは苦笑するしかなかった。結局、自分が意地を張っていただけなのだ。
「ちょっとクライスさんに訊きたいことがあるんです。……クライスさんはアンノウンって知っていますか?」
「……なん、だって……?」
クライスの表情が強張った。まるで忌むべき言葉を聞いてしまったかのように硬直する彼に、疑問を抱きながらヘキサは続けて言った。
「実はダンジョンで気味の悪い敵に会ったんです。システムがバグっているというか、カーソルが透明な――」
「そんな馬鹿な!?」
「え、ちょ、クライスさん?」
彼らしからぬ苛烈な反応だった。戸惑うヘキサに近寄ると両肩を掴み、がくがくと揺さぶりながら捲くし立てるように言う。
「無色のカーソル。間違いないのかね!?」
「ここにいる全員が見ているし間違いないです。無色のカーソルでした」
「そんな――まさか!? ”彼”がまた現れたというのか!? ……くっ、こうしてはいられない。犠牲者が出る前に早くこのことを皆に伝えなければ!」
「落ち着きなさい。それは貴方の思い違いよ」
顔面を蒼白にさせて店から飛び出そうとするクライス。それを遮る声が店内に響いた。胸の前で腕を組んだリグレットが静かに口を開く。
「私たちが見たのは”あいつ”ではないわ。それとは似ても似つかない紛い物。無色のカーソル以外の共通点は皆無の別物よ」
「……それは確かかね?」
「ええ。だから確認にきたの。同じような事例が確認されてないかをね」
「ない。あればこんなに取り乱したりはせんよ」
「そうでしょうね。貴方が知らないとなると、頻繁に遭遇することではなさそうだわ。なにが原因なのやらね」
「では”彼”でないというのなら、一体それは何者なのだ」
「こっちが訊きたいわよ。モンスターなのかプレイヤーなのか。それともまったくの別のなにかなのか。少なくとも友好的ではなかったわ。問答無用で襲いかかってきたもの。……意志の疎通を図るのはまず無理ね」
「”彼”のようにかね?」
「あれこそ論外でしょ。”あいつ”と会話しようだなんて、自殺行為でしかないわ」
「違いない」
リグレットとクライスに他の者は一切口を挟むことができなかった。二人の間の空気が切迫していることはわかるが、何故そうなっているのかがわからない。
「待ってください。話が全然こっちに伝わらないんだけど、なにが起こってるんですか? 俺たちにもわかるように説明してくれません?」
このままではずっと置いてきぼりにされる。そう感じたヘキサは彼女らの会話に待ったをかけると説明を要求した。
「そうだったね。……しかしその前に、君たちが体験したことを全部教えてくれ。話はそれからでも遅くはあるまい」
真剣な面持ちのクライスに「わかりました」と頷き、ヘキサは自分が体験した奇妙な出来事を記憶している限り彼に伝えた。