第七章 過去の残影(3)
千界迷宮。
”千”の”界”を重ねた”迷宮”――と云われるだけあり、一界層が恐ろしく広く、条件次第では攻略に一ヶ月以上を費やす界層もある。
これだけ様々な特色のある界層があれば当然、不人気で過疎の界層も存在するワケで、中にはプレイヤーの滞在人数が十人なんて界層もあるくらいだ。
過疎化する理由は色々あるが、大抵がモンスターの強さと経験値が釣り合わなかったり、レアドロップの有無だったりする。
千界迷宮30界層『鬱蒼の森林』も、そんな過疎でプレイヤーの姿がない、不人気界層のひとつ。31界層の開放と同時に見切りをつけられた界層だ。街や村もNPCばかりで、プレイヤーの姿を見かけること自体が稀。
そんな辺境界層の片隅でヘキサは、困惑した表情のまま突っ立っていた。状況が理解できない様子で周囲を見回し、最後に背後のポータルに視線をやり、しまったとばかりに手の平で顔を押さえて俯いてしまった。
イブル・カトラスの撃退。アレクとの切り結び。暴れまわるハズミの一瞬の隙をつき、リグレットと転移石を使い、辛くも逃げ切ったヘキサはそこで一端、パーティを解散したのだった。用事があるという彼女と別れた後、移動するためにポータルを使用したのだが、どうやらその際に転移先のイメージに失敗しまったらしい。
本当ならば65層に跳ぶつもりだったにも関わらず、放り出されたのは30層だったのである。ポーターによる転移は発音ではなくて思考で行う。故に、転移先のイメージがあやふやだと、今回のような誤転送が起きてしまうのだ。
とはいえ、普段だったらこんな初歩的なミスはしないのだが、直前のアレクとの会話が存外に動揺を誘ったようである。
――違う。だからこそなのか。彼との話が無意識に焼きついていたからこそ、この『鬱蒼の森林』――≪幻影の翼≫のギルドホームのあった界層に跳んでしまったのかもしれない。
不意に湧いた郷愁にも似た感情を持て余し、ヘキサはポータルから視線を横にズラした。視線の先にある森を眺めながら、これからどうするべきか思案する。
ポータルは使えない。すぐに目的の層に跳ぼうにも、ポーターには使用制限により一時間のディレイタイムが必要であり、その間は一切ポーターを利用できないのである。かといって、転移石を使うほど緊急性があるわけでもない。
しばらくそうして沈黙を保っていたヘキサだったが、意を決したように自分の頬を叩くと、森のほうへと足を踏み出した。
これもなにかの縁なのか。こんな事故でも起きない限り、自分の意志でこの界層にこようとは考えないだろう。だったら時間を潰す意味で原点に立ち返るのもいいかもしれない。彼はそのときそんな風に考えていた。
そのまま森の中に入り、夜の暗い森の中を黙々と歩く。
頭上に重なる葉によって月の光も届かず、静まり返った森の中は不気味な雰囲気に包まれている。慣れない者ならすぐさま迷子になりそうなものだが、当のヘキサは大して気にした様子も見せずに、突き出している木の枝の下を掻い潜った。
所詮は30界層。モンスターの大群に襲われようが余裕で蹴散らせる。なによりも数ヶ月前までは何度も通っているのだ。いまとなっては目を瞑っても歩ける――は言いすぎだが、明暗程度の要素で迷うことなど有り得なかった。
そうして森を二十分くらい移動した頃だ。突然、視界が開けて木で作られた門が見えた。そこ森を開拓して造られた小さな村。ポータルが設置されていないような、本当に小さな村であり、おそらくこの村の存在を知るプレイヤー自体そうはいないだろう。
この村こそがヘキサの目的地。≪幻影の翼≫のホームがあった村である。否、より正確にいうのならば、そこは最早村ではなかった。
かつてそこが村だった痕跡だけを残した廃墟。住んでいる人はいなく住み家もない。家はすべて燃えてしまい、いまは炭化した木材の山となってしまっている。ヘキサの眼前の光景は過去の残骸でしかなかった。
この村が復興することは、この先も永遠にない。界層の拠点となる都市ならば速やかに再建されるのだが、フィールドに点在する村や町の場合、廃墟となったまま放置されてしまうのだ。故にこの地が再び穏やかな風景を取り戻すことはないだろう。
森と村と境界線。そこから見える廃墟の村に、ヘキサは足を止めたまま能面じみた無表情さで立ち尽くしていた。後一歩で村の境界を跨ぐ。だが、その一歩が出なかった。
それどころか知らず後退っていた。何故ならばこれは自分にとっての『原点』であるのと同時に、過ちの『象徴』でもあるのだから。
我ながら感傷に酔いすぎだ。やっぱりポータルまで戻り、使用可能になるまで大人しく待とう。自分はまだなにも果たしていない。……ここにくるべきではなかった。
むしろ、それを確認できただけよかった、とヘキサは踵を返そうとして、不意に聞こえてきた音の連なりに動きを止めた。
綺麗な音だった。これは――”歌”だろうか。風に乗って流れてきた歌は、どうやら村のほうから聞こえてくるようだ。微かに聞こえてくる歌はどこか懐かしく、まるで光源に惹かれる虫のように、ヘキサはふらふらと村の中にへと足を踏み入れていた。
流れる歌に導かれて焼け落ちた村の中を進む。残骸に過去の面影が重なる。いまはもう失ってしまった想い出を胸に、ヘキサはその光景に目を奪われた。
少女が歌っていた。願うように。祈るように。澄み渡った声に貴い想いを込めて、とても綺麗な歌を紡いでいた。
絹糸のような桃色の長髪。体の線に沿った純白のドレスの胸元は切り込み深く、豊かな胸の谷間が強調されている。両腕には二の腕までを被う絹の長手袋。手首には銀のブレスレット。頭の上に乗った小さな金の冠もあり、御伽噺に出てくるお姫様のような少女だった。
月光に照らされる少女を見るヘキサの足元で鈍い音がした。音はブーツの底が地面に落ちていた木の枝を折る音だった。
歌が途切れる。少女は音のしたほうを振り返り、白髪の少年に目を大きく見開いた。彼もまた予期せぬ”再会”に硬直していた。
「ヘキサ様……?」
桜色の唇から零れる響きに、我に返ったときには手遅れだった。
「ヘキサ様。本当にヘキサ様ですか!?」
「ひ、人違いです!」
裏返った声で叫ぶと慌てて顔を隠そうとする。そこですぐさま立ち去ろうとしない辺り、思いのほか焦っているようだ。
「え、うそ、どうして――か、カシスさん! きてください。ヘキサ様です。ヘキサ様がいますッ!! 早くきてください!」
あいつもいるのかよ!? まずい逃げないと……!
そこでようやく頭の中に”逃げる”という選択肢が浮かんだヘキサは、速やかに指示を実行しようとし、地面を突き破り伸びる無数の『骨の腕』に逃げ道を塞がれた。
逃走を遮るように出現する骨の腕。闇に映える白骨に顔色を変え、骨の腕の向こう側に現れた人物に表情を引き攣らせた。
「おやおや。これはまた珍しい人がいるっすね」
艶やかな栗色の長髪を彩る両翼を模した羽飾り。腕と足と胸だけを覆う金属の軽装鎧。騎士然とした少女の言葉に、ヘキサは苦々しく口の端を歪めた。
「カシス。なんで、ここに……?」
「それはこっちの台詞っす。わたしたちの前から姿を消したくせに、いまさらここになんのようがあるっすか」
怜悧な眼差しで見つめられて、ヘキサは口を噤んで沈黙してしまった。
なにを言っていいのかがわからなかった。頭を下げればいいのか、謝ればいいのか。するべき指針を定められずに、こちらを見る視線から逃れるように右往左往してしまう。
力ずくで突破しようと思えば不可能ではない。けど、しかし――逡巡していると背後から駆け寄ってくる少女の気配を感じ、彼は強張った身体から力を抜いた。
その様子を見ていた目の前の少女が指を振るうと、骨の腕は一斉に砕け散った。ツカツカと彼女はヘキサに詰め寄ると思いっきり頬を引っ叩いた。
手甲を纏ったままの平手打ちを無防備に喰らい、彼は地面に叩きつけられるように倒れた。頬が熱をもって疼く。口の中に鉄の味が広がった。
「きゃっ、ヘキサ様!? なにをなさるのですか、カシスさん!」
「これくらい当然っす。リンスはヘキサに甘いんすよ」
桃色髪の少女――リンスの非難の眼差しに平坦な口調で言い返すと、カシスはまだ倒れているヘキサの胸ぐらを掴み、無理やり彼の身体を引き起こした。
胸ぐらを掴んだままで、再度カシスは平手を見舞う。ヘキサはなされるがままだ。背後でリンスの悲鳴が聞こえた。
「……反撃しないんすか」
「馬鹿言え。お前に手を上げられるか。身内を傷つけるほどもうろくしてないつもりだ」
その逆はありえたとしても、自分のほうから彼女たちに害をなすなどありえなかった。向こうはもう自分をそうは思っていないかもしれないけど。ヘキサはいまでも二人を仲間だと思っているのだから。
「じゃあ、どうして黙っていなくなったりしたんすか。わたしたちが心配しないとでも思っていたんすかっ」
「……迷惑をかけたくなかった。いや、それもいい訳だな。あれだけのことやらかして、どんな顔をして会えばいいのかわからなかったんだ」
「――っ。またそうやって。ヘキサは大馬鹿ヤロウっすよ!」
そんなに馬鹿って言わないでくれ。自覚はしてるんだから。肩越しに後ろを見やれば、リンスが涙ぐんでいるのが見えた。
「ヘキサ」
「なに?」
「”おかえりなさい”」
「――”ただいま”」
それが在りし日のホームの残骸での彼女たちとの再会。≪幻影の翼≫の生き残りとの再会だった。